音楽の喜び フルートとともに

フルート教室  久米素子 松井山手駅 牧野駅 090-9702-8163 motokofl@ezweb.ne.jp

猫好きの自然派

2023-06-30 21:00:00 | 現代
三木市に出張した夫が、いつものペンギンのいるケーキ屋さんに寄って

ケーキを買ってきてくれました。

流行りの?ちょっと過ぎたかな?
ピスタチオケーキ

6月26日は次男の誕生日でした。
もう大人なのでハッピーバースデーの歌も「はずかしい…。」って言って憮然とした顔です。

私は大人でも楽しんじゃう派ですが。

ペンギンは、ヨーロッパでは大航海時代(15世紀半ば〜17世紀半ば)になって知られるようになりました。
油や肉として捕獲されました。
商業捕鯨船でペットのような扱いを受け、水族館などで展示されるようになりました。

2006年アメリカで「And Tango make threes」そしてタンゴは3つを作るという絵本が出版されると物議を醸します。
ピーター パーネル、ジャスティン リチャードソン著、ヘンリー コール画
タンゴというメスのペンギンが子育てをオスのカップルに託すという話で、同性愛に関して厳しい世論の中、禁止されたり、数々の賞を受賞するなどしてきました。

実際のペンギンは、オス同士でカップルになり、岩の上に座って卵を育てることもあり、珍しくないそうです。

動物園でそんなオスたちに、育てられない卵を託すと、世話をし、羽化させます。
自然界では他の動物にもこういうことはあり、珍しくないそうです。

「ペンギンの行進」はジェラール ムニエ(1928ー)フランス パリ生まれ
の、作品で子どものための「不思議な動物たち」中の一曲です。1984年

ムニエは
ルシアン ブルムザーにピアノをジャン ガロンとアンリ シャランに和声と対位法とフーガを学び、指揮法をルイ フルスティエに学びました。

あらゆる形式の芸術に敏感で、自然を愛し、動物好きです。特に秘密を共有している猫の良き友人です。

教育者、ピアニスト、オーヴェルヴィリエラクルヌーヴ音楽院の院長で指揮者です。
そして作曲家です。

彼は流派に依存せず、彼の見たもの、感じたものを直接表現することに留意しています。
「オンブル ド オンブル(影の影)」は海洋汚染による鳥の犠牲者に捧げられたピアノのためのソナタで、管楽器と打楽器とナレーターのための作品です。
これは人類の進化に対する自然の苦悩と絶望の叫びです。(ムニエのホームページより)
ペンギンの行進はそんなムニエの自然への愛が作らせた曲です。
しかし、簡単すぎるのか、子どもたちの演奏しかアップしていませんでした。
子どもたちは意志は確認できないので投稿はやめておきます。
変わりにムニエのピアノ曲「Le poisson Rouge melancholique」
哀しき赤い魚


弦楽四重奏曲「菊」オペラに流用

2023-06-29 21:00:00 | ロマン派
実家に母が活けたポンポンマム。

丸くてかわいい。

巨大レモンのポンデローザの実もできていました。まだ赤ちゃん。3センチ位。

ジャコモ・プッチーニ(1858-1924年)トスカーナ大公国ルッカ生まれ、ベルギー ブリュセル没

ルッカで長く続く宗教音楽家の家系に生まれました。
父ミケーレは5歳の時に亡くなり、叔父フォルトゥナート マージより音楽教育を受けます。
教会オルガニストの道を歩み始めますが、ヴェルディの「アイーダ」を見てオペラを志します。

1880年、ミラノ音楽院に入学、アルミカレ ポンキエッリ、アントニオ バッジーニに師事します。
1882年ソンゾーニ出版社の作曲コンクールに「妖精ヴィッリ」を出しますが入賞しませんでした。
しかし、この作品は1884年舞台化され、それを見た楽譜出版のリコルディ
の社長ジュリオ リコルディにより評価され、作品を委嘱されるようになります。
1889年、オペラ「エドガール」
を完成させ上演するも不評で、リコルディからも要請され改訂しています。

プッチーニも作品に満足できず翌年には、オペラ「マノン・レスコー」

を書き始めています。
このオペラはプッチーニの出世作になりました。

1890年1月、彼のパトロンの1人だったアオスタ公アメーデオ1世

1870-73年にはスペイン王でもありましたが、政治的混乱に自ら退位し、アオスタに戻りました。2度目の結婚はナポレオンの末弟の孫娘で姉の娘マリー レティシア ボナバルトと結婚しています。享年43歳病没
が亡くなり、急遽追悼のために弦楽四重奏曲「菊」を書きます。
プッチーニの数少ない弦楽四重奏曲です。
この曲は、一晩で書き上げたと言われています。

そして、この中の主題の一つが「マノン・レスコー」で使われています。

弦楽四重奏曲「菊」

「マノン・レスコー」
「君の重みをすべてかけ給え」




フルート奏者で、作曲家

2023-06-28 21:00:00 | ロマン派
月曜日はヴィオラの金重さんとピアノの坂田さんとトリオ合わせでした。

C Ph Em Bachのカルテット Wq95と言う名前のトリオ。

それと、ようやく見つけたフルート、ヴィオラ、ピアノの曲の初見大会。
ヴィオラ、ピアノという編成のカスパー クンマーのトリオop75
モーツァルトのクラリネット、ヴィオラ、ピアノのクラリネットのトリオK498。
クラリネットのヴァイオリン編曲版をフルートで吹いてみました。
金重さんにフルートを吹いてもらって、ピアノ伴奏に、カルメンの間奏曲とバッハのパディヌリとポロネーズに、バスフルートを入れて吹くのも試しました。 聴き合い会でフルート演奏に入れるので。

カスパー クンマー(1795-1810年)チューリンゲン州エルラウ(サンクトキリアン)生まれ、コーブルク没


フルート奏者、作曲家、フルート教授でした。
独学で、フルート、ヴァイオリン、ホルン、トランペット、クラリネット、バスーン、オーボエ、チェロ、ダブルバスーンを学びました。

ノイマイスターから、1年間指導を受けました。

その後、シュロイジンゲンのカントル(音楽監督)ゴットロープ・アブラハム・シュテプスから、音楽理論を学びました。
1835年からサクセ コーブルク卿の教会のフルート奏者として務めます。
1854年には同オーケストラの指揮を引継ぎます。

出版された曲は150曲、そのうちのほとんどはフルートの曲です。歌曲も含まれています。

また、教育者として多くの有名な音楽家を育てました。

フルート二重奏、フルート三重奏の作品が有名です。
フルートトリオop.53


きゅうり封じと改訂の波

2023-06-27 21:00:00 | ロマン派
うちの夏野菜初収穫!
きゅうりとトマト。
北海道出張のお土産、白アスパラガスのソテー。

甘辛いふきのとう味噌をつけて

トマトも美味しかった!
旬のものを作って食べられて、しあわせ〜!

きゅうりは、インド、ヒマラヤ山脈原産紀元前10世紀には食べられていたそうです。
メソポタミアで紀元前4000年、古代ギリシア、古代エジプトで栽培もされていました。6世紀には中国で、9世紀にフランス、14世紀にはイギリス、16世紀にはドイツで食べられていたそうです。
日本は800年代遣唐使によってもたらされたそうです。


空海がきゅうり封じを行いました。
加持祈祷を行い、水分の多いきゅうりを食べて涼しく夏を乗り切るという意味があったそうです。

高野山、きゅうり封じ。きゅうりが供えられています。

アントン ブルックナー(1824-1896年)オーストリア帝国アンスフェルデン生まれ、オーストリア=ハンガリー帝国ウィーン没
1880年頃まで、ブルックナーは無給でウィーン大学で音楽理論の講義を行っていました。

「交響曲第4番」1875年初演の成功。
「弦楽五重奏曲」1879年「交響曲第6番」1881年「テ・デウム」1881年「交響曲第7番」1883年を初演。
特に「テ・デウム」「交響曲第7番」が成功します。
「交響曲作家」として名声が高まり、ウィーン大学にブルックナーと敵対していたエドゥアルト゚ ハンスリック

が働きかけ、有給の職に格上げされます。他にも名誉協会の会員の仕事などで年2000グルテンの収入を得るようになります。

そのため1884年から作曲に集中できるようになり
「交響曲第8番」を書くようになります。
1887年に完成し、尊敬する指揮者ヘルマン・レーヴィ

に見せます。
レーヴィは第7番のミュンヘン初演を成功させ、バイエルン国王ルートヴィヒ2世に献呈すると言うブルックナーの夢を実現させたからでした。

「私の芸術上の父」と呼ぶレーヴィからは、「演奏不可能だ」と否定的な回答が来ます。
弟子たちも理解できず、落胆したブルックナーは「交響曲第8番」を改定します。

第二次改定の波が来て、「交響曲第8番」だけでなく、交響曲第1.2.3.4番も改訂します。

1889年3月4日から5月8日第3楽章が改訂され、続いて第4楽章改訂が7月31日まで行われました。
第2楽章スケルツォが改訂され、第1楽章は1890年3月10日に終了しました。

この第二稿が現在はほぼ使用されています

オーストリア皇帝フランツ ヨーゼフ1世


に献呈され、楽譜出版の費用1500グルテンが皇帝により支払われました。
1892年初演はハンス・リヒター指揮、ウィーンフィルハーモニー管弦楽団の定期演奏会で行われました。

この時ウィーン楽友協会のホール
にはブラームスやフーゴー・ヴォルフなどの著名な音楽家が聴衆として訪れました。
特に第2、第3楽章が好評でした。

全80分。
なので、第3楽章だけ、暑い時に聴くと涼しい気分なるそうですよ。
きゅうり封じ…チャンチャン!?



ヘリオトロープ ブーケ

2023-06-26 21:00:00 | 近代
メキシコハナヤナギも盛りを過ぎてきました。

クフェア ヒソビフォリアともいいます。
ヘリオトロープ

ペルー原産、1757年ヨーロッパにもたらされます。
1759年リンネが記録を残しています。
匂い紫、香水草ともいいます。
フランス語で「恋の花」
いい香りがして精油がとられていたこともあります。
先月、うちの庭に仲間入りしました。
まだ、元気です。

スコット ジョプリン(1868-1917年)アメリカ合衆国テキサス州生まれ、アメリカ合衆国ニューヨーク没

元黒人奴隷の父、アフリカ系アメリカ人で生まれつき自由人の母のもとに生まれます。
バンジョーを与えると器用にひきこなし、母は生活費を削ってピアノを買い与えました。
ジュリアス ヴァイスが無料で音楽理論を教えています。彼とは終生手紙のやり取りをしていました。

ピアノは独学でダンス音楽の演奏家になりました。

1882年ミシシッピ川流域のサロン「メープルリーフサロン」で演奏します。音楽出版のジョン スタークに出会います。

1890年頃にはセントルイスに移り住み、サロンや売春宿で演奏しました。シカゴのスポーツエリアで演奏したりしました。1894年、ミズーリ州セダリヤへ移り、テキサスメドレーカルテットを編成しました。 

1900年セントルイスに移り住みジョン スタークと親交を深めました。
スタークは彼の作品「メープルリーフラグ」を発売し、大成功を収めました。この頃ベルと結婚します。

1903年ベル

との間に生まれたこどもが亡くなり、離婚します。

1904年、20歳のフレディ アレクサンダー

と結婚します。しかし、彼女は結婚して10ヶ月で亡くなります。

その年ライフ アフター フレディという曲を書いています。

1905年シカゴに短期滞在中友人のルイス ショーヴィンとの共作で作られたラグタイムが「ヘリオトロープ ブーケ」です。

ルイス ショーヴィン(1881-1908年)ミズーリ州セントルイス生まれ、イリノイ州シカゴ没

彼は27歳で梅毒で亡くなったため3曲しか曲を残していませんが、彼は並外れたピアノ演奏家、作曲家として同僚たちに記憶されています。

この時期、ジョプリンは作曲家としては飛躍しましたが私生活ではつらい日々でした。


出版社と決裂。ピアノ五重奏曲

2023-06-25 21:00:00 | 国民楽派
金曜日は長居駅近くのヴァイオリン木村直子先生、チェロ木村政雄先生のレッスン室で、合奏練習でした。
ヴィオラ金重美代さんのお誘いです。

8月6日(日)の発表会のための練習です。
曲はモーツァルトのフルート四重奏K285 Ddur。
牧野からピアノの坂田さんも一緒に行って、モーツァルトピアノカルテットト短調の第一楽章も練習。私は譜めくり。
先生方の音に包まれて本当に幸せな時間です。

マンゴーケーキ

アールグレイケーキなどなど持参したケーキでお茶して帰るのもお楽しみ。

この発表会が終わったらドボルザークのピアノ五重奏曲を第一ヴァイオリンパートをフルートで演奏して見ていただくつもりです。

5人で合奏てきるものね。
1stヴァイオリンをフルートで。

アントニン ドボルザーク(1841-1904年)オーストリア帝国ネラフォゼヴェス生まれ、オーストリア=ハンガリー帝国プラハ没

1870年ドボルザーク
宿屋と肉屋を営んでいた両親の元に生まれます。

父はツィターの名人で評判でした。伯父もトランペットの名手として知られていました。

6歳で小学校の校長ヨゼフ スピッツにバイオリンの手ほどきを受けると上達し8歳で村の教会の聖歌隊員。9歳でアマチュア楽団のバイオリン奏者となりました。

父は肉屋を継がせるつもりだったため、小学校を中退させ30km も離れた母方の伯父が住む街に修行に行かせました。ところが、職業専門学校の校長は肉屋の技術と共にドイツ語、指揮者も務めていて、ドヴォルザークにバイオリン、ビオラ、オルガンの演奏のみならず、和声学を始めとする音楽理論の基礎も教えました。

1855年ゼロチェに移って飲食店を始めた一家ですが、経済状況が悪化してアントニンに勉強を辞めさせようという時になって伯父が反対し、両親を説得。この伯父が経済的負担をするからと1857年にプラハのオルガン学校へ入学しました。

卒業後はゴムザーク1世の楽団にヴィオラ奏者として入団。ホテルやレストランで演奏を行っていました。

プラハ国民劇場
1862年国民劇場建設が始まり、そこの仮劇場のオーケストラのヴィオラ奏者となりました。

1866年指揮者にベトルジハ スメタナ

が迎えられ、その教えを直接受ける機会も出ます。

1865年金属細工商チェルマーク家の2人の娘の音楽教師となります。

チェルマーク姉妹立っているのがヨゼファ
女優でもあった姉ヨゼファに恋心を抱くも失恋します。

この頃から多くの作曲を行います。

1871年作曲に大きくの時間を当てるために、オーケストラを辞し、個人レッスンで生計を立てることにしました。
結局チェルマーク家の妹、アンナ チェルマーコヴァと再会し、1873年秋に結婚しました。

アンナ チェルマーコヴァ
プラハの聖ボイジェフ協会のオルガニストに就任します。楽団員よりも地位が向上し、年俸も保証され、新婚生活の経済状態を安定させることができました。

1874年交響曲第3番第4番他数曲をオーストリア政府の国家奨学金の審査に提出し認められました。その額は年収の2倍以上400グルテンでした。5年間受け取っています。

翌年には弦楽五重奏曲ト長調で芸術家協会賞を獲得しています。

審査員を務めていたブラームス

1866年ブラームス
はこの曲に目を留め、懇意にしていた出版社ジムロックに紹介します。

1877年次女ルジェナが、翌年9月に長女オタカルが相次いでこの世を去りました。彼女らの冥福を祈り、作曲されたのが「スターバトマーテル」でした。

一方、ジムロック社はブラームスの「ハンガリー舞曲集」に匹敵するような「スラブ舞曲集」の作曲をドボルザークに依頼します。
この曲集は大成功し、ドヴォルザークの名はヨーロッパ中に知れ渡りました。

1878年にはドレスデンで「いたずら農夫」というオペラを上演しますが、不評でした。
1884年ロンドンフィルハーモニック協会の招きでイギリスを訪問し、ロイヤルアルバートホール

で「スターバトマーテル」などの演奏を行いました。これは大成功でした。

イギリスとの関係は厚く生涯続き、9回も訪れています。

しかし、ジムロック社との関係は良くなく、交響曲7番には愛国的な感情を伺わせる作品でしたので、ドイツ語の「Anton」ではなく、チェコ語「Antonin」を想わせることができるように「Ant.」するようよう要求しています。しかし、ジムロック社はこれを取り上げませんでした。

1871年フリッツ ジムロック
1887年には「今は新作の構想はない」と言いながら、室内楽曲「ピアノ五重奏曲 第2番」を携えてベルリンのジムロックを訪れ、この作品を購入すること。そのスコアの表紙の作者の名前は「Ant.」とすることを要求し、承諾させました。

その後、ジムロック社には何曲か作品を購入させましたが、1890年交響曲第8番をジムロック社が買いたたこうとしたことで、ついに決裂。
ロンドンの出版社ノヴェロ社にこの新作交響曲を渡しました。

調度、国際的名声が高まりつつありながら、国内での扱いはまだそれには追いついていない時期の作品が「ピアノ五重奏曲 第2番」でした。

ドイツ風の構成にボヘミアの民族色を取り入れた作品です。

第1楽章 Allegro ma non tant
第2楽章 Dumka Andante con moto
第3楽章 Scherzo furiant.Molto vivace
第4楽章 Finale Allegro




こどものために

2023-06-24 21:00:00 | 近代
木曜日は雨。
すだちの実も大きくなってきました。

まだ、ピンボン玉より小さいです。
岡山のきびだんごくらいかな〜。

例えがようわからん💦
今日は小5Aさんのレッスンは、お父さん参観でした。
お仕事、お休みだったのかな?
もう少ししたらお父さんの酎ハイの中にもすだちが…。
後少し待っててくださいね!
Aさんは、お父さん大好きで、張り切って吹いてくれました。
フレールジャック ヴェルナーののばら 10人のインディアン アヴィニョンの橋で

ベラ バルトーク(1881-1945年
オーストリア=ハンガリー帝国ハンガリー王国ナジセントミクローシュ生まれ、アメリカ合衆国ニューヨーク州ブリックリン没

農学校の校長バルトーク べーラとドイツ系のピアノ教師母、パウラ ヴォイトのもとに生まれました。父は町に音楽協会を設立するほどの熱心な音楽愛好家で自身もピアノやチェロを楽しむ人でした。

バルトークは病弱でしたが、きちんと言葉を喋る前から母のピアノ演奏のダンスのリズムを区別し、3歳から母のピアノに合わせて太鼓をたたき、4歳で自己流で40曲のピアノ曲を弾くなど素質を見せていました。

そこで5歳ぐらいから息子に正式なピアノ教育を始めました。

7歳の時に父が病気で32歳で急死します。母はラージセレージュ(現在のウクライナ ヴィノフラージウ)に転居。ピアノ教師として家計を支えました。

息子は9歳の時にピアノ曲もかき始め10歳の時には初舞台を踏みますが
少年ピアニストを売り出す気はなく、普通に教育を受けます。
母がポジヨニに仕事を得たため、当地へ引っ越しし、当地のギムナジウムに入学します。

1898年にウィーン音楽院に入学を許可されます。しかし国際色豊かなウィーンよりもハンガリーの作曲家として自分の意識すべきだというドヴォナーニのすすめにしたがい、翌年ブダペスト王立音楽院に入学します。



1905年
パリのルビンシュタイン音楽コンクールにピアノ部門と作曲部門で出場。
作曲部門では入賞せず、ピアノ部門は2位でした。(優勝者はヴィルヘルム バックハウス)
1906年からコダーイや他の音楽家とともに民族音楽を採集し始めます。

1908年民族風要素を含まれた弦楽四重奏曲第1番前年のバイオリン協奏曲第1番などを作曲し、次第に作曲家として評価は高まっていきました。

1909年ツィーグレル マールタと結婚、翌年長男べーラが生まれます。

1914年第一次世界大戦が始まり、民謡の収集活動が難しくなったため、作曲活動に戻り、バレエ音楽「かかし王子」「弦楽四重奏曲第2番」「青ひげ公の城」などが初演されます。

第1次大戦で敗戦国となったハンガリーはトリアノン条約による国土が大幅に縮小し、その後政治の混乱に巻き込まれ、音楽的名声が高まるのとは裏腹に本人としては不本意な時期が続きます。

1923年マールタと離婚し、ピアノの生徒だったパーステリ ディッタと結婚。翌年次男べーテルが誕生しています。

1934年音楽院ピアノ科教授から離れ科学アカデミーの民族音楽研究員となりました。
1939年第二次大戦が勃発。ナチス嫌いであったバルトークは母の死を機にアメリカ移住を考えるようになります。
1940年アメリカに渡ります。
1945年9月ニューヨークのブルックリン病院で白血病のために亡くなります。64歳でした。

「子どものために」第一巻BB53 Sz42 は教育者でもあったバルトークが、ハンガリーの農村の歌や踊り、歌、兵士の歌、酒の歌などを編曲したものです。
1910年に出版された初版と1947年に出版された改訂版の2種類が存在します。
1.Children at play 子どもと遊び
2.Children's song こどもの歌
3.Quassi adagio
4.Pillow dance 枕の踊り
5.Play 遊び
6.Study for left hand 左手のための勉強
7.Play song 遊び歌
8.Children's game こどものゲーム
9.Song 歌
10.Children's dance 子どもの踊り
11.Me and the rain 私と雨
12.Allegro
13.Ballad 歌
14.Allegretto
15.Allegro moderate
16.Old Hangarian tunes 古いハンガリーの歌
17.Raund dance 円舞
18.Soldier's dance 兵士の踊り
19.Allegretto
20.Drinking song 飲むときの歌
21.Allegro rubato

11番「私と雨」




16歳のオクテット

2023-06-23 21:01:00 | ロマン派
いずみホールの近くにアガパンサスが咲いていました。

こちらは今津公民館。
涼し気な姿がいいですね。

もう7月のような暑さです。
明日から少しは下がるようですが…。

フェリックス メンデルスゾーン(1809-1847年)自由都市ハンブルク生まれ、ザクセン王国ライプツィヒ没

6歳から母にピアノを学び、1817年8歳の時にマリー・ビゴー(1786-1820年)
から、ファニーと共にパリでピアノを学んでいます。
14歳の時に祖母からバッハのスコアを贈られます。後にこの再演で評価され、音楽家としての道を初めます。

16歳の時に、父とパリ音楽院に行き、マイヤベーアなど、当時の主だった音楽家と知遇を得ます。

この年の秋、「弦楽八重奏」変ホ長調op20を、作曲します。

この頃、メンデルスゾーンの邸宅のサロンで隔週の日曜日に「日曜音楽会」を開催しています。
このサロンは、ベルリン内で豪華さで評判になっていたそうです。

ベルリンのメンデルスゾーン銀行(1938年解体)の跡地に建てられたレミーゼにメンデルスゾーンゆかりのものが展示されています。

メンデルスゾーンのヴァイオリンの教師エデゥアルド リーツ、23歳の誕生日に贈られました。

この第三楽章スケルツォについて姉のファニー


が日記でゲーテの「ファウスト」第一部の「ワルプルギスの夜」オベロンとタィテーニアの金婚式
の1節を表そうとしていたと書いています。

ゲーテの詩
「流れる雲と霧のベールが
上の方から晴れていく。
木の葉にそよ風、葦に風、
そして全ては散り失せた。」

なおも、ファニーは書いています。
「全てが新しく、珍しく、それでいて楽しくて親しみやすい。妖精の世界に近付いて、すぐにも空を飛べそうな気がしてくる。自分でほうきの柄を手にとって、空行く妖精の群を追いかけたくなる。最後は第一ヴァイオリンが羽のように軽く舞い上がる」



○○の卵

2023-06-22 21:12:00 | 近代
月曜日の夕方。
次男が職場から帰ってくるなり、「たまご見つけたから、持って帰ってきた。」
えっ?!たまご?
淀川の下水の水質検査の仕事ですが、時々淀川の野生生物の何かを持って帰ります。
蛇のぬけがらとか、蜂の巣とか、もろもろ。
「ミシシッピアカミミガメ、産みたてだよ。」
侵略的外来種、飼うのも、放すのも、売るのも禁止。

とってもきれいです。
ほんのりオレンジ。
それでもしかしたら…。
「茹でと焼きで、食べてみる。」
…やっぱり。

ボイル10分。
10分は茹でないとナンチャラ菌が死なないのでみなさんも食べる時は気をつけて…
って、そんな機会ないか?

白身はいくら茹でても固くならず透明のまま、白身は食べません。

ゆで卵できました。
そして焼き

やっぱり、黄身だけしか固くなりません。
食べてみました。
おいしいかな?
ゆで卵はがっかりするほど、普通の卵の味でした。
臭いもなくて少し濃厚。でも水分が、少なくてパサパサした感じ。

卵焼きの方は味も、風味もあまりしませんでした。
ゆで卵の方がおすすめです。
って、誰が食べるのかな?

クラッシック音楽で、亀というとサン・サーンス(1835-1921年)フランス王国パリ生まれ、フランス領アルジェリア アルジェ没

の1887年作曲の動物の謝肉祭の「亀」

ジャック オッフェンバック(1819-1880年)


が1855年作曲した「天国と地獄」

ブフ バリジヤン座のために書いた大衆に受けるための景気のいい曲。

これをわざとゆっくり演奏して、のろのろと歩く亀を連想させるというユーモアあふれるあの曲。

動物の謝肉祭は、全14曲。
1886年、友人でチェリストのシャルル ルプークの催したプライベートな夜会のために作曲されました。
夜会では受けたものの、偉大な先輩の曲をパロディに使うなんて、さすがにふざけ過ぎたと思ったのか、「白鳥」以外は生前の出版を禁止しました。 

まずオッフェンバックの「天国と地獄」序曲

サン・サーンスの「動物の謝肉祭」の「亀」

最古のオペラ

2023-06-21 21:00:00 | ルネッサンス
月曜日、地域の会館トノ2で8月にする世代間交流会のイベントの試作をしました。
今年は吊りしのぶをしようと言うことで、準備。
しかし肝心の常磐シノブが、市内のコーナンやデーツーを探してもありません。
結局、吊り観葉にすることにしました。
土も観葉植物の土でできるし、ほぼ同じ材料でてきます。

うちにたくさん生えているアイビーと

折り鶴蘭を入れてすることになり、



いい感じにできました。

土を混ぜたり、握ったりすると、心が落ち着いてきます。
これなら子どもたちも、地域の人たちも喜んでくれるでしょう。
すぐに飾れるし、その後育てる楽しみもあります。

ヤコポ ペーリ(1561~1633年
教皇領ローマ生まれ、トスカーナ大公国フィレンツェ没

ダフネの衣装をつけたペーリ
ペーリは1853年までにクリストファー マリヴェッイの後援で器楽作品とマドリガルを出版しています。
オルガン奏者、歌手を経て1588年メディチ家の宮廷雇われ、1600年以降はマントヴァの宮廷にも関わりました。

歌手、キタローネ奏者としても活躍していたと言われています。

16世紀末のフィレンツェ(トスカーナ大公国)でジョヴァンニ デ バルディ伯爵を中心に古代ギリシャの演劇を復興しようという動きが始まりました。

伝統的な複雑なポリフォニーの様式ではなく、ギリシャ悲劇を模範に歌うようなセリフを用いる劇が考えられました。カメラータという歌を中心にした様式を推す人々が集まりました。
これが、現代の歌に通じる始まりです。

この運動の中で、1597年頃にペーリがギリシャ神話を題材にした「ダフネ」を作曲しました。

これが今日オペラとみなされる知られる限りの最古の作品です。

台本は全て現存しますが、音楽は断片のみが伝わっています。後のペーリの作品である「エウリディーチェ」は1600年以降に作曲されました。
これは現存する最古のオペラ作品です。


「ダフネ」
は、ギリシャ神話の神アボロンがニンフのダフネと恋に落ちる話です。
ダフネは、彼を避けるために助けを求めますが、それは叶えられますが月桂樹に変身してしまいます。
断片から再演されています。