音楽の喜び フルートとともに

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ケーラー学校に行かなかった音楽家

2021-09-30 21:35:12 | ロマン派
露草。
万葉集にも載っている月草というのはこの花のことです。

朝(あした)咲き、夕(ゆふへ)は消(け)ぬる、月草(つきくさ)の、消(け)ぬべき恋も、我れはするかも


ゆっくり行くと全部萎んでいます。

アーネスト ケーラー(1849-1907年)イタリア モデナ生まれロシア サンクトペテルブルク

モデナ公爵のオーケストラで初めてのフルート奏者だった父にフルートを学びました。
少年のエルネストは兄のピアニスト フェルディナンドとイタリア中をコンサートをして周り、名声を博しています。
20歳の時にウィーンに移り、3年後にはサンクトペテルブルクのロシア帝国オペラのオーケストラのメンバーになりました。

彼はフルートのための作曲をメカニカルな教則本、デュエット、ソロ曲を100以上しました。

オペラ、バレエ曲をいくつかと、音楽史的に重要なものはマンドリンのためのメカニカルな教則本。
ロシアに初めて出版されました。

ケーラーの蝶々op30曲集の中の一曲です。



フォーレと子守唄

2021-09-29 22:06:15 | 名曲
山はっかと言うそうです。英名Mosla…ゴジラとは関係ありません。東南アジア原産。
琵琶湖周りに生えていました。はっかなので、葉を1枚もらって揉んでみました。
ミントほどではありませんが薄い香りがしました。

今日のレッスンはフォーレの子守唄。
ガブリエル フォーレ(1845-1924年)
フランス王国パミエ生れ、フランス共和国パリ没
子守唄op16は、若い頃の作品です。
五男一女の末っ子
オルガンに触れて育ち、サン・サーンスにオルガンと作曲法を師事。
フランス国立演劇 音楽学校の教授になり、サン・サーンスと音楽協会の設立に寄与しています。

1883年、彫刻家のエマニュエル フルミエの娘マリーと結婚。
翌年エマニュエル、1889年にはフィリップの二子をもうけます。

フォーレは結婚後も女性関係が何人か続いていました。
ピアノのための組曲「ドリー」(1893-96)は、そのうちの1人エンマ バルダック(ドビュッシーの妻)

エンマ バルダック
の娘エレーヌのために書いています。
子守唄はこの中の一曲の方が有名です。

子守唄op16はヴァイオリンとピアノのために作曲されました。1879-1880年の間に書かれたと見られ、マリーとの子どものために書いたのでは無さそうです。




ライネッケ

2021-09-28 23:08:02 | ロマン派
今日はピアノの坂田さんとアンサンブル。

2曲ほど完璧を目指して録音してみました。
真剣モードも楽しかったです。

カール ライネッケ(1824-1910年)ハンブルク アルトナ生まれ、ドイツ ライプチヒ没

ロマン派、ピアニスト、指揮者。
19歳で北欧にピアノで演奏旅行をしています。

ライプチヒでシューマン、メンデルスゾーンに学んでいます。

22歳でフランツ リストの娘たちにピアノを教え、36歳でライプチヒ ゲヴァントハウス管弦楽団の楽長、音楽院の教授になりました。
1869年にはブラームスの「ドイツレクイエム」を初演しています。

初期にはメンデルスゾーン、ショパン、シューマンの影響を受け、後にブラームスの精緻さや構成力が加わりました。

フルートソナタ「ウンディーネ」は最もよく演奏される作
品。

ジョン ウィリアム
ウォーターハウス

三度の結婚(死別)で9人の子どもがいて、子どものための作品も残しています。

バラード op 288
ライネッケ80代の作品です。


彼岸花?

2021-09-27 22:46:00 | 音楽
琵琶湖のほとりに咲いていた彼岸花。

種では増えず鱗茎で増えるそうです。
球根にはアルカロイドが含まれていて食べたら中毒を起こし死ぬこともあることから、死人花とか墓花、地獄花とか呼ばれています。
もぐらやネズミから畑の植物を守るために、毒のある彼岸花が畦道に植えられてきました。誤食を防ぐために名付けられたのかも。
鱗茎は毒抜きをして飢餓の時に食べられたとも言われています。
曼珠沙華とも言われれいます。
私の記憶は「花さきやま」斎藤隆介作 滝平次郎切り絵1967年岩崎書店
一言も彼岸花という名前は出てきません。

…やさしいことをすると山に1つ花が咲く…

なぜか私の頭の中では彼岸花。色とりどりの彼岸花になっていて

…なんと!
今確かめたら、彼岸花の形もしていません。
いい加減な私の記憶にびっくり。

それはともかく、子どもがする小さなやさしいことに胸がきゅっとなりました。

フォーレの「レクイエム」
Pie Jesu


マンドリンオーケストラ練習

2021-09-26 22:09:05 | 音楽
今日は東大阪市文化創造館


マンドリンオーケストラと合わせ練習でした。

マンドリン

調弦は下線2のGから-D-A-E
第一マンドリン、第二マンドリンがあります。

マンドラ

マンドラ テノーレのことです。
調弦はマンドリンと同じですが、出る音は1オクターブ下です。

マンドロン チェロ
調弦はヘ音記号のC-G-D-A
低音を受持ちます。

これらは復弦と言って、同じ音の弦が2本ずつついていて、ピックで2本ほぼ同時に鳴らします。

マンドリンオーケストラはマンドリン属に加えて、

ギター

コントラバス
今回は
フルートと
曲によって
ピアノが入ります。

樟蔭大学マンドリンソサエティ、お久しぶりです。

懐かしい先輩、後輩、同期生の姿にテンション上がりました。

本番は11/13(土)14:00~
東大阪市文化創造館大ホール



流れよ我が涙ダウランド

2021-09-25 22:22:49 | ルネッサンス
今日はオンライン西宮ギター練習会。
ギター伴奏は諦めて、木管の頭部管でバッハの無伴奏フルートソナタの1楽章、2楽章を吹かせてもらいました。
ギター練習会なのにありがたいです。

バッハ、ピアソラ、ヴァイス、ダウランド、タンスマンバラエティー豊かな練習会になりました。

ジョン ダウランド(1563-1626年)
イギリスのリュート奏者です。
デンマーク王クリスチャン4世

やイングランド王ジェームズ王一世、

リチャード一世

の宮廷リュート奏者になりました。
「涙のジョン・ダウランド」(Jo: dolandi de Lachrimae)と自署し、イタリアでは「不幸なるイングランド人ジョヴァンニ・デュランデ」(イタリア語: Gio. Dulande infoelice Inglese)とも名乗りました

モットーは「人を救う技芸はその主を救うことあたわず」
「運命の女神の祝福を受けざりし者は、ただ憤るか泣きはらすのみ」

ヨーロッパ大陸で流行っていた神秘思想がイギリスに渡った時に憂鬱(メランコリー)闇夜崇拝になりましたが、流行を取り入れ「憂鬱なダウランド」を演出していたという説もあります。

リュート曲や歌との曲を多く書きました。

私はエマ カークビーの歌のCD持っていました。
その後、フィリップ K ディックのSF「流れよ我が涙と警官は言った」を読みました。
現代のダウランド流行の波でした。

流れよ我が涙

流れよ、わが涙、なんじの源から溢れ落ちよ。
とこしえの追放を受けたれば、せめて我に悲嘆を許し給え。
夜の黒き鳥が自らの哀れな汚名をさえずる地、
その地にて我を独り惨めに生きさせ給え。

消え失せよ、むなしき光、二度と輝くなかれ。
いかな夜とて闇の深さに足るものか、
望みを捨てて残りの人生を嘆きに生きる者には。
光が明らかにするのは、ただ恥辱のみ。

わが苦痛が癒えることは決してあるまい。
なぜなら主の慈悲はとうに逃げ去って、
涙と、ため息と、うめきの声が、わが煩わしき日々から、わが煩わしき日々から、
すべての喜びを奪い取ったのだから。

いとも高き幸福の頂きから
わが宿命は投げ捨てられた。
恐れと、哀しみと、苦しみこそが、この身にふさわしき報い、この身にふさわしき報い、
そして我自身が希望するもの。なぜなら「希望」はとうに去ってしまったのだから。

聴け! なんじら影、闇に住まう者どもよ、
今よりのち光を蔑め。
幸いなるかな、幸いなるかな、地獄にありて
このうつし世の悪意を知らぬ者たちは。

メノッティの「電話」

2021-09-24 21:57:20 | 現代
お盆に行けなかった母方の祖母のお墓参りに母と次男と一緒に行きました。

帰りに近くのイオンで働いている姪の顔を見て、ランチのおいしいお店を教えてもらいました。

天婦羅御膳加えて、

明太子食べ放題。
おいしくてお腹いっぱいになりました。
夜までお腹いっぱい。
これで終わらない…まだ、市役所で戸籍謄本取りです。

NTTと請求書を一緒にするために、インターネットサービスの会社に、もう一通戸籍が必要と書類送り返して来ました。
全く納得できない!
NTTの電話権の譲渡という考え方でも前近代的で、我慢ならないのに、インターネットの請求書をNTTと統一してもらうだけに、なぜ生計を1つにしてた配偶者にわざわざ戸籍を提出させるのか?
納得いきません。新たに別のプロバイダーと契約した方がいいのじゃないか?

ジャン かルロ メノッティ(1911-2007年)

イタリアの基礎自治体カデリアーノ=ヴィコナーゴ生まれ、モナコ モンテカルロ没

トスカニーニに推薦されてアメリカのカーティス音楽院に進学。

サミュエル バーバー(1910-1981年)と

知り合い、同性愛関係を30年続け、オペラの台本を何作か提供しています。

また、バーバーの「アントニーとクレオパトラ」の改訂、上演も行っています。
オペラを何作か、ラジオオペラのための作品、バレエ音楽、合唱曲、ポップスなど多岐に渡って作品を書いています。

オペラ「電話」(1947年)は、一幕もののオペラです。
ルーシーのアパートにやってきたベンはプロポーズしようと、機会をうかがっています。
話しを切りだそうとすると、電話がなって、ルーシーは電話相手と長話し。
何度も会話を中断され、ベンはついに電話線を切ろうとハサミを持ち出します。
切ろうとした瞬間、電話が鳴り思いとどまります。
ルーシーはまたも長話し。
諦めたベンはルーシーの部屋を去ります。
外に出た彼は、最後の手段と公衆電話からルーシーに電話をかけます。
ようやく、会話の機会を得たベンはルーシーにプロポーズし、ルーシーは承諾します。

このもどかしくて繋がらない感じと今も一ミリも変わってないんじゃないかしら?



エドガー アラン ポーと音楽

2021-09-23 21:51:49 | 近代
琵琶湖湖畔に咲いていたイモカタバミ。
ピンクが多いですが、白からピンクまでグラデーションであります。

同じところに咲いていましたが、こちらはピンクよりのピンク。


エドガー アラン ポー(1809-1849年)

はボストンに生まれた小説家ですが、音楽に深い関係があります。

「アッシャー家の崩壊」の中で、神経に触るのでハープくらいしか我慢できない。と書いているのを覚えています。

ドビュッシー(1862-1918年)

がポーの「アッシャー家の崩壊」「鐘楼の悪魔」のオペラ製作を目論んでいました。
「鐘楼の悪魔」は完成はしませんでしたが、三ページのスケッチが残っています。

ドビュッシーが書きあぐねている間にフローラン シュミット(1870-1958年)が「交響的エチュード幽霊宮殿」
アンドレ カプレ(1878-1925年)が弦楽オーケストラとハープのための「赤死病の仮面」を書いています。

結局、1場と2場の途中まで未完に終わっています。
後半をジュアン アジェンド プリンやロバート オーレッジが補筆してドビュッシーの死後に出版しています。

他にも
アンリエット ルニエ(1875-1956年)


は女性で音楽家として成功した初めての人でドビュッシーの「神聖な舞曲と世俗的な舞曲」の初演者ですが、彼女が1904年、ポーの「告げ口心臓」を元に「幻想的バラード」を書いています。


お茶の精

2021-09-22 22:37:06 | ロマン派
丸に十字の抹茶ゼリー。
妹と京都に行った時のお土産。
甘さ控えめ、抹茶の香りがおいしい逸品でした。

ピョートル イリイチ チャイコフスキー(1840-1893年)

の「くるみ割り人形」は1892年チャイコフスキーの死の前年、マリンスキー劇場で上演するために作られました。



三大バレエの作品のトップ3は全てチャイコフスキーの作品です。
「白鳥の湖」
「眠りの森の美女」
「くるみ割り人形」

これはロシアにおけるバレエの隆盛と関係しています。

また、「くるみ割り人形」上演はヨーロッパの各国におけるクリスマス行事の1つとなっています。

ホフマンの原作をアレクサンドル デュマが再編。プティパが振り付けをすると言うように大きなプロジェクトでした。

物語の中で少女クララ(ホフマンの原作ではマリー)がいたずらっ子の兄フリッツとネズミの軍隊からくるみ割り人形を守ります。
すると、魔法がとけて、くるみ割り人形はお菓子の国の王子になります。
クララはお菓子の国に招待され、そこでチョコレートの精、コーヒーの精、お茶の精、キャンディの精たちが次々と踊りを披露します。

お茶の精の踊りは当時中国から交易で大量に入って来たお茶のイメージからか、中国の踊りとされています。




幻想交響楽

2021-09-21 22:57:42 | ロマン派
奥琵琶湖の湖畔に流木が落ちていました。
ねじれ具合がいい感じ。

何かの骨の化石のように見えて来ます。

エクトール ベルリオーズ(1803-1869年)


の「幻想交響楽」は1830年、26歳の時の作品です。
シェークスピア劇「ハムレット」でオフェーリアを演じた女優ハリエット スミッソン(1800-1854年)
に恋をして何通も手紙を書きますが、ハリエットにとってはファンレターに過ぎず、フランスを離れてしまいます。

ハリエット スミッソン1832年

落胆したベルリオーズは絶望し、殺意まで抱きます。彼女の気を引くためにこの恋を主題にしてこの曲を書きました。

しかし、実はこの曲はかなり長く推敲され、その間にピアニストのマリー モーク(1811-1875年)と恋愛し結婚直前まで行っています。

しかし、裕福なピアノメーカーの資産家プレイエルと直前に結婚してしまったのです。
この時、結婚相手とモナーク一家を殺そうとピストルと、自殺用の毒薬まで準備して馬車に乗り込みますが、途中で我にかえって何もせずにすみました。

1830年、「幻想交響楽」を発表。
1832年ハリエットが偶然聴きに来て、主人公が自分であることに気づき涙します。
交際が始まり1833年結婚。
翌年息子のルイが生まれます。
しかし、1840年頃から別居し、54年に彼女が亡くなると別の女性と再婚しています。
幻想交響楽は5楽章からなります。
第1楽章:「夢、情熱(Rêveries, Passions)」
第2楽章:「舞踏会(Un bal)」
第3楽章:「野の風景(Scène aux champs)」
第4楽章:「断頭台への行進(Marche au supplice)」
第5楽章:「魔女の夜宴の夢(Songe d'une nuit du Sabbat)」

若い芸術家がアヘン飲み服毒自殺をはかるが死にきれず、幻想を見ます。
愛する人への情熱、嫉妬に苦しみと宗教的なものからの救いを求めたりするも、その人を舞踏会で見かけ、また激情にのみ込まれます。
そして嫉妬のあまりに相手を殺してしまいます。
死刑を宣告され、断頭台に登ります。
最後に浮かぶのはやはり恋人の姿です。

第5楽章は死後の世界。
サバトと呼ばれる饗宴。愛する人は魔女となって現れ、グロテスクな踊りが始まります。
狂宴のなか、グレゴリオ聖歌の怒りの日の旋律が鳴り響き、魔女の踊りと融合します。