不埒な天国 ~Il paradiso irragionevole

道理だけでは進めない世界で、じたばたした生き様を晒すのも一興

Sant'Agata di Catania

2013-02-06 22:53:00 | アート・文化
聖アガタ(Sant'Agata)は伝説によると、
シチリアの裕福で高貴な家の出身で
3世紀にカターニャに生きた若い殉教聖人。
若くからキリストの教えに従い、
自身も教理教授に尽力し、
洗礼式や聖体拝領の儀式の準備をするなど、
精力的にキリスト教の布教に努めた女性助祭でもあります。
実際、宗教画などに描かれるときは白い助祭服を纏い、
紅いパリウムを身につけた姿で描かれることも多いです。

250年頃に地方総督として
カターニアに赴任したQuinziano(クィンツィアーノ)は
時の皇帝Decio(デキウス帝)の意向でもある
「全キリスト教徒は公的にその信仰を捨てよ」という命に従い、
アガタに対しても
キリストへの信仰を捨てるように要求します。
表向きはそのような理由で、アガタを糾弾したのですが、
実際には彼女とその一族が有する
莫大な富を押収するのが
目的だったのではないかとも言われています。
また彼女の美しさに目をつけたクィンツィアーノは
彼女を自分の手中に収めたいと思うようになりますが、
もちろんそれにも彼女は屈せず。
いずれにせよ、アガタはその信仰を捨てることはなく、
総督の言いなりになることもなく、受難の道を選びます。

彼女はまず、再教育という名の下に
総督によって買収されている、高級遊女の下で軟禁され
当時カターニアではよく行われていたという
酒池肉林の饗宴に借り出されますが、
神への祈りと信仰の力を持って、
そうした腐敗に身を染めることもなく、
最終的には身柄を預かった高級遊女がさじを投げ出し
クゥインツィアーノにアガタを引き渡しています。
彼女はこの経験を経て
よりいっそう信仰心の強い女性となっていきます。

自分の思いとおりにならないことを知ると
総督は彼女を宗教裁判にかけることを決めます。
この裁判のなかでも
彼女はすばらしい弁証法で
身の潔白を証明する努力をします。
しかし、この裁判からまもなく、彼女は投獄され
鞭打ちの刑から始まり
ペンチのようなもので乳首をもぎ取られます。
その夜、彼女の夢枕には聖ピエトロがたち、
その傷は必ず癒えると約束したとも伝えられています。
最後は焼けた炭による火炙りの責め苦を受け
その翌日に房のなかで息を引き取ったといわれています。
ペンチで乳首をもぎ取られるというシーンが
彼女の殉教のシーンとして
数多くの宗教画に描かれています。

フィレンツェのピッティ宮殿に所蔵されている
Sebastiano del Piombo
(セバスティアーノ・デル・ピオンボ)の
1520年の同テーマの作品は
マニエリスムの影響を受けた肉体美の聖女です。

カターニアといえば、エトナ山。
今も噴煙を上げ続ける活火山ですが、
これまで比較的大きな被害が出ていないのは
聖アガタに護られているからだと信じる人も少なくありません。

1040年にコンスタンティノープルにあった彼女の聖遺骸は
1126年にカターニアに持ち帰られ、
今もカターニアの大聖堂内に保管されています。
その中には彼女が宗教裁判に出廷した時に
身につけていたとされる紅いマントの切れ端も含まれます。
この布切れはこれまで何度となく
エトナ山の噴火を抑えるための祈りに使われています。
彼女が亡くなった翌年に始まり、
1169年、1239年、1381年、1408年、1444年、
1536年、1567年、1635年、1886年と
度重なる噴火の度に奇跡を起こして
溶岩流を食い止めたと伝えられています。

1669年の噴火はなかでも凄まじく、
その時の様子は大聖堂の聖具室のフレスコ画に描かれています。
この時は溶岩流は街中まで迫る勢いで
大聖堂からわずか300メートルまで押し寄せたと言われています。
ちょうどその辺りに聖アガタが投獄され殉教した房があり、
最初に埋葬されたのもその辺りだったのだそうで、
彼女の殉教にまつわる場所を避けるようにして
溶岩流は更に3キロ進み海へ流れ込んだと言われています。
またこの時に溶岩流によって押し流されながら
無傷で見つかった「獄中の聖アガタ」を描いた絵画は
今もカターニアのchiesa di Sant'Agata alle Sciare
(サンタ・アガタ・アッレ・シャーレ教会)に保管されています。

2月5日はアガタの殉教した日です。