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河内国魂神社(五毛天神)と海蔵寺 on 2015-12-7

2016年04月17日 05時06分45秒 | 神戸情報
2015年12月7日に訪問した河内国魂神社(五毛天神)とかっての神宮寺
である海蔵寺について写真紹介します。

三宮から2系統の市バスで五毛天神で降車したらすぐのところにあります。


河内国魂神社(五毛天神)
 住所:神戸市灘区国玉通3丁目6−5 TEL: 078-861-0587
 御祭神:大己貴命(おおなむちのみこと)
    少彦名命(すぐなひこのみこと)
    菅原道真公 

    
「河内国魂神社の創祀は伊勢神宮開社の頃(約2,000年前の皇紀657年、BC3年)
であると伝えられていますが正確な年号は不詳。
旧摂津国菟原郡にあっては、西宮神社(大国主西神社の誤記か)・保久良神社と
河内国魂神社の三社が、生田神社・長田神社等と同様、927年(延長5年)完成
延喜式神祇部(神名帳)に載っている式内社。1,100年近い歴史がある名社。」



上の写真は拝殿。
現在は五毛、畑原、上野の三地区が氏子で春祭りではだんじりが登場します。
昔は稗田、鍛治屋、山田、篠原も氏子となっていました。






上の3枚の写真は河内国魂神社の入り口。河内国魂神社と書かれた鳥居と石碑
参道の階段。鳥居は阪神淡路大震災で倒壊再建されたものです。

この神社は五毛天神として地元では名前が定着していたが、
享保18年(1733)、日本輿地通志畿内篇(五畿内志)にて並河五一郎(誠所)
が五毛天神を凡河内(おおしこうち)氏の奉祀する河内国魂神社に比定し、
もとの社号「河内国魂神社」の標石を建てたと言われる。
凡河内氏の祖神である天津彦根命や、児とされる天御影命は祀られていない。
元文元年(1736年)9月、地元の庄屋が大坂町奉行所に呼び出され、無理やり
名前を押し付けられた経緯がある。 東方約2.5km、東灘区御影にある
綱敷天満神社の背後に広がる丘陵地帯を御影山といい、こちらが本当の
河内国魂神社ではないかとの説もある。







上の3枚の写真は手水舎と説明板。
青銅器製の唐獅子水口は昭和43年(1968)10月に奉納されたことが
判ります。


上の写真は伊勢神宮への遥拝所。


上の写真は境内摂社の荒川大明神(稲荷神社)拝殿に向かって右手
荒川稲荷は、もと箕岡神社の末社という。


上の写真は境内摂社の厳島神社・箕岡神社合祀殿 拝殿の左手。
 厳島神社(市杵島姫命)-旧上野字絵馬堂より
 箕岡神社(伊耶那岐尊)-北方の六甲山麓より


境内・手水舎の右手には並河誠所の同志・菅広房が立てたという
「河内国魂社」と書かれた社号石が残っています。(上の写真)



上の写真は河内国魂神社の境内


境内には五毛天神ということで牛の石像が祀られています。
河内国魂神社(天津神)は元々は五毛天神、五毛天神社という。
延喜元年(901)、菅原道真が筑紫の太宰府へ謫遷の途次、御影の浜に
船を留め、密かに別れを惜しんでこの地まで見送りに来た叔父の法性坊尊意
(ほうせいぼうそんい)僧正(延暦寺13代法王)と、当社頭に於いて餞別
せられた時の応対が極めて慇懃丁寧で、その様子を垣間見た村人たちは、
その徳を慕って菅公の没後(903以降)、その霊を勧請合祀して、爾後、
俗に五毛天神と称し現在に至っているそうです。
五毛は胡麻生(ごまう:燈明用の胡麻を栽培していた)という当地の旧地名
から来ていると言われている。
また、五毛はかって摩耶山天上寺領でもありました。

次にかって五毛天神の神宮寺で明治期の神仏分離令で独立した禅宗海蔵寺
に話題を移します。


上の写真は海蔵寺の本堂です。

明和3年(1766)から肥後細川藩代々藩主の祈願所となっていました。
本堂の脇に加藤清正像が安置されていたのもその関係らしいい。

幕末には警護の長州藩の陣屋の1つとして使用

明治12年頃には五毛梅林として梅の名所となっていたが今では名だけとなった

海蔵寺の基本情報

 住所:神戸市灘区国玉通3丁目6−3  TEL:078-861-3727
 山号:旭耀山  御本尊:地蔵菩薩 宗派:曹洞宗通幻派
開基:延喜元年(901)法性坊尊意



上の写真は海蔵寺の山門


上の写真は参道入り口に「禅宗 海蔵寺」と書かれた石碑


上の写真は霊符堂 
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