「志」の英語教育

英語教育実践について日々の雑感を語ります。

中高連絡協議会

2008-11-07 22:03:19 | 研修
昨日は近隣の中学校で行われた研究会へ参加。生徒指導が困難というイメージの学校だが、それ以上に先生方の熱意と信念が至るところに感じられた。

こぢんまりとした雰囲気の良い研究会であったが、ひとつ気になることがあった。

ある中学校で、ある教育家の指導法を学校全体で取り入れて、その指導理論に乗っ取ってすべての授業が運営されているという。しかも、その方針は完全にトップダウンで決められ、校長が授業の様子を見て回っているというのだ。

その教育家および教育理論を批判する意図はない(むしろ大いに賛同する)ので、あえてその内容については今回は触れない。問題は導入の手法だ。

誰かが何か新しい手法について知り、琴線に触れるところがあってそれを自身の実践に導入しようとする。そしてそれを周りの教員(のうちそれを十分受け止め消化できる者)に伝え、その手法を広めていくのはよい。

しかし、それを受け入れる態勢にない教員にまで上から強制するのはどうか。その手法は完全無欠で絶対にそれ以上のものはないという保証はあるのか。それはどのような場合でも威力を発揮する万能薬なのか。

身近な例として、訳読授業からの脱却について考えてみる。「訳読はやめてコミュニカティブな手法を採用せよ」というメッセージがトップダウンで与えられて久しいが、多くの現場において従来の手法は今も残っているのである。

確かに訳読の方が教える側に負担が少ないという面もある。しかし、今の状況がある最大の理由は、むしろ従来の手法の方が効果的であるという指導者の正直な判断によるところだろう。多くの教員はコミュニカティブな手法で授業の運営ができても、従来の方法を選択するのだ。つまり、新しい手法が絶対に必要だと思うほど従来の手法に閉塞感を感じていないのである。

形だけとりあえず変えておけば、中身は後からついてくると考えるのは危険だ。その手法の価値が理解できないままそれを実践することを強制される指導者は、その手法自体に否定的な思いを抱くからだ。これではその手法の普及にとって逆効果になってしまう。

先進的な取り組みのパイロット校に選ばれた学校は、その研究指定期間を終えるとき、その実践を(少なくとも表面上)成功と評価するのが教育界の常である。そして、それが終われば真のリフレクションが行われぬまま既定路線に戻ってしまう。

生徒の自発的かつ主体的な変容を促すことが大切と考える管理職は、なぜ教員の自発的かつ主体的な変容が起きる職場環境作りが大切と考えないのか。「とりあえずやってみましょう」ではだめなのだ。


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