ロッキングチェアに揺られて

再発乳がんとともに、心穏やかに潔く、精一杯生きる

2015.6.12 自分がいなくなってからのことを考える

2015-06-12 19:50:40 | 日記
 遅かれ早かれ、自分という人間がこの世からいなくなる日がくる。それは誰にとっても紛れもない事実なのだけれど、一般には、健康に恵まれ、身体にどこか心配事がない人よりも、現に病を抱えて治療をしている人の方がより切実に考えることだろう。

 NHKドラマで「ボクの妻と結婚してください。」という番組がある。
 検診がきっかけで発見されたすい臓がんは既に末期で、余命半年と宣告されたサラリーマンが主人公だ。自分に遺された時間は短い。では、その間に何をするか。
 悩んだ末、自分がいなくなった後も、愛する妻と長男にはずっと笑っていてほしいから、そのために2人を守ってくれる自分に代わる人間、つまり妻の再婚相手を探せばよいのだ、という結論に達する。その夫による、妻のための婚活ストーリーだ。
 次回が最終回なので、ラストはどういう展開になるのかわからない。けれど、自分が愛する人の為に、その人を愛してくれそうな相手を見つけ、自分亡き後を託してこの世を去っていくという境地にまで達することはなかなか難しいことだろうな、と思う。 
 やっぱり愛する人の傍には“他の”“代わりの”人ではなくて、何より“他でもない”“自分”がいたい、というのが素直な気持ちではないだろうか。

 自分がいなくなってすぐに相方が再婚してしまう、とか、再婚まではいかなくても新しい恋人が出来てしまう、などというのはやはりショックだろうと思う(もちろん実際試しに死んでみたことがないから、あくまで想像で、草葉の陰からそれを見ている、という想定なのだけれど・・・)。
 もちろん、遺される方が辛いだろうということは想像に難くないから、そう思うこと自体、我儘と言われれば我儘なのかもしれないけれど。
 かといって、あまりに長い時間、相方がメソメソして、ひいては誰とも付き合わず、引き籠りのようになって挙句の果ては体調を崩す、などという事態になったらそれはそれで心配で、気が気ではない。

 正解はすぐには見つかりそうにないけれど、やはり“遺された人”というよりも、“今、現に生きている人”が幸せになることこそが、天に召された人にとっても幸せなこと、と考えた方が良いのかもしれない。
 そう考えるに、私は天に召された人になるのはまだまだ勘弁して頂いて、少しでも細く長くしぶとく、病と共存しながらこの世で生きていきつつ、相方と過ごしていきたいものだと痛感する週末の夜である。


コメント
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