音楽の喜び フルートとともに

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タンペラモン(temperament)

2008-06-30 23:46:53 | 音楽

明日から7月。もう、夏の花、ひまわりが咲いていました。ちょっと遠慮がち

今日はレッスンの日。
美しい音色を出すためには、唇を柔らかくすることが大切ですが、最近S先生が見つけたのは、フラッタータンギング(巻き舌をしながら音を鳴らす)をウォーミングアップですること。

音階練習や、ロングトーンをフラッターですると、息自体も通常よりもたくさん吹き込まないと音にならないので、横隔膜や、腹筋にもいいです。
ソノリテをフラッターでやると効果抜群・・・慣れるまで結構つらいけど。

相変わらず、カミュの「シャンソンとパディヌリ」ですが、指をかばいながら演奏するので、かえって一つ一つの音を大切にふけているみたいです。
「いつもは前へ行こう、前へ行こうとしすぎるけど、今日はいいねぇ。無理やり押し出そうとするんじゃなくて、自然の力を借りればいいのよ。大きな空気の流れがあって、その上にすっと乗る感じでふけるといい演奏ができるよ。」ほんと、傷は力。

「ほら、静かになった。」
先生がフルートでピアノ伴奏を抜粋して演奏してくださったので、デュエットがとても気持ちいい。

「次は、今までやってきた曲をさらっておいで。持ち曲にしていつでも出せるようにね。」

振り返ると、未消化の曲の山ですが、サンカンや、デティーユ、ゴーベールのソナチネ。魔弾の射手、カルメンなど幻想曲も心残り。それにしてもこの間から自分でも気になってさらっていたのですが、なぜS先生はわかるのでしょう?

モイーズさんのいう
「タンペラモン」temperament(仏)(ソノリテについて)、

訳者の注釈では「
気質、中庸の意で、人間の持つ感情あるいは感覚の本能的特性をいう。」となんだか、分かったようなわからないような感じですが、先生のおっしゃる「自然の力を借りればいいのよ。大きな空気の流れに乗って」というのがこれのことかもしれないと思った次第です。

この私がかつてやった曲はこの「タンペラモン」が不足していたように思います。必死でがんばって、とか一生懸命吹いていたと言う感じで、一瞬も気が抜けない感じ。そんな演奏って息苦しいよね。

S先生によると「子どももおんなじでしょ。無理やり、ひっぱってって、言うこと聞かせようとしたら、手がかかっていつまでもしんどい。あんたはこれとこれやからね。はい、いってらっしゃい。と軽く押したら、自立して自分ですっと出て行って、親は心の中ではちょっとさびしいけど、子どもも親も楽になれるよ。」

ほんとおっしゃるとおりです。自分の子育ても反省。

確かに今日は体自体もまず気持ちよかったし、楽にふけた感じです。忘れないように、明日はさっそく他の曲でもためしてようっと


子どもの虐待

2008-06-30 02:39:09 | Weblog

唐鼠黐 (とうねずみもち)って名前だそうです。最近花盛りです。ながいことライラックの一種だと思っていましたが、大間違い。花が終わると、紫の丸い実がつくそうです。

昨夜、NHKのETVワイドで「こどもの虐待」をやっていました。
虐待の被害者、加害者がそれぞれの体験、心境などを語り合うというもので、第2回だったそうです。
一回目は見過ごしました。

2時間、つらい話が続きましたが、その中で、司会の女性があまりに悲しい話に同情して目を潤ませて、「おつらかってですよね。何かいうことはありませんか」と言った途端、被害者が固まって、動かなくなってしまいました。長い沈黙。また、同じ調子で「無理しなくていいんですよ。」そのうち、虐待相談のプロの西澤さんが声のトーンを明るくして「今、別の人と会話していませんか?」というと、我に返り、「はい。」と戻ってこられました。西澤さんは「同じトーンの声で話しかけられたので、どんどん過去の世界の声と対話してしまったのです。そういう時はトーンを変えなくては。」と補足されました。

この司会者がすることを私もよくやってしまうと思いました。相手と同じ底辺にとどまって、孤独感を一時癒し、仲間がいることで安心してしまい、そこから動こうとしなくなる。無気力さで友達とつながってしまう。彼女は言葉で無気力を表明したわけではないですが、言葉にすると
「つらくてできないわよねぇ。」「大変な話なので、話せないわよねぇ。」「そのまま話さなくてもいいんですよ。」「あなたはには助けが必要なんです。」「もう一度虐待をみるなんてつらすぎますよね」

彼女が特別なのではなく、私を含めた女たち、主婦たちは結構これが多いです。せっかく前向きな話を聞いてきても、「がんばろうよ」と言う声をかけあったりしない。「できないわよね」と無力な私の方が安心する。友達にも私と同じ能力無しの存在でいてくれたほうが安心する。夫より前に出ず、金も稼がず、能力を出さない方が夫婦関係がうまくいくし、世間も良妻賢母と評価してくれる。わざわざ、苦労することもない。

それはそれで、一つの生き方だと思うし、自分で分かって選んでいればいいのだけれど、TVでこんなことを見せられるとしまうと、考えてしまう。被害者に同情し、助けたいと思っているのに、結果はどんどん、虐待の世界に落ちていってしまう。

虐待はマイナスの出来事だけれど、この過酷な経験を生き抜いた被害者は、当然普通に生きてきた人より、過酷な状況を生き抜く知恵や能力、エネルギーとパワーをもっているはず。
これはその人自身の人生の資本となるとともに、社会に対しても大きな資本となるはず。

でもこの経験を人生の資本とするには、人のサポートを受けて、あったことを客観的に見つめ、何が暴力で何が愛であったのかを分けて言葉にしていく作業が必要だと思います。

子どもは虐待を受けても「親が好き」と言い続け、親のほうも「子どもを愛しているのに」と言います。

でも、殴ったり怒鳴ったりして言うことを聞かせなければならないのは、「愛」とは全く関係がなく、親のコミュニケーション力が低かったり、躾けやリーダーシップをとる技術が未熟だったり不足だったりしているためなのです。
親を根っからの犯罪者と思ったり断罪しなくてもいいのです。能力がないのだから、親は学べばいいのです。その時、離れることが必要なら、社会の資本を利用して、離れればいいのです。
大切なのは子どもが自立していくために必要な能力。人間全部を不信の目でみたり、否定したり、拒絶せず、当たり前に人を信頼して生きていく。人を信じる能力をなくさないこと。何をされてもオールOKではなく、危険な言動を見分け、批判したり、対処できる能力をつけることです。

そのためにも被害者が事実を事実として受け止める力のある人だあると、期待と信頼を寄せて関わることが大切なんだと実感しました。自分の無気力さを赦している自分も実感。もういい加減にしよう。


傷と痛み

2008-06-29 01:18:42 | Weblog

額紫陽花の花をみると、いつも思い出す人がいます。華やかだけれど、さわやか、一本筋の通った美しさのある人です。明日も雨らしいです。

痛み止めの塗り薬の効果てきめん。痛みがなくなると、かばう動きがなくなって、以前と変わりない動きが…「痛み」の意味ってなんだろう?

「無痛症」という難病の子どもをTVで見ました。怪我しても「痛み」が無いので、子どもは屋根の上から飛び降りたり、骨折しても治る前に、ジャンプしてまた同じところを折ったりするそうです。一番ショッキングだったのは、乳歯が抜ける頃、歯が一本抜けた翌日、母親が子どもを起こしに行くと、口を真っ赤にした子どもがいたそうです。「ママが喜んでくれるかと思ったの。」歯が生え変わるのを喜んだ母親を見た子どもは、残った歯の全てを自分で抜いたそうです。

「痛み」は、自らの体を安全に保つための情報です。傷がそれ以上広がらないように、自分に知らせ、治療が必要なことを知らせるためのもの、そして、この「痛み」が他人の傷の「痛み」を想像させ、共感を教えてくれます。

象を電流を流した柵の中に閉じ込め、出ようとすると電気ショック=「痛み」を与えることを繰り返します。象ははじめの内、何度も外に出ようとして電気ショックを味わいます。ところが、その内もう、出ようとしなくなります。3日もすると、今度は電気ショックを取り除いても柵を越えようとはしなくなるそうです。

「痛み」を味わいたくないために自ら行動を規制する「痛み」もあります。

じゃあ、今の私のこの指の関節の「痛み」ってなんでしょう?

私の指は固定のためのテーピングをはずして2週間も経つし、握力はともかく、動かした方が良いことはわかっています。だのに、「痛み」は残って、指の動きを規制しています。子どもは全くこの作業が必要ないそうです。大人は全員、このリハビリ、「痛み」をこらえて、動かすと言う過程を経ないと元の動きに戻るのは無理だそうです。

全く、体の安全を守るのためには必要の無い「痛み」であるということははっきりしています。ということは、後のほうの自己規制の「痛み」ってことか…やっぱりだけど、なんかがっかり

傷を受けたことへのショックや、その後、動かせないという恐怖が作り出した妄想っていえないでもない。・・・ショックだけど、大人はみんなそうらしいから、この世間はほとんど妄想で動いているのかも。子どもは元気なだけでなく、固定観念や先入観が少ないから、ちゃんと痛みを正視している。だから、すぐにうごけるってことかな。

そういえば、5年生のとき息子は1ヶ月以上骨折して腕をつっていたけれど、ギブスをはずしたら、すぐ、動いていました。

「痛み」が長引く分だけ、固定観念や先入観が強いのかも・・・いかん、いかん、早く治そう。

とにかくコンサートは成功でした。高齢者方たちのあの子どもか孫を見るような暖かい視線。子どもたちの「エー。もう終わり」って言う声。地域の方々、PTAの方々のみごとな連携プレイと、協力。本当にいい地域でした。こんなところで演奏させていただいてうれしかったです。感謝















危機感

2008-06-27 23:11:00 | Weblog

アカパンサスが花盛りです。南アフリカ原産だそうですが、この辺りでは普通にどこでも咲いています。私はお華の先生にこの花の名前を聞いたとき、「紫なのに赤なんですか?」って聞き返しました。すっかり日本の花だと思い込んでいたせいです。…そうそう、紫だけでなく白い花もあります。

明日本番ですが、今日、病院でリハビリを受けました。ひどい痛みは収まって、大体大丈夫なんだけど、低音のC、C#を鳴らす時に指をかばっておくれます。先生に「明日本番で、困るんです。」って言ったら、鎮痛剤をくれました。飲み薬と、塗り薬があるそうですが、塗り薬にしました。飲み薬を飲むと、精神が安定しすぎて、演奏が悪くなるのでやめました。
安心したら、だめ。少し危機でないと良い演奏ができないんです。

それにしても秋葉原の事件以来、私はプチ鬱です。
教育は予防です。どんな形でも教育に携わるものにとって、これは敗北です。
もう彼には、再教育の機会は与えられないでしょう。

3日くらい前の日経に、彼が取調官に「はじめて、ちゃんと僕の話を聴いてくれる人に出会った。」と言っていると書いてありました。それを読んでから 尚、悔しくて、悔しくて。

不幸は子どもはどこにでもいます。怒るこども、無気力なこども、泣く子ども、ののしる子ども、手を出す子ども。あの子もこの子も不幸です。

不幸な子どもが全て問題行動を起こす大人になるわけではありません。傷を受けた悲しみ、傷みを誰か一人でも受け止めることができていれば、子どもの話を信じて、聞いてくれる人がいれば、PTSD(心的外傷後ストレス症候群)は防げることが心理学の分野では分かってきているそうです。

過保護、過干渉、放任、心理的暴力、性的暴力、ネグレクトどんなことが彼にあったかはわかりませんが、彼が不幸な子どもだったことだけはわかります。彼が、話を聞いてくれる人に出会うために、あれだけの事件を起こさなければならなかったなんて、あまりにも無惨です。

子どもの話を聴かなくては、表面の穏やかさや賢さににだまされてはいけません。心の空洞に気づかなくては。心を開いてつながることを実践しなくては。それしかない。無惨な事件をおこさないためには。安心してはいけない。と自分に誓います。









 

 


ボランティア

2008-06-27 00:17:58 | Weblog

三度、擬宝珠。満開でも、楚々とした風情。

今日は、ランチと夕方でそれぞれちがう友達グループで旧交を温めました。

その席で、ボランティアおばさんの放火殺人の話になりました。

人は自信を持たないと生きていけません。自信の持ち方には2つあって、一つは人に貢献すること。もう一つは人を支配下におくこと。だそうです。

小さな子どもはお手伝い大好き、「させて、させて。」と手を出してきます。
それがかなわないとき、怒ったり、泣き喚いて親を思い通りに動かします。人を支配下におくことによって、自信を得ようとするということです。

ボランティアをしていると、いろんなときがあります。いいときと悪いとき、自分が度を越してやってしまったり、疲れているのに人の世話を焼いていたり。

貢献している自分に満足していれば、人からの賞賛や、評価がなくても、活動は充実しているし、貢献の仕方は相手にも自分にも添ったものになっているはずです。
ところが、人を支配下におくことで自信を持っている人は、賞賛が必要だし、評価してくれないとむなしくなってくる。人々の注目と賞賛が少なくなってくると、過大な負担がかかっても、それを得るためにがんばる。がんばるとほめてくれる。自信回復、でもまた注目がなくなってくる。またがんばる。
貢献した表面の事実だけを見ていると同じことをしていても、中身はずいぶんと違います。

ボランティアおばさんの地域の人たちはこぞって、よくやっていたと彼女を褒めていました。でも、彼女の自信の中身はずっと以前から空洞だったんじゃないかな。

そう思って、自分の地域活動やボランティア活動や音楽によるボランティア活動を振り返ってみると、貢献感だけでなく、仲間からの評価や、所属感など、
支配欲で動いていることも多いのでは?とぞっとします。本当に人間って弱くて愚かで、悲しい生き物です。

誰かを上に置いたり、下に置いたりしている内は、ずうっと貢献感ではなく支配欲なんだろうなぁ。
まだまだ、煩悩の多い私は、だめみたい。彼女と私の間は、薄皮一枚と言う気がします。


スピード!スピード!スピード!

2008-06-26 00:51:12 | Weblog

久しぶりにS先生のレッスンを受けました。
月二回のレッスンは、怪我のおかげで、一回飛びました。本調子ではありませんが、とりあえず動くのでレッスンです。

実は以前からずっと「ゆっくり演奏しなさい。」「もっと音を聴きなさい。」「決して早くしてはいけません。」といわれていましたが、つい、早く演奏していました。

録音してみるとすぐわかりますが、本当に聴けていない。もう情けなくなるくらい。こんなはずではない音があちこちで鳴っています。

曲は、カミュの「シャンソンとバディヌリ」
フランス近代ものの特徴で、細かく転調してモネの絵のような色彩感をだしていますが、早く動かせなかったので、ゆっくりと音程の変化を楽しみながら一音一音出す練習をしていました。それが効果をあげたのか、先生も「よくなってきたねぇ。」と楽しそう。

今回は無理やりだったけれど、おかげさまで、ゆっくり練習することの大切さが、身にしみてわかりました。

フルトベングラーだったかな?「早くしなさい。といわれて育ったこどもは決して良い音楽家にはなれない。」
納得です。

私は、母に「あんたは、何やっても遅いなぁ。早くしなさい。」と言われながら育ったような気がします。
ある日、小学生の頃、家に帰ると、壁にカレンダーの裏紙をつかって貼り紙がしてありました。

「今、今という間に今ぞ過ぎ行く。」
「スピード!スピード!スピード!」

子どもながらいやな気がしました。他の家族に比べて、自分が遅いとは思っていましたが、こんな風に書かれると、落ち着いて家にいられなくなるような気がしました。

子どもの頃、私は遅く、母は早い。と思い込んでいました。大人になって、母の母、祖母がある日
「もう、あの子はのろまやから、イラチののろま。気ばかりあせってやることはおそいんや。」とこぼしているのを聴いて、びっくりしました。

考えたら母があせって「早く、早く」と言っているときは社会との関係で母があせるとき、私が学校へ遅れないか?仲間との待ち合わせに遅れるのではないか?という恐怖があるときで、そんな時私は、母のあせりに共鳴して、たっぷり時間があってゆっくり準備できるのにもかかわらず、ありえないスピードで仕度しなければならないと、あわてて準備し、結果いろんなものを忘れていくという失敗を繰り返していたのです。

そういえば、母は自分が出て行くときも、大慌て、きちんとできていても、できていなくても、バタバタしながら出て行くのです。母が外の社会との関係でストレスや、緊張を感じるから、ありえない速さで行うよう、「早く、早く」と言っていたんだなあと最近では思います。
あせらなくても、時間通りに準備し、間に合う方法はあるんだとも。

考えてみれば、母が貼り紙をしたと言うことは、学校に行きだして、社会のテンポとずれると、私が困るので「早く」と書いたのであって、逆に家の中、わが母系家族の中ではゆっくりテンポで動くことが赦されていたんだと最近思うようになりました。祖母も、娘のことを「イラチののろま」と言いながら、なんともうれしそうでした。

ショッカーのアレグロや、プレストの演奏では、片足を上げてゆっくりとスローモーションで太極拳のように動かしながら、ぐらつかない。そして指や、舌は早いけれど安定したテンポで動き続けると言う感じです。

アレグロなど早いテンポはあせってとか、もっともっととか、よーいどん競争とか、そういうテンポではなくて、アレグロのテンポをぶれずに保つことが大切です。平常心で、体の中心を決める。演奏ができればいいんだと思いました。母の緊張の嵐の中で、「私は間に合うから大丈夫。」そういえたら、OKじゃないかな?


呼吸する身体

2008-06-24 23:08:52 | Weblog

ずっと、長いこと毎日、腹筋運動をしていましたが、毎日100回。でも、硬い筋肉はむしろ、呼吸には不向きなのではないかと、思い、ちょっと中断。すると、指揮者でオーボエの宮本さんも同じようなことをブログで書いておられました。

寧ろ、柔らかい筋肉のほうが、横隔膜に空気を入れるのに良いそうです。

何年か前から年に一回くらいですが、フェルデンクライス・メソッドを受講していますが、いわゆる私たちの頭にある体操っていうものではなく。
仰向けになって「右の手を額にあてて、ひじからゆっくり引くように頭を右と左に傾けます。けっして早くしないこと、痛くならないところまでゆっくり傾けます。」なんて講師の声にあわせて動かします。
やりだすと、「右はどれくらい、左はどれくらい動きますか?そのとき頭のどのあたりが床についてますか?」なんて、質問が投げかけられます。

この問いがフェルデンクライスの特徴です。

手を動かす、腰を動かす。問い「床と背中の密着面はおおくなりましたか?少なくなりましたか?」

自分の身体の感覚が鋭くなり、内部の状態が段々わかってきます。

呼吸のメソッドのときは、ねころがって骨盤を動かしたりしながら、空気の入り具合、腹、肺など、いろんなところに空気を入れたり吐いたりしながら、身体の感覚をさぐります。
座って、呼吸とともに声を出し、下腹に音を響かせたり、もう少し上、胸、のど、口、鼻、額などどんどん、いろんな場所で声を出すうちに身体が内側から響いてくるのがわかります。

音を響かせたいと思ったら、身体を固めてはいけないんだということがわかってきます。共鳴する身体、柔らかい身体を作る必要があるんだなぁって。

それから、メソッドを終えて最後に立ち上がって歩くのですが、大体私は後ろに反って歩いているような気がします。
ところが、一緒にいた人に聞くと、「いつもは前かがみで歩いているけど、今日はまっすぐ歩いている
よ。」というのです。
ほとんどの人が、いつものまっすぐとは違う感覚を味わうようです。
普段、ほとんどの人が、身体をゆがませて歩いているそうです。

まっすぐ立つと気道がまっすぐ確保されます。柔らかく共鳴するからだ。これで音が響かないわけがありません。
直後一週間はおもしろいくらい音が伸びました。
でも、続けないと、すぐ戻ります。
昔のゆがんだ癖の方が私の無意識はお好みみたいです。

アレキサンダーもやってみましたが、首の骨がらせん状に伸びるような感じがしましたが、これは、他力本願で触ってもらいながら、やらないとわかりません。わかりやすくて、身体がまっすぐになった感が。

私の好みは自分で能動的にまなべることだから、フェルデンかな?いづれにせよ、続けないといい音は持続しません。レッスン、レッスン

追伸、これは音楽家だけのものではありません。演劇の人もたくさんやっています。バレリーナもいました。身体を使うための基礎の基礎っといったところでしょうか。
決してつらくはありません。終わった後はお風呂に入った後のように気持ちがいいです。皆さんも一度お試しあれ。


ソノリテについて

2008-06-24 01:11:37 | 音楽

「ソノリテについて」モイーズによって書かれたこの本は、フルートを吹くものにとってはバイブルのようなものです。
毎日どこかを使います。音質に悩んだら、体が使いにくかったら、とにかくソノリテに戻ります。

この頼りにされている本の一文目は、
「この著書から美しい音を得る確実な方法を見つけようとすべきではない。」・・・そんな

「・・・フルートの美しい響きを得ることができるように、規則だった練習によって学習者各自の能力を発展させ、修正し、作り変える方法を与えることなのである。」

あらゆる良い教師が言っていることでした。「魚ではなく、釣り方を教えよ。」

使える全ての音からの跳躍。
アタックと音の連結のところでは、「音が最小の時間に最大の命をもつようにすること」
「バッハにいては各々の音は、こういうアタックによってなされるべきである。」

これを練習すると、唇の筋肉が短い時間で、動かしやすくなり、緊張が取れていくのがわかります。
バッハの音って本当にフルートにとっては難しい、でも一時間もこれをすれば、かなり改善します。
ほんと、感動する

みんな苦労するHIF#なんかは、16ビートでこれをすると、かなり気分よく出るようになります。
基本って本当に大切。骨が通る感じ。自分の体の中心が定まる。って感じ。
2週間指を全て動かせなかっただけで、もう音も、指も連結が悪い。こんなときは、基本に返って練習です。自分の体の中心が、かなりぶれているのがわかります。
でも、大丈夫ソノリテがあるから。モイーズ先生ありがとう



改正児童虐待防止法

2008-06-23 00:21:57 | Weblog

擬宝珠の花が咲きました。お行儀悪く伸び伸びとしています。

今日は虐待防止法(2000年施行)が4月に改正されたので、お勉強です。

総務省のHPに全文載っています。
http://www.ron.gr.jp/law/law/gyakutai.htm

全文読んでみました。今回の改正では、児童相談所や警察などの介入権を、より使えるように強化したこと、各機関の連携強化。

「児童の権利利益の擁護に資する。」(第一条)という言葉が入ったこと。

まだ、留意するにとどまりますが、

「何人も、児童の健全な成長のために、良好な家庭環境および近隣社会の連帯が求められていることに留意しなければならない。」(第4条7)
と、地域の連帯が求められていること。

「児童の親権を行う者は、児童のしつけに際して、その適切な講師に配慮しなければならない。」(第14条)

「児童の親権を行うものは、児童虐待に係る暴行罪、傷害罪その他の犯罪について、当該児童の親権を行う者であることを理由として、その責めを免れることはない。」(第14条2)

という文言が入ったこと。評価されていいと思いました。

残念だったのは、虐待を全ての大人からと規定できなかったこと。同居家族にかぎられてしまったことです。
大人同士で一方的に殴られたり、ののしられたりすると、傷害罪、名誉毀損になるのに、親ということで、免罪されていたのは、驚くべきことです。

よく、虐待は増加しているといわれていますが、それは誤りだと私は考えています。昔は罪名さえなかったし、親が子どもを叩いて育てるのは当たり前とされていました。叩いて子どもが死んでも事故死とされることも多かったといわれています。名前がつくというのはすごいことです。人々の意識が虐待に注目するようになったことで、通告、報道され、虐待の情報が行きかうようになったと考えられます。

私も、10年前に、虐待児童に係わりましたが、そのときは通告しても、法律が無いので警察は介入できず。学校は家庭の問題として、取り合わなかった。結果として夜中の2時に児童が足を12針縫う怪我をし、それでも、大人たち、医者、先生専門職が関わっていながら虐待とは認知せず。近所の方からの通報で、学校が親を呼び出し、「虐待していませんか?」と親に聞くという不適切な対応で、一家は転居され行方がわからなくなったという経験をしています。

そのときの悔しさ、悲しさが、今の活動につながっています。

本当につながるのは難しいし、私は人間関係はとっても苦手です。音楽と対話している方が楽しい…でも、なんていうか、それではだめなんですね。それでは、自動演奏や、CDで充分。私はやっぱり、人間が演奏する、人間のための音楽。そういう音楽を求めたい。
そのためにも、子どもへ希望をつなげたい。そんなことを考えています。


南天=難転

2008-06-21 23:30:24 | Weblog

南天の花を待っていたら、咲いたと思ったら、昨日のものすごい雨のおかげで、あっという間に大半の花が落ちてしまいました。ガレージの屋根の真下にある枝だけ無事。
南天には 「難を転じる。」「難転」する力があると信じられてきました。加茂町にある海住仙寺は、別名南天寺といって、南天が参道いっぱいに植えられています。お参りすると、「難を転じる」ご利益があるそうです。

昨日は、路上駐車中の車のミラーにパジェロのミラーをぶつけて、破損。鏡が双方とも割れてしまいました。
6月になってから、怪我に、パンクに、とどめのミラー接触事故。(これでとどめにしたい。)
困ったもんです。この辺で難を転じたいところ。今日は海住仙寺にお参りにいけないので、家の南天を撮影。拝みました。いわしの頭も信心から。 効果があるといいなぁ。きっとある。

車って便利だけ本当にお金がかかります。怪我のおかげで自転車に乗れないので、車を多用していますが、ほぼ片手運転。小回りが利かないし、一度に二つ以上のことを意識するのが苦手な私が、指と、運転に注意を向けると、事故になるのも、うなずけます。

高くつくなあ。労災はおりたけど、アルバイト代は、タイヤとミラーで右から左どころか、マイナス。がっくり・・・ 


稼ぎかけたら、事故で吐き出しっていうのは、どうも数年前から、私が繰り返しているパターンみたい。無意識はよっぽど稼ぎたくないらしい。成功しかかったら、自ら大きな失敗をする。

夫に依存している間は逃げ場があるってことかなぁ?
逃げてたら仕事できないよね。本気になっていないってことかな?選べるって幸福だけど、不幸だね。
選びきれない・・・。迷いの多い私です。