「 九州 ・ 沖縄 ぐるっと探訪 」

九州・沖縄・山口を中心としたグスク(城)、灯台、石橋、文化財および近代土木遺産をめぐる。

沖縄県津堅島 ・ 沖縄最古の灯台 「 津堅島灯台跡 」

2012-11-07 09:14:36 | 沖縄の灯台




沖縄最古の灯台 「 津堅島灯台跡 」

初代津堅島灯台は、明治期、国策によって建てられた灯台で、
同時期の先原埼灯台がほとんど痕跡をとどめていないこともあり、
沖縄最初の灯台遺構として歴史上重要である。

津堅島灯台は、沖縄本島の東方、中城湾の玄関口にある津堅島の南端にあり、
初点は、那覇の先原埼灯台と同じ明治29年(1896)11月25日であるが、
ただ、明治29年度の逓信省第11年報によれば、
先原埼灯台の竣工は明治29年9月30日で、
この津堅島灯台は明治29年9月15日と記されていることから、
津堅島灯台は沖縄で最初に完成した灯台ということになる。

灯台は鉄造六角形で白色に塗られ、高さは12.3mで、
南49度から北89度まで220度の範囲を白色燈明で照らすとされている。






津堅港を出て、左に行けば津堅小中学校があるが、
その反対の右に行くと津堅公民館があり、
その道をさらに突き進むと旧灯台跡の入り口に石碑が立っている。







細い道を奥に進んで行くと
緑の木々の間から目にも鮮やかなレンガの灯台跡が飛び込んで来た。
もっとも興奮する時間 ( とき ) である。













崩れ落ちた煉瓦とコンクリート塊があった。
沖縄戦以後、特に対策がとられているわけではないが、
遺構自体は思ったよりもしっかりしていた。

沖縄戦で処分された灯台の台座の石材は、村の建築用に再利用のため、
戦後に持ち去られている。
その台座の石積みの内部に使われていた煉瓦が現在遺っているものである。






「 沖縄最古のレンガ 」

灯台の台座に使われていることから、
灯台設置の明治29年当時のものであることが判明した。
そのことが当時の建築の記録誌に記されていた。
記録誌は、現在の日本建築学会の前身にあたる造家学会が発行していた「建築雑誌」である。
同誌の明治29年10月25日頒布の第118号には、
那覇の先原埼灯台の建設担当者からの書簡として
当時の沖縄の建築、レンガに関する詳細などが記されていた。


( 前略 )
当所工事は不便を極め候も、已に七分出来致候 ( いたしそうろう ) 。
敷地は海面上五十尺の高き岩石より成る丘上二百余坪を切開き煉瓦造燈台
( 燈火迄地盤より四十尺六等回転機械 ) 及び付属舎二棟建坪四十九坪余の建築に有之。
材料職工人夫共横浜神戸より回送に付き不便不少候 ( ふべんすくなからずそうろう ) 。

( 中略 )
石材は建築用に供すべきもの一も無之、皆鹿児島より輸入致候。
本県に産する建築材料は、石灰と煉瓦石のみに有之 ( これあり ) 。
煉瓦石は、本県監獄署に於いて昨年より焼き始め、
稍 ( ようやく ) 好果を得べき見込みの處 ( ところ ) 、
之に伴ふべき堅硬にして圭角ある砂なきは、遺憾なることに御座候。






丸い柱塔







「 津堅離島振興総合センター 」 にある再現した灯台の模型







沖縄戦で破壊処分される前、現役だった頃の 「 津堅島灯台 」


「 レンズ 」

津堅島灯台のレンズは明治29年に設置された
フランスのソーター・ハーレー社製第四等不動型フレネルレンズと記されている。
初点から戦災により無くなるまで四等レンズによる不動光の灯台であった。
このレンズについては、 「 燈光 」 昭和42年9月号の記事、 「 この道 」 で、
津堅島灯台の回想記で書かれてある。
その作者は、昭和15年12月から5ヵ月間、津堅島灯台の臨時職員であり、
後の 「 燈台の光よ永遠に 」 の著者、田中鉄繁 氏である。

那覇の大空襲によって致命的打撃を受けた沖縄は、
遅かれ早かれ敵の上陸を逃れる事は出来ないと云うことは、
野に一般の常識となっていた。
本局でも吾等の身上を心配してか、1月中旬引揚命令を発せられたが、
其の条件が六ヶ敷くて、仲々簡単に片付かなかった。

曰くレンズは丁寧に取り外し箱入にして地中に埋没、
重要書類、備品等は軍部に預け受領書をとる。


3月の中旬、津堅島灯台の大館氏が突如来られた。
彼も私と同じく、昨年家族を郷里鹿児島へ帰し、
度々の空襲に打ち勝って灯台を死守して来られたが、
本局の指示通り灯台の処分も完了したので、
荷物をまとめ、次の便で内地へ引き揚げることとなった。














灯台長夫人・通称 「 奥さん 」 が火葬された灯台下の海岸


「 言い伝え 」

島の人から 「 奥さん 」 と慕われていた大変美しかった灯台長夫人が亡くなり、
灯台下の海岸で、当時島では見られなかった火葬が行なわれた。
その光景が強烈だった所為か、灯台がなくなった戦後も、
旧灯台の近くに行くと、灯台長夫人の美しい幽霊が出ると言われていた。









この初代・津堅島灯台の詳細を知るまでは、
沖縄戦でアメリカ軍の攻撃を受けて破壊されたとばかり思っていた灯台だったが、
読谷村と嘉手納町の境に架かる榮橋と同じく、
日本軍の指示によって処分されたものだと知った。

この初代津堅島灯台については、
山本五十六元帥の戦死された後を受け、
連合艦隊司令長官になられた古賀峯一中尉が、
「 わしも、海軍に入って四十年、あちこちでずいぶん燈台も見て来たが、
これだけ立派に手入れの出来た燈台は見たことがない 」 と言わしめたほどの灯台である。

できれば、 「 そのままの形での遺っていて欲しかった。 」 と思うばかりである。





福岡県みやこ町  ・  林田酒造の 『 福徳戎 』 

2012-11-07 08:56:39 | 泡盛 ・ 焼酎 ・ 酒














ラベルのエビスさんを見ていると、
見ている方も思わず笑顔になる顔である。
それは、なんとなく 「 琴奨菊 」 を連想させる。

『 福徳戎 』 の名の由来は・・・
創業者 「 荻竹次郎 」 が蔵を建てた当時、敷地内にあった岩石がえびす様のようだということで
商売繁盛を願い祀ったことが焼酎 「 福徳戎 」 の名称の由来だそうである。

「 白米だけの飯より麦飯のほうが味がある 」 との考えによるものと伝わる麦麹仕込の米焼酎です。
米の凛とした風味と麦麹由来の旨味が調和し、
長期熟成による煉れたクリーミィな味わいを愉める焼酎である。
福と徳と戎の三つを飲んでエビス顔で寝たいものである。


原材料・・・米(国産)、麦麹(九州産)
アルコール分・・・25度
貯蔵年数・・・3年
内容量・・・1.8L、720ML
おすすめ飲み方・・・お湯割り、オンザロック
熟成度・・・★★★☆



大分県日田市 ・ 国道210号線に架かる 「 白手橋 」

2012-11-07 08:41:05 | 大分の石橋



国道210号線に架かる「白手橋」






























国道210号線










所在地 /  大分県日田市高井町川下・内川野川
架橋  /  明治33年12月
石工  /  不明
長さ   /  18.0m   幅   /  6.7m
拱矢  /   6.5m   径間  /  9.0m
環厚  /   60㎝   単一アーチ



白手橋は国道210号線と県道山北日田線の交わるT字に架かる橋で、
現在も国道の橋として現役で活躍している。
橋の内側はコンクリートで巻かれて補強されているが、
側面から見るとアーチや壁石を見ることが出来る。

白手橋へのアクセス
白手橋へは、国道210号線と県道山北日田線の交わるT字に架かっているため、
白手の信号機の下になるが駐車する場所が近くにないので、
国道210号線から筏場橋の方に下りて行かなければならない。
下りて行くと広場があるので、そこに駐車できる。
そこから200mほど歩くと橋に行き着く。


この日の行程、 道の駅・原鶴 ー 道の駅・うきは ー 夜明大橋 - 大肥橋 - 筑後鉄道軌道橋
筏場眼鏡橋 - 「 白手橋 」


ムサシの散歩デビュー

2012-11-07 08:31:44 | 柴犬 ムサシとピース



ムサシの散歩デビュー










昨日、先勝だったので午前中にムサシの散歩に出かけた。
初めての散歩は思った通り “ モタツイタ ” というよりも、
周りに気を取られ過ぎて前に進まなかった。
今朝も片道200mほど散歩に出たが、
車に飛びかかろうとするので、気が気ではなかった。

まぁ、期限がないことだし、
これからボチボチと気長に慣らして行こうと思っている。