物理的近さを必要としない新しい形態の集団が文化を創りうる可能性について初めて考えたのは数年前のことだ。その当時は、かつてないコアな文化基盤を共有する集団によって、非常に面白い文化的発展が展開されるのではないかという期待感しか感じなかった。
しかし、今はそういったポジティブな面と同じくらい、あるいはもしかするとそれ以上にネガティブな面を潜在的に持つ現象なのではないかと考えている。だから、敢えてここに記しておくことにしたのである。
従来であれば一つの文化集団が生き抜いていくためには、その中に必ずペイシャンス、あるいはトレランスが必要であった。内部にある程度の異質なものがあったとしても、集団を維持していくためにはそれを排除しないでおける積極的・消極的許容力が必要だったのである。
実はその許容力こそが文化集団におけるバイタリティの本質なのである。耐えられるレベルのコンフリクトが内在するからこそ集団は生きながらえることができる。あるいは、自浄作用を発揮し成長を成し得るわけだ。それがない集団は、ポスターカラー的原色や、あるいは音叉の音と同じで、混じりけはないが純粋すぎて脆弱なのである。
たとえば、文化集団の中に明らかに文化的成熟度の異なる個人がいれば、成熟度の高いものが低いものを引き上げる努力がなされるだろう。このときに、引き上げられるものの方が一方的に利を得ているのではないことは教育に携わっているものであれば容易に納得がいくはずだ。また、ベクトルはやや異なるが成熟度は同レベルのものが複数同じ集団に存在すれば、そこには文殊の知恵がもたらされるのだ。
「多様性こそ文化の本質」ということばは、文化間の差異を肯定的に述べるものであるのだろうが、実は一つの文化の内側についても言えることのようだ。過度に均質で排他的な文化集団は必然的に脆いのである。
しかし、今はそういったポジティブな面と同じくらい、あるいはもしかするとそれ以上にネガティブな面を潜在的に持つ現象なのではないかと考えている。だから、敢えてここに記しておくことにしたのである。
従来であれば一つの文化集団が生き抜いていくためには、その中に必ずペイシャンス、あるいはトレランスが必要であった。内部にある程度の異質なものがあったとしても、集団を維持していくためにはそれを排除しないでおける積極的・消極的許容力が必要だったのである。
実はその許容力こそが文化集団におけるバイタリティの本質なのである。耐えられるレベルのコンフリクトが内在するからこそ集団は生きながらえることができる。あるいは、自浄作用を発揮し成長を成し得るわけだ。それがない集団は、ポスターカラー的原色や、あるいは音叉の音と同じで、混じりけはないが純粋すぎて脆弱なのである。
たとえば、文化集団の中に明らかに文化的成熟度の異なる個人がいれば、成熟度の高いものが低いものを引き上げる努力がなされるだろう。このときに、引き上げられるものの方が一方的に利を得ているのではないことは教育に携わっているものであれば容易に納得がいくはずだ。また、ベクトルはやや異なるが成熟度は同レベルのものが複数同じ集団に存在すれば、そこには文殊の知恵がもたらされるのだ。
「多様性こそ文化の本質」ということばは、文化間の差異を肯定的に述べるものであるのだろうが、実は一つの文化の内側についても言えることのようだ。過度に均質で排他的な文化集団は必然的に脆いのである。