チュエボーなチューボーのクラシック中ブログ

人生の半分を過去に生きることがクラシック音楽好きのサダメなんでしょうか?

1937年のコロムビアレコード新譜案内

2015-06-23 23:29:06 | メモ

昭和12年(1937年)8月のコロムビアの新譜レコード案内です。
ボーっと見ていると昔の時代に引きずり込まれそうになります。

 

写真のあるページをピックアップします。情報は主にWikipediaより(安易)。



↑ モーリス・マレシャル(Maurice Maréchal, 1892 - 1964)はフランス生まれのチェリスト。

ハンス・ロスバウト(Hans Rosbaud, 1895 - 1962)指揮者。

 



↑ 今月の目玉、ギーゼキングのモーツァルト「ジュノーム」

 



↑ ロート四重奏団(Roth Quartet)の「死と乙女」

 



↑ ウラディーミル ロージング(Vladimir Rosing, 1890 - 1963)はロシアのテノール歌手。

 



↑ ニノン・ヴァラン(Ninon Vallin, 1886 - 1961) ドビュッシーと知り合い!

 



↑ アイリーン・ジョイス(Eileen Joyce, 1908 - 1991)はオーストラリア出身のピアニスト。

 



↑ 裏表紙。78年前にアウトドアで音楽を聴いているハイカラなお姉さん。

(浦和駅前大通りの加藤演奏堂、まだありますか?ないか)


山田耕筰とロシア大使館「三大音楽家の夕」(1926年)

2015-06-18 21:09:25 | メモ

大正通信社『国際画報』大正15年7月号より、ロシア大使館における「三大音楽家の夕」の画像です。1926年4月19日。




一番右のお姉さんの目が怖いのはこの際おいといて、「三大音楽家」というのは

Irma Yaunzem(コントラルト)

Karasulova(ドラマティック・ソプラノ)

ジルマルシアック(フランスより来日)

。。。ということらしいですがネットでちょっと調べただけではほとんど情報がありませんでした。珍しい写真かと思ったのに残念。

さらに記事によると左から山田耕筰、Professor Lass、Kopp大使、Karasulova、Paul Kovaleff、Irma Yauzemと書いてあります。2人足りない~

もう少し調べます。

それにしても山田耕筰さんはいろんなところに顔を出していますね。

↑ 説明わかりづらい


『音楽の知識ハンドブック』(1949年)~執筆者の顔写真

2015-06-17 23:52:14 | メモ

昭和24年(1949年)発行音楽之友臨時増刊・『音楽の知識ハンドブック』。



この本の最初のほうには執筆者の写真が掲載されています。


評論家・堀内敬三(ほりうち けいぞう、1897 - 1983)

 


評論家・山根銀二(やまね ぎんじ、1906 - 1982)

 

評論家・野村光一(のむら こういち、1895 - 1988)

 


学習院教授・小出浩平(こいで こうへい、1897 - 1986)

 


慶応大学文学部講師・村田武雄(むらた たけお、1908 - 1997)

 


東京音楽学校教授・下総皖一(しもふさ かんいち、1898 - 1962)

 


東京音楽学校教授・長谷川良夫(はせがわ よしお、1907 - 1981)

 


東京音楽学校教授・城多又兵衛(きた またべえ、1904 - 1979)

 


東京音楽学校教授・兎束龍夫(うづか たつお、1906 - 1985) ヴァイオリニスト

 


東京音楽学校教授・黒澤愛子、ピアニスト

 


東京音楽学校教授・池内友次郎(いけのうち ともじろう、1906 - 1991)

 


東京音楽学校教授・金子登(かねこ のぼり、1911 - 1987)

 


評論家・津川主一(つがわ しゅいち、1896 - 1971)

 


東京女子高等師範学校講師・廣岡淑生(ひろおか よしお、1898 - 1988)

 


評論家・園部三郎(そのべ さぶろう、1906 - 1980)

 


評論家・坂本良隆(さかもと よしたか、1898 - 1968)

 


評論家・清水脩(しみず おさむ、1911 - 1986)

 


評論家・田邊秀雄(たなべ ひでお、1913 - 2010)

 


評論家・武川寛海(たけかわ ひろみ、1914 - 1992)

 


評論家・大田黒元雄(おおたぐろ もとお、1893 - 1979)

 


評論家・寺西春雄(てらにし はるお、1920 - 2003)

 

以上、66年前の、愛すべきクラシックおたくたちでした。

情報を肉付けしていきます。


三国同盟厚生運動大講演会(1940年)

2015-06-13 22:53:17 | メモ

音楽評論社の月刊誌『音楽』1965年11月号より、日独伊三国同盟厚生運動大講演会の画像です。



昭和15年(1940年)10月、小原敬司氏撮影。
早川弥左衛門指揮中央交響楽団(現・東京フィルハーモニー交響楽団)。舞台向かって右で足を組んでいるのは近衛文麿??

ナチスの旗に少々ドッキリしますが、イタリア・ドイツと組んだんだから演奏する曲には事欠かなかったでしょうね。


ラヴェル:ピアノ協奏曲ト長調~初演に立ち会った日本人(1932年)

2015-06-10 20:49:55 | メモ

ほとんどみんなが大好き! ラヴェル(Maurice Ravel, 1875-1937)の両手のほうの協奏曲。

特にモーツァルトへのオマージュだという中間楽章は母に「自分を産んでくれて、音楽に出会わせてくれて、ありがとう」系ですよね。

↑ ラヴェルと自署(冒頭のピッコロ)



この協奏曲の初演の現場に立ち会った日本人がいたようです。

『レコード音樂』1932年10月号から、倉重舜介氏の記事です。

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1932年1月14日(木曜)の晩は、近代フランス音楽が其の光栄を誇る愉びの夕であった。

演奏会場サール・プレイエルの総ての座席は熱心な聴衆達によってすでに三週間前に予約され尽してしまった。私もこれ等の人々にまじってオルケストラの中央に腰を下ろして居た。

私のすぐ前にオネッガー【Honegger】夫妻が居る、右の方にはルネ=バトン【Rhené-Baton, 1879-1940 指揮者】やピエール・モントゥー、左側にはストラヴィンスキーらしい顔が見える。T.S.F【放送局Transmission sans fil のこと?】のミクロフォーヌが天井からたれ下って此のコンセルトを全世界に放送しようとして居る。聴衆の興味はいやが上にもかきたてられる。

午後九時演奏は開始された。フェスティバル・ラヴェルは彼の過去の偉業を語る壮大なるプログラムによって満たされて居た。曰く『ダフニス・エ・クロエ』『ラ・ラプソディー・エスパニョル』『逝ける王女の為のパバーヌ』『ラ・ヴァルス』『ル・ボレロ』。指揮者M・ペドロ・ド・フレイタス・ブランコ【Pedro António da Costa de Freitas Branco, 1896-1963、ポルトガルの指揮者】はラヴェルの作品に対する理解の第一人者、リスボンのオルケストラを主掌する此の若いシェッフ・ドルケストルの棒の先より流れ出るリトムと燃焼する感激。

「ピアノ・コンセルト」の初演は此の曲の捧げられたマダム・マルグリット・ロン【Marguerite Long, 1874-1966】によってなされた。聡明細微なる彼女の演奏に完全にまで魅惑された聴衆は、此の曲以外に他の何者をも要求しなかった。

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さらにこの号のひとつ前の9月号には、初演の2日前のリハーサル時に倉重氏自身がラヴェルに直接、話し掛けた様子が書かれています。

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1932年1月12日(火)の午後。

場所はマダム・マルグリット・ロンの書斎内。壁には偉大なる功績と共に彼女の思ひ出を飾る数々の音楽家の写真が掲げてある。明るい光線が窓から射しこんで居る。二ツのグランド・ピアノが行儀よく並んで居る。五、六脚の椅子がある、それには三人のアミイ【女友達】とモーリス・ラヴェルが腰を下している。

これは来るべき木曜の晩グラン・サール・プレイエルに於て初演されるモーリス・ラヴェルのピアノ・コンセルトの練習を聴きに集まった人々である。

ラヴェルはと見れば、厳正な顔付きをして一癖ありさうな彼の口もとを一層引き結んで居る。これが此のロマンチックなコンセルトの作曲家とは思へない。マルグリット・ロンは来るべき初演の夕べの事を思って一方ならぬ心配をして居るらしい様子が見えるが、案外平気であるらしい。彼女も此の作曲家と同様にバスクの気性を持って居り、熱情家で皮肉屋であるからだらうか。

彼女が演奏の準備をする間に私はラヴェルに対して次の様に話し掛けた

(倉重)此のコンセルトをお書きになるのに長い間かかりましたか?

(ラヴェル)私が此の曲を完成させるまでに丸三年間勉強しました。私は他に一つこれと同様なピアノのコンセルト(此れは左手のみのピアノ・コンセルトで、1931年の暮ベルリンで初演された。)を作曲して居ました。それがため此のコンセルトは遅くなったのです。

(倉重)あなたの御勉強のメトッドは何ですか?

(ラヴェル)さーそれは何でせう!私はモンフォール(ラヴェルの住所、パリの郊外に在り。)に引込んで絶えず作曲して居ます。私はいつも夜中まで仕事をするのです。そこに私の進歩があるのでせう。

(倉重)此のコンセルトのイデは何ですか?

(ラヴェル)此のテームが私の胸に浮んだのは今から四年前です。オクスフォードからの帰りの船の中です。ロンドンからドーヴァー間でね。

(倉重)それには何か幻想でもおありなのですか?

(ラヴェル)イエ、音楽的なイデ、音楽的なコンストリュクシヨン、純粋な音楽です。私はいつも芸術は精神的なものでなければならないと考へて居ますよ。


此の会話の間にマルグリット・ロンの演奏は始められた。此の新しいコンセルトは非常に特異なものである。マルグリット・ロンの秀れた解釈力と彼女の繊細な感覚に私はすっかり感動させられてしまった。私は思った、無口なラヴェル、皮肉屋のラヴェル、彼こそ世界一のオシャベリ屋だと。かくして演奏はマダム・ロンのプレリュードに、ジャック・フェヴリエ(Jacques Février, 1900-1979)のオルケストラのパルティ(第ニピアノ)によって了った。

私は其の批評を書くのを止めて、それより此の音楽からうけた不思議な感動を語らう。

豊富なる栄養素、執拗なるリトム、私の心は躍らないわけには行かなかった。ラヴェルの作品の中に在る多様性と、精力的なエネルジーには我々は全く征服せられてしまふ。不撓不屈の情熱、用意周到なる演奏、マダム・ロンは各パルティや艱難なパッサージュを一と通り奏きをへた。彼女の秀れた演奏が此のコンセルトを一層麗しいものにする。

此の演奏中モーリス・ラヴェルは部屋の中を行ったり来たりして居た。彼は此のピアノ曲に就ての心配以外に、洋服屋とのランデー・ヴーの事を考へて居たらしい。と云うのは、ベルリンの旅行と明後日の演奏会とのために、彼は新しい洋服を注文して居たらしいから。


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。。。この、ラヴェルと直接話した倉重舜介さんというひとについては、ネットであまり情報がありませんでしたが、野村光一氏らとともに「近代フランス音楽協会」の幹事であったことは『レコード音楽』でわかりました。



それと、Wikipedia等によるとト長調協奏曲初演時の指揮は作曲者ということになっていますが、間違いなのか、それとも協奏曲のときだけフレイタス・ブランコからラヴェルにバトンタッチしたのかわかりませんでした。引き続き調べます。

ラヴェルがピアノ協奏曲を作曲したモンフォール・ラモリ(Montfort-l'Amaury)の自宅。完成の6年後に自動車事故がもとで、ラヴェルはここで生涯を終えた。(河出書房「世界音楽全集23」1969年発行より。)