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人生の半分を過去に生きることがクラシック音楽好きのサダメなんでしょうか?

ラヴェル:ピアノ協奏曲ト長調~初演に立ち会った日本人(1932年)

2015-06-10 20:49:55 | メモ

ほとんどみんなが大好き! ラヴェル(Maurice Ravel, 1875-1937)の両手のほうの協奏曲。

特にモーツァルトへのオマージュだという中間楽章は母に「自分を産んでくれて、音楽に出会わせてくれて、ありがとう」系ですよね。

↑ ラヴェルと自署(冒頭のピッコロ)



この協奏曲の初演の現場に立ち会った日本人がいたようです。

『レコード音樂』1932年10月号から、倉重舜介氏の記事です。

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1932年1月14日(木曜)の晩は、近代フランス音楽が其の光栄を誇る愉びの夕であった。

演奏会場サール・プレイエルの総ての座席は熱心な聴衆達によってすでに三週間前に予約され尽してしまった。私もこれ等の人々にまじってオルケストラの中央に腰を下ろして居た。

私のすぐ前にオネッガー【Honegger】夫妻が居る、右の方にはルネ=バトン【Rhené-Baton, 1879-1940 指揮者】やピエール・モントゥー、左側にはストラヴィンスキーらしい顔が見える。T.S.F【放送局Transmission sans fil のこと?】のミクロフォーヌが天井からたれ下って此のコンセルトを全世界に放送しようとして居る。聴衆の興味はいやが上にもかきたてられる。

午後九時演奏は開始された。フェスティバル・ラヴェルは彼の過去の偉業を語る壮大なるプログラムによって満たされて居た。曰く『ダフニス・エ・クロエ』『ラ・ラプソディー・エスパニョル』『逝ける王女の為のパバーヌ』『ラ・ヴァルス』『ル・ボレロ』。指揮者M・ペドロ・ド・フレイタス・ブランコ【Pedro António da Costa de Freitas Branco, 1896-1963、ポルトガルの指揮者】はラヴェルの作品に対する理解の第一人者、リスボンのオルケストラを主掌する此の若いシェッフ・ドルケストルの棒の先より流れ出るリトムと燃焼する感激。

「ピアノ・コンセルト」の初演は此の曲の捧げられたマダム・マルグリット・ロン【Marguerite Long, 1874-1966】によってなされた。聡明細微なる彼女の演奏に完全にまで魅惑された聴衆は、此の曲以外に他の何者をも要求しなかった。

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さらにこの号のひとつ前の9月号には、初演の2日前のリハーサル時に倉重氏自身がラヴェルに直接、話し掛けた様子が書かれています。

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1932年1月12日(火)の午後。

場所はマダム・マルグリット・ロンの書斎内。壁には偉大なる功績と共に彼女の思ひ出を飾る数々の音楽家の写真が掲げてある。明るい光線が窓から射しこんで居る。二ツのグランド・ピアノが行儀よく並んで居る。五、六脚の椅子がある、それには三人のアミイ【女友達】とモーリス・ラヴェルが腰を下している。

これは来るべき木曜の晩グラン・サール・プレイエルに於て初演されるモーリス・ラヴェルのピアノ・コンセルトの練習を聴きに集まった人々である。

ラヴェルはと見れば、厳正な顔付きをして一癖ありさうな彼の口もとを一層引き結んで居る。これが此のロマンチックなコンセルトの作曲家とは思へない。マルグリット・ロンは来るべき初演の夕べの事を思って一方ならぬ心配をして居るらしい様子が見えるが、案外平気であるらしい。彼女も此の作曲家と同様にバスクの気性を持って居り、熱情家で皮肉屋であるからだらうか。

彼女が演奏の準備をする間に私はラヴェルに対して次の様に話し掛けた

(倉重)此のコンセルトをお書きになるのに長い間かかりましたか?

(ラヴェル)私が此の曲を完成させるまでに丸三年間勉強しました。私は他に一つこれと同様なピアノのコンセルト(此れは左手のみのピアノ・コンセルトで、1931年の暮ベルリンで初演された。)を作曲して居ました。それがため此のコンセルトは遅くなったのです。

(倉重)あなたの御勉強のメトッドは何ですか?

(ラヴェル)さーそれは何でせう!私はモンフォール(ラヴェルの住所、パリの郊外に在り。)に引込んで絶えず作曲して居ます。私はいつも夜中まで仕事をするのです。そこに私の進歩があるのでせう。

(倉重)此のコンセルトのイデは何ですか?

(ラヴェル)此のテームが私の胸に浮んだのは今から四年前です。オクスフォードからの帰りの船の中です。ロンドンからドーヴァー間でね。

(倉重)それには何か幻想でもおありなのですか?

(ラヴェル)イエ、音楽的なイデ、音楽的なコンストリュクシヨン、純粋な音楽です。私はいつも芸術は精神的なものでなければならないと考へて居ますよ。


此の会話の間にマルグリット・ロンの演奏は始められた。此の新しいコンセルトは非常に特異なものである。マルグリット・ロンの秀れた解釈力と彼女の繊細な感覚に私はすっかり感動させられてしまった。私は思った、無口なラヴェル、皮肉屋のラヴェル、彼こそ世界一のオシャベリ屋だと。かくして演奏はマダム・ロンのプレリュードに、ジャック・フェヴリエ(Jacques Février, 1900-1979)のオルケストラのパルティ(第ニピアノ)によって了った。

私は其の批評を書くのを止めて、それより此の音楽からうけた不思議な感動を語らう。

豊富なる栄養素、執拗なるリトム、私の心は躍らないわけには行かなかった。ラヴェルの作品の中に在る多様性と、精力的なエネルジーには我々は全く征服せられてしまふ。不撓不屈の情熱、用意周到なる演奏、マダム・ロンは各パルティや艱難なパッサージュを一と通り奏きをへた。彼女の秀れた演奏が此のコンセルトを一層麗しいものにする。

此の演奏中モーリス・ラヴェルは部屋の中を行ったり来たりして居た。彼は此のピアノ曲に就ての心配以外に、洋服屋とのランデー・ヴーの事を考へて居たらしい。と云うのは、ベルリンの旅行と明後日の演奏会とのために、彼は新しい洋服を注文して居たらしいから。


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。。。この、ラヴェルと直接話した倉重舜介さんというひとについては、ネットであまり情報がありませんでしたが、野村光一氏らとともに「近代フランス音楽協会」の幹事であったことは『レコード音楽』でわかりました。



それと、Wikipedia等によるとト長調協奏曲初演時の指揮は作曲者ということになっていますが、間違いなのか、それとも協奏曲のときだけフレイタス・ブランコからラヴェルにバトンタッチしたのかわかりませんでした。引き続き調べます。

ラヴェルがピアノ協奏曲を作曲したモンフォール・ラモリ(Montfort-l'Amaury)の自宅。完成の6年後に自動車事故がもとで、ラヴェルはここで生涯を終えた。(河出書房「世界音楽全集23」1969年発行より。)