音楽の喜び フルートとともに

フルート教室  久米素子 松井山手駅 牧野駅 090-9702-8163 motokofl@ezweb.ne.jp

ベートーヴェンの母

2024-05-18 21:00:00 | 古典
金曜は久しぶりに母のお使い。
仕事を辞めて求職中だった姪が、東京に仕事が決まって、同居解消。
短い休憩でした。

今週、市役所に行って欲しいと言われ京田辺市役所まで書類を取りに行くミッション。

それだけで済むわけは無く、「まず、京都銀行。」と言うのて、京都銀行まで行って駐車場に入ろうとしたら
「違う。この近くの友だちの家やん。」
って聞いてない…急に方向転換したので警備員さんがびっくりしてる。
と言いたくなるのを平静に…平静に…。

「この辺りと思うねんけど〇〇さんの家」
それでたどり着ける?
「住所教えて。」路端に停めてナビ入力。
着きました。
「この辺りやったと思ったんだけど。」
…違います。

無事に友だちにお届け物をして、市役所へ。

昭和なオブジェ

一休さんゆかりのお寺、一休寺がある京田辺市のシンボルはやはり一休さん。

「これで帰ってもいい?」と聞くと「いつものお漬物買いに行きたいねんけど…。」
お祝いごとがあって生徒さんたちが集まるので配りたいらしい。

山城、青谷の市久八木さん。
山城大橋を渡って青谷へ、民家の並ぶ中の漬物屋さん。


ここの生しば漬けが美味しくて、母は長年ここで買っています。



私も好きです。

それから、「お茶も買いたい。」というので平和堂までいって、いつものお茶を購入。

「明日から量り売りのキャンペーンで安くなりますよ。」と、親切な店員さん。
「それがね。どうしても今日要るの。」やはり明日の大集合で使うらしい。
残念。
でも定価で買う所、シールシートが溜まっていて10%引きで買えました。

今日は午後からお筝のお稽古があるので、お昼を一緒に食べて、早めに放免
私も帰って翌日のコンサートの準備です。

土曜日午後〜、堺市都市緑化センター、「みどりのホールコンサート」でギターの川原久美子さんとフルート久米素子で演奏します。

曲はイベールの間奏曲
ピアソラのオブリビオン、リベルタンゴ。

他にもストーリーテリング、リコーダーカルテットやクラリネットとフルートの二重奏などもあります。
ぜひおいでください。

ベートーヴェン
の母は
マリア・マグダレーナ・ケフェリッヒ(1746-1787年)
神聖ローマ帝国エーレンブライトシュテイン(現在はコブレンツの一部)に生まれ、

父はヨハン・ハインリヒ・ケフェリヒ(1701年-1759年)、母はアンナ・クララ(旧姓ヴェストルフ 1707年-1768年)で、2人は1731年に結婚しました。

ヨハンは1733年からトリーア選帝侯

コンスタンティヌス大聖堂前にあるトリーア選帝侯宮殿(1615 ~ 1676 年、拡張 1756 年)(1846 ~ 1856 年に部分的に再建)。
の宮廷料理長を務め、エーレンブライトシュテインのシュロス・フィリップスブルクに居を構えていました。

マリア・マグダレーナは彼らの6人の子どものうち、末子でした。

1763年1月30日、彼女はトリーア大司教に仕えるヨハン・ゲオルク・レイムと結婚しましたが、彼は2年後1765年にこの世を去っています。

マリア・マグダレーナは1767年11月12日にボンの聖レミギウス教会でヨハン・ヴァン・ベートーヴェン

と再婚します。

ヨハンの父はボンにあったケルン選帝侯領


の宮廷でカペルマイスターを務めており、ヨハンもその宮廷音楽家てした。

ヨハンとマリアは7人の子を儲けました。
ルートヴィヒ(1770-1827年)
カスパール アントン(1774-1815年)とニコラウス(1776-1848年)の他は幼くして亡くなっています。

マリアは1787年に結核により40歳で命を落としました。彼女の生誕地は現在ムッター・ベートーヴェン・ハウスという博物館になっています。

暴君だったベートーヴェンの父に対して、マリアは情深く優しい女性だったと言われています。

ベートーヴェン16歳、モーツァルトを訪問するためにウィーンの旅に出掛けますが、ここで母危篤の知らせを受けます。

まもなくマリアは40歳の若さで亡くなります。
その後父はアルコール依存症となり、家計を支えなければならなくなったベートーヴェンは仕事を掛け持ちし、父や兄弟たちの世話に追われることとなります。

ベートーヴェンの手紙より。
「(母危篤の知らせを受け)彼女がもう一度復活し、困難に立ち向かう勇気を私に再び与えてくれることを夢見ましたが、7/17に闘病の末、亡くなりました。

彼女はあたたかく愛情深い母であり、私にとって一番の親友でもありました。
母の名前を呼ぶことが出来ていた時、私以上に幸せな人間は居ませんでした。

今はその名を呼んでも静寂が在るだけ。」

母のいる生活の中で作曲されたピアノ協奏曲第0番変ホ長調wo04
作曲当時ベートーヴェンは13歳で、この曲は彼の初期作品の一つに数えられます。

現存する楽譜のタイトルには「ピアノフォルテもしくはチェンバロのための協奏曲」と記されています。
「12歳で作曲した」と書かれていますが、これは父ヨハンによる偽称の可能性が高いそうです。
1890年に出版されました。





逃亡と冒険の人生

2024-05-09 21:01:00 | 古典
近所のお庭のエゴノキ。
すぐに散ってしまいますが、かわいいです。



実を食べるとエグい味がするのでエゴの木というらしいです。
実って

ヤマガラさんがついばんでいるこれです。
サポニンが含まれているらしく、昔は若い果実を潰して泡だて、石鹸の代わりに使ったそうです。

エグいのはその成分のせいでしょう。
弱い毒でもあるので決して食べないで下さい。

チャールズ ニコラス ボクサ(1789-1856年)フランス モンメディ生まれ、オーストラリア シドニー没
ボヘミアの作曲家の父シャルルのもとに生まれました。
彼は7 歳までにフルートとピアノを演奏できるようになりました。  

1807年にパリ音楽院に留学し、翌年和声部門で一等賞を受賞しました。

彼は 1813 年にナポレオン帝国管弦楽団のハープ奏者に任命され、オペラ・コミック座

のためにオペラを書き始めました。

しかし、1817 年に彼は偽造、詐欺事件に巻き込まれ、訴追を避けるためにロンドンに逃亡しました。
彼は欠席裁判で有罪判決を受け、12年の重労働と4,000フランの罰金を言い渡されました。

ロンドンではフランスの法律の適用を受けずに安全を確保でき、1821 年に英国王立音楽アカデミー

の設立し、著名なハーピストを育てました。

1826年に彼の有罪判決が明らかになったとき、彼は辞任を余儀なくされました。

その後、ロンドンのキングス劇場

の音楽監督に就任しました。

1839年、作曲家ヘンリー・ビショップ


の妻のオペラ歌手アンナ・ビショップ(1810-1884年)

と逃亡します。

彼らは北米とヨーロッパ全土(フランスを除く)で一緒に演奏しました。ナポリでは、ボクサはサン・カルロ歌劇場

の館長に任命され、そこに2年間滞在しました。

1855年12月、ビクトリア朝のゴールドラッシュの頃、ボクサはビショップとともにオーストラリアのシドニーに到着しました。
しかし、上陸から、3週間後、ボクサが亡くなります。オーストラリアで彼らが一緒にコンサートを行ったのは1回だけでした。

ビショップは悲しみに暮れ、キャンパーダウン墓地に彼のために精巧な墓を建てるよう依頼しました。


「エチュード4番」はボクサが作曲したハープのための曲です。

エデュアルド サボン(1817-1893年?)がオーボエかサックスのために編曲しました。

これをさらにリコーダーで演奏した動画を見つけました。音域がちょうど良いそうです。
サボンは他に曲を残していないらしく資料もありません。
…ただSABON=石鹸で探していたらヒットしたのと、聞いていたら石鹸の泡が弾けているような曲だったので…。




休日が始まった!

2024-05-01 21:00:00 | 古典
29日の夜はフルートアンサンブルレッスンでした。
今田さんのコンサートのあと、新大阪から淀屋橋に移動。
2時間くらいあるので、駅内のドトールコーヒーで紅茶ラテとシリアルバーを頂きながら、ベートーヴェンの第九をスマホで聞きながら、楽譜チェック。
72分あるので全部聴くことができました。

大江橋から中之島線に乗っても良かったのですが、今日は歩いて。

淀屋橋。
向こうに見えるのは日本銀行。


フェスティバルホール
肥後橋

歴史的建造物山内ビル。
兵庫県生まれの設計者、今北乙吉が手掛けた建造物です。



登録有形文化財だそうです。

サロン ド プリンシパル。
ゴールデンウィークの初日ということで大阪エスカルのメンバーに加えて、いつも神戸で練習しているメンバーが5人来てくれました。
いつもは無しで練習しているピッコロパートも今回はいて嬉しいです。
バスも厚め。
今回はドビュッシーの「小組曲」
こってり絞られました。

お休みのオフィスも多いのか、いつもより灯りが少なかったです。

ウォルフガング アマデウス モーツァルト(1756-1791年)神聖ローマ帝国ザルツブルク大司教領ザルツブルク生まれ、神聖ローマ帝国オーストリア大公国ウィーン没

の、K.561は「おやすみ!ホントのおバカさん」は、衝撃の歌詞がついています。

1788年32歳の9月2日にウィーンで作曲され、交響曲第41番「ジュピター」が完成したほぼ1か月後で、自作品目録にまとめて記載された10曲のカノンのひとつです。

詳しい作曲の動機は不明ですが、「俺の尻をなめろ」K.231と同じく、親しい友人たちといっしょに歌うために作曲されたと考えられています。

このカノンもスカトロジー的な言葉が目立つ作品で、ラテン語、イタリア語、フランス語、英語、ドイツ語の5つの言語の順に「お休みなさい」と言い、適当に語呂合わせの言葉(または文句)をくっつけ、最後はスカトロジックな言葉で締めくくるという作品です。

また青年時代のモーツァルトが書いた手紙の中にも同じような文言が見られ、モーツァルトが「お休み」という時には決まって「俺のケツをなめろ」という言葉つけていたのではないかと考えられています。

当時は貴族の間でスカトロジー(糞尿)が流行っていたそうですが、現代でもいますよね。
下ネタ好きな人。
おやすみにはリラックスしてもいいですが、羽目を外し過ぎてはだめですよ。言っても無駄か…。

「おやすみ!ホントのおバカさん」K.561
Bona Nox, bist a rechta Ox
Bona notte, liebe Lotte
Bonne nuit, pfui, pfui
Good night, good night
Heute muss ma no weit
Gute nacht, gute nacht
Schist ins Bett dass's kracht
Gute nacht
Schlaf fei gesund
Und reck'n Arsch zum Mund


お休み、ほんとのお馬鹿さん
お休み、ロッテちゃん
お休み、ぷい、ぷい
お休み、お休み
今日は逃げないで
お休み、お休み
ベッドにクソして、プリっといわせろ
お休み
ゆっくりお休み
ケツなめろ












チューリップの曲

2024-04-11 21:00:00 | 古典
ご近所のチューリップが満開でした。






ハインリヒ・リヒナー(1829 – 1898 年 ) プロイセン王国シレジア ゴールドベルク地区のハルパースドルフ(現ポーランド トファルドチツェ)生まれ、プロイセン王国ブレスラウ(現ポーランド ヴロツワフ)没

は多作な作曲家で、現代では生徒向けに書かれたシンプルなピアノ作品である教育曲で最もよく知られています。

彼のソナチネ、第4番、第49番、第66番は特に軽くて流暢な古典的なスタイルですが、ハーモニーには時折ロマン主義の影響が見られます。

彼は監督兼オルガニストでもあり、11,000人の処女教会(ケルンの聖ウルスラ教会)
第二次大戦で破壊され再建されたウルスラ教会

オルガン
でオルガニストとして働き、ブレスラウのゼンガーバンド(合唱祭)の監督として人生の一部を過ごし、そこで亡くなりました。

「チューリップ」は1873年出版されたピアノ独奏曲集「色とりどりの花」Bunte Blumen, Op.111の4番目の曲です。

「色とりどりの花」
とても美しいTausendschön

バラRose

クローブNelke

チューリップTulpe

パンジーStiefmütterchen

風Winde

第4曲「チューリップ」






フルートとヴィオラの二重奏

2024-04-04 21:00:00 | 古典
今日は塚口駅近くのt-raumでハープレッスン。
実は1月発表会のあと、二男が骨折し、手術当日とレッスンが重なり泣く泣くキャンセル。
3月は介助とフルートの忙しさにかまけて抜けてしまい、気がつけば4月。
4月21日にカフェでハープアンサンブルを、演奏します。

先生ニッコリ笑って「本番までにもう一度レッスンしましょうね。」
「はぁ〜い!」

今日はその後、金重さんと待ち合わせ。


塚口駅近くの「わらわら」でお刺身定食を食べて、これで1000円。
金重さん、美味しいものを見つけるのうますぎます!

もう一度t-raumに戻ってヴィオラとフルートの合わせ。


ホフマイスターのヴィオラとフルートのための3つのデュオの中の一曲を
6月9日に六甲 里夢で演奏します。

どれにするか?
まだ迷っていたので選曲。
第1番はわかりやすくシンプルな作りです。
第3番は振幅の幅が大きくてドラマティックです。
第2番はヴィオラが難しいらしく却下。
何度か演奏して、今回は第一番に決めました。

フランツ・アントン・ホフマイスター(1754 – 1812年)南西ドイツ(現バーデン=ヴュルテンベルク州)のロッテンブルク・アム・ネッカー生まれ、オーストリア帝国ウィーン没

14歳で法律を学ぶためウィーンへ行きます。
しかし勉強していくうちに音楽で生きていこうと決め、その広く多様な作品をもってして、1780年代までにウィーンで最も人気のある作曲家の一人となりました。

1785年頃にウィーンの音楽出版ビジネスの先駆けのひとつとして、Artaria and company設立の5年後に次いで事業を設立しました。

ホフマイスターは自作や多くの当時重要な作曲家(ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン、クレメンティ、アルブレヒツベルガー、ディッタースドルフ、ヴァンハルなど)の作品を出版しました。

これら有名な作曲家たちはホフマイスターの個人的にも親しい仲にありました。

モーツァルトは弦楽四重奏曲第20番
をホフマイスターに捧げ、フルート四重奏曲第4番の変奏曲にホフマイスターの歌曲の主題を使っています。

またベートーヴェンは手紙の中でホフマイスターを“もっとも愛しい兄弟”と綴っています。

ホフマイスターの出版活動は1791年にピークを迎えましたが、その後は作曲活動へとシフトしたようです。
彼のオペラの多くは1790年代はじめに作曲・上演されました。
が、ビジネスセンスの欠如していたのと相まって、作曲数も減っていきました。

ホフマイスターの多様な全作品の中で有名なのはフルートのための作品です。

協奏曲や、フルートが主役の室内楽。
これらの作品の多くはフルートが最も魅力的な楽器と考えた当時ウィーンに多くいたアマチュア音楽家のために作曲されました。

フルートの作品以外に、少なくとも8つのオペラ、50以上の交響曲、多数の協奏曲(少なくとも25曲はフルート協奏曲で、他にヴィオラ協奏曲があります)、多数の室内音楽、ピアノ曲、いくつかの歌曲集などがあります。

「3つのフルートとヴィオラのための協奏的二重奏曲」が作曲された経緯ははっきりしていませんが、1790年自分の出版社から出版された多くの作品の1つとして作曲されています。

第一番






狸囃子

2024-03-18 21:01:00 | 古典
土曜日朝、実家に置いているスカイラインを久しぶりに動かしに行ったら、
バッテリー上がっていてJAFさんを、呼びました。
すぐ駆けつけてくれました。
1時間はエンジンを止めては行けないとそのまま次男と、姪、夫と出かけました。
「どこへ行こうか?」
お天気はいいし、あちこち混んでいるので、空いてそうな方向へドライブ。

やってきたのは



信楽駅。


たぬき
梅の花も咲いて暖かい日でした。

フランツ ヨーゼフ ハイドン(1732-1809年)神聖ローマ帝国下オーストリア大公国ローラウ生まれ、オーストリア帝国ウィーン没

トーマス ハーディ画ハイドン
「交響曲第89番」
本作は自筆原稿が残っていて、「1787年」の日付が記されています。第88番『V字』と共にヨハン・ペーター・トストのために作曲されました。
トストは1783-1789年エステルハージ家の第2ヴァイオリン奏者で裕福なウィーンの卸商組合委員でした。
その年パリで活動することになり、そのための曲をハイドンに依頼しました。
第88番、89番はトストに渡りこの曲はともに『トスト交響曲』とも呼ばれています。
ちなみにトストは後にエステルハージ家の家政婦と結婚してパリで商人として活躍しました。彼はまたモーツァルトからも曲を買っています。

古くは『W字』(Letter W)の愛称で呼ばれることがありました、これは第88番と同様に、ハイドンの生前にロンドンのフォースター社からハイドンの交響曲選集の第2集(全23曲)を出版した際に、各曲に「A」から「W」までのアルファベット一文字からなる整理用の番号が印刷されていたのが愛称としてそのまま残ったものです
これは今では呼ばれていません。

しかし、私たち日本人にとってもっと重大な秘密が…

ここの冒頭、中山晋平の童謡『証城寺の狸囃子』に酷似した2小節の分散和音で演奏された後に第1主題が出現するというサプライズが…。いや、気のせい、気のせい。





ベートーヴェンの年金事情

2024-03-14 21:02:00 | 古典
水曜は次男の検診でした。
レントゲン撮って、順調に回復してるかどうか?
8:00に出たら、20分で着いて…早くつきすぎました。
前回混んでて40分かかったので、早めに行ったら20分で着きました。
レントゲンもサクサク進んで早く終わるか?
9:30診察。
早い!
しかし、「膝蓋骨を押さえているはずの杭(くい)が外れかかっている。」
ので、「これ以上外れたら、取らないといけない」らしい。

取るってまさか「再手術?」
「はい、そうですね。」
「状態見ながらリハビリやってもらって、それから手術するかどうか判断します。」
「それまで頻繁に、1週間に一度位見せてくださいね。」
一度診察室から出され、しばらくしたらまた呼ばれ
「リハビリは90度までにしておくように伝えてださい。超音波あてましょうか?」
「膝蓋骨でそれほど早く治るという報告はないんですが、ここは骨ができやすいところなんで、でもやってみるのもいいかな?どうされますか?」
することにしました。
そして小さな声で
「すみません。」

あれれ!?やっぱり失敗?
レンタル料金3か月5万円…労災申し込み中とサイン書いて放免。

ルートヴィヒ ヴァン ベートーヴェン(1770-1827年)神聖ローマ帝国ケルン選帝侯領ボン生まれ、オーストリア帝国ウィーン没

は、生活苦から逃れようとして、ついに誘いのあったカッセル宮廷(ナポレオンの侵攻により1806-1813年の間ウェストファリア王国)
ベルクパルク・ヴィルヘルムスヘーエのヘルクレス
への異動を考え始めます。

ウェストファリア王ジェローム・ボナパルト(ナポレオンの弟)


が彼に「宮廷楽長」として高額(600ドゥカート現3000万円位?)の年金で誘いをかけてきたからです。

ベートーヴェンのカッセル宮廷への転職を思い止まらせたのは、ルドルフ大公、ロプコヴィッツ侯爵、キンスキー公の3人です。

取りまとめ役はルドルフ大公でした。彼らが拠出した年金総額は3者合計で4000フローリン(5000万円)。

ルドルフ大公はベートーヴェンの終生の友であり、パトロンでした。

1781-1831年神聖ローマ皇帝レオポルト2世の末子。1819年にオロモウツ大司教と枢機卿に選出されました。ベートーヴェンのパトロンおよび弟子として知られています。

ベートーヴェンより18歳若いルドルフ大公に献呈された曲は
『ピアノ・ソナタ第26番(変ホ長調)』(「告別」、Op81a)、
『ピアノ三重奏曲第7番(変ロ長調)』(「大公」、Op97)、『
ミサ・ソレムニス(ニ長調)』(Op123)などです。
ルドルフ大公は1500フローリンの年金を払っていました。

ロプコヴィッツ侯爵もベートーヴェンにとって重要なパトロンでした。

ヨーゼフ・フランツ・マクシミリアン・フォン・ロプコヴィッツ(1772 - 1816年)は、オーストリアのボヘミア系貴族、軍人、芸術愛好家。階級は陸軍少将。侯爵、ザーガン公爵、ラウドニッツ公爵。

彼が契約書にサインしていた額はルドルフ大公の約半額、700フローリン。

ロプコヴィッツ侯爵に献呈された曲は
ベートーヴェン初期の
6つの弦楽四重奏曲(Op18-1~6)、交響曲
『第三番』(「英雄」、Op55)、
『第五番』(「運命」、Op67)、
『第六番』(「田園」、Op68)、
中期の『弦楽四重奏曲第10番(変ホ長調)』(「ハープ」、Op74)、
『ピアノ、ヴァイオリン、チェロのための三重協奏曲(ハ長調)』(Op56)などがあります。

ボヘミア出身の名門貴族フェルディナント・キンスキーは、ベートーヴェンへ最も多額の年金(1800フローリン)を支給していました。

ウィーニッツ・アンド・テッタウ第5王子 フェルディナンド・キンスキー王子(1781-1812年)は、ウィーニッツ・テッタウ(ウィーン ハプスブルク君主国)の第5王子キンスキー王子。

エステルハージ公からの委嘱で作曲された『ミサ曲(ハ長調)』(Op86)は、エステルハージ公の気に入るものとはならず、出版譜はキンスキー公に献呈されています。

ナポレオンのプロイセン・オーストリア侵攻で、激しいインフレが起こり、ウィーンの貴族たちの中には破産する者も現れ始めます。

ロプコヴィッツ侯爵もその1人で1812年にべートーヴェンへの年金支払いができなくなりました。

同じ年、キンスキー公がプラハ郊外で落馬事故で死亡したこともあって、ベートーヴェンの収入は激減します。

そこでベートーヴェンはロプコヴィッツ侯爵を「年金不払い」で訴え、有利な判決を受けました。

3人との契約書には、年金給付に対してベートーヴェンに課せられた義務として、3人の貴族たちの住むウィーン、あるいはオーストリア皇帝の支配地の市に居住すること、

そして仕事や芸術振興の目的で一定期間ウィーンを離れる場合、これら3者に出発の予定を伝え、許可を得ることが必要、と明記されていました。

ベートーヴェンのパトロンたちは、大司教の座に就いた者もいたとはいえ、当時当たり前だった教会音楽への貢献を求めることがありませんでした。

彼ら自身が音楽を趣味とし、音楽の振興に強い関心を持つウィーンやボヘミアの土地貴族でした。

そしてピアノや作曲をベートーヴェンを師として学んでいた生徒でもありました。なので経済的・社会的上下関係としてはパトロンでしたが、芸術分野では師弟関係にありました。

ロブコヴィッツ大公に献呈された
『弦楽四重奏曲第10番(変ホ長調)』(「ハープ」、Op74)
は、1809年に作曲された弦楽四重奏曲です。

第1楽章の随所に現れるピッツィカートの動機から、「ハープ」という愛称を持っています。

大作を書いた後は、作品の規模は縮小し、代わりにロマン的な情緒やのびのびとした感情をたたえる作風へと変化しました。
のびのびと書かれたこの曲はパトロンたちがベートーヴェンに与えた比較的自由な関係によるものだと思われます。


ファンダンゴと呼ばれる踊り

2024-03-03 21:00:00 | 古典
次男と食べました。

「食事はどう?」と聞いたら
「結構うまい。」

と聴いて、デイルームに貼ってあった献立表を映しました。
面会15分、一回2人まで。

「リハビリめっちゃ痛いわ。」
「そうか。大変やな。」
洗濯物を持って帰りました。

ファンダンゴ(Fandango)はスペイン起源のダンス、またはそれとともに歌われる歌あるいは音楽。特にフラメンコで男女ペアで踊るダンスが有名です。

元来はギターと手拍子またはカスタネットで伴奏する活気あふれるダンスで、英語などではその様子から派生した「馬鹿騒ぎ」の意味でも使われます。元は6/8拍子で、その後3/8拍子、3/4拍子にもなりました。

ポルトガル起源とも言われ、18世紀始めのスペインの記録にも思えます。18世紀末にはスペインのみならず全ヨーロッパで知られ、バレエやオペラにも取り上げられました。

クラシック音楽でも、モーツァルトの『フィガロの結婚』を始め、多数の作品に残っています。

現在はスペイン、ポルトガルのほか、かつてスペインの植民地だったフィリピンなどでもダンスとして残っています。
また、メキシコ南部のベラクルス州では、 人々が集いダンスを踊り楽器を奏で歌を歌う、コミュニティ全体で祝うパーティのことを「ファンダンゴ」と呼び、 人々はベラクルス州伝統の音楽であるソン・ハローチョの演奏に合わせ、サパテアドを踊ります。

毎年初夏、ベテランズ・デーの頃、アメリカ合衆国のサンディエゴとメキシコのティフアナの間の国境の金網越しに、両国のあらゆる音楽を交換し合うFandango at the Wall(スペイン語: Fandango Fronterizo)が2008年以来開かれています。
この場合、ファンダンゴは「楽しい集まり」のような意味で使われています。

ルイジ・ボッケリーニ(Ridolfo Luigi Boccherini, 1743- 1805年)は、トスカーナ公国・ルッカ生まれ、スペイン王国マドリード没

は作曲家、チェロ奏者です。

当時弦楽器が盛んだったイタリアのルッカに5人兄弟の3番目として生まれます。
父レオポルドは町楽師のチェロ・コントラバス奏者でした。彼や、ルッカ大聖堂楽長のドメニコ・フランチェスコ・ヴァンヌッチらからチェロを学び、13歳でデビューを果たしました。その後ローマでも研鑽を積み、20歳前半には父と共にウィーンの宮廷に勤め高い評価を得ます。

父が亡くなった後はヴァイオリン奏者のフィリッポ・マンフレーディと組み、ヨーロッパ中で華々しく演奏活動を行います。1768年には演奏会の本場パリのコンセール・スピリチュエル「宗教音楽演奏会」で成功を収めるなど、名声を極めます。

1769年スペインの宮廷に招かれドン・ルイス皇子


付き奏者兼作曲家となり、マドリードで後半生を送りました。

ドン・ルイス皇子の家族(1783)ゴヤ画(左脇の画家はゴヤ自身、右から3人目で立って腕組みしているのがボッケリーニと思われる)

1785年ドン・ルイス皇子の死去後は作品をブランデンブルク=プロイセンに送っていたらしいです。

晩年は失職し貧困と忘却の内にこの世を去りました。

ギター五重奏曲第4番ニ長調 G.448は、アマチュアのギタリストであり、1796年からボッケリーニのパトロンであったブナバント侯フランシスコ・ボルハ・デ・リケル・イ・デ・ロス (Francisco Borja de Riquer y de Ros) のために作曲されたものです。

これらの作品のほとんどはボッケリーニ自身が作曲した室内楽曲の編曲であり、この第4番も第1楽章と第2楽章が弦楽五重奏曲ニ長調Op.10-6 G.270の第1・第2楽章の、第3楽章と第4楽章が小弦楽五重奏曲ニ長調Op.40-2(50-2) G.341の第1・第2楽章の編曲となっています。

ボッケリーニはドン・ルイス王子の招きにより1749年からスペイン宮廷に仕えて以来、終生マドリードに住んでいました。この作品の第4楽章「ファンダンゴ」はボッケリーニがスペイン音楽の語法を作品に自らの楽曲に取り入れた一例といえます。

ボッケリーニが作曲したギター五重奏曲のなかで、もっとも人気のあるもののひとつになっています。

特に第3楽章と第4楽章は『序奏とファンダンゴ』の題で、ギター・アンサンブルやピアノとギターの二重奏など様々な編曲でクラシックギター奏者に親しまれています。

第1楽章 Pastorale
第2楽章 Allegro maestoso
第3楽章 Grave assai
第4楽章 Fandango

茶団子、チャダンゴ、ダンゴ、ファンダンゴ…バンザーイ🤣



ジュピターと呼ばれる交響曲

2024-02-27 21:00:00 | 古典
次男が入院して、明日手術です。
9:00に病院まで送って、説明を受けました。
手術の手順の説明ビデオ。
全身麻酔でするので、麻酔科医さんの説明、聞き取り。

病棟案内。説明。
…とあれ?
先生によれば2.3日から、1週間の入院といわれましたが、病棟看護師さんから早くても、3月12日まで入院。
リハビリを入れたら3月19日。
長い!
説明とは違うと言ったら、「どういう状態で退院したいかによりますね。」
ということでした。
「自宅2階に上がれるようになってから。」というと、
「先生に聞いておきますね。」
ということでした。
あれれ?どちらが本当かな?

明日は13:00〜4時間の手術だそうです。付き添いに行きますが、コロナ対策で病院にはいられないそうです。
初めに行って一旦帰って、また行くかな?

交響曲第41番 ハ長調 K. 551 は、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(1756-1791年)
神聖ローマ帝国ザルツブルク㈹司教領ザルツブルク生まれ、神聖ローマ帝国オーストリア大公国ウィーン没
1789年モーツァルト
が1788年に作曲した交響曲で、最後の交響曲です。
『ジュピター』(Jupiter)の愛称で親しまれています。

1788年8月10日に完成し、同年に作曲された『第39番 変ホ長調』(K. 543、6月26日完成)、『第40番 ト短調』(K. 550、7月25日完成)とともに「3大交響曲」と呼ばれています。
他の2曲とともに作曲の目的や初演の日時は不明です。

モーツァルトを尊敬していたリヒャルト・シュトラウス


は、1878年1月26日にルートヴィヒ・トゥイレに宛てた手紙に「私が聴いた音楽の中で最も偉大なものである。終曲のフーガを聞いたとき、私は天国にいるかの思いがした」と称賛しています。また1926年には自身の指揮で録音も行なっています。

自筆稿は現在ベルリン国立図書館
にあります。

『ジュピター』(ドイツ語では『ユーピター』)という愛称はモーツァルト自身によるものではなく、本作のスケールの大きさ、輝かしく荘厳な曲想からローマ神話の最高神ユーピテル(ギリシア神話でいうゼウス)にちなんで付けられたもので、標題的な意味合いはありません。

これは同時代のヨハン・ペーター・ザーロモン(1745年 - 1815年)

ボン生まれのヴァイオリニスト
が名付けたとヴィンセント・ノヴェロ(1781年 - 1861年)の『モーツァルト巡礼』(1855年)に紹介されています。

またイギリスのタイムズ紙(1817年5月8日)

には、翌5月9日にハノーヴァー・スクエア・ルームズ

で開催される演奏会の広告に "Grand Sinfonie (Jupiter), Mozart" と記載されていることから、19世紀半ばにはすでに広く知れ渡っていたと考えられます。

また一説には、ヨハン・バプティスト・クラーマー(1771年 - 1858年)

が自ら設立した出版社「J・B・クラーマー& Co.」で楽譜を出版する際に付けたともいわれていて、伝えられるところによると、第1楽章冒頭の和音がクラーマーにユーピテルが落とす雷を連想させたからといわれています。

ユーピテル(ジュピター)・トナンス像
プラド美術館所蔵
『ジュピター』という愛称が定着するまでは、ドイツ語で「最終フーガを伴った交響曲」といった意味の "Sinfonie mit der Schlussfuge" という愛称でも呼ばれていました。こちらは現在では完全に廃れてしまっています(1937年に出版されたケッヘル目録の第3版では、副題として表記されています)。

また、日本ではごく稀に『木星』と訳している媒体もありますが、明らかな誤訳です。

第4楽章で使われる「ジュピター音型」と呼ばれる(C - D - F - E、ド・レ・ファ・ミの4音符)は、モーツァルトがたいへん好んだモチーフです。

これを使ったモーツァルトの曲は
『交響曲(第55番)変ロ長調』(K. 45b) - 第1楽章
『ミサ・プレヴィス ヘ長調』(K. 192) - 第3曲「クレド」
『ミサ曲 ハ長調《クレド・ミサ》』(K. 257) - 第4曲「サンクトゥス」
『交響曲第33番 変ロ長調』(K. 319) - 第1楽章
『3つのバセットホルンのための5つのディヴェルティメント』(K. 439b) - 第4番 第1楽章
『ヴァイオリンソナタ第24番(旧第33番) 変ホ長調』(K. 481) - 第1楽章
があります。




ギターの天才

2024-02-23 21:00:00 | 古典
近所に椿の紅唐子が咲いていました。

木瓜の花

郵便局から6月エスカルの発表会で演奏する曲の伴奏譜を送りました。
またしてもブリジアルディの「ローエングリン幻想曲」
今度は安達萌さんのピアノてす。

楽しみにしています。

おっと!その前に3月9日(日)ギターの川原久美子さんと西宮ギター練習会で演奏。それから3月31日(日)阪南ギタークラブ 第7回発表会に出ます。

阪南市文化センター サラダホール 
11:45開場 12:15開演
第三部にギター前田恵理さんと出ます。
曲は「ジュリアーニの協奏的大二重奏曲op.85」

むかしむかしにやったことがありますが、もう忘れてます。
練習しなくっちゃ。
川原さんとも同じ曲。
川原さんとやってなかったのが不思議な位有名曲です。
それから
前田さんと合わすのは初めてなので楽しみです。

マウロ・パンタレーオ・ジュリアーニ( 1781 - 1829年)ナポリ王国ビッジェーリオ生まれ、ナポリ王国ナポリ没

ウィーンで活躍したナポリ王国のギタリスト・作曲家。19世紀初頭におけるクラシック・ギターのヴィルトゥオーゾの一人とされています。

早くから兄ニコラスとともにバルレッタに移り、その地を学習の拠点としました。

初めはチェロの指導を受け、ヴァイオリンも学んでいました。
その後ギターに没頭するようになり、わずかな期間で非常に熟練したギター奏者に成長しました。

マリア・ジュゼッペ・デル・モナコと結婚し、息子ミケーレ(1801年 バルレッタ - ?)とガエターノ(1803年〜?)の2人の子どもを授かります。
その後は一時期ボローニャやトリエステに滞在していました。

1806年の夏、チェロやギター、対位法の学習を済ませると、家族を残したままウィーンに出向きます。
ウィーンでヴィルムート嬢(Fräulein Willmuth)という女性と関係を結び、1807年にはマリアをもうけ、1813年エミリアをもうけました。

ウィーンでは、古典派の器楽曲の様式に通じるようになり、1807年には古典派様式による自作の出版に取り掛かります。

ヨーロッパ全土に演奏旅行に乗り出し、行く先々で、その超絶技巧や音楽的な趣味が称賛されました。大成功をおさめて音楽界の名士となり、19世紀初頭のウィーンで活躍した演奏家や作曲家のなかでも、最高の一人に数えられました。

ジュリアーニは、西洋音楽の状況において、ギターの新たな役割を洗練させた音楽家です。

オーストリア帝国の上流社会や、ベートーヴェンやロッシーニのような著名な作曲家にも知られるようになり、ウィーンで最も活動的な演奏家と共演しました。

1815年にピアニストのヨハン・ネポムク・フンメル(その後はイグナツ・モシェレス)、ヴァイオリニストのヨーゼフ・マイゼーダー、チェリストのメルクとともに、シェーンブルン宮殿

の植物園

で(入場料が1ドゥカートだったことにちなんで「ドゥカーテン・コンツェルト」と呼ばれた)一連の室内楽の演奏会を行ないました。
ジュリアーニはこれに出演したことで、ウィーンで名声を馳せました。

同じく1815年には、ウィーンの帝国議会の名士たちのための公式の演奏家となりました。
また、1813年12月8日には、ベートーヴェンの《交響曲 第7番》の初演にも(おそらくチェリストとして)参加しています。

ウィーンでは、作曲家としてはささやかながら成功しました。
ジュリアーニは、楽譜出版社アルタリア(1770年ウィーンに創立した出版社)と提携していて、ジュリアーニのギター曲の大部分を出版しました。

その他の地域ではあらゆる出版社と取り引きし、自作をヨーロッパ各地に広めました。
また、ギター教師としても名声を得て、ボブロヴィッチやホレツキーら、数々の門人を輩出しました。

1819年に、主に経済的な理由から、ウィーンを後にします(財産や預貯金は、債権者への返済のために差し押さえられていました)。

イタリアに戻ると、トリエステやヴェネツィアで過ごし、ついにローマに落ち着きました。

ローマでは大して成功せず、わずかな作品を出版し、1度きりの演奏会を開いただけでした。

この間、1813年生まれの娘エミリアは、1821年から1826年まで腹違いの姉妹マリアとともに、1823年7月、重病の父親を見舞いに、たびたびナポリを訪ねています。

両シチリア王国の都では、ジュリアーニの評価が好転し、地方の出版社によって、その他のギター曲を出版することができました。

1826年には、ポルティチにてフランチェスコ1世

とボルボーネ家の宮廷のために御前演奏を披露しました。
この頃がジュリアーニのナポリ時代であり、同じく巧みなギター奏者に成長した娘エミリアとしばしば共演するようになりました。

1828年の末までに体を壊し、1829年5月8日にナポリで生涯を閉じました。ジュリアーニの訃報は、ナポリの音楽界に大きな驚きを与えたといわれています。

協奏的大二重奏曲op85は1817年アリタリア社から

出版されています。