「 九州 ・ 沖縄 ぐるっと探訪 」

九州・沖縄・山口を中心としたグスク(城)、灯台、石橋、文化財および近代土木遺産をめぐる。

愛~カナサ~ 新城京子 「 名も無き詩 」 と 「 月照らす涙星 」

2013-09-18 06:22:26 | 沖縄



愛~カナサ~ の 「 名も無き詩 」 と 「 月照らす涙星 」 が入ったCD












琉球王朝時代の薄幸の王女、 「 百十踏揚 ( ももとふみあがり ) 」。
彼女の ” 現代版組踊 ” を那覇の 「 パレットくもじ 」 で観た。
その中で挿入されていた愛~カナサ~の 「 月照らす涙星 」 と 「 名も無き詩 」 。



『 名も無き詩 』


作詞・作曲 新城京子


今日も聞こえる かすかなさけびが
島は語らずに サンゴは歌うのをやめた

もういいよ 笑わなくていいよ
もういいよ 泣いてもいいんだよ
君のその瞳に映る 未来に幸あれ

空に輝くあの星のどれかに今
あなたがいるのならば 私は詩を歌う

名も無き詩よ どうか届くように今
明日もこの先も永遠 ( とわ ) に響くように
そしていつの日か
あなたとまた会えますように

天ぬ風や 美らさぬまま 千代に八千代に
天ぬ風や 涙ぐわぁぬ ぐぅとぅく



護佐丸・阿麻和利 (ごさまる・あまわり) の乱

 14世紀から15世紀の琉球は、中山・北山・南山の三つのグスクを拠点に按司が支配していた。
その中で特に強い勢力を誇り、1429年に三山を統一したのが中山の尚巴志(しょうはし)であった。
その尚巴志に従い、三山統一に功績を残した人物が護佐丸である。
護佐丸は恩納村の山田城主であったが、尚巴志が北山を滅ぼした後、
山田城を取り壊した石材を使って読谷に座喜味城を築き、
後に中城城へ移るまでの18年間を居城として過している。

 一方、三山統一後に海外貿易の富で力を付けたのは、勝連城の阿麻和利であった。
その阿麻和利に対抗し王都首里を守るため、
護佐丸は首里城と勝連城との中間に位置する中城城に拠点を移し、
中部一帯の守りを固めた。

 尚巴志の死後、琉球は国王の在位年数が短かったため国の基盤が安定せず、
首里城内でも王位継承の争いが起こるなど不安定な状態が続いた。
こうした王国情勢のなか、阿麻和利の勢力は尚泰久にとっては恐ろしい存在だったため、
泰久は娘である百十踏揚(ももとふみあがり)と阿麻和利を攻略結婚をさせるほどであった。
また、尚泰久の妻は護佐丸の娘であるため、百十踏揚は護佐丸にとって孫にあたった。

 琉球の王位を望めるほど力をつけた阿麻和利は、中城城の護佐丸の存在を疎ましく思っていた。
1458年に一計を案じた阿麻和利は、中城城の護佐丸が軍兵を集めて謀反の動きがあると国王へ訴え、
それを聞いた泰久は、護佐丸を倒すために阿麻和利を総大将に命じて軍隊を中城城へ派遣した。

 その結果、護佐丸は阿麻和利の率いる王府軍に中城城を攻められ、無実の罪を着せられて自害してしまう。
一方この戦いに勝利した亜麻和利は、王位を奪うための準備をしている最中に、
百十踏揚の家来である鬼大城(おにおおぐすく)にその策略を気付かれ、逆に王府軍との戦になる。


鬼大城 (おにおおぐすく) の活躍と最期

 王府軍との戦いで首里城攻めに失敗し、命かながら勝連城に逃げ帰った阿麻和利への、
鬼大城を総大将とした攻撃もなかなか勝敗が決まらず長引いていた。
そこで勝連城内の地理に詳しい鬼大城自ら城内へ忍び込んで行き、阿麻和利の首を討ち取ったという。
その活躍により尚泰久から越来(ごえく)と具志川の両間切りの地頭に命じられた。
また、百十踏揚を妻に迎え、越来城を賜った。(一説には勝連城を賜ったとも言われている)

 鬼大城の死については諸説があるが、1469年内間金丸(うちまかなまる)がクーデターを起こし、
尚泰久の子である尚徳王を滅ぼした。
第一尚氏王統の縁故者である鬼大城の越来城も攻められ、
鬼大城は越来城を逃れ知花城に立てこもりそこで自害。あるいは焼き殺されたという説もある。


百十踏揚 (ももとふみあがり) にまつわる人物

 百十踏揚の父親は尚泰久であり、母親は護佐丸の娘である。
阿麻和利は前夫で、護佐丸は祖父にあたる。祖父は前夫に滅ぼされ、父は前夫を滅ぼしたのである。
そして、二度目に嫁いだ鬼大城も新王朝に滅ぼされてしまう。
晩年は島尻の玉城村で過ごし、その生涯を閉じた。

 王女、百十踏揚は絶世の美女だったが、その生き様は薄幸の生涯だったのかもしれない。


鬼大城 (おにおおぐすく) について

名前  大城賢勇 (おおぐすくけんゆう)
唐名  夏居数   ( かきょすう )
喜屋武城主の栄野比大屋子の長男
1454~1460年に尚泰久に仕えていた。
鬼大城の由来
「 鬼 」とは超人の意の表れであり、武勇に優れ、
強かったことから「 鬼 」と呼ばれるようになった。 









『 月照らす涙星 』


作詞 ・ 作曲 新城京子


孤高に浮かぶ孤独な月 貴方と私を繫ぐ光
満ちゆく海に儚く消えるあの詩
泡沫のごとく まるで夢のごとく

風と波よ2人を繫ぐ月よ
永遠に散ざめく星よ
この涙を届けて 貴方に 貴方に

満ちゆく月が照らすは未来
波は静かに過去をさらってゆく
空に舞う群れ星に消えゆく願い
泡沫のごとく まるで夢のごとく

風よ波よ2人を繫ぐ月よ
永遠に散ざめく星よ
この涙届けて貴方に
貴方にこの涙を届けて

永遠に2人で繫ぐ月の光
貴方と



大分県院内の石橋 77 「 葛灰 ( かずらはい ) 橋 」

2013-09-18 06:20:35 | 大分の石橋



永さ3.5mの3本の桁が小川を跨ぐ








石はきれいに真っ直ぐに切られている







厚さ約40cmの桁が3本並んでいる







対岸の橋台は大きな石で築かれている







こうして見ると橋の造りがよく分かる







斜めに削った桁をクサビのような石で止めている







路面を合わせるために橋台で高さを調整している







葛灰橋への入り口がある旧・国道387号線のカーブ





所在地 /  大分県宇佐市院内町田所 : 田所川
架橋  /  不明
石工  /  不明
長さ   /    3.50m   幅   /  1.50m
高さ  /     2.40m  径間  /  2.10m
桁厚  /    40㎝   
単径間桁橋


葛灰橋は、現在は国道387号線が新しくループ橋になったため
旧・国道387号線を通らなくなったが、
その国道の一番奥のカーブを流れる田所川に架かる橋である。
橋は道路脇に出ている橋の案内板から山道を約8分ほど歩いて入った右側に架かっている。
現在の状況からすれば考えられないが、
その当時は山の中の桁橋が必要だったのだろう。

葛灰橋へのアクセス
葛灰橋へは、国道387号線をループ橋の方に行かないで、
旧・国道387号線を奥まで詰めるとカーブになった場所に橋が架かっている。
その50mほど先に右に入る道があるのでそこから7、8分ほど行くと右手に小さな看板がある。
そこを右に下りると橋が架かっている。
駐車は上の写真のカーブの広くなった場所に駐車した。



大分県日田市  「 日田グルメ ・ 日田まぶし 『 千 屋 』 」

2013-09-18 06:18:10 | グルメ





















昔から日田の街が好きで高校時代はよく自転車で往復したものである。
今は自転車で行くことはしないが、
今でも思い立ったら日田まで車を走らせる。

絶対的な数の減少で今や希少価値になりつつあるウナギ。
そんなウナギを贅沢にガッツリとかき込むために
わざわざ日田まで行くことがある。
熊本に住んでいた頃は、中の瀬にある 「 うなぎの徳永 」 によく行ったが、
近くにうなぎ専門の店がないし、歴史や温泉を楽しむことも兼ねて日田へ行く。

鰻を三度楽しめる ” ひつまぶし ” ならぬ 「 日田まぶし 」 に大満足である。