チュエボーなチューボーのクラシック中ブログ

人生の半分を過去に生きることがクラシック音楽好きのサダメなんでしょうか?

京響カール・チェリウス激怒事件(1959)

2014-08-21 21:42:12 | 来日した演奏家

昭和34年(1959年)、京都市交響楽団の初代常任指揮者カール・チェリウスが、同志社大学の教授山田忠男氏(1911-1987)に食ってかかるという事件が起こったそうです。


Carl Caelius, 1908-1984


以下、音楽芸術昭和34年8月号からです。

「山田氏は同志社オーケストラを指導する、いわばアマチュア音楽家だが、朝比奈隆、吉村一夫、長広敏雄などと似たような立場で、ややアマチュアの色彩が濃いくらいの人。この人が新聞紙上に発表したチェリウス批判に、チェリウス氏の方がいきり立ってこれに反駁、山田氏をアマチュア・オーケストラの指揮者が何を言うかとばかりやっつけたもの。その論争の主旨はどうということもないが、この事件のなかに日本での外人音楽家の問題の縮図がみられるようで面白い。

1.チェリウスが来日当初は、大した指揮者だというので、神話的にまで褒めたたえた

2.実際チェリウスの手で京都市交響楽団が面白いように伸びた。この期間に、「神話」を裏付けるようなチェリウスの実力が認識された。しかしそれは「神話」から「現実」へとそれを見る者の目は深まった。

3.ようやく、チェリウスの弱さが見えてきた。これはチェリウスに急に弱点が生まれたのではなく、初めは「神話」的に祭り上げていた人間(日本人の目)が冷静に、良い面も悪い面も見つめるようになってきた。

4.ところが、日本人の通弊で、今度は悪い面の方をより強く捉え始める。一方、この頃になって「チェリウスはドイツの一田舎の指揮者にすぎない」などという、変な評価基準を生み出そうとする人も現れてくる。

5.いままでの「神話」の祭壇から「ドイツの田舎町の成り上がり」まで引きずり下ろされて、チェリウス氏の方に大きな憤満が起こる。

6.その中には、もちろん外人の方の「日本蔑視」の感情も動く。

7.感情の激突となる。

何も京都だけのことではなさそうである。」


。。。山田氏、チェリウスによる記事等は読んでいないので詳しくはわかりませんが、お互いオトナ気ないような?

でも確かに当時の日本人の評論家による批評を読むと、西洋で生まれた音楽に対して謙虚さが不足しているのが気になります。そんな昔のことではなかったと思いますが、有名な来日指揮者がブルックナーに関するエラそうすぎる論述(ブルックナーの本質どうのこうのとか?)を日本の音楽雑誌で読んでビックリ、「もう少し日本人はブルックナーの音楽に謙虚になるべきだ」的な苦言を呈したそうです。

どっちにせよ、この記事は音楽に限らず、日本人の性質を良くも悪しくも言い当てているのでは?

 

↑ チェリウスと京響(写真は2枚ともWikipediaより)

 

↑ チェリウスを送る京響特別演奏会。1961年6月9日(金)、大阪毎日ホール。モーツァルトのピアノ協奏曲K453を弾く柳原渥子。(音楽の友昭和36年8月号)

 

(追記)『音楽の友』昭和36年7月号に「さようならチェリウスさん」というインタビュー記事がありました。要約します。

「何てダラシのない集団だろう。さて練習をはじめるときになって、欠席や遅刻の楽員が多すぎる。病欠はしかたないとして、アルバイトに出かけて、いない楽員がたくさんいるのには、すっかり驚いた。しかし、これも、現在の日本の楽員の生活を知らされてみれば、やむを得ないことかもしれないとは思ったが、こんなことではすぐれたオーケストラや立派な音楽が育つはずがない」と京響が生まれる前に客演した日本のオーケストラ(東京交響楽団、関西交響楽団、東京フィルハーモニー、大阪放送交響楽団など)に痛感した彼は京響に着手するとき4つの着眼点を置いた。

1.固定されたメンバーを確保し、エキストラは使わない。
2.小編成の堅固な基礎から漸次拡大化を計る。
3.練習量の充実。
4.以上のことが妨げられずに実施できるために、経済的諸条件を確立する。

これらのやりかたが「ドイツ式」と言われ、彼の一徹さが傲慢だといわれ、少しつけあがっているなどと批難されたこともあった。

一番悲しかったのは、安部幸明「交響曲」を指揮したとき、アンコールに応えて、作曲者の安部氏にバトンを渡して、一部を再演してもらった。【普通、作曲者に再演してもらうか~!?】そのときの新聞評で、作曲者の指揮は納得できたが、チェリウスの指揮はデタラメ、と書かれたこと。彼は批評には敏感で、自分に関するものは、もれなく訳してもらって読んでいるし、したがって反撥もしばしば。「対談したときにはお互いに確かめあえるけれども、活字の場合は片道通行だから、慎重の上にも慎重を期し、すくなくとも事実を誤認するようなことは、断じてないように」と力説する。

「働き盛りの46歳から53歳までを日本に過ごして、いささかの悔いもない。それどころか、ほんとうに日本へ来て良かったと思う」と実感を込めるチェリウス氏はさらに、こう語る。

「京響は、まだ一人歩きをはじめたばかりの子供であり、京都のこのすぐれた文化的環境と京都市民の芸術への愛情と理解の中で立派に成長することを信じるが、後任者には、練習や組織に充分な正しい理解があり、頑健な身体と豊かな人間性を持ち、決断力に富んだ指揮者を目標に、当局と諸条件を協議しながら人選を進めた」。だが、既に決定したハンス・ヨアヒム・カウフマン(Hans Joachim Kauffmann, 1926-2008)の指揮を、チェリウス氏はきいたことがないらしい。

「いざ帰国するとなると、わが子のように思ってきた京響と、それから音楽短大(京都市立音楽短期大学)にも愛惜の情は尽きないし、感傷に追い込まれる」という彼だが、故国でさびしく留守番をする84歳のお母さんのことのほうが、もっと彼の心を痛める。


。。。チェリウスさん、京響にとって、そして日本の楽壇にとっても大恩人じゃないですか!


ジョン・ケージ初来日(1962)~鈴木大拙との会話&オノ・ヨーコ

2014-08-18 20:59:02 | 来日した作曲家

「芸術新潮」1991年9月号に、ジョン・ケージ(John Cage, 1912-1992)が初来日した時のことと写真が載っていました。

(↑ NHKスタジオで演奏するケージ。音符、でかっ)

 

ケージは1962年(昭和37年)10月に来日公演し、日本の前衛芸術家に大きな影響を与えたといいます。以下、その記事から面白いところを抜粋します。


【来日したジョン・ケージが鈴木大拙(※1)と交わした珍問答】

この秋、作曲家ジョン・ケージがデイヴィッド・チューダー(※2)とともに来日。2人は鎌倉の東慶寺に敬愛する鈴木大拙を訪ねた。以下は東慶寺山上の松ヶ岡文庫で交わされた対談から。


ケージ コロンビア大学時代(中略)先生の講義の中で、忘れられない言葉は、「山は山である。春は春である」という、あの名句です。私は、そのとき、「音は音である」と霊感のように思ったんです。(中略)

鈴木 私はケージさんたちの現代音楽というものは、よくわからないのだけれど、現代音楽というものは、非常に知的なものだということをいう人があるが―。

ケージ 現代音楽の中には、たしかに、そういうものもあります。

鈴木 ものもありますというと、そうじゃないものもあるわけですか。

ケージ 僕なんかは、それがあんまり、知的なものにならないように、一生懸命努力しているのです。知的なものじゃつまらない。

鈴木 なるほど。

ケージ 僕たちは、音は、ただ音であるようにしたいと思っています。

(「前衛音楽の発想と展開」11月号←を、芸術新潮が引用)



。。。小難しい知性は邪魔なんですね!なんかケージの音楽って知性の塊なのかと思っていましたが、これを読んでちょっと本気で聴きたくなりました。

※1 鈴木大拙(1870-1966) 禅についての著作を英語で著し、日本の禅文化を海外に広く知らしめた仏教学者。

※2 David Tudor(1926-1996) アメリカの現代音楽のピアニスト、作曲家。
(※1,2 Wikipediaより)

 



↑ 1962年10月9日東京文化会館小ホールにて。男性は左からチューダー、ケージ、黛敏郎(何か食べてる?)。

ピアノの上で寝ている女性はオノ・ヨーコさん。お行儀悪い。背中に振動を感じるたび「ア~」とか「ウ~」とか例のキテレツな声を発していたことは想像に難くありません。ジョン・レノンとの出会いはちょうどこの4年後、1966年11月9日だということです。ジョンつながり?

ちなみにケージはマンハッタンのバンク・ストリートでジョン&ヨーコの家の隣に住んでいたことがあるそうです。


ニューヨーク・フィル対日本フィル野球対決~バーンスタイン、小澤征爾(1970神宮球場)

2014-08-17 17:05:20 | 来日した演奏家

1970年にバーンスタインがニューヨーク・フィルと来日したとき、神宮球場で野球を楽しんだんですね。


ニューヨーク・フィル・ペンギンズ(The New York Philharmonic Penguins)と日本フィルとの日米対決。バーンスタイン監督。小澤さん若い。どっちが勝ったんでしょうか?


ジャイアンツの王貞治さんや荒川博さんが審判を引き受けたそうです。和やか!


音楽の友1970年11月号より。3人のかたはとてもクラシックのオーケストラメンバーには見えませんね。(良い意味で)


戦中・戦後『音楽之友』の系図

2014-08-15 23:09:07 | メモ

「音楽之友」昭和26年(1951年)12月号に「音楽之友小史」という堀内敬三氏(当時の音楽之友社会長)による記事があります。戦時中は音楽雑誌を出版するのも大変だったんですね。たくさんの音楽雑誌が統廃合されています。その流れを簡単にまとめます。

【情報局の第一次統令】

昭和16年には音楽雑誌が二十何種あったが、紙不足と言論統制のため、情報局は音楽雑誌関係者を三宅坂上に呼び、音楽雑誌をいくつかにまとめるよう命令した。10月号を最後に各音楽雑誌は一斉に廃刊し、12月から新しい音楽雑誌が6種生れた。

「月刊楽譜」(明治45年1月創刊)、「音楽世界」(昭和4年1月創刊)、「音楽倶楽部」(昭和9年創刊)→「音楽之友」(一般音楽教養誌)

「音楽新潮」、「音楽評論」→「音楽公論」(音楽評論誌)

「レコード音楽」、「ディスク」、「レコード」→「レコード文化」(レコード音楽誌)

「吹奏楽月報」、「バンドの友」→「吹奏楽」(吹奏楽専門誌)

「アコーデオンハーモニカ研究」、「歌の花籠」、「ハーモニカの友」→「国民の音楽」(通俗音楽誌)

「音楽商報」→「音楽文化新聞」(日本音楽文化協会機関紙)


上記のうち、「音楽之友」と「音楽文化新聞」を音楽之友社が発行することになった。



【情報局の第二次統令】

戦況は悪化する一方で、用紙はますます足りなくなる。音楽雑誌は6種でも多すぎるということで、昭和18年の夏には「音楽雑誌を発行する出版社は一社だけにしろ」という命令が下された。結局、音楽之友社が他社全部の発行権を買収することになった。

音楽之友社は日本音楽雑誌株式会社と社名を変え、事務所も銀座4丁目1番地(三越の裏)から丸の内東京駅前の海上ビルに移転した。「音楽之友」誌も一時その名前をやめた。

「音楽之友」→「音楽文化」(音楽研究評論誌)、「音楽知識」(音楽啓蒙誌)に分割。ただし、紙不足で雑誌の厚さは半減。2誌の発行部数は各6千部。

戦況はますます厳しくなり、2誌は昭和19年11月号まではどうにか毎月出していたが、度重なる空襲で昭和20年1月号が4月の初めに出たきり、終戦まで休刊状態となる。

事務所も丸の内は危険だということで、連絡所として使うにとどめ、主要事務所は目黒三策氏自宅(小石川区高田老松町)に移した。



【8月15日終戦】


9月12日、丸の内の海上ビルが米軍に接収され、48時間以内に立ち退かなければならなくなった。リヤカーで銀座7丁目の日本管楽器株式会社のビルに引っ越した。

焼け残りの紙を使って10月上旬に「音楽知識」戦後最初の号を出した。
11月号は「音楽文化」、「音楽知識」の両方が11月中旬に出た。12月号は休んで、新年号から「音楽知識」を「音楽之友」と改題した。

また、その一年後の2月号から「音楽文化」を「音楽芸術」と改題した。

昭和22年3月には事務所を神田鍛冶町2丁目に引っ越した。社名も音楽之友社に戻した。



。。。平和を守らねば!


音楽之友社創立10周年(1951)

2014-08-13 21:25:21 | メモ

「音楽之友」昭和26年(1951年)12月号に、音楽之友社の外観と内部の写真が載っていました。

今は神楽坂ですが、この当時は千代田区神田鍛冶町2-10にあったんですね。JR神田駅のすぐそば。

建物、レトロで良い雰囲気です。内部は狭そうだけどみなさんヤル気満々ですね!勤めたい~

ちなみに上のほうの会長は堀内敬三氏、社長は目黒三策氏です。

 

↓ 10周年記念記念音楽会というのも開催されたようです。出演者が豪華ですね。

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