音楽の喜び フルートとともに

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ボールアクシデント

2014-05-30 21:49:05 | 子ども

蘭の花が満開・・・早すぎるし、去年より小ぶりです。サンルームに入れて水を毎日やっていたら、ちょっと勘違いしたかも。何か肥料をやったほうがいいのかな?


一昨日の夜、家に帰ってきたらすぐに 「ピンポン。」とインターホンが鳴ったので、出て行くと近所の一年生の子どもを持つお母さんが二人。深刻な顔で立っていました。

「すみません。」
「うちの子たちが、今日昼間、お宅の前でサッカーをしてキックしたらボールがあたってしまってこれ。」
それはうちの表札で、名前にのタイルが割れてしまっています。
「本当にごめんなさい。」
「弁償させてください。」
「子どもたちは、明日学校から帰ったら謝らせにきますので。」と口々におっしゃるのです。
「弁償はいりません。ボンドでくっつけたら治りますから。」
「いや、そんな。」
「大丈夫、大丈夫。」
「本当にごめんなさい。明日、来たら怒ったって下さい。」

うーん。怒るのかぁ。
うちの子も、小さな時近所のガレージの屋根にスーパーボールを投げて穴を開けたことがあったっけ。
謝りに行って、屋根を弁償すると言ったら断られて、でもどうしても気になるから夫とホームセンターに行って息子と一緒に屋根を修理させてもらった。

しばらく公園でしかボールで遊ばなかった。でも、本当は公園もボールは禁止。
もっとボールで遊んでもよかったのに、ほとんど虫取り、成長するとゲームばっかり。

大人になってからバッティングセンターに行ったり、社会人の野球チームで遊んだり、もっとやりたかったのかな。
のびのび遊べる場所ってあるのかな。
「いつもうるさくしてるのに、今度もまたごめんなさい。」
「いえいえ、こどもの声がしないところなんて、暗くて嫌ですよ。」

来たらどんな顔したらいいんだろう?と思っていたら
次の日、こどもが2人で来て、
男の子が「ごめんなさい。」と言ったかと思うと「やった、一番に謝った!」と指を立てて得意顔。考える間もありません。すると、その子のお母さんが「そんなんダメ。ちゃんと謝りなさい!」
「こめんなさい。」「笑わんと!」
「ごめんなさい。」「はい、ありがとう。」

次に女の子がこちらに向いたので、「どうしたの?」というと、
「ボールを名前にあてて壊してごめんなさい。」
「謝りにくてくれてありがとう。今度から気をつけてね。」
「はい。」

久しぶりにちいさな子どもと話せて、楽しかった。一緒に表札を直そうと言えばよかったかな。また、何か起きないかな?






古いドレスリフォームします。

2014-05-29 21:04:38 | Weblog

今日は、Mさん、Gさんとうちで手作りディ。
以前Mさんが作ってくれた地味目な私のドレスを、ちょっと変身させようというのです。

天王寺ハルカス前のABCクラフトに買い出しに行ったのは、そのためです。
Gさんが胸にふわふわリボンをうまく形にして縫い付けて、


Mさんがレモン色のサテンの布に接着芯をつけ、を金レースの布でくるんでリボンとベルトをつくり、残った金レースの布を輪にしてゴムを通し、裾には金レースのテープを縫い付け始末し、着け外しのできるオーバードレスができました。


一人でもできないことはないでしょうが、二人に相談したら、絶対思っていた以上のいいものができます。
それに、一緒にああでもない、こうでもない。手を動かしながら、話を聞いてもらったり、聴いたりして過ごす時間が本当に楽しいです。

他にも、腕を出すのが恥ずかしくなってきた私のために、フルートを吹くために手を上げても大丈夫なスカーフを考案、製作中。みんなも欲しいでしょう?

それから、ちょっと惜しいドレスのベルトとリボンを外し、新しいベルトと、コサージュを考案中。
面白くってワクワクしてきます。

創造する喜びは音楽も、手作りも同じです。共同作業は楽しい!


ジュール・ドゥメルスマン

2014-05-28 22:48:17 | ロマン派

マイアベーアを書いたら、ドゥメルスマンについて書かなくてはなりません。

ドゥメルスマン Jules Demerssemanは、フルート奏者とサックス奏者にとってはとても大切な作曲家ですが、他の音楽家にはあまり知られていません。

1833年1月9日フランス北部のHondschooに生まれました。44年にパリ王立音楽院に11歳で入学し、ソルフェージュをAlexandre Tariot、フルートを Jean-Louis Tulouに、和声をCouletと、対位法とフーガをAimé Ambroise Leborneに学んでいます。入学の翌年、ソルフェージュ力について評価され、フルートで一等賞を取っています。
1852年、対位法とフーガでローマ賞をとっています。

彼のフルーティストとしての活躍は、1856年パリで始まりました。
ライヒャは、書評に「ドゥメルスマンより完璧に演奏し、楽器で歌う演奏を、聞いたことがない。」
フェテは「彼の演奏は、光り輝き、非常に明晰で洗練されていた。」と書いています。
もし、彼が1866年12月に、33歳の若さで亡くならなければ、よく知られる作曲家に必ずなっていたはずです。

ドゥメルスマンはパリでよく知られたフルートの名手で、「フルートのパガニーニ」とか、「フルートのサラサーテ」とニックネームがついていました。
しかし、パガニーニの活躍は演奏家に限られていましたが、ドゥメルスマンは光輝く演奏家であるだけでなく、作曲家でもあったのです。

フルーティストとしてのドゥメルスマンの才能は、Edward Blakeman著「フルートの天才」の中でタファネルが「ドゥメルスマンはこのように演奏した。」「ドゥメルスマンはこうだった。」「ドゥメルスマンは・・・。」と何度も演奏のお手本として述べていたと書いています。

しかし、ドゥメルスマンは、パリ音楽院の教授には考慮されませんでした。それは、彼の教授トゥルーの影響を受け、新しく開発されたベーム式フルートを使わず、古い形のトラベルソを使い続けたからです。

そのことは彼の人生に大きな影響を与え、早すぎる死を招いたように思われます。
それは一方、彼の熱い思いと、強固な性格を表していると感じさせます。

作曲家としてのドゥメルスマンは早く亡くなりましたが、なくなるまでに、多くの作曲をしました。殆どは、彼の楽器フルートとピアノのために、いくつかのオペレッタ、フルートソナタ、そしてサックスのためのものなど。

彼の多くの作品はパガニーニのように、彼の得意のフルートのテクニックを見せるためのものです。彼は、特別な贈り物をする作曲家でした。不思議な魅力に満ちたメロディは、彼の正確なテクニックが可能にする動きの喜びに満ちています。

La Princesse Kaïkaは、1859年に初めて演奏された彼のオペレッタで小さな劇場the Folies-Nouvellesで上演されましたが、すぐにthe Paris Casinoで、演奏されました。(その中でショパンの主題による幻想曲が演奏されました。)また、その中の歌が、民衆に受け入れられ歌われました。

そして音楽史上、最も重要なものはサックスのための作曲です。
ドゥメルスマンはAdolphe Sax (1814-1894)と友人で、彼が新しい楽器サックスを考案し、歴史上、ドゥメルスマンがその楽器を使って作曲した初めの作曲家となったのです。

参照 Luc Vertommen




ジャコモ・マイアベーア

2014-05-27 20:22:44 | 古典

忘れられた作曲家、
ジャコモ・マイアベーアGiacomo Meyerbeer (1771~1864年)という作曲家がここ何年か気になっていました。

音楽史にほとんど載らないいくつかオペラを書いたらしく、リストがその主題に基づいたファンタジーを書いていたり、他にもいろいろな作曲家が書いていてフルート界でもドゥメルスマンが巡礼者Le propheteのファンタジーを書いています。
そのテーマがいいです。

それで調べてみたら、ユダヤ系ドイツ人で、最も成功したオペラ作曲家だそうです。
パリで成功し、1832年にはプロイセン教会の音楽監督を1843年からはプロイセンゼネラル音楽監督を務め、ドイツ全土に最も影響力のある作曲家だったそうです。ピアノの名手でもあり、12歳で音楽院を卒業しています。

ロッシーニのオペラに感銘を受けオペラ作曲家になり、24歳ですでに成功していた彼の製作のサポートを生涯行いました。マイアベーアの死を知った時、ロッシーニは気絶したそうです。

たくさんのオペラを生前に成功させた彼の音楽は、声のためのもので、イタリアオペラの流れを汲み、しかし後半生にはドイツ的なオーケストレーションとの融合を果たし技術的にも洗練されたものになっていたそうです。

劇場の演出にも革新的で当時流行りだしていたスケートを使ったり、火事を表現するために電気照明を使ったりしていて、ワーグナーがそこで試されたことを楽劇で使用しているなど影響が認められます。

ドボルザーク、トマ、マスネ、チャイコフスキー、リムスキー・コルサコフなど影響を受けた作曲家が大勢います。

それにも関わらず死後、忘れられたのは、ワーグナーの人種差別に結びついた批評、排斥運動の責任によるところが大きいと思われます。
当時音楽会を席巻していた反ユダヤ的な風潮は凄まじく、シューマンも手厳しい批評を書いています。

しかし、最近になって当時の批評と、音楽的成果や影響は分けて考える人も増えてきて、ファンクラブが出来るなど、復活の兆しも見えてきています。


I先生のレッスンとバラ園

2014-05-26 21:58:46 | 音楽

日曜日、新大阪でI先生のレッスンを受講しました。
いつものドルチェ楽器の教室では、日程調整がどうしてもうまくいかず、今回はムラマツ楽器での教室でのレッスンです。
I先生には、昨年の4月から、月一回、基本奏法をお願いしています。
以来、I先生から、自分の音の聴き方の具体的なものさしのようなものを少しずつ学んでいます。

フルート演奏の上で「質」とはなにか?ということを数年来考え続けてきましたが、まだまだ道半ばです。
しかし、真っ暗闇で勘をたよりに、練習していたような、日々から、少しずつ道程のようなものが見えてきた気がします。
何より、私の中では昨年の演奏と、今の演奏では、まるで別人のような気がしています。
人って、いくつになっても変われるものなんですね。

帰り道、中の島に寄ったらバラ園が満開でした。週末まで持つかな?人出もいっぱい。でも、平日に動ける人だったら、今日、明日お勧めです。入場無料です。
仕立ててあったのは、うちのバラと同じピエール・ド・ロンサール


フランシスブレーズとベンティベス。


シンシアグローブにグリスビー’89


クィーンスウェーデンとアストリッドスペースストライプ


ユーロピアーナとマダムフィガロ


ああ、香りもお届けしたい。


ストーンヘンジ、バース、レイコック

2014-05-23 23:44:48 | 紀行

ロンドン滞在二日目はバス旅行を申し込んでいました。
200キロ位走って、世界遺産ストーンヘンジを見てきました。この光景が有名ですが、ここだけでなく、周辺何キロにも渡って盛土のような遺跡が点在しています。誰が建てたのか、何のためなのか?全ては謎のなかです。但し寒すぎ、ふきっさらしですぐにレストハウスで、ホットチョコレートを飲みました。

イギリスは長くローマに支配されていました。郊外に行くとローマ人の支配の痕跡が残っています。ここは、バース。ローマの兵士の保養地で温泉施設がローマ人によって整備されています。しかし、ローマの支配が終わったあと、入浴の習慣のないイギリス人に20世紀に入るまで放置されていたそうです。ここは入浴禁止ですが、手をつけてみたら温かいお湯でした。温泉として復活しているところもあるそうです。次来たら、入浴したい。


コッツウォルズというのは、地名ではなく、その辺り周辺の地方全体を言うそうです。郊外の田舎町。こんな景色の中に、小さな町がちょこっと存在しています。



その街の一つレイコック。1800年以降に建てられた家は一軒もない街の女子修道院レイコックアビーも見学してきました。ハリーポッターのロケのあったところです。


お庭も広く猫にも会いました。この広いグリーンも庭の一部。


ナショナルトラストでお金を寄付したり、ボランティアしたりして、イギリス人はこういう景色を守っています。

なんでも新しい物を取り入れて、柔軟に対応し、機能的で合理的なことを良しとされる日本の価値とは、少し違うところに価値を見出しています。

ロンドンでも、永遠と続く古い建築群。古き良きものを今にどう活用するか?というところに知恵を絞って日々暮らしているロンドンの人々。

しかし、閉鎖的なのではなく、大勢の移民を受け入れ、オフィス街の駅のエスカレーターを見るとあらゆるカラーの人種が乗っていて、みんな一緒に働いていることが一目瞭然です。

善し悪しはともかく、とにかく美しい。



ご苦労様会

2014-05-23 00:33:21 | Weblog

今日は、ピアノのKさん、Sさんとご苦労様会。
4月のコンサートの打上げ。コンサートがあったのは一ヶ月前、二人が忙しいので今になってしまいました。

くずはモールのmarioで、イタリア料理の食べ放題。1480円。安い。
焼きたてのピザやら、ドルチェのランチでした。

ピアニスト探してるの。いい人がいるかもしれない。
ちょっとコンサートしたいんだけれど、いいところない?
とか、仕事の情報交換に、子どもたちのことなどなど、二人は少し先輩なので、私がいろいろ聞いてもらっているのですが。

お腹いっぱいになったら、ウィンドウショッピング。
・・・と思ったら、「行きつけの店ってここじゃないの?」って、そこは、行ったら買っちゃう。

3人で入ったら、あらら、二人共「安いやん。」そう私は、安いとこしか行きません。

二人で二、三着ずつ買ってしまいました。
見ている間に今日は買わないはずの、私も・・・。だめだよ~。

三割引だったし、まあいいか。仕方ないなぁ。

良い、息抜きになりました。


うちの庭

2014-05-21 21:21:02 | Weblog

イギリスの報告は終わっていませんが、その前に大切なこと書いておくのを忘れていました。

頼れるご近所さんがいるのは、本当に心強い。
イギリスに行っている間、庭の花をどうするか?が大問題。自動散水機なるものを買ってきて設置したのはいいけれど、鉢が多すぎて水がかかっていなかったり、うまく水がやれていなかったら、お花が死んでしまいます。

ご近所のGさん、Mさんに相談して間で見に来てもらうようにお願いしました。

帰ってきたら、つぼみだった薔薇、ピエール・ド・ロンサールが、満開になっていました。
本当にありがたいです。
それに、帰ってきたら「お帰り。」を言ってくれる人がいるのはやっぱり幸せです。

帰ってきたら仕事だったので、まだ、お土産を渡せていないです(^^;)申し訳ない。
これから、回るからね。

どんなゴージャスな庭より、やっぱり、うちの庭が一番。一人大撮影会。二人が守ってくれた庭の薔薇です。


チャイコフスキーガラコンサート

2014-05-20 23:18:08 | コンサート

10日の夜は、この旅行のハイライト。地下鉄サウスケンジントン駅で降りて、しばらく行くとロイヤル音楽大学。その向かいにロイヤルアルバーとホール。

夜7時開演までに、二階のレストラン「ヴェルディ」でお食事。ここはおいしかった・・・但し、イギリス料理ではなくて、イタリアン。

長い回廊で、開演までしばらくお待ちください。

世界中から観光客が集まってきていて、スタッフもネット予約のさばき方もなれています。
チケットプリントアウトが間違っていましたが、さっさと、パソコン検索して出してくれました。

そして、来ました。これがロイヤルアルバートホールのステージです。


指揮者はポーランドの、グルジェエゴルス・ノヴァーク。オーケストラはやっぱりロイヤルフィル。
プログラムは全て、チャイコフスキー。これもご縁でしょうか?昨年やったくるみ割り人形を思い出します。 
一曲目はイタリア奇想曲。
ボーンと鳴った初めのユーフォニウムの音の響が全然違う。
ホールが響いている。隅々まで響きながら伝わってくるっていう感じ。弦も素晴らしい。

2曲目はピアノコンチェルト第一番。
ピアニストは、ピーター・ドナヒュー。ベテラン、明るくしなやかな、チャイコフスキー。

エフゲニー・オネーギンのポロネーズ。弦も良く鳴ります。
そして、くるみ割り人形の組曲第一番。
フルートも大活躍。正確で真面目だけれど、明るくしなやか。

ラストは大サービスの1812年。

地元の子どもたちの選抜メンバーが入場。音が増えました。
4階の左右から大砲がドーン、ドーンとぶっぱなされ、ナポレオンの軍隊を駆逐したあとに、天井から、花火が降ってきて。観客総立ち。拍手喝采、超ゴージャスでした。

こんなこと、日本でもやってみたい。


ポートベロー路上市とビクトリア&アルバート美術館

2014-05-19 23:35:25 | 紀行

ロンドンはなんでも高い。ノーフォークプラザホテルは、エレベーターが故障して使えない、4階までトランクを階段で運ぶのは大変でした。シャワーはぬるいし、水圧が弱くなかなか洗えない。1800年代に建てられた古い建物を騙し騙し使っているので、窓枠は木ですきま風が吹き込み、階段の天井はところどころ漆喰が剥がれて落ちています。

その上、バイキングの朝食は温かいものは、別料金。これで、一泊20000円。高すぎ!
「消費税20%だからね。」と夫。
社会保障がしっかししている社会ってこういうものなんだ。

イギリスの人たちから伝わってくるのは、安定。
通勤電車や、混み合ったホームでも、譲り合い、少し触れただけでも
「excuse me」「sorry」「thank you」
日本で感じるイライラや、我先にという気分は伝わってきませんでした。

ポートベローの路上市には、アンティークの銀食器や、家具がたくさん売られていました。
たくさん店の集まった怪しい建物の中でも、全く危険は感じませんでした。
但しものは高くて買えませんでしたが…。いちご、ハム。チーズなんかは安かったけど。もって帰れないものね。

これは、アンティークの体重計。文字盤が反対で下の鏡に映っているのを見て測ります。なんだか使ってみたい気がムクムクと沸き上がってきましたが、値段を見るとやっぱりふみきれませんでした。


芸人は、クイーンの曲に当て振りをつけていました。かなりなお年、そううまくもなかったけれど、楽しい気分で、観光客には受けていました。

午後から、ヴィクトリア&アルバート美術館。無料。ローマの遺跡がゴロゴロ置いてあり、広大。

見たかった英国の画家ロセッティと、ターナーの絵は少しだけ、大英帝国の略奪の歴史でもあります。

ここにあるから、守られたものもあるのかもしれませんが。モリスの設計した部屋は、レストランとして、今も現役。こういうところがイギリス。まあ、東大寺のお堂をレストランとして使うような感じかな?まあ、そこまで古くはないですが。
数ある素晴らしい展示品の中で、この聖母子が心に残りました。