今週末から来週の頭にかけては卓球の大会運営で3日が潰れる。セット間のインターバルが長く、結構遅くまで時間がかかる。地元での大会なので生徒も遅くまで拘束。帰宅するとSTEP英語情報が届いていた。
今回の記事で気になったのは、やはり中嶋洋一先生。スプーンフィーディングからの脱却をというところに共感した。
このブログでも、いろいろな技を「あえて使わない」ことや「待って観察する」ことが大切なのではないかと述べてきた。
また、テクストを最短距離で理解しようとせず、わざとその周辺へ引きずり込み「道草」をさせる発問が必要ではないかという趣旨のことも書いてきた。
これらの指導法には一見共通性はない。しかし、それがより高次元で結びつき一つの方向へ向かっているような気がしている。
私の理想は授業で最小限の動きしか見せない指導者。指導者は一見何もしていないように見えるのに生徒はどんどん伸びている授業。いわば仙人のような指導者である。あるいは、「雨ニモマケズ」で賢治先生が理想としたような人物である。
すべてのことが渾然一体となりそのずっと先に光が見えてきたような感覚がある。その光へはそれが見える方向へまっすぐ進んでも到着できないことは分かっている。
到着できるかどうかは分からないが、試行錯誤を繰り返しながら、その光を追い求めていくことになるのだろう。
今回の記事で気になったのは、やはり中嶋洋一先生。スプーンフィーディングからの脱却をというところに共感した。
このブログでも、いろいろな技を「あえて使わない」ことや「待って観察する」ことが大切なのではないかと述べてきた。
また、テクストを最短距離で理解しようとせず、わざとその周辺へ引きずり込み「道草」をさせる発問が必要ではないかという趣旨のことも書いてきた。
これらの指導法には一見共通性はない。しかし、それがより高次元で結びつき一つの方向へ向かっているような気がしている。
私の理想は授業で最小限の動きしか見せない指導者。指導者は一見何もしていないように見えるのに生徒はどんどん伸びている授業。いわば仙人のような指導者である。あるいは、「雨ニモマケズ」で賢治先生が理想としたような人物である。
すべてのことが渾然一体となりそのずっと先に光が見えてきたような感覚がある。その光へはそれが見える方向へまっすぐ進んでも到着できないことは分かっている。
到着できるかどうかは分からないが、試行錯誤を繰り返しながら、その光を追い求めていくことになるのだろう。