CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ)

神戸・岩国の最新情報を中心に紹介していきます。歴史や時事について調べた結果を紹介。

和田神社境内の神田兵右衛門の顕彰碑 on 2016-4-1

2016年04月02日 05時32分58秒 | 神戸情報
和田神社の大鳥居をくぐって少し行くと左手に下の写真の顕彰碑があります。
写真撮影日:2016-4-1


神田兵右衛門(こうだ ひょうえもん)の顕彰碑です。
神田兵右衛門(天保12年(1841)2月18日-大正10年(1921)1月13日)は
町兵隊の編成、明親館など神戸市内十数か所の学校を建設、新川&兵庫運河の築造、
水道の布設などで功績があり初代神戸市会議長をはじめ多くの公職にも就いた。

書き下し文
(神戸文書館のHPより引用)は以下のとおり。

「神田翁彰徳碑
兵庫県知事正三位勲一等服部一三篆額

 求めて得ざる者は名にして、得て失ひ易き者は望なり。衆望の之に帰し、
人之を服慕し令名益々盛なるは実に難し。神田翁の如き難ずる者も難ぜず。
謙にして愈々顕はる。其積徳の致す所、偉と謂ふベきなり。
翁、名は胤保(たねやす)、号は松雲、播州印南郡大塩村梅谷庄左衛門君の
第三子。天保十三年二月十八日を以て生る.安政三年六月兵庫神田氏の
養ふ所となる。(養子となる)慶応元年九月家を嗣承し父の称兵右衛門を襲ふ。
明治元年二月会計宮御用掛となり東征の出納を掌る。
時に姫路藩未だ順逆をつまびらかにせず向背決せず。岡山兵来りせまる。
上下紛擾し藩老高須隼人、薩将岩下氏と謀り以って帰順す。翁此議に参与し
周旋甚だ力む。盗を防ぎ暴をふせぐの法制未だ定まらず。翁即ち議して
町兵隊を編し以て不慮を警す。又教育の急務たるを論じ、学堂を建置す。
命じて明親館といふ。五年学制始めて定まる。すなわち小校十数を設く。
又地を購ひ拡張す。今の兵庫尋常小学の地是也。港湾未だ全からず。
新川杜を籾(はじ)め、新渠をうがち九年七月川成る。翁まさに区長たり。
故に名を避け実を修めえ事に当り竣工す。地を得ること九千余坪、
湊西区財産となし、又官に請うて、瀕海(海辺)の地一満有余坪を得、
諸街(緒町)に分配し以って共有財産と為す。凡そ埠頭(はとば)の地
船舶の遭難発する者あれば害の大小、貨の多寡に準じ費金を課賦し、
俗に浦仕舞と呼ぶ。これ他人の禍難を利するなり。翁痛論して之を除く。
翁天資忠恕(思いやりの心)敦厚(親切で手厚い)、謙(謙虚)にして
克(自制する)。成人皆心服す。凡そ議会には悉く之に参じ町に於て
市に於て県に於て長となり、或は常に員となる。郡区経済を分離し、
社局を創立する等、諸の大項より以って学務衛生殖産、勧商に至るまで心を
尽さざる所なし。その水利に於て最も力を致すと云ふ。
(水道市設委員長として、神戸市水道布設に尽力) 三十二年九月官 藍
綬褒章を賜ひ銀杯之に副ふ。四十二年十二月特旨を以って、従六位に叙せらる。
今玄康戌翁年七十、市民同志相謀り碑を建て以て其徳を彰せんと欲して来りて
余に文を請ふ。ああ名声烘然(きょうぜん)。衆すなわちこれを
後世に顕はさんと欲す。齢古希にのぼり(達し)衆すなわちいよいよ高きを祈る。
其衆望を得るの厚きことかくの如し。以って銘せざるべからず。
銘に曰く 摩耶の山 武庫の海 徳深く 衆以って相比ぶ 論を立てて 忠誠 
勲功これ偉なり 理水殖財沢、都市に遍し望の帰する所 僉済美(みなさいび)
を推す(父祖の業を承けて成功する事)上寿(長寿)奚(いずくん)ぞ疑はん 
君子(やはらぎ)を楽しむ。

明治四十三年庚戌十月
浪華 南岳藤沢恒 撰
従五位勲四等大邨屯書」



上の写真は顕彰碑の側面の記載文です。

「巳酉歳暮翁有叙位之典南浜七町議為翁建碑傳不朽翁固辞然恐翁之功労帰湮没
 切請得諾矣湊西区会及有志者等亦賛助之依翌年八月起工以本年本月告竣云爾

   明治四四年三月 建設発起者述」



上の写真は神戸史談会が平成27年(2015)3月の建立した案内板です。

神田兵右衛門は神戸史談会の初代会長で明治40年の頃、神戸史談会の設立委員
として神戸史談会の設立に尽力されました。


上の写真は神田兵右衛門の顕彰碑を裏手から撮ったものです。


兵庫の偉人播磨国印南郡大塩村(現兵庫県姫路市大塩町)の庄屋梅谷家の
三男として天保12年(1841)2月18日に生まれ、安政3年(1856)15歳で兵庫
出在家町の素封家、第12代神田兵右衛門の養子となりました。
神田家は屋号を岩間屋といい、出在家町で干鰯を主とした海産物、米問屋など
を経営する兵庫の旧家だった。

以降の略歴を箇条書きにしておきます。

慶応2年(1866)25歳 新在家町内年寄 兵庫津中年寄上席 

慶応3年(1867)26歳 苗字帯刀御免 兵庫開港商社取締役

明治元年(1868)27歳 明親館開学 商法会所元締め

明治4年(1871)30歳 兵庫南組名主 学校幹事長

明治5年(1872)31歳 兵庫学校主事 第二区副区長

明治6年(1873)32歳 兵庫新川開通掛主任 学区取締
  明治9年(1876)に新川運河完成

  関連ブログ:
http://blog.goo.ne.jp/chiku39/e/99f5637b34d7e6e46205803dcec628fd

明治10年(1877)37歳 第七十三国立銀合取締

明治11年(1878)10月14日38歳 兵庫商法会議所会頭就任
       神戸港の拡張に尽力

明治12年(1879)39歳 兵庫県会議員議員当選

明治14年(1881)41歳 有栖川宮殿下拝謁染筆下賜

明治18年(1885)45歳 兵庫勧業会会頭就任

明治22年(1889)49歳 神戸市議会議員当選 市議会議長就任

明治32年(1899)59歳 藍綬褒章

明治40年(1908)67歳 神戸史談会会長就任 兵庫電気軌道取締役

明治42年(1910)69歳 従六位叙位 湊西区財産管理委員長

大正元年(1912)71歳 神戸市民会会長就任

大正8年(1919)79歳 兵庫教育協会会長就任

大正9年(1920)80歳 大日本武徳会有功章 和田神社氏子総代

大正10年(1921)1月13日 81歳 死去 神戸市葬

  
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする