チュエボーなチューボーのクラシック中ブログ

人生の半分を過去に生きることがクラシック音楽好きのサダメなんでしょうか?

カラヤンとハイフェッツ同時に来日(1954)

2014-05-16 23:43:32 | 来日した演奏家

カラヤンが1954年に単独で初来日したとき、ヴァイオリニストのヤッシャ・ハイフェッツ(Yasha Heifetz,1901-1987)もたまたま日本にいたんですね。

『週刊朝日』1954年5月2日号によると、カラヤンとハイフェッツはどちらも帝国ホテルに泊まっていた。ハイフェッツの東京におけるリサイタル第一夜にはカラヤンも聴衆として帝国劇場に来ていたそうです。帝国ホテルから帝国劇場ってめちゃくちゃ近いですからね。

「20万ドルの名器、ストラディバリウスを手にしたハイフェッツが舞台に出てきたとき、つい1時間ほど前までやっていた宝塚のレビューの名残りの花吹雪がヒラヒラと舞い降りてハイフェッツを面食らわせた。」

ださっ。宝塚の直後に同じ会場でヴァイオリンのリサイタルやっちゃうっていう感覚がちょっと信じられないです(東京宝塚劇場は1955年1月まで米軍に接収されていた)。

ちなみにリサイタルの曲目はブラームスのヴァイオリン・ソナタ第3番、クライスラーのレチタティーヴォとスケルツォ・カプリース、サン=サーンスのハバネラ、ビゼーのカルメン幻想曲だったようです。

ところが、カラヤンは「開演後しばらくして、ブラームスのコンチェルト(ソナタの間違いでは??調べます)が始まると、いきなり『ノー・インタレスト』と言い放ち、席を立ってしまったんです」佐野之彦著『N響80年全記録』(文藝春秋、面白い)より。

カラヤンとハイフェッツはこの時点で既にウィーンで数回共演していたみたいだし、同じホテルに泊まっているっていうのに、カラヤン様ク~ル!

ちなみに同著の116ページには「オフタイムのカラヤンは、どこでどうやって調達したのかわからないが、いつも美しい日本人女性をはべらせ東京の街へ繰り出していた。気がつくと隣にはミス日本が寄り添っていたりする」とか書いてあって、カラヤンもやっぱり男だったんだなー(普通じゃないけど)とか思ってしまいました~

 

↓ 1954年・東京でのハイフェッツとカラヤン(アサヒカメラ臨時増刊『国際写真サロン』1955年より。船山克氏撮影)

 

(参考)大正12年(1923年)に来日したハイフェッツ

「大正十二年の十一月、大震災でたたきのめされてから、まだ二か月しかたたぬ東京を、ハイフェッツは初めて訪問した。演奏会場として予定されていた帝国劇場が焼けてしまったので、彼の三晩にわたるリサイタルは、帝国ホテルの演芸場に移されたが、震災にひしがれた都人士の心を、彼の音楽がどんなに明るくしてくれたか。四晩目に、彼は日比谷の野外大音楽堂で臨時追加の義捐演奏会をやった。安い料金を払って入場した六千の聴衆が、静粛に、熱烈に彼の名演奏に聞き入った。その収益全部を彼は罹災者救済のために寄付した。」(週刊朝日昭和29年3月21日号)

。。。当時22歳のハイフェッツさん、ありがとうございました~(泣)

ちなみにこのときのピアノ伴奏者はイジドール・アクロン(Isidor Achron, 1892-1948)。1931年の来日時もアクロンが同行しました。