音楽の喜び フルートとともに

フルート教室  久米素子 松井山手駅 牧野駅 090-9702-8163 motokofl@ezweb.ne.jp

ギターの天才

2024-02-23 21:00:00 | 古典
近所に椿の紅唐子が咲いていました。

木瓜の花

郵便局から6月エスカルの発表会で演奏する曲の伴奏譜を送りました。
またしてもブリジアルディの「ローエングリン幻想曲」
今度は安達萌さんのピアノてす。

楽しみにしています。

おっと!その前に3月9日(日)ギターの川原久美子さんと西宮ギター練習会で演奏。それから3月31日(日)阪南ギタークラブ 第7回発表会に出ます。

阪南市文化センター サラダホール 
11:45開場 12:15開演
第三部にギター前田恵理さんと出ます。
曲は「ジュリアーニの協奏的大二重奏曲op.85」

むかしむかしにやったことがありますが、もう忘れてます。
練習しなくっちゃ。
川原さんとも同じ曲。
川原さんとやってなかったのが不思議な位有名曲です。
それから
前田さんと合わすのは初めてなので楽しみです。

マウロ・パンタレーオ・ジュリアーニ( 1781 - 1829年)ナポリ王国ビッジェーリオ生まれ、ナポリ王国ナポリ没

ウィーンで活躍したナポリ王国のギタリスト・作曲家。19世紀初頭におけるクラシック・ギターのヴィルトゥオーゾの一人とされています。

早くから兄ニコラスとともにバルレッタに移り、その地を学習の拠点としました。

初めはチェロの指導を受け、ヴァイオリンも学んでいました。
その後ギターに没頭するようになり、わずかな期間で非常に熟練したギター奏者に成長しました。

マリア・ジュゼッペ・デル・モナコと結婚し、息子ミケーレ(1801年 バルレッタ - ?)とガエターノ(1803年〜?)の2人の子どもを授かります。
その後は一時期ボローニャやトリエステに滞在していました。

1806年の夏、チェロやギター、対位法の学習を済ませると、家族を残したままウィーンに出向きます。
ウィーンでヴィルムート嬢(Fräulein Willmuth)という女性と関係を結び、1807年にはマリアをもうけ、1813年エミリアをもうけました。

ウィーンでは、古典派の器楽曲の様式に通じるようになり、1807年には古典派様式による自作の出版に取り掛かります。

ヨーロッパ全土に演奏旅行に乗り出し、行く先々で、その超絶技巧や音楽的な趣味が称賛されました。大成功をおさめて音楽界の名士となり、19世紀初頭のウィーンで活躍した演奏家や作曲家のなかでも、最高の一人に数えられました。

ジュリアーニは、西洋音楽の状況において、ギターの新たな役割を洗練させた音楽家です。

オーストリア帝国の上流社会や、ベートーヴェンやロッシーニのような著名な作曲家にも知られるようになり、ウィーンで最も活動的な演奏家と共演しました。

1815年にピアニストのヨハン・ネポムク・フンメル(その後はイグナツ・モシェレス)、ヴァイオリニストのヨーゼフ・マイゼーダー、チェリストのメルクとともに、シェーンブルン宮殿

の植物園

で(入場料が1ドゥカートだったことにちなんで「ドゥカーテン・コンツェルト」と呼ばれた)一連の室内楽の演奏会を行ないました。
ジュリアーニはこれに出演したことで、ウィーンで名声を馳せました。

同じく1815年には、ウィーンの帝国議会の名士たちのための公式の演奏家となりました。
また、1813年12月8日には、ベートーヴェンの《交響曲 第7番》の初演にも(おそらくチェリストとして)参加しています。

ウィーンでは、作曲家としてはささやかながら成功しました。
ジュリアーニは、楽譜出版社アルタリア(1770年ウィーンに創立した出版社)と提携していて、ジュリアーニのギター曲の大部分を出版しました。

その他の地域ではあらゆる出版社と取り引きし、自作をヨーロッパ各地に広めました。
また、ギター教師としても名声を得て、ボブロヴィッチやホレツキーら、数々の門人を輩出しました。

1819年に、主に経済的な理由から、ウィーンを後にします(財産や預貯金は、債権者への返済のために差し押さえられていました)。

イタリアに戻ると、トリエステやヴェネツィアで過ごし、ついにローマに落ち着きました。

ローマでは大して成功せず、わずかな作品を出版し、1度きりの演奏会を開いただけでした。

この間、1813年生まれの娘エミリアは、1821年から1826年まで腹違いの姉妹マリアとともに、1823年7月、重病の父親を見舞いに、たびたびナポリを訪ねています。

両シチリア王国の都では、ジュリアーニの評価が好転し、地方の出版社によって、その他のギター曲を出版することができました。

1826年には、ポルティチにてフランチェスコ1世

とボルボーネ家の宮廷のために御前演奏を披露しました。
この頃がジュリアーニのナポリ時代であり、同じく巧みなギター奏者に成長した娘エミリアとしばしば共演するようになりました。

1828年の末までに体を壊し、1829年5月8日にナポリで生涯を閉じました。ジュリアーニの訃報は、ナポリの音楽界に大きな驚きを与えたといわれています。

協奏的大二重奏曲op85は1817年アリタリア社から

出版されています。





天上の声か、恐怖の楽器か?

2024-02-19 21:00:00 | 古典
土曜日は、次男夜勤のはずでした。
ところが午前1:30にスマホに電話。
 
「会社の階段で、転倒して骨折ったみたいだから迎えに来て。」って

午前中、地域の小学校でうどん作りをして帰ったら夫と土曜日でも見てくれるところを受診してくれてました。

見事に膝骸骨が真っ二つ。
ギプスしておくので、月曜日に別の病院で手術してって言われたらしい。

全治3ヶ月。
チタンで繋いで、半年後また手術して取りましょうと言われました。

私は12月に骨折。骨は治ったけれどその後コロナになって後遺症も治りきらないのに…。
参りました。

私のベッドがまた役に立ち。
杖では足りなくて次男は松葉杖をつくようになりました。
あ~あ!
いよいよお祓いしてもらわなくては。
ってそんなに信じているわけではありませんが。こう続くとね。

ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(1756-1791年)神聖ローマ帝国ザルツブルク大司教国ザルツブルク生まれ、神聖ローマ帝国オーストリア大公国ウィーン没


アダージョとロンド ハ短調 K.617を作曲しました。

楽器編成はグラスハーモニカ、フルート、オーボエ、ヴィオラ、チェロの五重奏。

自筆譜の最初のページ(大英図書館所蔵、シュテファン・ツヴァイク・コレクション Zweig MS 61)
盲目のグラスハーモニカの名手、マリアンネ・キルヒゲスナーのために1791年5月23日に作曲され(モーツァルトの自作作品目録の日付による)、6月10日、ウィーンのブルク劇場の音楽アカデミー(演奏会)で初演されました。続いて、8月19日にケルントナートーア劇場でも演奏されています。

グラスハーモニカは
グラス・ハープを工夫し、多数の音を様々に奏しやすくさせ、細かな音の動きや、同時に多数の音を独りで奏することが容易になりました。

直径の異なる碗状にした複数のガラスを大きさ順に十二平均律の半音階に並べ、それらを鉄製などの回転棒に突き刺して回転させながら、基本的には、水で濡らした指先をガラスの縁に触れさせる摩擦によって、グラス・ハープと同様に共鳴するガラスからの音で音楽を奏します。

パガニーニは
「何たる天上的な声色」と言い、
トーマス・ジェファーソンは
「今世紀の音楽界に現れた最も素晴らしい贈り物」と主張し、
ベンジャミン・フランクリンは
「何ものに比べがたい甘美な音」と表現したと伝えられています。
またフランクリンは、もしハープが「天使の楽器」であるなら、
アルモニカは「天使の声」であると形容しました。
ゲーテ、モーツァルト、ハッセ、テオフィル・ゴーティエなども、この楽器を絶賛した記録が残っています。

マリー・アントワネット


も、これを習って奏したと記録されています。

作曲家のグルックや、イギリスの演奏家ウィリアム・デレヴァル(William Deleval)が、水を入れる量によって音程を調整された複数のゴブレットを奏でる演奏会をベンジャミン・フランクリン

が1757年にイギリスで聴きました。
その魅惑的な新楽器をもっと工夫したいと思い、1761年にフランクリンはこのアルモニカを完成させました。

ロンドンのガラス吹き師チャールズ・ジェームズ(Charles James)と共に製作された最初の1台は、
1762年1月にマリアンヌ・デイビーズ(Marianne Davies)による演奏で世界に初披露されました。この楽器は、アメリカ合衆国において発明された楽器の記念すべき第1号でした。

ちなみに、ベンジャミン・フランクリンは発明家としての信念に則り、爆発的な人気を呼んだこの楽器の特許の申請を生涯拒否し続け、発明による喜びを潔く社会に無料奉仕したのでした。

この魅惑的な音色を持つ新しい楽器は最初から熱狂的な支持を得て、人々はその音色に酔いしれ練習に熱中し、1700年代のうちにおよそ4,000台とも、5,000台ともと言われるほどの台数が欧州各地に出回ったとされています。

しかし、その風が変化したのは、練習や演奏に熱中した多くの人が、アルモニカのせいで神経障害やうつ病、目まい、筋肉の痙攣などに罹ったと言い出した時です。
アルモニカはその美しい音色とは裏腹に大変怖い楽器だという噂が口々に伝わって、人々の恐怖感が煽り立てられました。

実際に、精神病院に入院したり夭折した者もいましたが、それがますます根拠のない憶測を招き、えも言われぬ甲高い響きが死者の魂を呼び寄せて神秘的な力を宿らせ、聞いた人の頭をかき乱しておかしくしてしまったなどと口々に言い始めるようになってしまいました。

更には演奏会場で子供が死亡するという事件まで発生してしまい、その事件をきっかけに、ドイツのあちこちの地方で警察当局が全面的にアルモニカ演奏の禁止令を発令するまでに発展しました。家庭内の痴話喧嘩から、早産やペットの痙攣まで、おかしなくらいにそれらが次々とアルモニカのせいにされ、奏しているのを発見されると逮捕される始末でした。

催眠術と呼ばれる技術を最初に始めたのは、モーツァルトのパトロンでもあったウィーンの医師フランツ・アントン・メスマー(Franz Anton Mesmer) 

でした。
メスマーは自ら仮説を立てた動物磁気説に基づき、後世に催眠術や催眠療法と呼ばれるものに近いことを行ないました。(現代、英語で「催眠術」のことを"Mesmerize(メズマライズ)"と言い、「催眠術師」のことを"Mesmerist(メズマリスト)"と言うのは彼の名に由来します。)

このメスマーの治療では、しばしば締めくくりにガラス製のアルモニカを演奏することでも知られていました。

人気の彼は、盲目のピアニスト、マリア・テレジア・フォン・パラディス(Marie Paradies)


の治療を依頼されましたが、視力を一時的に取り戻すことに成功したにもかかわらず、彼女の精神衛生を後に害したとされ、ウィーンから追放されるという処分を受けました。

現代においても、当時の神経障害の要因について明確な科学的根拠が解明はされていません。良からぬ噂が楽器に対する精神的な先入観を植えつけたせいとも言われています。

第一に、ガラスとの摩擦によって引き起こされる持続的な振動のせいで、演奏後には指先に痙攣を覚えますが、それが神経を害するというものです。

第二に、そこはかとない高音が聴覚から脳を共鳴させ、悪影響を与えるというものです。

第三に、柔らかい吹きガラスの類は、鉛を25~40%も含んだクリスタル・ガラスを用いていたため、濡らして触れる指先から鉛が浸透し、鉛中毒を起こしたせいというものです。

しかし、第三の説については特に信憑性が低いです。鉛中毒は18世紀と19世紀前半において、アルモニカ奏者であろうとなかろうと、治療のために医者から鉛の化合物を処方されて長期間服用してきた患者もいれば、食物や飲物の中に防腐剤や甘味料として恒常的に添加されていた酢酸鉛を人々は多く経口摂取していたし、更にスズや鉛の鍋やヤカンなどが調理に使用されていました。

第一、第二の説も、はっきりと科学的には証明されていません

この後、この楽器はすっかりと姿を消してしまいました、

ゲアハルト・B・フィンケンバイナー(Gerhard B. Finkenbeiner)によって1984年に復興されました。

発明当時アルモニカの第一人者は、オーストリアの盲目の女性演奏家マリアンヌ・キルヒゲスナー(Marianne Kirchgessner)でした。モーツァルトは彼女と親しくしていて、彼女のために『アダージョとロンド ハ長調 KV.617』の美しい五重奏曲や『アダージョ ハ長調 KV.617a』の独奏曲を作曲しました。

最近までこの曲は、パイプ・オルガンやピアノで代用されて演奏されてきましたが、いよいよグラスハーモニカの「天上の声」で世界を浄化してみたい。



再会の期待を込めた「告別」

2024-02-13 21:14:00 | 古典
名古屋の夜の部は体調が良くないのでご辞退して、そのまま帰ってきました。
ごめんなさい。
行き迷ったと言ったら、2人が同じ方向だからと新幹線名古屋駅まで
送ってくれました。
名古屋の人優しいです。フルートもうまい!

駅で名古屋のお土産買いました

名古屋マカロンラスク

こちらは富久田先生からみんなに頂いたマドレーヌ。

甘さ控えめでふわふわ!美味しかった。

「また、会いましょうね!」と別れました。
先生も「もうこけないでくださいね!」
はい。気をつけます。

ルードヴィヒ ヴァン ベートーヴェン(1770-1827年)神聖ローマ帝国ケルン選帝侯領ボン生まれ、オーストリア帝国ウィーン没

1803年のベートーヴェン

のピアノソナタ第26番「告別」
は、ベートーヴェン自身が標題をつけています。名前をつけたのは、この『告別』と『悲愴』としかありません。


彼のパトロンで、弟子であり友人でもあったルドルフ大公

ルドルフ・ヨハネス・ヨーゼフ・ライナー・フォン・エスターライヒ(ドイツ語: Rudolf Johannes Joseph Rainer, Erzherzog von Österreich, 1788年1月8日 - 1831年7月24日)は、神聖ローマ皇帝レオポルト2世の末子。1819年にオロモウツ大司教と枢機卿に選出された。一般的にはルドルフ(ルードルフ)大公の呼び名で、ベートーヴェンのパトロンおよび弟子として知られています。

のウィーン脱出が関係しています。

オーストリアは1809年4月9日にナポレオン率いるフランス軍と戦闘状態に陥入りました。
ナポレオンの軍勢は5月12日までにウィーンへと侵攻します(第二次ウィーン包囲)。

オラース・ヴェルネが描いたヴァグラムの戦いでのナポレオン1809年

神聖ローマ帝国皇帝フランツ2世の弟にあたり皇族の身分であったルドルフ大公は5月4日に同市を離れることになりました。

ベートーヴェンはピアノソナタの第1楽章の草稿に
「Das Lebewohl(告別)」と記すとともに「1809年5月4日、ウィーンにて、敬愛するルドルフ大公殿下の出発に際して。」と書き入れました。

初版の表紙1811年
オーストリアの降伏により同年10月14日に終戦。
フランス軍が撤退した後の1810年1月30日にルドルフ大公はウィーンへと戻りました。

第2楽章の「Die Abwesenheit(不在)」はこの期間のことを示しています。

さらに第3楽章には
「Das Wiedersehen(再会)」、
「敬愛するルドルフ大公殿下帰還、1810年1月30日」と書き込まれています。

この曲を出版したブライトコプフ・ウント・ヘルテル社は各楽章の表題をフランス語に置き換えて
"les adieux"
"l'absence"
"le retour"
と表記しました。
親交の深かったルドルフ大公のために作曲されたこのピアノソナタの標題にはベートーヴェン自身もこだわりがあったらしく、
「Das Lebewohlは
les adieuxとは全く違うものである。前者は心から愛する人にだけ使う言葉であり、後者は集まった聴衆全体に対して述べる言葉だからである。」と手紙で抗議しています。

ただし、作曲者自身もスケッチ段階では第1楽章の「Das Lebewohl」を取り消して「Der Abschied(別れ)」、第3楽章は「Die Ankunft(到着)」としていたことが分かっています。

出版社へと持ち込まれたのは第24番、第25番のソナタと同じ1810年2月10日でしたが、このソナタ第26番のみ翌年に作曲者自身による修正を施され、1811年7月に出版されました。

ベートーヴェンのいう
Das Lebewohl」はドイツ語辞書でひくと「別れの挨拶」という意味が、出てきます。

日本語で「告別」は、別れを告げる。という意味の他に告別式など、亡くなった人との永遠の別れを含む言葉で、再会の期待を込めて言うときには違うような気がします。

但し、現代の辞書をひいてみるとベートーヴェンの「告別」を指す言葉と載ってしまっているので、もうこの言葉はベートーヴェンのこの曲を指す言葉として新しい意味を持ったと思われます。

但し、キリスト教圈の告別式は天国で、幸せに包まれることで、再会を期待した式でもあるので日本のような物忌みや縁起の悪い意味が含まれません。

彼らにとっては現世で再会できても、来世で再会できても同じ。

しかも、「告別」は第1楽章だけで、第2楽章は「不在」第3楽章「到着」と再会の喜びを表したものであると思って聞いてみると、また、音楽も違って聴こえてくる?




体力回復音楽

2024-02-07 21:05:00 | 古典
ようやく熱も取れて明日からは再始動できそうです。

長ネギとアスパラガスのバター焼き。
作ってくれました。
器からはみ出ているところが野趣溢れるところ。
毎食運んでくれてありがとうございました。

1月に入ったばかりのオーケストラから、2月18日にベートーヴェンの交響曲第5番第4楽章、献堂式、命名祝日を弾きましょう。とお誘い。
「今回は忙しいから無理」と思っていたところ、また一度プッシュされて行きますと返事したのは良かったけれど、それから一回も吹かない間にコロナで休んでしまい。

今頃、楽譜を見て焦っています。

週末にはギターとの本番5曲。…新曲一曲ありますが、一回も吹いてません。

しかも日曜は名古屋で超難曲のブリジアルディの「ローエングリン」が待っています。
ありがたいけれど、流石にこれはひどい。
体力大事やな。と今更ながら思う私。

栄養ドリンク飲んで特訓。
とにかく間に合わせます。

体力回復をネットで検索していたら、クラシック音楽が良いと出てきました。

やっぱり、ベートーヴェンかあ!ベタですが仕方ないな。
聴いてるだけで力がみなぎってくる気がするものね。

ルードヴィヒ ヴァン ベートーヴェン(1770-1827年)神聖ローマ帝国ケルン選帝侯領ボン生まれ、オーストリア帝国ウィーン没
1815年Joseph Willibrord Mähler画
「命名祝日」(めいめいしゅくじつ、Zur Namensfeier)作品115は、1815年に完成させた管弦楽のための演奏会用序曲です。
クリスマスに初演され、芸術のパトロンとして知られるアントニ・ヘンリク・ラジヴィウ

1775-1833年ポーランドリトアニアの貴族、プロイセン王女と結婚 ショパン、パガニーニ、メンデルスゾーンなど多数の音楽家を庇護しました。
へと献呈されました。

命名祝日はアッシジのフランチェスコ
「聖フランチェスコ」(画:フランシスコ・デ・スルバラン、1658年)清貧の思想で知られる「裸のキリストに裸で従う」と素足で過ごしたと言われています。
の記念日でありオーストリア皇帝フランツ1世

1768-1835年神聖ローマ帝国最後の皇帝でオーストリア皇帝として帝位を維持しました。
の聖名祝日(守護聖人を選んで、名前を頂き、その日を自身の祝日にして祝う習慣で、皇帝の場合はフランツ ヨーゼフ フランチェスコという名前でした。)である10月4日のことを指しています。

ベートーヴェンは1814年の同日に向けて本作を完成させようと試みましたが間に合わせることができず、作業を翌年の春まで中断することにしました。

冒頭の主題は9年後に彼が交響曲第9番でフリードリヒ・フォン・シラーの『歓喜の歌』に付した旋律と関係しています。

作曲時期はベートーヴェンの中期にあたります。素材は彼が1810年から1814年にかけて書き留めていた着想を用いています。



病より癒えたる者の感謝の歌

2024-02-06 21:00:00 | 古典
枚方は雨です。

流石に部屋隔離は飽きてきました。
しかし、熱が取りきれません。
4日飲みきれば熱が下がるということかな。薬は今晩が最後。
治ってくれるといいな。

ルードヴィヒ ファン ベートーヴェン(1770-1827年)神聖ローマ帝国ケルン選帝侯領ボン生まれ、オーストリア帝国ウィーン没の

1820年
弦楽四重奏曲第15番イ短調 op132。
1825年に作曲しました。
11月6日にシュパンツィヒ四重奏団によって初演されました。
5楽章で構成されている。第12番、第13番とともに、ロシア貴族ニコライ・ガリツィン
ニコライ ガリツィン(1794–1866年)ロシア帝国サンクトペテルブルク生まれ、ロシア帝国コロチャ没
に献呈されました。
「熱意あるアマチュア、貴殿の才能を賛美するものとして、勝手ながらひとつ、ふたつ、もしくはみっつの新作四重奏曲を作曲されるおつもりはないかとお尋ねすべく筆を執っています。このお手間に対して貴殿がふさわしいとお考えの金額であれば、いくらなりとも喜んでお支払いしましょう。」
ガリツィンはチェロを弾いていたと言われています。

作曲順は第12番、第15番、第13番です。

1824年から第1楽章と終楽章のスケッチが進められ、この時点でベートーヴェンは通常の4楽章構成を考えていました。

しかし病気のために作曲が中断。快復して再着手した際に、リディア旋法による第3楽章が挿入されました。

第3楽章 "Heiliger Dankgesang eines Genesenen an die Gottheit, in der lydischen Tonart" Molto Adagio - Andanteには
ヘ調のリディア旋法、五部形式
「リディア旋法による、病より癒えたる者の神への聖なる感謝の歌」と題されています。
最も長い楽章で全体のクライマックスに位置しています。ゆっくりとしたヘ調の教会旋法による部分と、より速めの「新しい力を得た "Neue Kraft fühlend"」ニ長調の部分の交替で構成されています。

この楽章は、ベートーヴェンが恐れていた重病から快復した後に作曲されたため、上記のような題名が付されています。

全曲の構成
弦楽四重奏曲第15番イ短調op132

第1楽章 Assai sostenuto - Allegro
イ短調、序奏つきソナタ形式

短いながらも緩やかな序奏が、作品全体と『大フーガ』にも登場する動機の基礎となっています。

第2楽章 Allegro ma non tanto
イ長調、三部形式

トリオつきのメヌエットです。トリオは、主音(ここではラ)の保続音の上に旋律が奏でられるため、ミュゼットを思い起こさせられます。

第3楽章 "Heiliger Dankgesang eines Genesenen an die Gottheit, in der lydischen Tonart" Molto Adagio - Andante

第4楽章 Alla Marcia, assai vivace (attacca)
イ長調、二部形式

短い間奏曲。行進曲風の前半部ののちに、レチタティーヴォ風の楽句があり、すぐに終楽章につながっています。

第5楽章 Allegro appassionato - Presto
イ短調、ロンド形式

ベートーヴェンのスケッチ帳には、イ短調のロンド主題に似た主題があり、これは当初は交響曲第9番の、放棄された器楽による終楽章のつもりだったらしいです。2段構えのコーダにおいてイ長調に転じて終わります。





荘厳ミサ曲

2024-01-26 21:00:00 | 古典
火曜日に新幹線の車窓から見えたたぶん伊吹山。
山頂に少し雪が積もっていました。
昨日から寒波で今日は一段と寒くなりました。
伊吹山も今頃真っ白になっているかも。
雪の伊吹山、荘厳な感じがします。
新幹線の中にLineが来てオケに誘われました。ベートーヴェンの「ミサ・ソレムニス(荘厳ミサ曲)演奏しない?」
引き受けました。

ルードヴィヒ ヴァン ベートーヴェン(1770-1827年)神聖ローマ帝国ケルン選帝侯領ボン生まれ、オーストリア帝国ウィーン没


の肖像画の中のこの肖像画は
ヨーゼフ・カール・シュティーラー(Joseph Karl Stieler 1781~1858)。

ドイツのマインツで生まれ、ウィーンやパリで絵を学び、1820年からバイエルン王国の宮廷画家を務めた肖像画家です。

このベートーヴェンの肖像画は1819年から20年に描かれたもので、ちょうどベートーヴェンが50歳を迎えようかという時期の顔です。手にはその頃作曲中だった〈ミサ・ソレムニス〉の楽譜が描かれています。

ミサ ソレニムスはミサの名称の一つで主司式司祭と助祭・副助祭による読唱ミサに、合唱による歌ミサを伴うものをこう呼びます。音楽用語としては『荘厳ミサ曲(そうごんみさきょく)』と訳されます。

ベートーヴェンは壮年期のミサ曲ハ長調と、晩年のミサ・ソレムニス ニ長調を残しています。

前者は伝統的な教会音楽の上に作られた作品であるのに対し、後者は単なる教会音楽を超えたより深く普遍的なものを含まれていると言われています。

その理由としては、テキスト自体はカトリックの典礼文に則っているものの、『クレド』以降の歌詞の取り扱い方が伝統的なそれとかなり異なっています。

ミサの式典ではほとんど演奏されず、演奏会で、演奏されます。

ベートーヴェンのミサ・ソレムニス ニ長調 作品123は、1823年に完成された晩年の大曲です。

心から心へ
自筆譜のキリエ冒頭には、
Mit Andachtという指示の他にベートーベンが
"Von Herzen ― möge es wieder ― zu Herzen gehen"(心から出で、願わくば再び、心へと至らんことを)と書いています。

これは人類に向けた普遍的なメッセージと捉えられ、第九と並んで人類愛をうたうベートーベンというイメージに寄与して来ました。

献呈の相手はベートーヴェンのパトロンの1人ルドルフ大公。

1788-1831年1803年頃に出会い、ベートーヴェンがなくなるまで年金を贈り続けました。

当初、大公の大司教就任祝いとして書き始められました。しかし、書き進むうちに次第に構想が広がって、就任式に間に合わなくなり、完成までに結局5年間を要しました。
実際に大公が演奏したかは不明ですが、現在でもベートーヴェンが書いた最後の大宗教曲として広く演奏されています。

ベートーヴェンは権威的・教条主義的なキリスト教会に対して、批判的な思想と宗教観を持っていたという事も注目されてきました。

ワーグナー


はこのミサ曲を「真正なベートーヴェン的精神を持つ、純粋な交響曲的作品」と評しました。
20世紀を代表するベートーヴェン研究家のパウル・ベッカー

1882- 1937年パウル ベッカー
「素直な信仰から生じる歌詞に(音楽を)合わせる様な処理はベートーヴェンの考えには現れえず」、
「音楽家として自身の深く自由な思想を、単なる歌詞の意味を超越した音楽によって表現している」と語っています。

ただ歌詞に見合った曲をつけたような旧来型のミサ曲ではなく、ミサの言葉の外面的な意味よりも豊かな内容を含む交響曲的なミサ曲だと言われています。
キリエ   神よ憐れみ給え
グローリア 神の栄光のうちに
クレド   私は信じるひとつの神を
サンクトゥス 聖なるかな
アニュス・デイ 神の小羊




チキン南蛮の夜

2024-01-23 21:01:00 | 古典
京都コンサートホールの帰り、やっぱりくずはモールで母の買物に付き合い、夕食を一緒に食べました。
「お寿司がいい。」と言ってましたが、混んでいるのでフードコートのタニタ食堂で食べました。

野菜デリ
ごはん大中が選べますが、「小はないの?」と母は聞いています。
「無いんです。小より少ない目にしておきますね。」お姉さんナイスです。

母のは、チキン南蛮定食。

「チキン南蛮って!違うわ。これはタルタルソースがけやわ。」
「南蛮は甘酢あんかけみたいな…。」と私。
「これは違う。」
「そうかなぁ?」

ウィキペディアで調べてみました。
宮崎県発祥、小麦粉をまぶした鶏肉(主に胸肉)を溶き卵につけて揚げ、甘酢タレ、南蛮タレにつけて食べるもの

南蛮タレ 酢 砂糖 醤油を混ぜたもの。

だったそうです。 
そうそうこれこれ!

しかし、何時の頃からか家庭に広まって、タルタルソースをかけて提供されるようになったとのこと!

タルタルソースは玉ねぎをみじん切りにして、ゆで卵を潰して酢とマヨネーズと混ぜ、塩コショウで味を整えたもの。

鶏の唐揚げにタルタルソースをかけたもの、揚げ鶏に南蛮タレにつけてから、タルタルソースをかけたもの。などなどいろいろなヴァリエーションが生まれているようです。

みなさんのチキン南蛮はどれですか?

バカバカしい話題ですみません。
母のお供で疲れたので、ついでに今日は、一時期席巻したチキンミュージック。
いろいろな人が出していますが、結構ピアノやヴァイオリンの実力者が多いこと。この人もピアノ上手いです。

モーツァルトの歌劇「魔笛」より夜の女王のアリアを…チキンで。





コントラバスとバスとバス

2024-01-12 21:00:00 | 古典
京都今出川大宮の冨久田先生のレッスンも始まりました。
骨折のせいで12月のレッスンが飛んでしまい。お久しぶりです。

ブリジアルディの歌劇「ローエングリン」のファンタジーを見てもらいました。

「お怪我に気をつけてくださいね。」と最後に言われました。
「はい。」お恥ずかしいです。
今出川通りを通るバスは同志社の前を通って京阪出町柳駅にでます。
同志社大学の中を見学できることをクリンさんのブログで始めて知りました。
その昔、友だちに誘われて寮に泊まったことがありますが、中まではよく見なかった。素敵なようなので見てみたいですが、あいにく雨が降ってきたので、慌てて帰りました。
傘もってなかったし。
今度ゆっくり来よう。とバスに揺られながら思いました。

「このうるわしい御手と瞳のために」K.612は、
ヴォルフガング アマデウス モーツァルト(1756-1791年)神聖ローマ帝国ザルツブルク大公国ザルツブルク生まれ、神聖ローマ帝国オーストリア大公国ウィーン没

がエマヌエール シカネーダー(1751-1812年)神聖ローマ帝国バイエルン州シュトラウビング生まれ、神聖ローマ帝国オーストリア大公国ウィーン没


の劇場のバス歌手フランツ ゲルル(1764–1827年 魔笛のザラストロ初演)と、コントラバス奏者フリードリヒ ピシュルベルガー(シカネーダーのフライハウス劇場のバス奏者)のために書かれました。

モーツァルトの作曲目録に

「バスアリア、コントラバスのオブリガート付き、ゲール氏及びピシュルベルガー氏のために」のために書いた曲とあります。

シカネーダーは、1789年からヴィーデン郊外のフライハウス劇場(アウフ・デア・ヴィーデン劇場 Freihaustheater auf der Wieden ともいう)

オペランガッセのフライハウス劇場跡地近くのパパゲーノ裁判所にあるパパゲーノのレリーフ像(1937 年)
 の興行主となり、新しい時代のさきがけとして、ドイツ語による台本をもとに大衆的な音楽劇を盛んに上演していました。

モーツァルトと組んで「魔笛」を成功させたことが音楽史に残るできごとでした。

モーツァルトの 魔笛で鳥捕りのパパゲーノを演じた劇場監督シカネーダー

その頃、周辺にたくさんの小品も彼の劇場ために書いています。
そのような曲の1つです。

コントラバスは伴奏として使われることが普通でしたが、この曲ではそういう扱いではなく、ソロとして演奏し、歌手とも渡り合っています。
そして超難曲。

こういう編成はめったに無く、
モーツァルトがコントラバス奏者の名手ピシュルベルガーが演奏する手や指が美しく見えたので彼のために「このうるわしい御手と瞳のために」を書いた説があります。確定はしていませんが、さて、どうでしょうか?










祈りの音楽

2024-01-04 21:00:00 | 古典
いつもの里山にお詣り。
酒屋神社にいつものお礼を言いました。

父のお墓にお詣りし、
もう何十年も欠かさず詣っている

海住山寺にもお詣り。

里山も



パトロールして年始行事終わりました。
明日から次男は仕事です。

今、自分のできることは目の前の事を集中して行い、使える力を蓄えることかもしれません。

私は5日は1月14日の野田千晶先生のハープ発表会の合わせ。

1月14日には、13:00〜塚口T-raum ハープアンサンブル大会。
私はハープ弾いてヴァイオリン富宅光さんとゴセックの『ガボット』の合奏。

フルートでハープの西原こうりゅうさんとパラディスの「シチリアーナ」

フルート久米、ヴィオラ金重美代さん、ハープ鈴木健さんで「ベルガマスク組曲」〜「プレリュード」を演奏します。

1月13日は西宮ギター練習会、今津公民館でカルリの「プチデュオ」から「デュオ2」をギターの川原久美子さんと演奏します。

1月26日は牧野生涯学習センターで「聴き合い会」を主催します。
12:15〜18:0015分協力金500円で楽器演奏、声楽など誰でも参加できます。

1月6日、19:00〜音登夢ライブ配信に出演します。音登夢さんは、いつもお世話になっているヴァイオリン木村直子先生、チェロ木村政雄先生のYouTubeチャンネルです。
登録よろしくお願いします。
食べたり、お酒を飲みながら肩のこらない曲を演奏されている所にヴィオラの金重さんと少し訪問させて頂きます。

【新春!】明けましておめでとうございます!2024年一発目のほろ酔い配信ライブするよ〜!【Violin & Cello】

皆様、明けましておめでとうございます。2024年もよろしくお願い申し上げます。マイペース更新になりますが、夫婦共に根気強くYouTuberとして活動していきます!良かったら...

YouTube

モーツァルトのフルート四重奏の第1楽章の演奏は決まっていますが、後はたぶん6日のお昼に決まります。
政雄先生のアレンジ曲もあるはず、とっても楽しみです。
みなさんにも楽しい時間になるはず。よかったらご覧くださいね。

アマデウス モーツァルト(1756-1791年)神聖ローマ帝国ザルツブルク大公国ザルツブルク生まれ、神聖ローマ帝国オーストリア大公国ウィーン没

の「アヴェ ベルム コルプス」ニ長調作品618は
1789年以来、脚の病気にかかり毎夏、モーツァルトの勧めでバーデンに療養に出かけた妻コンスタンツェ(1762-1842年)

のために尽力した合唱指揮者アントン シュトルのために1791年6月17日に作曲されました。

混声4部合唱とヴァイオリン、ヴィオラ、コントラバス、オルガンのために書かれています。

簡素な編成でわずか46小節ですが、モーツァルト晩年の傑作とされています。

多くの編曲がされていますが、リストはピアノ編曲を出し、チャイコフスキーは管弦楽に編曲し、「組曲第4番「モーツアルティーナ」」第三曲に「祈り」として編曲しています。





チェロのウィルトォーゾ

2023-12-29 21:01:00 | 古典
昨夜、整形外科に行って脚のレントゲン撮ったら、膝小僧の丸い所にきれいに折れた後が見えていましたが…。とりあえず経過順調です。

皆さんにもいろいろご心配頂いてありがとうございました。
ただ、1ヶ月後、もう一度診て完治のようです。
少しまだ痛みもあり、立ち上がったり階段が痛いです。

とにかく皆さん、車止めには気をつけましょう。
「下向いて歩けよ!」と息子には言われています。
正論!夫と送り迎え、様々おたすけお疲れさまでした。

ルイジ ボッケリーニ(1743-1805年)トスカーナ大公国ルッカ生まれ、スペイン王国マドリード没

イタリアのルッカでチェロ。コントラバス奏者の父レオポルドのもと、5人兄弟3番目として生まれます。

父やルッカ大聖堂


の楽長ドミニコ フランチェスコ ヴィンヌッチからチェロを学び、13歳でデビューを果たしました。
その後、ローマで研鑽を積み20歳前半には父と共にウィーンの宮廷に勤め、高い評価を得ていました。

父が亡くなった後は、バイオリン奏者のフィリッポ マンフレーディとくみヨーロッパ中で華々しい演奏活動を行いました。

1768年パリのコンセール スピリチュエルで成功を収めるなど名声を極めました。

1769年スペインの宮廷に招かれ、ドン ルイス王子


付き奏者兼作曲家となり、マドリードで後半生を送りました。

ゴヤが描いたドン・ルイス皇子の家族(1783)ゴヤ画(左脇の画家はゴヤ自身、右から3人目で立って腕組みしているのがボッケリーニと思われる)

プロイセンでの人気は衰えず作品をブランデンブルク=プロイセンに送っていたりしましたが、晩年は失職し、貧困と忘却のうちにこの世を去りました。

ボッケリーニは ハイドン、モーツァルトと同時代の作曲家でありながら、独特な作風をたもってしていました。

複数のメロディーを巧みに繰り返しおりませながら行くのが特徴で、時としてバロック音楽のようにも斬新なロマン派の音楽のようにも聞こえました。

また、スペイン固有の音楽を取り入れ、国民楽派の先駆けとも思える作品を作っています。

そしてまだ通奏低音にだけ使われることが多かったチェロを生かした音楽を作りました。

ボッケリーニの音楽史上の功績としては、室内楽のジャンルを確立したことがあげられます。

弦楽四重奏曲と弦楽五重奏曲では抜きんでた量と質を誇っていて、ハイドンを凌駕しています。

ボッケリーニの弦楽五重奏曲は110曲を超え、当時としては珍しくヴァイオリン2、ヴィオラ、チェロ2という編成でした。

1771年に作曲された「6つの弦楽五重奏曲」作品11の5曲目の第三楽章は「ボッケリーニのメヌエット」として、特に有名で今も世界中で親しまれています。