チュエボーなチューボーのクラシック中ブログ

人生の半分を過去に生きることがクラシック音楽好きのサダメなんでしょうか?

ミラノで歌手・松平里子の看病をした原信子(1931年)

2014-10-04 17:10:38 | 日本の音楽家

以前、このくさったブログの「銀座・山野楽器初代社長への野村光一氏の感謝」にも書いたんですが、山野楽器創設者のもとに集まった若者たちのうちの一人に松平里子さん(1896-1931)という歌手がいらっしゃいました。この方についてはミラノで35歳の若さで亡くなったということだけはWikipediaに載っていましたが、あまり詳しいことはわかりませんでした。

けれども、「婦人之友」昭和9年3月号に高名な声楽家・原信子さん(1893-1979)による「ミラノでわかれた松平里子さん」という文章が掲載されていました。1928年から1933年まで、日本人で初めてミラノ・スカラ座に所属されていたという原さんが松平さんの最期の看病を献身的にされていたんですね。

原信子(左)と松平里子

 

以下、その文章です。
---------
  松平里子さんには、東京で時々お目にかかったことはございましたが、私がほんとのお友達になったのは、一昨々年、ミラノへ、鈴木信子先生の紹介状をお持ちになって訪ねていらっしゃってからでした。

  里子さんはほんとによく勉強なさいました。里子さんの歌には美しさと「しん」とそして力がありました。八月十五日私は里子さんがアイーダをほんとによくお歌いになったのを聴いてから、スイスへ旅行に参りました。帰ってすぐお電話しますと、病院で待っているから是非会いに来てくれとのことに大変驚きました。早速お訪ね致しますと、里子さんは私に抱きついて、「生かして頂戴、日本に帰して頂戴」とおっしゃいました。その時の私には何故里子さんがそんなにおっしゃるのか分かりませんでした。何故といって、大変大きな力が里子さんの腕にはありましたから。でも私は「あなたが癒るまで看病しましょう」と申しますと心から喜んで下さいました。それから私は歌に出る約束をすっかり取り消して、とにかく里子さんの亡くなられるまで、夜も昼も出来るだけのことをして、日本にいらっしゃる里子さんの多くのお友達の代りとして看病致しました。

  付添いの看護婦が「あの方はいい声ですね」と申しますので、「まあ里子さん唱ったの」とききますと「毎晩歌ばかり唱っていらっしゃいます」といいました。里子さんは此の世と離れる最後まで唱っていらっしゃったのです。歌は毎晩グノーのアヴェ・マリアでした。

 外国に行って日本の何が懐しいといって食べ物ほど懐しいものはありません。殊に病気などになりますと一層その感じは深うございます。ですから私は里子さんが欲しいとおっしゃいますものは、夜中でも台所に飛んで行って、出来るだけのことをして作って差し上げました。塩を一寸も使ってはならない御病気だものですからほんとに苦心致しました。でもせっかく差し上げても、僅か半口か一口位しか召し上らず、もうスヤスヤと眠っておしまいになります。八月スイスへ行きます前に里子さんと私と二人、土用の鰻が食べたくて食べたくて大騒ぎして伊太利の鰻を蒲焼にしていただいたことなど思い出されて悲しうございました。

 いよいよおなくなりになる三日前、御主人が側で手紙を書いておいでになりますと、里子さんは「どうしてそんなに暗い所で書いているの」とおっしゃいました。三時頃で一寸も暗くはないのです。その時からもう里子さんのお目は見えなくなったのです。翌日はもう全く口をおききになることが出来なくなりました。それまでは日本に帰りたい帰りたいといい続けておいでになりましたが。

 いよいよ最後の日【註:1931年9月22日】、ミラノでは宗教上色々めんどうなことがあってカトリックの坊さんが呼べませんでしたので、私が代りに里子さんのお側に行って、里子さんがどうか世の中をお忘れになって、安らかにお眠りになれますよう、可愛らしいお嬢様のお側へいらっしゃれますようにと一生懸命に申しますと、里子さんは非常にお泣きになりました。それから皆様をお呼びしてお別れをしていただきました。一人一人に笑顔で握手なさいました。それから六時頃とてもお泣きになりますので、旦那様が「早く直って、一緒に日本に帰ろう」とおっしゃいますと、又声をあげてお泣きになりました。そして七時にはもう心臓の鼓動が止まってやすらかにお亡くなりになってしまいました。

 それからきれいにお化粧して差し上げ、よく音楽会に召した青い着物に紫地に銀の筋の入った帯をしめて、お家の習慣で麻のかたびらをお着せするので、日本のような麻はありませんでしたがそれも私の手で縫って差し上げてお着せしました。そしてまわりを淡紅(とき)色のカーネーションで飾りましたらとてもとてもきれいな里子さんにおなりになりました。

 里子さんの死は決して淋しいものではありませんでした。里子さんにしても好きなミラノへ好きな勉強に来て倒れるのは、喜ばしいことでこそあれ、決して惨めなものではありませんでした。


ミラノの家のバルコニーにて
-----------

。。。松平里子さんが日本に帰りたがっていたのに希望が叶わなかったのは可哀想でしたが、原さんが書かれているとおり、本場ミラノで亡くなったというのは歌手としては本望だったのでは!?そしてそのミラノで原さんという友人ができてよかったですね。