いうまでもないことであるが、インターネットはそれまでのメディアと違って双方向の情報(文化)発信を可能にした。それまでは大衆に対して情報を発することが難しかった個人が情報の送り手になることができるようになった。
このことにより新しく情報(文化)の送り手となった個人が、文化的リーダーシップをとるようになるだろうという予想があったはずだ。が、多くの場合そうはならなかった。逆に、個人によるマジョリティへのステートメントは、インターネット上に発生した新たな形態の集団に加入するためのスクリーニング機能を果たすようになったのである。
インターネット上の新しい形態の集団とは、純粋に興味・関心・利害関係等のみにより結びつけられた集団である。先に指摘したように、従来の集団が仮に興味・関心・利害関係などを共通項としていても、少なくとも最小限の物理的近さを必要としていたのに対し、新しい集団は物理的距離の近さを必ずしも必要としない。
これがもたらしたのは、興味・関心の細分化・高度化である。共通項がより狭くコアな方向に向かったのだ。
ここで初めて英語教育の話を例に出すことにする。昨今、英語教師の間で「差」が広がっているとよく言われる。専門誌では差を縮めるために同僚性を上げなければという特集すらあった。私はその「差」をもたらしたものはインターネットだと考えている。
新しい英語教育を追って変化を求めたものはインターネットにそのヒントを捜した。仮に、直接的にそれを引き起こしたものが研修会であれ、学会であれ、ワークショップであれ、多くの場合、情報の元々のソースはインターネットであったことが多いはずだ。インターネットでこの種の情報を求めたものは、それに詳しくなり、また同じ思いを持つものとそこにおいて繋がりを深めた。
その一方、新しい英語教育を求めるもの同士の中でも、ちょっとした方向性などの違いにより別グループに分かれるということが容易になった。つまり、それまでは物理的距離の制約からある程度大きなまとまりで機能せざるを得なかったものが、その障害が消えたためによりエクスクルーシブな集団として成立することが可能になったわけである。
これは単に英語教育の話だけではない。ありとあらゆる分野において同じことが起こっているのではないかと私は考えている。別に何の検証をしたわけでもないが、過去20年で細かな専門的情報が溢れ出し、「素人には敷居が高すぎる」ものになってしまったことは沢山あるのではないか。
インターネットにおける個人による情報発信は、新たな集団に加わろうとするときに、すでにその集団の中にいるものから、品定めされる材料として機能し始めたのである。
このことにより新しく情報(文化)の送り手となった個人が、文化的リーダーシップをとるようになるだろうという予想があったはずだ。が、多くの場合そうはならなかった。逆に、個人によるマジョリティへのステートメントは、インターネット上に発生した新たな形態の集団に加入するためのスクリーニング機能を果たすようになったのである。
インターネット上の新しい形態の集団とは、純粋に興味・関心・利害関係等のみにより結びつけられた集団である。先に指摘したように、従来の集団が仮に興味・関心・利害関係などを共通項としていても、少なくとも最小限の物理的近さを必要としていたのに対し、新しい集団は物理的距離の近さを必ずしも必要としない。
これがもたらしたのは、興味・関心の細分化・高度化である。共通項がより狭くコアな方向に向かったのだ。
ここで初めて英語教育の話を例に出すことにする。昨今、英語教師の間で「差」が広がっているとよく言われる。専門誌では差を縮めるために同僚性を上げなければという特集すらあった。私はその「差」をもたらしたものはインターネットだと考えている。
新しい英語教育を追って変化を求めたものはインターネットにそのヒントを捜した。仮に、直接的にそれを引き起こしたものが研修会であれ、学会であれ、ワークショップであれ、多くの場合、情報の元々のソースはインターネットであったことが多いはずだ。インターネットでこの種の情報を求めたものは、それに詳しくなり、また同じ思いを持つものとそこにおいて繋がりを深めた。
その一方、新しい英語教育を求めるもの同士の中でも、ちょっとした方向性などの違いにより別グループに分かれるということが容易になった。つまり、それまでは物理的距離の制約からある程度大きなまとまりで機能せざるを得なかったものが、その障害が消えたためによりエクスクルーシブな集団として成立することが可能になったわけである。
これは単に英語教育の話だけではない。ありとあらゆる分野において同じことが起こっているのではないかと私は考えている。別に何の検証をしたわけでもないが、過去20年で細かな専門的情報が溢れ出し、「素人には敷居が高すぎる」ものになってしまったことは沢山あるのではないか。
インターネットにおける個人による情報発信は、新たな集団に加わろうとするときに、すでにその集団の中にいるものから、品定めされる材料として機能し始めたのである。