チュエボーなチューボーのクラシック中ブログ

人生の半分を過去に生きることがクラシック音楽好きのサダメなんでしょうか?

戦中・戦後『音楽之友』の系図

2014-08-15 23:09:07 | メモ

「音楽之友」昭和26年(1951年)12月号に「音楽之友小史」という堀内敬三氏(当時の音楽之友社会長)による記事があります。戦時中は音楽雑誌を出版するのも大変だったんですね。たくさんの音楽雑誌が統廃合されています。その流れを簡単にまとめます。

【情報局の第一次統令】

昭和16年には音楽雑誌が二十何種あったが、紙不足と言論統制のため、情報局は音楽雑誌関係者を三宅坂上に呼び、音楽雑誌をいくつかにまとめるよう命令した。10月号を最後に各音楽雑誌は一斉に廃刊し、12月から新しい音楽雑誌が6種生れた。

「月刊楽譜」(明治45年1月創刊)、「音楽世界」(昭和4年1月創刊)、「音楽倶楽部」(昭和9年創刊)→「音楽之友」(一般音楽教養誌)

「音楽新潮」、「音楽評論」→「音楽公論」(音楽評論誌)

「レコード音楽」、「ディスク」、「レコード」→「レコード文化」(レコード音楽誌)

「吹奏楽月報」、「バンドの友」→「吹奏楽」(吹奏楽専門誌)

「アコーデオンハーモニカ研究」、「歌の花籠」、「ハーモニカの友」→「国民の音楽」(通俗音楽誌)

「音楽商報」→「音楽文化新聞」(日本音楽文化協会機関紙)


上記のうち、「音楽之友」と「音楽文化新聞」を音楽之友社が発行することになった。



【情報局の第二次統令】

戦況は悪化する一方で、用紙はますます足りなくなる。音楽雑誌は6種でも多すぎるということで、昭和18年の夏には「音楽雑誌を発行する出版社は一社だけにしろ」という命令が下された。結局、音楽之友社が他社全部の発行権を買収することになった。

音楽之友社は日本音楽雑誌株式会社と社名を変え、事務所も銀座4丁目1番地(三越の裏)から丸の内東京駅前の海上ビルに移転した。「音楽之友」誌も一時その名前をやめた。

「音楽之友」→「音楽文化」(音楽研究評論誌)、「音楽知識」(音楽啓蒙誌)に分割。ただし、紙不足で雑誌の厚さは半減。2誌の発行部数は各6千部。

戦況はますます厳しくなり、2誌は昭和19年11月号まではどうにか毎月出していたが、度重なる空襲で昭和20年1月号が4月の初めに出たきり、終戦まで休刊状態となる。

事務所も丸の内は危険だということで、連絡所として使うにとどめ、主要事務所は目黒三策氏自宅(小石川区高田老松町)に移した。



【8月15日終戦】


9月12日、丸の内の海上ビルが米軍に接収され、48時間以内に立ち退かなければならなくなった。リヤカーで銀座7丁目の日本管楽器株式会社のビルに引っ越した。

焼け残りの紙を使って10月上旬に「音楽知識」戦後最初の号を出した。
11月号は「音楽文化」、「音楽知識」の両方が11月中旬に出た。12月号は休んで、新年号から「音楽知識」を「音楽之友」と改題した。

また、その一年後の2月号から「音楽文化」を「音楽芸術」と改題した。

昭和22年3月には事務所を神田鍛冶町2丁目に引っ越した。社名も音楽之友社に戻した。



。。。平和を守らねば!