チュエボーなチューボーのクラシック中ブログ

人生の半分を過去に生きることがクラシック音楽好きのサダメなんでしょうか?

ポリドール洋楽陣(1936年)

2015-08-20 22:18:01 | メモ

『ディスク』1936年1月号からポリドールの広告です。「世界的芸術家揃い」!

そのわりにはあまり知られてない感じの人も多いです。

ラヴェルから時計回りでケンプの次は「ベルガー」。

エルナ・ベルガー(Erna Berger, 1900-1990)は、ドイツのソプラノ歌手だということです。

その次、ブライロフスキー(Alexander Brailowsky, 1896-1976)はショパン弾き。

ウッド卿は(Sir Henry Wood, 1869-1944)は、イギリスの指揮者。

「ミス・グマイネル」(Lula Mysz-Gmeiner)はコントラルト歌手。(へへ人のサルタンムクワワさま、コメントありがとうございました)

野口英世似のスレザーク(Leo Slezak, 1873-1946) はオーストリアの歌手。

ヴォルフはフランスの指揮者アルベール・ヴォルフ(Albert Wolff, 1884-1970)。ポンちゃんさま、ご指摘ありがとうございます。

最後にブレッヒ(Leo Blech, 1871-1958)はドイツの作曲家・指揮者だということです。

。。。それにしてもこの時代からフルトヴェングラーが中心だったんですね。


ディズニー映画「青きドナウ」(ウィーン少年合唱団、1962年)

2015-08-18 17:59:17 | メモ

主演する少年のほかは本物のウィーン少年合唱団が出演する1962年のディズニー映画「青きドナウ」(原題 "Born to Sing" または "Almost Angels")のパンフレットです。



ウォルト・ディズニーがウィーンのアウガルテン宮殿でウィーン少年合唱団の演奏会を聞いたとき映画製作を思いつき、合唱団の生活と勉強を1年間かけて調査したそうです。

↓ 映画の撮影のためにウィーン空港に到着したディズニー夫妻。



↓ マックス・ヘラー先生役のペーター・ヴェック(Peter Weck, 1930年生まれ。ウィーン在住)は少年のころウィーン少年合唱団で実際に活躍していたそうです。



↓ 合唱団にいた頃ナイフで机に刻み付けたPWという頭文字を見つけたヴェック。




↓ L字の線はここでトリミングされるはずだったということ?一番左のデカめの少年、カットされないでよかったですね。

 

音楽がたくさん流れます。




ちなみにオーケストラはウィーン交響楽団、指揮はヘルムート・フロシャウアー(Helmuth Froschauer, 1933年生まれ)。


映画の中では世界音楽旅行に出発し、日本にも来たということになっています。少々ガチョ~ンなチラシ。



。。。全編をYouTubeで見ることができます。音楽の部分はけっこう楽しめます!

 

(参考)森永アーモンドチョコレートの広告。1959年3月13日朝日新聞


ストラヴィンスキーのヴァイオリン協奏曲と演奏者たちのサイン(1931年~)

2015-08-12 23:07:45 | メモ

洋楽レコード専門雑誌『DISQUES(ディスク)』1936年1月号からです。



ストラヴィンスキーのヴァイオリン協奏曲は1931年に作曲され、初演は同年10月23日、ベルリン・ラジオの放送で行われたそうです。



そのときのヴァイオリンはサミュエル・ドゥシュキン(Samuel Dushkin, 1891-1976)で指揮はストラヴィンスキー。オーケストラは当然ながらベルリン放送交響楽団。

これ以来、この協奏曲の演奏にはすべて同じ楽譜が使用され、なぜかストラヴィンスキーは表紙に演奏家のサインを要求したそうです。



演奏された都市名と日付、演奏者が記されています。



ストラヴィンスキー自身のサインのほか、クーセヴィツキー、ストコフスキー、ワルター、モントゥーらの名前が見えます。

そして右下の40回目にはまたストラヴィンスキーのサインがあり、Polydorとも書いてあります。これは初演時と同じコンビとラムルー管弦楽団が1935年10月28日と29日にパリで録音したときのもの。

41回目以降もサインは続いたんでしょうか?

↑ ストラヴィンスキーによるドゥシュキンへの献呈文


カザルスの公開レッスン(1961年初来日)

2015-08-09 15:32:51 | 来日した演奏家

(大幅に修正しました)

『藝術新潮』1961年6月号に、チェリスト・鈴木聡氏による「カザルスのレッスン」という記事がありました。

パブロ・カザルス(Pablo Casals, 1876-1973)は愛弟子の平井丈一朗氏の日本におけるデビュー・コンサートで指揮をするため、1961年に最初で最後の来日を果たしました。84歳。

その時予期せず、カザルスによる公開レッスンが東京・有楽町の朝日講堂で4月16日と17日の二日間にわたって開かれることになったそうなんです。

カザルスは当時、信念に基づいて一、二の限られた場所以外では演奏しないようになっていたので、彼のチェロの演奏をナマで聴けることは奇跡に近いことだったようです。

↑ 愛用の名器、ゴッフリラを弾くカザルス。「コンサートでもなければショーでもない、レッスンであるから気楽にやります」と上着を脱いだ。

【公開レッスンの受講者】
・全日本のチェリストのうちから選ばれるマスタークラスの演奏者

【聴講者】
・日本の楽壇の各界を代表する人々
・一般の聴衆層からも広く募集

【課題曲】
次の三つのうちから一つ選ぶ (三大Bで揃えましたね)
1.バッハの6つの無伴奏組曲のうちから
2.ベートーヴェンの5つのソナタのうちから
3.ブラームスの2つのソナタのうちから


公開レッスンでは、一日あたり6名、二日間計12名を予定していたそうですが、神様を前にビビった(?)のか、9名にしかならなかったので、追加で芸大教授でピアニストの永井進氏とともに、プロのチェリストである鈴木聡氏が急遽参加することになったそうなんです(鈴木氏のレッスンの時だけピアノが永井氏)。

永井氏と鈴木氏は、他の9人の受講者が選ばなかったブラームスの2番を選んだのですが(井上頼豊+池本純子ペアも同曲を選曲。下の資料参照)、特に鈴木氏は下手したら恥をかいてしまうことになるのに参加してエラい!でもカザルスに教わる機会なんてないですからね。

↑ カザルスのレッスンを受ける鈴木聡氏。


以下、自分の順番が回ってきてからについての鈴木氏の臨場感のある文章を引用します。

「順番が来て私がカザルス師と二メートルの間隔をもってお互にチェロをかまえて向い合った時、彼の体から異常なまでのエネルギーと気迫が私に迫って来たことを感じた。それは先ほどまで客席で第三者としてこの講習を聴いていた時には夢にも感じなかったものである。勿論バッハとブラームスの音楽の内容の表現の差も関係があるかもしれない。この第一楽章の劈頭の突如としておこるピアノのフォルテの和音に次いで出るところのチェロの最強音の第一主題は、全身のエネルギーと熱情をもって奏されるものである。そしてその時の私は弾き出す前にすでに彼の誘導を感じたのであった。私は今までにかつて経験したことのない烈しさをもってこの曲の演奏に入った。しかしそれは私の持つ力量を越えた要求であったのか、私の楽器から出て来た音はそれにそぐわない、およそ情ない音として私の耳に入ってきたのである。

(中略)次は彼(カザルス)の演奏を聴く番である。三十年前パリのステージ上での何回となく聴いた彼の演奏を、目の当たりの距離で聴くのである。天から与えられた希有な才能をもって、世界中の音楽家のうちでも最長の年月の間練りに練られたものを、凄烈な息吹とともにする演奏は、この偉人がステージで全力を挙げて演奏する時となんら異なるところがない。私の体が彼の大きな音楽という器の中に吸い込まれるような感じであった。そして或る場合は耳をすませて私の演奏を聴き、また或る時はともに弾いて誘導して私のうちから出て来なかったものを引き出し、またある時は何回も交互に弾いて私に納得させるのであった。」


。。。さすがカザルス、オーラがすごかった。

↑ 宮沢明子さんもピアノを弾いていました!チェロは千本博愛氏(『ピアニストの自画像』大和書房)

 

↑ 当時の新聞記事より、勇敢かつラッキーな11人のチェリストたち。

 

↑ 東京放送でオンエアされた可能性大ですね

 

↓ カリフォルニア大学でのレッスンですが同じころの動画がYouTubeにいくつかありますね。本当に神様みたい。生徒はボニー・ハンプトン (Bonnie Hampton)。


岩崎洸と中川良平が結成した「東京チェンバー・ソロイスツ」(1971年)

2015-08-07 23:05:15 | 日本の音楽家

『音楽現代』1971年8月号から、東京チェンバー・ソロイスツの結成。
1971年8月9日午後7時からの東京文化会館小ホールでの第1回演奏会の直前の様子らしいです。



左から
徳永二男(Vn)
岩崎洸(Vc)
丸山盛三(Ob)
中川良平(Fg)
浜中浩一(Cl)
小出信也(Fl)
北村源三(Tp)

有名人揃いですね。
しかしこの団体についてもネットではあまり情報が出てこないので、東京八重奏団と同様、あまり長続きしなかったのかもしれません。