チュエボーなチューボーのクラシック中ブログ

人生の半分を過去に生きることがクラシック音楽好きのサダメなんでしょうか?

ストラヴィンスキーが述べた「五つの現代作品」に対する評価(1966年)~その1

2016-01-26 22:56:26 | メモ

ストラヴィンスキーは、ロバート・クラフトと共著で数冊のエッセイを出版しているそうです。そのうちの一冊にThemes and Episodes (1966)というのがあって、その抄訳が『藝術新潮』1967年3月号に掲載されています。「五つの現代作品」という章は結構ストラヴィンスキーの皮肉がきいていて面白いと思いました。


以下、その5つの作品のうち、シュトックハウゼンの「カレ」とブリテンの「戦争レクイエム」に対するストラヴィンスキーの所感です。

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  過去の平均から見積って、今日の作品の半分ほどは、明日になってみると私を困惑させるであろうし、それ以上の数の作品が一ヶ月と私の評価を保持しえないだろう。またもっと生きのびたとしてもたいした重要性は期待できないし、さらに悪いことには、ここにも悪貨は良貨を駆逐するという法則が働くので明らさまな大ぼらが最も消え去りにくいということだ。それでいったいなぜこんなことを書きつづったのだろう。

  それはつまり、失策や当惑は、(暫定的、仮定的ではあろうが)起りうる真実の偶然にくらべればなんでもないからでである。口をとじていればあやまちもおかさず、愚かさもさらけださずにすむだろう。だがそうすれば正しいことを言う可能性をも奪われてしまうわけだ。


1.シュトックハウゼン 《カレ》 Carré、4群のオーケストラと4群の合唱のための



  シュトックハウゼンの《カレ》は、スコアを追ってみるといかにもおもしろい。だが目でなく耳できくと、退屈で(わるい意味で)長たらしくきこえる。それは彼のほかの表意文字でかかれた打楽器のためのスコアについても言えることだ。私がそれらに興味をひかれるのは主として目新しさのためであるが、それはおそらく彼の意図したところではなかったにちがいない。ほかのいわゆるグラフィックな作曲家の作品もそうだ。まるでロールシャッハの心理テストの図を見るようで、おそらく目で見るためにかかれたにちがいない。そうはいっても《カレ》は立派なものである。だが私の賛辞は皮相な点にのみ向けられているようだ。

  まず第一にシュトックハウゼンのオーケストラの使用は魅力的である。そして彼の流派に通弊の、エキゾチズムをふりかけすぎた香水のようにまた散らすことがないところがよい。練習番号39のアチェレランド・リタルダンド後のカブキ太鼓をのぞいては。67のグリッサンドやピアノの役割も気に入っているがそれより変化にとんだコーラスや、囁きや呟き(一冬中の不満をかためたようだ)、さまざまな効果の電子的な方法によるねじまげ、そしてステレオ的な処置により音が巫女ジャンヌ・ダルクか詩人ウィリアム・ブレーク(多分)のようにきこえるところなど特に心をひかれる。

 シュトックハウゼンは十年ほど前、彼の《グルッペン》の練習の時、私との初対面で「お気に召さないところをお教え下さい」と申しでた。よろしい。《カレ》はペダル・ポイントに依存しすぎている。69XのDや80の9Cがそうだ(ただしこの楽器のコンビネーションはすぐれている)。はじめと76小節のEフラット(それは時にワーグナーの《ラインの黄金》のレコードがまちがってかかったかと錯覚させるが)、74のはじめの5小節はおどけた低音があまり長く続くので、おくれて入ってきた者はプログラムが変更されてペタロンの当世風演奏になったかと思ってしまう。シュトックハウゼンは82Xのあとのように多忙なときが一番おもしろい。《カレ》を前の《グルッペン》と比べてみると新作はずっと進んでいる。だが半面いくつかの特徴的なずれがあらわれてきているのに気がつく。また《カレ》はもう一つ、この種の音楽に通有の欠点がある。密集から単純に、動から静へ、強から弱、高音部から低音部、トゥッティ(全員演奏)からソロへの変化が往復ともにあまりにも単純なことだ。だが気に入らぬ点をならべ立てるのはもうよそう。《カレ》は私の嫌いな点より好きな点の方が多いのだから。


2.ブリテン《戦争レクイエム》

  《戦争レクイエム》には拍手喝采がいつもつきまとっているし、バトル・オブ・ブリテン(訳注・英国空中戦~ナチス空襲の際の迎撃戦)の感傷もまた大へんなものだし、(訳注・イギリス人のブリテンびいきを皮肉って)さらにそれには彼らの音楽分野における国民的な劣等感がさらけだされていることも加わって、この音楽は、こうした意味でも格好の研究対象となる。自国生れの天才の前に互いに競って身を低めている批評家たちを見るがよい。

  例えば『タイムズ』はこうだ。「ベンジャミン・ブリテンの《戦争レクイエム》のようにこれほど多数の人びとからこれほど熱心に待ち望まれたレコードは少ない」「それをきいたものはほとんどすべての者が即座にこれは傑作だと認めた」...こんなことでバーナード・ショウをひきあいに出すのはすまないが、ショウはヘルマン・ゲーツという音楽家を過大評価していた。「シューベルト、メンデルスゾーン、そしてゲーツ」と彼はいった。読者の多くはゲーツをゲーテのミスプリントと思っただろう。だが「《ヘ長調のシンフォニー》と《じゃじゃ馬ならし》の序曲でのゲーツは過去百年のドイツ作曲家の中で、モーツァルトおよびベートーヴェンとならぶ最高位の作曲家となった」とショウはいった。今日この言葉をきくと妙な気がする。ブリテンの《レクイエム》に捧げられた賛辞ももしかしたら...?そこでチリ紙を用意し「ゴッド・セイブ・ザ・クィーン」の国歌に起立そこなったような気分で曲そのものに目を向ける。すると、a.ブーランジェ時代のストラヴィンスキーから部分的に借りたイディオムでのオネゲル風のシネマスコープ的叙事詩、b.着想というよりパターンだ、(例えば49のティンパニはよい着想だがパターンとしてはまずい)c.効果的でドラマティックなのは、コーラスにはラテン語で、男声ソリストには英語で歌わせた点、d.真の対位法の欠如、e.詩句通りの音が多すぎる(例えばバリトンが「時の太鼓が」と歌うと、間髪を入れずティンパニがトーン、トーン、トーンとうける)、映画音楽的だ、など。

  つまり、一言でいえば、「ほとんどすべての者が」なんといおうと、少なくともこの気のよい聞き手にとっては、桂冠作曲家の保証済みの傑作もやわらかい爆弾に思えるのだ。「圧倒的な成功」と賞賛者はほめそやす。だが、成功より失敗しやすいものはないのである。

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。。。ストラヴィンスキーはブリテンがあまりお好きでなかったようですが、いまのところ戦争レクイエムは一定の評価をキープしていると思われます。