チュエボーなチューボーのクラシック中ブログ

人生の半分を過去に生きることがクラシック音楽好きのサダメなんでしょうか?

アーロン・コープランド来日公演(1966年、指揮者としては3度目の来日)

2014-08-29 23:02:51 | 来日した作曲家

アーロン・コープランド(Aaron Copland, 1900-1990)の「アパラチアの春」や交響曲第3番を聴くと、その基本的に繊細で静謐な音楽に、ふと向こうの世界に気持ちよく連れて行かれてしまい、つくづく、人間は顔じゃないんだなーなんて思います。

 

コープランドは4年前(1962年)にボストン交響楽団と共に来日公演し、日フィルにも客演しました。この、1966年の来日公演のときは読売日響に客演したそうです(※1↓日程)。ちなみに1961年の来日のときは指揮はしなかった模様(ここのめっちゃ詳しいサイトによるとコープランドは1960年に来日しボストン響を指揮しているようです。よって1966年は4度目の来日か?)。←ボストン響は1962年には来日していないのでコープランドも来日していないのかもしれません。すみません。調査中。

↑ ヨッフムじゃないよ

 

コープランドはそれまであまり指揮をしたがらなかったそうですが、作曲家の余興にしてはあまりにも堂々たる指揮ぶり!

 

それについて「音楽の友」1966年10月号のヒューウェル・タークイによる記事「世界の名指揮者たち」において以下のような記述がありました。


。。。私は、最近コープランドが指揮に力を入れていると考えたので、なぜそんなに年をとってから指揮を始めたのかと彼にきいてみた。コープランドからは次のような答えが返ってきた。

『私にはその勇気がなかったんです。それはクーセヴィツキーのせいでした。彼は私に大編成の管弦楽曲を書くように委嘱したのでした。それで生まれたのが私の「交響的頌歌」(※2)だったのですが......。クーセヴィツキーは私に向かってこう言いました。「この個所は演奏不可能だ!とても指揮のできる代物じゃないね。」』

私が彼の意見に反論すると「それじゃあ......君が振ってみたらいい。さあ、私は君にボストン交響楽団を一時間貸してあげるよ。君は君の曲をリハーサルしてみるんだな。」

私がどんなにエキサイトしたかおわかりになるでしょう。それで、私は指揮台に立ったのですが、当然とはいえ、それは大失敗でした。私は自分を物笑いのタネにしたのです。このときの経験がとても恐かったので、もう二度と指揮をやってみる気になれなかったのです。』

何が彼の気を変えさせたのであろう?

『コロンビア・レコードから私の「クラリネット協奏曲」を録音するから振ってくれないかと話がありました。それがうまくいったので、私は勇気を取り戻したのです。「交響的頌歌」は初心者には難しすぎた。今だったら私も喜んでやりますがね......そればかりでなく、クーセヴィツキーは正しかった。それゆえ、私は1950年代の半ばにこの曲を改訂し、演奏不可能な金管のパートに手を加えて、多少ピッチを変えました。』

 

※1 1966年のコープランド指揮読売日響のコンサート


【9月16日(金)厚生年金会館6時30分~読売日響特別公演】

指揮 アーロン・コープランド
ピアノ 遠藤郁子

コープランド 「アパラチアの春」、「エル・サロン・メヒコ」
グリーク ピアノ協奏曲

入場料 600円、800円、1,000円


【9月28日 (水)東京文化会館 7時~読売日響第31回定期公演】

指揮 アーロン・コープランド
クラリネット 藤家虹二

バーンスタイン キャンディード序曲
シューベルト 交響曲第5番変ロ長調
コープランド 組曲「ロデオ」、クラリネット協奏曲、組曲「ビリー・ザ・キッド」


※2 交響的頌歌(Symphonic Ode)は元来1932年にボストン交響楽団の創立50周年祭のために書かれたが、1956年に同じ楽団の創立75周年祭のために改訂された。

 


↑ コープランド、優しそう。やはり人間、顔ですね!