音楽の喜び フルートとともに

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ルイ9世の偉大な母

2023-03-08 21:21:00 | 中世
庭に植えたラナンキュラスが咲いています。花期を見ると11月〜12月なのでもう終わりかと思いましたが、元気です。
ラナンキュラスはラテン語で小さなカエルと言う意味だそうです。
花ではなく、葉がカエルの手に似ているからついた名前だそうです。

ルイ9世が十字軍のエルサレム奪還に行った際、母が好きな花だったので持ち帰ってプレゼントした。ことから名声とか名誉という花言葉がついています。

それが史実かどうかはわかりませんが…。

ルイ9世の母ブランシュ ド カスティーヨ(1188-1252年)はカスティーリャ王国

から、1200年フランスのルイ8世と結婚しました。
1216年イングランドのジョン王が亡くなるとルイ8世が継承権を主張し、ブランシュが艦隊を指揮してイングランドを攻めました。

二人の祖母アリエノール ダキテーヌはイギリス王太后で彼女の意向で結婚したからです。

この時は負けて引き下がりました。

ルイ8世は1226年亡くなります。
後を継いだルイ9世12歳。
ブランシュは摂政として実権を握ります。

ルイ9世とブランシュの戴冠

ルイ9世は父から十字軍遠征も引継ぎ、1229年終結まで戦います。

ブランシュはルイ9世の治世を支え、政敵を倒し、言葉巧みに味方に引き入れ反対派の貴族を崩壊させ、1248年第7回十字軍が始まると再び摂政に戻り政権を摂りました。
1252年に亡くなるまで実権を握っていました。

結婚したルイ9世が妻と会うのをブランシュが嫌がったために、部屋の裏に通路を作らせてそこで会ったとか…。

ホントかな?
6男5女も子どもをもうけています。

女が強いとあれこれ言われがち…。

この頃の音楽はノートルダム楽派。

ノートルダム寺院でルイ9世も戴冠式をしましたが、そこで作られ、演奏された音楽から、2声で作られていた音楽が4声になり、一躍豪華に複雑になりました。


その中心にいたのがペロタン 仏語 ペロテイヌス ラテン語(1165-1230年)です。

モノフォニー(単声)や二声だった作品をポリフォニーにしました。

《かしらたちは集いて》や《地上のすべての国々は》など四声の作品が残っています。

アレルヤ、ほまれあるマリアの誕生
「オルガヌム大全」に残されていますがペロタン本人についてはあまりわかってはいません。

【レスポンスム】地のすべての果ては私たちの神の救いを見た。地上全体よ,神に向かって歓呼せよ。
【独唱句】主は御自らの (お与えになる) 救いを知られるものとなさった。諸々の民の見ている前で,彼は御自らの正義を啓示なさった。



凍てつく時は去り

2023-01-26 09:02:00 | 中世
この辺りは雪はほとんど降りませんが、毎年大寒あたりにドカッと降ります。
17時頃から降り出し、18時次男が車で帰宅。
紺のアクアが真っ白。
わからないので字を書いてしまいました。
20時頃夫が旭川出張から帰って来るというので樟葉にお迎え。
飛行機も、電車も遅れ、遅れでしたが、京阪も動いていて助かりました。

「北海道に比べたら全然寒くない。」とか言っちゃってます。
そりゃそうですね。

こちらは慣れてないので、車で行くのも怖かった。

樟葉モールで夕飯。
このだし巻き卵、中に明太子が入っています。

とろろ昆布がのったおでん。

あったまりました!
21:30頃帰宅

アクアに書いた文字が消えていました。

雪の朝 二の字二の字の 下駄のあと
              田捨女

とはいかず、今朝は道路の雪はほぼ消えて、

庭の植栽に残るのみてした。

カルミナ・ブラーナというと、オルフが有名ですが、もともとは10世紀〜13世紀の放浪学生や、修道僧たちによって書かれた世俗歌集です。

バイエルン選帝侯領のベネディクト会ベネディクトボイエルン教会。
1803年ここの図書館の蔵書をミュンヘン宮廷図書館に移すために調査していた時に羊皮紙112枚に書かれた
「カルミナ・ブラーナ」の手写本が発見されました。

300篇の歌が、ラテン語、中高ドイツ語、古代フランス語で書かれていました。

宗教曲は少なく、ほとんど世俗歌で占められていて、時代風俗への批判、自然、愛、宴会、遊び、放浪生活がテーマです。

4分の1にネウマ譜がついています。
こんなの。

グレゴリオ聖歌
ほとんどは譜線のない旋律のない覚書のような図がついていました。

1847年に出版されると評判になりました。

1937年、オルフがこの手写本を元にカンタータを作りました。

「凍てつく時は去り」は、1300年頃の手写本から再演されたものです。



ペロティヌス3声ポリフォニーの始まり

2022-12-09 09:15:00 | 中世
うちの庭のお茄子。

まだ、できてます。
炒めて生姜を、かけて食べました。
まだまた、おいしいですよ。

インド原産で日本では750年正倉院の古文書に「天平勝宝2年茄子進上」と書いてあるのが最古だそうです。
貴重な食材で粕漬が進物に使われていました。
増えたのは江戸時代。

農業全書に「紫、白、青の三色あり、また、又丸きもの、長きもの」と記載されています。

日本には70種ありますが、世界では1000種ほどもあるそうです。

ヨーロッパでは13世紀から15世紀に伝わりましたが、長く観賞用だったそうです。

16,7世紀以降、地中海沿岸部で食べられるようになりました。

13世紀になすをどのように調理したのか?
音楽は少しわかっています。

レオニヌスという作曲家が長いモノフォニー単声音楽の時代に終止符をうち、ポリフォニー多声音楽の時代を切り開きました。

レオニヌスは定旋律の上にもう1つの旋律、対旋律をつけました。
これはレオニヌスのGloria in excelsis Deo「天のいと高きところに神に栄光あれ」

「オルガヌス大全」という本にはこのレオニヌスの楽譜も載っていて、ノートルダム楽派と呼ばれています。

しかし、この本にはもう一人の作曲家
がレオニヌスよりも多い声部からなる楽譜を書いています。

2声以上を書いたことにより、同じ本の中でもノートルダム楽派から、一歩進んだことになります。

足取りも知られていませんが、後世に与えた影響は莫大です。

名前の記載がない作者ですが、これは3声、4声からなるポリフォニーで、これを書いたのはペロティヌスで、「オルガヌス大全」を書いた本人ではないかと言われています。

定旋律の上に複雑な装飾的な旋律、下にはドローンと呼ばれる動きの少ない低音の声部が流れます。

オルガヌス大全に載っている
ペロティヌスのAlleluia, Nativitas「ハレルヤ 乙女マリアの誉れある誕生」


レンブラント故郷の音楽家

2022-12-01 09:04:00 | 中世
11月最後の日は曇り。
風邪をひいて喉が痛くてお休み。
月曜のハープレッスン、フルートアンサンブルレッスン、今日のAED安全講習会子ども向けもキャンセルしました。

コロナかと思ったけれど2回検査して陰性。しかし、熱はないですがだるくて寝ていました。




この前行ったノリタケの写真や近鉄特急の写真を眺めたりしていました。

もう元気になってきたので練習再開。
しかし、家で。

レンブラント ファン レイン(1606-1669年)ネーデルラント連邦共和国ライデン生まれ、ネーデルラント連邦共和国アムステルダム没


といえば「夜警」
肖像画家で有名ですが、庶民の生活を描いた絵も残しています。
元々中流階級の製粉業者と、パン屋の娘の息子でした。

結婚した妻

サスキア ファン アイレンブルフ(1612-1642年)フリースラント(オランダ黒海沿岸)の都市レーワルデンの市長の娘で、財産を持っていました。
3人の子どもを産みましたが、幼くして亡くなり、最後に息子ティテゥスを産んだ翌年には亡くなります。

この息子が亡くなるまで財産の半分しか手をつけてはならないという遺書を書いていて、しかもレンブラントが再婚するとその權利は消滅するとなっていました。

彼女の死後、乳母のヘールチェ ディルクスと関係を持ち、サスキアの宝石を与えていますが、結婚話しが持ち上がるや、1650年彼女を感化院に閉じ込めています。

1649年から若い恋人のヘンドリッケ ストッフェルツェ


を囲い、ヘールチェと泥沼になっています。

晩年は豪邸を買ったり、投機を行ったりする上に、肖像画のしごとも減り、破産。
ティテゥスの相続もうまく行かず、
1661年ヘンドリッケとレンブラントの息子のティテゥス


は画廊を起こし、レンブラントを助けようとしましたが、2年後ヘンドリッケは娘を残して亡くなり、
ティテゥスも1668年2月に結婚しますが9月に亡くなります。


「流しの音楽家たち」
1635年アムステルダム国立美術館所蔵
ハーディーガーディーと、多分バグパイプ。

バグパイプ?ってゲルマン系のスコットランドやアイルランドの使うあの楽器?
と思って調べてみたら、レンブラントの故郷ライデンの北フリースラントは8世紀までゲルマン民族の居住する地域で、今もゲルマン系のフリース語という言葉を話す少数民族フリース人が住んでいる土地だということです。

はじめの妻サスキアの故郷。
親子はレンブラントか?
子ともは幼くして亡くなった二人のうちの一人。

フリースラントからライデンまで、やってきた音楽家たち。
バグパイプと

ハーディーガーディー

だけを持って町を周り、何度か演奏しその日やっと暮らしていける。
ほとんどの演奏家の貧しい暮らし。

親子の前で、腰をかがめて演奏するようすにレンブラントのささやかな幸せと温かい眼差しを感じるのです。


千年のグィード

2022-06-09 21:05:21 | 中世
うちの千年木(センネンボク)の花が咲きました。
長いこと咲いたことがなかったのに。

ハワイ、ポリネシア原産。
フラの材料にされています。
地下茎は甘く、食用になり、
それで作ったレイは古代では王族しか身につけることを許されなかったとか

長寿のために千年木と呼ばれているそうです。

千年前というと中世。
ヨーロッパでは、楽譜の記譜法がいろいろ発明された頃です。

グィード ダレッツォ(991-1050年)

おそらくフランス生まれ、イタリア アレッツォあるいはアベヤーノ没

カトリック教会ベネディクト会の修道士で、フェラーラのポンポーザ修道院


で聖歌隊の指導をしていました。

グレゴリオ聖歌を歌うのが困難なメンバーのために、作った記譜法、早く覚えられると評判を得ましたが、他の修道士の反感を買いアレッツォに移動させられます。

アレッツォの大聖堂
で聖歌隊を指導ししながら、「アンティフォナリウム序説」というどんな楽曲を演奏するときにも記譜できるテキストを書きました。

1029年ローマ教皇ヨハネス19世に招かれて御前で持論を披露しました。


彼の業績は、現在の音名ドレミを考案したことです。
聖ヨハネス賛歌のそれぞれの節の初めの言葉をドレミに当てはめました。
Ut queant laxis
Resonare fibri
Mira gestoru
Famuli tuor
Solve Pollut
Labii reatu
Sancte Iohannes

utという初の言葉は、発音しにくいのでフランス以外ではドになりました。

また、「グィードの手」と言って、聖歌隊に音階を教える時の視覚教材も考案しました。









アルス ノヴァのギョーム

2022-01-28 21:09:21 | 中世
寒い日が続きます。

アルス ノヴァは14世紀のフランスで栄えた音楽様式のことです。

シンコペーション(強拍と弱拍のパターンを変えて効果をもたらす技法。)やイソリズム(旋律を反復される一定のリズムに埋め込んで、それを楽曲の基礎とする技法)
など、今では当たり前なリズム技法が発達し、それに伴い記譜法も改良がすすみました。

宗教音楽が多かったですが、世俗的な音楽も発展しました。

そのアルス ノヴァの有名な作曲家
ギョーム ド マショー(1300年頃-1377年)


自然の女神から祝福を受けるマショー
フランス王国シャンパーニュ地方ランス生まれ、ランス没

ボヘミア王ルクセンブルク伯ヨハン(1296-1346年)

の秘書となり、兵とともに、イタリア、ハンガリー、シレジア、プロイセン、ポーランド、リトアニア各地に赴きました。

ヴェルダン、アラス、サンカンタン、ノートルダム大聖堂参事会員の名誉職を得ました。

1346年、百年戦争のクレシーの戦いでヨハンが戦死すると、彼の娘ポンヌにつかえ、1364年フランス国王ノルマンディー公シャルル(フランス王カール5世)、フィリップ豪胆王、ナバラ王カルロス二世、サヴォイア伯アメデーオ6世、ペリー公ジャンなど多くのパトロンに仕えました。

1349年のペストの流行の時に自作品をまとめ、「マショー写本」として残っています。

ノートルダムミサ曲が有名ですが、聖職者にも関わらず多くの世俗的な曲を残しています。