ぼんくら放浪記

Blogを綴ることによって、自分のぼんくらさを自己点検しています。

人類の進化大図鑑

2014-03-28 05:00:00 | 読書

大阪市長選挙始まって以来の低投票率だった橋下徹独り芝居が終わり、全く無駄な税金約6億円が使われてしまいました。流石に「これで大阪都構想が信任された」とは言いませんでしたが、大坂都構想実現のための住民投票を実現させようという態度は変わりません。私は住民投票が実現してもおそらく大阪都構想は否決されるだろうと思っています。今回の市長選で橋下氏が得た得票数は前回2011年の約75万票の半分しか有りませんでした。投票率が低かったからではありません、橋下氏が市長に適任だと思った人は今回の選挙に行った筈ですから、投票率自体がほぼ橋下氏の支持率であり、選挙をボイコットした人は殆どが橋下氏は市長には適任ではないと判断したのです。仮に橋下氏を支持していても今回は間違いなく通ると思って選挙に行かなかった人が居たとしても、維新の会側としては投票率を上げるのに躍起となっていたはずですから、それはごく僅かであったと思います。投票率が23,59%でしたから、橋下氏に委ねた人は有権者の4人に一人も居なかったのです。更に23,59%のうち13,53%が無効票、そのうちの9,04%が白票でした。他に3人の候補者がいましたが、3人の得票総数より無効票の方が多かったというのも珍しい現象です。

             

このような結果なのに、未だ都構想を追い求める姿は憐れでこそあれ、「やるなぁ」とは思えません。ひょっとしたら、もしかしてだけど、住民投票をすること自体が目的であり、またまた無駄な税金を使おうと思っているのかも知れません。

             

『人類の進化大図鑑』という7600円(税別)もする図鑑を買ってしまいました。以前、人類は何処からやって来たのか(タイトルは忘れた)というような本を読んだ覚えがあるのですが、自分のブログを探しても感想を残していないようです。人類の誕生や日本と言う国家の成立、或いはそれ以前の今住んでる島国がどのようなものだったのかというようなことに非常に興味があるので、大枚をはたいてこの図鑑を手に入れたのでした。

                       

学校で習った人類の起源って、黄河文明やメソポタミア文明などの四大文明が発祥の地だと長いこと思っていましたが、それって文明の発祥の地であって、人類の発祥とは全く関係なかったのですね。ゴリラやチンパンジーはヒトと同じヒト科の生物ですが、人間ではありません。ヒトに遺伝的に一番近いと言われるチンパンジーからヒトが分かれたのはいつ頃のことなのか、皆さんは興味無いですか?

       

私たちとチンパンジーの共通祖先が生きていたのは800万年~600万年前の間と考えられているらしい。800年前と日本で言えば平安末期であり、私などからすると遥か昔なのですが、それが1万回分昔なのです。これらの写真は化石を基に復元されたものですが、一番左が700万年~600万年前に生存していたと言われるサヘラントロプス・チャデンシス、化石はアフリカのチャドで発見されました。次が現生人類(ホモ・サピエンス)が属するヒト属の祖先ではないかとされるアウストラロピテクス・アファレンシス、370万年~300万年前に生存していたと考えられています。右はホモ・ハビリス、240万年~160万年前に生存、最初の石器と一緒に化石が出たそうで、名前の意味は“器用な人”。

                       

こちらは横や斜めから眺めた復元です。どの頭部もこのように撮られた写真は載っています。アウストラロピテクス・アフリカヌスと呼ばれ、330万年~210万年前に生存していたと考えられています。

       

左がホモ・エルガスター、現生人類と同じぐらい身長が高く、類人猿に似た祖先とは異なる外見をしていたようです。190万年~150万年前の生存と言われています。真ん中がホモ・エレクトス、化石が出土するのは3万年前まで住んでいたと思われるアジアから、生存期間は180万年~3万年前。勿論化石はアフリカからも出ています。類人猿には無いヒゲが生えてます。右がホモ・ハイデルベルゲンシス、ヨーロッパのネアンデルタール人とアフリカの現生人類の最後の共通祖先だったと考えられ、60万年~20万年前のヒト。

                       

左がネアンデルタール人、学名はホモ・ネアンデルタレンシス、この種が何故絶滅したのかは謎のままらしい。35万年~2万8000年前、化石はヨーロッパ全体からシベリア、西南アジアにかけて多方面で見つかっています。最後がホモ・サピエンス、初期のホモ・サピエンス集団には、ホモ・ハイデルベルゲンシスがホモ・サピエンスへと進化し、移り変わっていく様子が窺われると言います。700万年以上にわたって人類は進化を遂げてきましたが、人類の系統樹の中で生き残った枝は、ホモ・サピエンスだけだったのです。20万年前から生存しています。

             

人類の起源はほぼアフリカであると現在では考えられていて、アフリカから全地球に移動していったヒトがいたのです。この地図で赤い矢印がミトコンドリアDNAの解析に基づくもの、青い矢印がY染色体の解析に基づくもの、破線の経路が未知のものです。第二次世界大戦が終了するまで、ヨーロッパの列強国はアフリカやアジアの国々を植民地にしていき、今でも先進国と後進国あるいは発展途上国などと分別しているけれど、もともとのアフリカで生まれたヒトがヨーロッパに移動しなければ、ヨーロッパ人にしてもアジア人にしても存在すらできなかったのですから、その国の人たちをバカにすることは出来ません。日本人も殆どが中国や朝鮮方面からの移動なのですから、戦争したい人はすぐにそういうことを煽るけど、中国人や朝鮮人が日本人よりも劣っているなどと考えるのは言語道断なのです。

仕事ができるようになりたければ釣りをしろ

2013-12-09 05:00:00 | 読書

参議院でも自民・公明両与党による秘密保護法案の強行採決という暴挙が行われました。今回は野党を取り込むことも出来ないほどの反対意見で包囲されていたにも拘らず、野党が求める審議も尽くさなかったのです。何故このようなことになるのかは前にも述べたように、事の是非は論外に置き、議員の過半数を握っているという数の論理だけで、兎に角・遮二無二この法案を通したかった安倍政権の異常さがそうさせたのでしょう。安倍政権の異常さは石破幹事長の「デモはテロと同じ」というブログでの発言にも表れていますが、一旦は取り消し・謝罪したものの会見では同じことを繰り返し述べました。石破氏は国会を取り巻いて大音量で意見を通そうとするのは恐怖であり、テロの手法と何ら変わらないという趣旨の発言だったと思うのですが、平和的に意見を述べようとするのと、他人を殺してまで自分の意見を通そうというのでは天と地ほどの違いがあり、恐怖感と言えば数を頼りに意見など聴かないという与党の態度の方がよっぽど強権的であり、憲法で保障された民主主義を守ろうというデモ隊の声が恐ろしいと感じるのは、憲法や民主主義を根底から覆そうとする石破氏らにとっては恐怖なのかも知れません。でも騙されませんよ、石破さん、貴方達は完全に官憲に守られているのですから、テロと同じような恐怖を感じるなんてウソでしょ。

さて、今日のタイトルは最近私が読んだ本のタイトルを使っているのですが、私が釣りをする人間だから、私は仕事が出来ていたということを証明したいわけではありません。実際そんなことは無かったと言ってしまえば、この本の内容にケチを付けることになりかねませんから、私の仕事についての真偽のほどは置いといて、釣りと仕事の関係について、釣りをする以前、準備の段階から釣行、竿出し、釣りを終えた後のことなどを例に挙げながら、仕事との関係を説いているのですが、釣り仲間を増やしたいのか、仕事が出来る人を作りたいのか、その辺りの本音がよく解りません。

             

本屋に通わなくなって久しくなりますが、本を選ぶのには家に配達してもらっている新聞の書評などを参考にしながら、丸善・ジュンク堂からネット通販で買っています。何より送料が無料というのが嬉しく、これならわざわざ電車賃を払ってまで本屋に行く必要がありません。近所にある本屋などには私が読みたいと思う本などなかなか置いてないのです。

『原発ホワイトアウト』現役官僚による空恐ろしい暴露小説です。この本を読むと原発にしがみ付く政治家、原発を推進するための電力会社の策謀、原発によって電力会社が儲かっていく様子がよく解ります。現実を暴露しようとする正義感の強いジャーナリストは権力の手によって抹殺され、原発は国家によって守られているように思えるのですが、最終的には・・・、小説ですから結末はどうなるのか、起承転結がハッキリ描かれています。

平将門は平安中期の坂東の武者、時代も姓も違うのに木曽義仲とよく混同してしまいます。ストーリーの展開はほぼ将門記と同じですが、話の起の部分で将門は祖父の平高望から「帝を越える真の王となるであろう」との言葉を得、一方その場に居た同年齢の平貞盛に対して「我が一族の繁栄の礎となる者」と諭されます。以降この言葉が二人を呪縛し、二人は無二の親友にもなり、宿敵ともなって行くのです。『絶海にあらず』で藤原純友の乱を読み、今回将門の乱を読んだのですが、同時期に起こった二つの乱、まとめて承平天慶の乱と言いますが、この東西の乱が共に相呼応して行われていたら、歴史は変わっていたかも知れません。そうそうこの矢野隆という著者は、私が昨年訪れた久留米市出身だそうです。

                       

「慰安婦の存在は国家当局とは無縁」だとか「南京大虐殺など無かった」という戦争好き系政治家共が声高に叫んでも恥じない時代になってきました。先の戦争への反省も無く、当に秘密保護法が制定されるのですから、これからは戦争への道を突き進んでいくのでしょうが、戦前・戦中を体験してきた人が少なくなる中、こうした意図的でない話を書いている人の本をよく読んで、自分は戦争に協力したり、騙されることの無いよう努力しなければならないと思っています。

             

写真右の本は満州に暮らしていたという女性が綴った当時の思い出、政治的や歴史的な臭いの無いこういった人が書いているものが、案外真実を言い当てているかも知れないと思って読んでみました。満州に住む彼女らが本当に何も知らされてなかったということが、戦後になってから満州事変を知って行くという件からよく分かります。

相変わらず古事記や日本書紀に関心があるのですが、現人神などと言って国民を騙し、戦争へと駆り立てて行った天皇家の真の歴史、本当に“万世一系”だったのかが知りたいのです。こんな本を読んでも真実の天皇家の歴史が解る筈もないのですが、記紀を原文で読める力も無いので、納得できる解説書に巡り合いたいのです。

             

そろそろ年賀状を作らなければならない時節、足らないけど年賀状を100枚買いました。早く買えば抽選で何か貰えるというので、応募してみました。たまにこのような募集をしている葉書が入っている製品があるけど、たいていは50円切手を貼れと書いているので応募はしませんが、今回は葉書の販売・回収・配達元なのでなのか無料だったのでした。

ふるさと60年

2013-10-29 05:00:00 | 読書

久し振りに小説を2冊読みました。このところ経済や戦争(改憲)に対しての本ばかりを読んでいたような、つまり財界だけを潤おわすアベノミクスや自ら軍国主義者と呼べばいいというようなことを言う首相に振り回された感じ、それはそれで「騙されないぞ!」と必要なことだと思うのですが、実はとてもしんどいことなのです。何んと小説を読むのは去年の夏の『仁淀川』以来1年ぶりだったのですね。

             

2冊とも8月にジュンク堂の通販で送って貰ったもの、姫の家では読み切れず、大阪に持って帰って読んだのでした。働いていた頃のように出退勤時や営業先への行き帰りの電車内で読む機会は皆無となり、その分文庫本でなくても良いので、価格は高くつきますが、発行したての本を読むことが出来ます。

『王になろうとした男』は織田信長の家来の話、桶狭間の戦いで今川義元の首を挙げた新助が本能寺の変で織田家の為に命を落とすまでや、本能寺の変の首謀者は誰なのか(私にとって加藤廣の『信長の棺』以来の謎)、そして南国の黒人ヤシルバ、いったいこの本のいう“王になろうとした男”とは誰のことだったのか、そういうことを考えてしまう短編集でした。

             

一方この『鹿笛』も短編集ですが、数編の話には何の脈絡もありません。熊野川や白浜といった南紀の土地柄を題材にした話ばかりで、そう言う所に興味が惹かれたのでした。鹿笛とはシカを撃つのに雌のシカの鳴き声に似た音を出す笛、それを吹いて雄を呼び寄せて仕留めると言う猟があり、その猟を生業とする作次が出くわす怪奇な現象の話です。

                         

『鹿笛』の作者、宇江敏勝氏って何故か聞いたことのある名前なのですが、どのようにして知ったのか全く覚えていません。そしてこの本を手にするまで作家であることさえ知らなかったのですから、何処でこの名前を見たのか、とても不思議な気分になっているのですが、おそらく私のアルツハイマー症がどんどん進んでいる証拠なのでしょう。

             

タイトルの『ふるさと60年』は絵本です。込み入った絵本というのは大人が読んでも楽しいもの、それが丁度私が生まれた頃から今に至るまで(ホントは1946年ごろから近未来まで)、私の生き続けた年代を、同じ箇所から同じ場所を見続けたら、こう変化していったよという鳥瞰図的な描かれ方が面白い。表紙にあるのは最初の1946年ごろ、何処であると言う設定こそありませんが、終戦から1年経って、遠くで汽車が走り、川には木の橋が架かり、畑にはスイカが転がっているというような農村の風景、オート三輪が走り、道は全く舗装されていません。

             

こちらは1986年ごろの風景、汽車が走っていた所には新幹線が走っており、殆どの家は取り壊され、ビルに建て替わっています。更に工事が進行中、バブル経済絶頂の頃でしょうか。川に架かっていた橋は無くなり(1976年の絵では既に無くなっていた)、コンクリートで覆われたのでしょうか、駐車場に変身しています。写真では分かりませんが左部分に最初から建っている神社がそのまま残っています。

それから10年経つとこんな農村だった所にも高層ビルが建ち、埋め立てられ駐車場になっていた川は子供たちの遊び場として復活してきます。

そして最初の写真は近未来図、コンクリートの道は無くなり、川の水や地道も多くなり、川で泳いだり、魚を釣っている姿も描かれています。老若男女が全てくつろげる場として存在するのですが、さてそんな希望通りにことは進むのか、そんなゼニにならんようなことはさせるものかと、きっと新自由主義者たちはキバを剥いていることでしょう。

文を担当した道浦母都子さんは和歌山県出身の歌人、絵を担当した金斗鉉さんは韓国の人です。21世紀が平和な時代でありますようにとの願いが込められています。

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脱原発

2013-09-10 05:00:00 | 読書

2020年開催のオリンピック会場が東京に決まったようですが、もう過去に一回開催しているのに(何度も開催している都市はあるけど)、何故未だ開催されていない所でやろうとしないんでしょうね。マドリードもイスタンブールも共に一度も開催していません。私の立場では2020年ともなると生きているやら死んでいるやら判らないし、仮に生きていたとしてもはるばる東京まで観に行きたいとは思いませんから、未だ開催されていない所でした方が良かったのです。トルコのイスタンブールなら、もし生きていたら行こうと思ったかも知れません。それにしても決定前のマスコミは何処に決まるかばかりの報道を繰り返し、あたかも放射能漏れの福島から目と耳を逸らさせるのが目的ではないかと思ってしまうほど、日本国にとって何処にオリンピック開催のメリットがあるのか、巨額の税金をハコモノ造りに投入することはゼネコンにとっては濡れ手に泡なのでしょうが、そのお金を被災地の復興や原発の放射能漏れに使おうとは思わんのかと、総理大臣に問い詰めたくなります。G20もそこそこにブエノスアイレスに飛んだ首相は人が困っていることより、(寄付をたくさんくれるので)財界が儲かる方を優先したのですね。


福島第一原発の事故が起こって2年半、民主党・野田内閣の時に早くも収束宣言を出したのですが、ここにきてタンクから汚染水が漏れていることが連日報道されているのに、時間などいくらでもありながらも被災地に行ってみようなどとは思わない(少しぐらいは思ってるのですが)私は、実際に現場を目で見ることも無く現実感が乏しいからなのか、ベクレルやシーベルトという放射線量、セシウムやストロンチウムなどの元素は読んだはずなのに、今となっては何も思い出すことができません。

この記事は書こう書こうと思って、おそらく現役で働いていた頃から用意だけはしておいたものの、一向に筆がと言うか、指がと言うか、頭が進まなくて、投稿する日付を延しに延して、ようやく書く決意をしたのですが(雨続きでネタが無いので)、読んだ本の中身はもう既に全く覚えていないのです。

                  

あまり事態が飲み込めてない私ですら、放射能に汚染された水が海に流出するようなことになれば、どういう事態になるのか・・・それ位は数字で判らなくても空恐ろしくなるのは当然です。安倍内閣は野田内閣の収束宣言に対して、収束と言える状況に無いと言いながら、片方では原発は安全だと言い、開発途上国へ原発を輸出するのに躍起となっています。

             

こうしていろんな本を読んだのは、きっと一昨年の大震災で原発事故が起き、乱立する原発について国民としてもっと知っておかなければならないと思ったからだったのでしょうが、2年半を経て中身を忘れてしまっているようでは読んだと言えるのかどうか、ただ原発に頼っていては産廃処理が付きまとうので、いつか大変な地球になってしまうのではないか、使用済み核燃料を地中深く埋めに埋めていけば、いつかこの地球が吹っ飛んでしまうような大爆発が起こるのではないかと、その時にはもう生きていようも無い私ですら思ってしまうのです。

             

過去のことを人類にはどうすることも出来ませんが、自分が生きていない未来は、生きている時に考えておく、そのための行動をとるというようなことが可能であり、望まれると思うのです。例え未来が刹那的な欲を求める権力者の思う通りになったとしても、未来のことを思って考えていた人がいたことも残って行くでしょう。まぁ、地球が吹っ飛んでしまうような大爆発が起これば、地球と言う星も、そこにいた人間と言う生物も、誰が何を考えていたのかも、全く消え去ってしまうのですがね。

                  

せっかく歴代の総理大臣に二度も名を連ねたと言うのに、地球が破滅じゃ何も残らないんですが、安倍首相などはそれでもエエと思っているのでしょうかねェ。そんな(地球が破滅する)ことが起こる筈がないと本気で思っているのかも知れません。物質的なものはみな運動をしていると言いますから、地球も自己運動の果てに消滅するのかも知れません。私は歴代の総理大臣に名を残したところで何の意義も感じませんが、どうにかして地球と言う星が少しでも長く存在し続けて欲しいとは思っています。だから原子力エネルギーなど人為的なものは人の手によって食い止めなければならないと思うのです。

             

福島第一原発の事故に対しては東電任せにせず国家的に責任を持って収束させると言うようなことを言い出しましたが、本気でそう思ってるなら、就任直後に表明すればいいものを、このタイミングで言い出したのは世界の各国が“東京開催のオリンピックは原発事故があるので危険だ”と言い出した後のこと、またもやオリンピックを招致して、点数を上げたかったのが見え見えです。

             

私としては原子力に頼らなくても電気は供給できると思っています。原子力につぎ込むお金があったら再生可能エネルギー、自然を生かしたエネルギーに政策を返還すべきです。それが人類のとって何よりなのです。電力会社に儲けを保証しているようでは政治家ではなく政治屋でしょう。

それにしても関電が電気料金を値上げしたのは(5月でしたが)腹が立つ、ネットの料金は他の会社よりも安くしておいて(ホンマに安いかどうかは知りませんが)、半ば独占で取り扱う電気料金は値上げするとは、本末転倒、全くケシカランのです。

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読書

2013-08-09 05:00:00 | 読書

現役で仕事をしていた頃は家と職場の往復、職場と営業場所の往復と電車に乗っている時間が多かったので、頻繁に(麻生副総理では無いので「はんざつ」ではありません)本を読んでいる時間が有りました。現役を退いた昨今、時間が有り余ってもっと本が読めるのかと思っていましたが、何故かあまり読めてはいません。きっと本屋へ行くことが殆ど無くなってしまったからなのだと思うのですが、そういうことでは自分の知識を高めていくことなど出来ません。

増税されることがイヤやし、アベノミクスも気になるので、消費税や最近の経済について少し勉強してみました。もうかなり前に読んだので、その時は理解していても、今となってはここに書くほど覚えてはいません。とは言え、消費税が3%も上がることが良いことなのか、悪しきことなのか、それって知りたいじゃありませんか?テレビの討論などを見ていると、もう既に消費税が8%、10%の世の中が当たり前にした議論ばかり、消費税増税は絶対ダメ、他に道はあるという論者を何故呼ばないのか、何故増税有りきから始まるの?って気分になりませんか。

消費税率の引き上げ分は全て社会福祉に充てると言う国会の論議でしたが、どの税金をどの費用に充てるなどと言うような、そのような決まり事があるのでしょうか?仮にそんなことが有ったとしても、消費税を上げた分だけ大企業向けの法人税を引き下げることを決めようとしているのですから、じゃ今のままでも社会福祉に税金を使ったら良いじゃないですか!何のために法人税を下げる分だけ消費税を上げるのか、税金の収支は同じなのに・・・意図することは分かっているけど、私も日本国民の皆さんと同じように騙されていることを知らないでいようとするなら、惚けなければなりますまい。いやいや惚けているわけには参りません、何故そんなに格差を拡げなければならないのか、法人税引き下げの為が目的の消費税増税(政府は絶対にそのようなことを口にすることは無いでしょうが)には反対しなくてはなりません。西欧のように高福祉・高負担が本当の意図ならそれも視野に入れなくてはないますまい。

             

経済が好転している(私とすれば、そんなことはこれっぽちも感じてないのです)と自画自賛の総理大臣ですが、ここに来て改憲したいという思いはどうやら胸に秘めたままのようです。日本国を天皇中心の国家に取り戻したいし、戦争できる国へと舵を切りたいのですが、憲法9条を変えるために先ず憲法を変え易くする96条を変えると言いだしました。でもたちまち国民の総すかんを食らいました。でも法衣の下の鎧はちゃんと見えたまま、自民党がどんなことを考えているのか、よく知っておかねばなりません。

                      

まぁ、読んだとしても落語の話など役に立ちそうにはありませんが、何故この本を買う気になったのでしょう。この本に登場する新作を語る落語家には、私が慣れている関西の落語家が居ないようで、そこからして親しめないのですが、日曜夕方6時前の『笑点』に出ている人が一人居ます。

この本の中に『佐藤栄作の正体』という落語が載っています。山口県の片田舎に造り酒屋の佐藤秀助という人がいまして(ここだけ落語口調)、明治22年に長男が生まれます。物凄く秀才だったようで、海軍に進みましたが歴史に名前を残すほどでは無く、明治29年に生まれた二男を信介と命名。親の秀助は元来佐藤家の人では無く岸姓だったので、次男に岸家を継がすことにしました。分かるでしょ、現総理大臣の祖父です。次男誕生から5年経った明治34年、三男坊が生まれますが、女の子もいますから7人目の子供でした。落語では7人目にもなると(継ぐのに)良いものも残っていないと揶揄されますが、せめて名前だけでも良いものをと付けた名前が栄作だったのです。落語ではその幼少時代からの生き様を総理大臣に登り詰めるまでの悪行に重ね合わせています。まぁ少しは歴史の勉強にはなったかな。

             

厚さ2cmぐらい、340ページもある本、3000円もしたんですよ。孔子から毛沢東まで網羅してあります。古代のことの方が内容が詳しく、近世の思想家は端折ってあります。

             

左の本は史料・資料に残っているものだけを取り上げて、その史・資料を原文で掲載の上で解説されています。右側の本は戦後史ですから、私が生まれる5年ほど前からの解説、対米追従か日本の自主独立路線かの対立で描かれています。前述の岸信介はCIAから資金援助を受けて(今の自由民主党を成立させた)いて、日米安保条約を締結した人物なので対米追従派だと思われがちですが、実は自主路線を模索していたとあります。そのDNAを受け継いだ孫である現総理大臣はどうなのか、一見アメリカ好きなように見えますが、アメリカからは危ない人物だという評価が下されているのがよく解るような気がします。

             

こちらは今夏読もうと思っている本、夏になると先の戦争を取り扱ったものを読むようにしていましたが、最近は夏でなくてもそういった傾向のものを読んでいるような・・・最近は小説を読まなくなった私です。これもきっと本屋に立ち寄ることがなくなったせいだと思っています。岩波書店は創立100周年だとか、権力に対して立ち向かうような本を何度となく出版していますが、迎合したようなものも出版していて、戦時中でも紙の支給を特別に受けています。でも言論の自由を守るという点では頑張った出版社だと思っています。

             

最近買った本は全て通販でなので、ブックカバーは全て同じMALZEN&JYNKUDOのものばかり。でもカバーを付けてくれるし、送料無料、こんなサービスが有難いのです。ただ栞を付けておいてくれたらもっと有難いのですが。

             

でもどの本にも売上カードが入ったまま、補充注文することなど無いのでしょうか、栞の無い時は代わりとして使うけど、結局最終的には無用のものになってしまうのでゴミになるだけなのです。

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非業の生者たち

2012-10-12 05:00:00 | 読書

タイトルは『非業の生者たち』、“非業の生”などとはあまり用いられない言葉です。普通使われる“非業の死”という言葉とは全く逆な用い方なのです。しかし、非業の意味“前世の業因によらないこと”或いは“前世の善因を受けないこと”或いは“運に恵まれないでみじめなこと”から察すると、そういう境遇を経て生きている人も存在することは可能です。

著者は37年前から沖縄において集団自決についての取材を始め、沖縄以前に集団自決が行われたサイパン、グアム、テニアン、フィリピンそして戦争が終結したはずの満州まで足を運びます。取材したサイパンから沖縄までは日本陸海軍が連合国に連敗して敗退していく過程であり、集団自決を決行のは軍人ではなく、民間人だったのでした。そして敗戦のどさくさに相互不可侵条約を破って侵攻したソ連軍から逃げる“軍から置き去りにされた”民間人、満州には葛根廟というところがあったんですね。聞いたことが無かったけど、残された民間人は軍や官僚が乗った汽車には乗れず、歩いて(紆余曲折はあったものの)4km進むのに要した時間で、列車に乗った特定の貴人たちは120kmも彼方に逃げてしまっていたのです。

             

この本のテーマ“集団自決”については詳しい著述がそこいら中に散見されますが、かいつまんで書きますと、明治以来、天皇を押し戴いて教育された『修身教育』『教育勅語』『軍人勅諭』『戦陣訓』等の賜物であり、例えば1878年に陸軍卿山縣有朋が達示した『軍人訓戒』“・・・不忠ト卑怯トノ汚名ヲ以テ祖先ノ遺物ニ傷クルコトナカラン・・・”、翌79年天皇が公教育に対する介入の初めとなった『教学聖旨』、日清戦争時に同じ山縣が訓示した「万一、如何なる非常の難戦に係るも、決して敵の生擒(いけどり)する所となる可からず、寧ろ潔く一死を遂げ、以って日本男児の気象を示し、日本男児の名誉を全うすべし」、つまり「死は鴻毛より軽しと覚悟せよ」なのです。山縣が目指した日本人の死生観作り(つまり国民作り)を基とした政策が、65年間親子三代に亘って押し付けられていたのです。他方、これは軍によるプロパガンダ『鬼畜米英』に顕れているのですが、生きて捕虜になれば女は強姦された上で殺され、男は2台の戦車に足を縛られそれぞれ逆方向に走り股裂きにされる(自軍が朝鮮半島や中国で行った蛮行そのもの)などというデマ宣伝と結びついて、アジア太平洋戦争での集団自決に繋がっていったのです。日本帝国の軍隊が犯した他国での蛮行をあたかも連合国の軍隊もそうであるかの宣伝をするのは、敵もまた我等と同じと見ていたのか、それとも単に集団自決の為のデマを飛ばしただけなのか、その辺りのことは著述されていません。

集団自決とは自ら命を絶っているようにも見えますが、実は国家からの強要だったのです。戦争に至るにあたっては治安維持法が施行され、様々な思想が弾圧されました。しかしここでもあまりにも自由な教育を奪われて無教養だったとは言え『だまされることの責任』があったことには違いないと思うのです。

             

本書の裏表紙の返りにあった褒賞状の写し、この受賞者の知花幸子の名はチビチリガマで亡くなった家族の表の中にしか出てきませんが、当時25歳というこれからの人生を終わらせた(終わらせられた)故人への褒賞など何になるというのでしょう。これでは戦前教育への逆戻りであり、天皇への忠誠こそが立派だと未だに示していることになってしまいます。佐藤栄作はこういう璽を押させるという行為でノーベル平和賞を受賞出来たんではないでしょうね。

                       

並行して読んでいたのがこの本、タイトルは『良心と義務』となっていて、主に教育現場における“日の丸”“君が代”問題を追っています。“日の丸・君が代”と言えば大阪府知事時代の橋下君を思い出しますが、教育委員会に難問を押し付け、気に入らない教育委員は首を挿げ替えたことを思い出し、先ほどの政治権力が公教育に介入する明治時代の暗澹たる惨状を思い起こさせるのです。

全くの偶然ですが、先の『非業の生者たち』の中に登場する知花昌一という人も登場します。名前は忘れていてもこの人に係る事件は忘れていない人も多くいると思います。それは87年の沖縄国体の読谷村のソフトボール会場での出来事、センターポールに掲げられた日章旗を引き摺り下ろして焼いたのがこの知花さんでした。沖縄の人々にとっては、日本国の琉球王国侵略の象徴としての日の丸、そして本土の防波堤とされ、多くの沖縄の人々を死に追いやった天皇や軍部を許すことが出来なかったのでしょう。知花さんはその後、三期にわたって村議を務められていたのでした。

                       

国民主権が宣言されて久しい現在、「“君”が天皇を指し、その世が永遠に続くよう」にと願う歌を国歌と定めることとは矛盾すると、真摯になって考える人は多数いると思います。法律で国歌と規定されていますから国民としては認めざるを得ないのですが、認めることと歌うことは別問題、当に良心と表現の自由に関する問題であって、決して誰かの命令で強要などしてはならないものなのでしょう。起立・斉唱しない者には処分するなど、自由・人権を踏み躙った治安維持法を彷彿させると私は思うのです。全国維新の会が政権を取り、代表が総理大臣になれば(その頃には私は生きてはいないでしょうが)、先の山縣有朋の再来と言っていいのではないかと危惧するのです。現の大阪市長は言います、「従軍慰安婦を強制連行したという証拠は無いのだから、謝罪など必要ない」と。きっと集団自決に関しても「自決を強要した証拠など無いから、そんなものは国の責任ではない」んだと。経験してきた人々の切実な声は信用ならないらしい。

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最近読んだ本

2012-09-03 05:00:00 | 読書

最近は読書の記事が少なくなっていて、気にしていました。働かないようになってから時間が有る筈なのに、この前に読書感想を書いたのは5月初旬の『おじさん図鑑』でした。4ヶ月間も放ったらかしなのですが、何も読んでなかったのではありません。GWの記事や九州旅行、それが終わればお盆の記事と、次から次へと書くことがあるので、読書の記事は後回しになってしまっていました。ここでどうしても書いておかないといけないタイミングになったので、一つづつは紹介するのが面倒(だいぶん前に読んだので忘れていることも)なので、一気に紹介しておきたいと思います。

まず本多勝一の2冊、ベトナム戦争時に朝日新聞の記者としてアメリカ侵略軍側にもベトナム解放軍側にも従軍した方ですが、『戦争論』では戦争を侵略する側とされる側に分けて考えています。言われ無き侵略を受けた側の防御としての戦争を肯定しており、所謂一般的な「戦争はイヤ」とか、「戦争は怖い」とか、「戦争をしあらアカン」と言う論調ではありません。日本国憲法第9条に関しての記述はありませんが、侵略する側に対しては旧の日本軍に対しても現のアメリカ軍に対しても鋭く糾弾をしており、アメリカ軍の侵略行動に日本の自衛隊を派遣すべきではないと断言しています。先日、内戦中のシリアで旺盛なるジャーナリスト精神で取材中に、政府軍の銃弾に斃れた山本美香さんの葬儀がありましたが、やはり生き続けていてこそのジャーナリスト、死んでしまっては何を感じたのか、何が言いたかったのかが解りません。本多氏にはよくぞ生きて、そしてたくさんの書物を残したものだと思うのです。

一方の『日本論』、ロシアによる千島全島への侵略、アメリカによる日本国への自衛隊派遣要請、米軍基地提供問題などを取り上げて、我国外交の弱腰を突いています。その政権を選んだ日本人大衆も同様の糾弾対象ですが、日本人を“羊の遺伝子”を持った国民だと言うのです。この本では取り上げてはいませんが、事ここに至っては本多氏が韓国との竹島問題、中国との尖閣諸島問題をどう考えているのか知りたいものです。この本自体は『週刊金曜日』という雑誌からの抜粋ですが、ある日、本屋で『週刊金曜日』を手にしてみたのですが、竹島・尖閣に関する記事は見当たりませんでした。

             

次に2冊の岩波新書、一方は網野善彦氏の『日本社会の歴史』、単なる日本の歴史ではないところが着目点、上・中・下の三分冊ですから全部読んだ後の感想としましよう。

もう片方の『だます心 だまされる心』の安斎育郎氏は、一時ユリゲラーなどの超能力よる“スプーン曲げ”が流行った時期がありましたが、今でも時々“スプーン曲げ”なるものがTVで見ることがありますが、その頃に大槻教授(今ではお調子者になり下がってTVに出ていることがある)と共に「超能力などはあり得ない」と声を上げ、TVにも出演されていた立命館大学の科学者です。本屋で見ていると原発問題にも著書があるようです。

だますという意味の漢字には“騙”“瞞”“詐”“欺”などが当て嵌められ、夫々の意味から解説が始まります。だますということには心をリラックスさせる部分もあると肯定的な面と、国家が政策の実現のために国民をだますというようにあってはならないこともあると言います。この著書の目的は後者の方で、騙されないためにはどうしたらいいのかも記しています。

                       

『五感で読む漢字』つまり、目(見る)・耳(聞く)・鼻(臭う、或いは匂う)・口(味わう)・手(触る)の五感から漢字の成り立ちを説明しています。

著者の張莉という人、中国人のようです。私には中国人の名前から推して男か女か判りませんし、読んでいても判りませんでしたが、読了して背表紙に至った時に写真がありました。女の人でした。1996年に留学のために日本に来ていますから、もう日本語もペラペラなのでしょう。

             

この文字から解るように甲骨文字を拠り所として研究しています。白川静氏と同じ系統だということが出来ます。故に同じような解釈がいくつも出てきます。

この字は『夢』、この夢という字を年賀状や寄せ書きに書きたがる人が大勢いますが、この甲骨文字で書いてみてはどうでしょう。因みに私は一般的に言われる目標とか精進の糧とか憧れとかの『夢』という意味も概念もあまり好きではありません。眠っている時に見る夢は、何故こんな夢を見たんだろうと時々興味深く振り返ることがありますがね。

                       

この帯の一節は本文からの引用ですが、これだけを読んでみても昔から同じ漢字を使っていながら、中国人と日本人の感覚の差が出てきているのは、どっちが良いとか悪いとか言うわけではありませんが、興味深いものです。

でも魚釣島に中国人が(不法にしても合法にしても)行く、そうすれば日本人も同じような行動を取る、どちらもバカとしか言いようがありませんが、どちらのに国も同じような人間がいるのは間違いありません。

             

漢字の話から、そして“羊の遺伝子”の話からではありませんが、加藤周一氏の『日本人とは何か』です。前述の本よりこちらの方を先に読んでいます。

本書冒頭、“日本人とは、日本人とは何かと言う問いを、頻りに発して倦むことのない国民である”という答えなのか何なのか解らない一節から書き始めています。しかしその傾向は本居宣長と国学から始まり、明治以降は顕著だとした指摘がありました。

この本自体初版が1976年ですから、前の会社に入社して6年経った頃のもの、未だ株式会社では無く公社の時代でした。35年前のものなので当時の著名な文化人の名前が出てきてもよく知らないのですが、文章を今読んでも何ら違和感はありません。きっと当時読んでたら理解できなかったでしょう、当時は日本人とは何なのかという問いすら発したことのない凡庸な人間でしたから。

             

加藤周一氏が亡くなって早いもので、もう3年を経過しています。この人の論文は多過ぎて流石に手が出ませんが、少しづつでも読んでみたいと思っています。少し前に氏の『三題噺』という文庫本を読んだ覚えがあるのですが、感想文は書いていません。

『日本人とは何か』、こういった論調の本がたくさん出回っていますが、よくよく考えてみると小説にもこの題材を扱ったものが多数存在するのではないのかと思ったりもします。

             

論文調の本ばかり読んでいた昨今ですが、最近久し振りに小説を読みました。宮尾登美子の『仁淀川』、興味も無い筈の宮尾登美子のこの本を何故読んだのかは、明日以降すぐに解るのですが、終戦当時、命からがら満州から引き揚げて高知の田舎の主人の実家に移り住んだ綾子の物語です。都会育ち(といっても高知市なのですが)の主人公が、その奔放な性格と田舎の古い風習との狭間での葛藤、結核を患い、姑からの期待に応えきれない苛立ちなどが描かれています。

             

この『仁淀川』を描く以前に『櫂(映画化された)』『春燈』『朱夏』という一連の作品があったようで、この『仁淀川』が最終なのだとか、でも読んでいて、話はまだまだこれからみたいな気になりました。でも以前に書かれたという一連の作品を読もうという気持ちは起こりません。

主人公の綾子は実は宮尾登美子本人であり、総じていえば宮尾氏がどのようにしながら作家への道を歩んでいったのかが理解できるストーリーになっています。

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おじさん図鑑

2012-05-02 05:00:00 | 読書

先々月末まで勤めていた会社が、来年度から50歳定年制を廃止すると発表したそうです。今行っているハローワークでも会社が50歳で定年させているとうことを言うと、職員の方は「いくらなんでも早過ぎますね」と言っていました。2002年から始まったこの50歳定年制は50歳で定年させて、以降はグループ会社で60歳まで賃金を2~3割カットして働かせ、その後は時間給で65歳まで雇うという労働者の生活にとっては過酷なもの、定年延長法の網の目を潜っていると指摘されても仕方ありません。一方50歳で定年するなんていややと表明した労働者に対しては(私もそのうちの一人なのですが)、他所の地方へ行ってする仕事に必要なスキルや必然性など無いにも拘らず遠隔地配転を強行、遠距離通勤や単身赴任などで通勤費は月に10万円以上(月10万では年120万も要るのですよ)も費やし、借り上げマンションにしても月5万円をも無駄にしながらイヤガラセを続けてきたのでした。会社の収益を黒字にするためのリストラは、他方でこんな無駄遣いをしていたのです。この10年の間には大阪や北陸、あるいは四国などから配転させた労働者から裁判を起こされ、会社側が敗訴しています。

この方針の変更には何らかの経緯や意図がある筈ですが、そのようなことは明らかにはしていません。ただ会社と一体となって50歳定年制を推し進めてきた労働組合が“採用から65歳まで働き甲斐を持って安心して働き続けられる制度”の確立に向けた取り組みをするという方針を作った拠り所が、組合員の「(年金収入がある65歳まで)働かなければ生活が成り立たない」という多数の意見であり、自ら推し進めてきた方針を180度転換せざるを余儀なくされたのです。会社には会社なりの意向があろうとは思いますが、会社と言っても法人と言う人格があるわけで、人間ならば失敗をしたなら反省をして新しきに備えるという行為をするものなのですが、この法人と言う奴は失敗だったと思っているのかいないのか、反省の言葉が見られません。

きっとイヤガラセで配転させたのに、案外イキイキと楽しんでいる労働者を見て、「効果が無かった」などと思っているのかも知れません。

来年からは50歳定年制が無くなるわけですが、私までの10年は良い(決して良いものではありませんが)としても、以降50歳での定年を拒否した人たち(要するに私たちと同じ職場の人たち)への対処が迫られるのだと思うのですが、具体的な話は一切聞こえてきません。踏んだり蹴ったりなのは50歳で定年を選んでしまった人たちです。制度が始まってから来年までの11年間に50歳で定年を選んだ人はかなりの数に上るのです。今年50歳定年を迎えた人と来年からはそのような制度の無い人では、同じ職場で働くのに生涯賃金が違ってくるはずです。自分の一生の中でたまたま制度のあった11年間(11年間に20年分の人がいるのですよ)に50歳になったというだけで、そういう不利益を蒙っても良いものなのか、50歳で定年を選んだ人も、拒否した人も共通して貧乏くじを引かされたと言っても過言ではないでしょう。

             

さて、本題の(どっちが本題か解りませんが)『おじさん図鑑』、私も他人からオジサン呼ばわりされる歳になってしまいました。若い子たちから見ればずっと歳を取っているからオジサンなのでしょうが、自分的には(年齢的には自覚しているのですが)オジサンなどという意識は毛頭ない、そんな範疇には入ってないと思っているのです。なので小学館から出版されたこの『おじさん図鑑』という本を見つけたので、私はどの分類に入っているのか確認しようと思って購入したのでした。

子供の小さい頃に福音館書店発行の『遊び図鑑』という本を買っていろいろ試した経験がありますし、確か『冒険図鑑』というのも買った筈ですが、そちらは見当たりません。こういう手の図鑑って結構面白いのです。

             

中を少し見せてあげます。こうやってオジサンを分類しています。

             

例えばかわいいなどと言うのは客観的な分類ではなくて、かなり主観的な分類です。ですから科学的な根拠を持った図鑑ではないのです。

             

イラストが面白いと言えば面白いのですが、全てがカラーなのではありません。

             

このように写真のページもあります。最後の方に20人程度のインタビューが載っているのですが、好きな女優に挙げられている上位から米倉涼子で3票、蒼井優ってどんな人か知りませんが2票、もう一人2票得たタレントがいましたが、なんと南沙織!?って・・・やはりオジサン丸出しですね。

             

ほとんどが東京取材なので、私とは感覚が違うなぁと思ったりもします。去年の12月に初版発行でもう6刷目ですから、結構売れているんですね。帯に“全ての若者に捧ぐ”などと書かれていますが、どれだけの若者が買ったことやら・・・オジサンが他のオジサンのことを知ろうとして買った方が多いような気がします。

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賞品

2012-04-19 05:00:00 | 読書

会社へ行くことが無くなって、悪友に飲みに誘われることが無くなり、最近は深酒する機会も無く、もちろんお金も有りません。無い無い尽くしなのでお酒も家で嗜む程度、深酒した折は朝までグッスリ眠れたのですが、今も眠りに就くのは以前と変わらず9時か10時頃、夜中の2時や3時に目が覚めて仕方がありません。就労中なら仕事に差し支えるからと無理にでも眠っていましたが、今はそういう気遣いも無用の身、目を醒ましたら横になったままベッドで本を読む夜というか朝というかが続いています。

先々月串本に帰った折に新潮文庫の『Yonda? Club』の応募券が貯まったのでブックカバーを貰おうと応募した記事を書きました。2月の下旬のことでしたから、まだまだ寒さが身に滲みる頃でした。応募要領には発送まで4ヶ月かかると書いてあったのですが、到着したのが3月下旬のことでしたから、忘れる前にやってきたという感じです。新潮社の予想より応募する人の数が少ないのかも知れませんし、以前新潮社から貰ったものもそんなことが書かれていたのに早々と到着した経緯があるので、大袈裟に言っているのかも知れません。

             

同じ2月にブックカバーを4つも買ったのに何故またブックカバーなのか、それは新潮社が用意している商品の中に他に欲しいものが無かっただけのことなのです。

             

革製かと思っていたのですが、布製です。未だ使ってはいませんが、見た限りではどうも使い勝手が悪そうな気がします。ファスナーが付いているので本の他に何か入れれるようになっているのかと思っていたのに、そうでも無さそう、ひょっとすると無用の長物になってしまうのかも。ブックカバーで自分のブログを検索してみると、5年前にも新潮社から貰った形跡があるのですが、使った覚えも無く、何処にあるのかさえ不明になってしまっています。

             

先月田舎で詠もうと帰る間際に買った本が2冊、双方ともたまたま講談社のものだったのですが、中に解説目録を進呈するという応募はがきがあったので、それも応募しておいたら早々と届きました。文芸文庫を買ったのは井上靖の『補陀洛渡海記』が最初でしたが、他の文庫本より値段が相当高いので意見として書いておきました。

学術文庫の目録を読んでいると、読んでみたいと思う本が続々とありますが、無闇にあれこれ読んでも身には付きますまい。書店へと足を運ぶ機会も減ったこの身ですから、新聞の書評やこのような目録が本を選ぶ際の参考になることでしょう。

                       

韓流という言葉が好むと好まざると使われ初めて久しいのですが、TVで放送される韓流ドラマを観たことがありません。しかし、パチンコを全廃したという韓国、宇宙開発と銘打って弾道ミサイルを発射した北朝鮮、元は高麗、李氏朝鮮という名の一つの国でした。その国の支配思想が脈々と受け継がれた儒教であったことと、二つに分かれた国がそれをどう受け継いでいるのか、あるいは否定しているのか。そういうことを知りたかったのです。

彼の国を支えてきた儒教と言う思想がどんなものであったのか、興味があって読んでみたのですが、儒教と言う思想がどのようなものであるのかを書いた書物ではありません。要は儒教内部それも儒教の一派に過ぎない朱子学の各派閥の争いの中で勝ち得た者が政局を支配した歴史が語られています。そして朱子学こそが儒教であるという一尊主義が朝鮮の科学や経済の発展を阻害してきたことを強調しています。

             

但し、朝鮮を支配した儒教にのみ焦点を当てているわけでもなく、それぞれの時代の中国(漢から三国時代を経て隋・唐・元・明・清など)や倭国や日本国の歴史と対峙しているので、東アジアの歴史の流れが掴める一冊となっています。でもイマイチ韓国へ行ってみたいとも思わない私は朝鮮の地理が頭に無く、600ページ弱にも及ぶ論文は理解がし難いものでした。

時折頭を過るのは北朝鮮のこと、彼の国が社会主義的政策が執られている国、国名の如く民主主義国家だとは思ってない私ですし、理に適わない行動を取り続ける国でもあり、何とかならんのかと思いますが、現の大阪市長のようなあからさまな敵意を剥き出しにするのは如何なものかと思っているのです。

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茜に燃ゆ

2012-03-14 05:00:00 | 読書

日本国の古代ものを読むのは久しぶりです。丁度倭国から日本国という名に変わった頃の話ですが、そのようなことはこの話では出てきません。この本の上巻は古代ものを読んでいた頃ですから、4年ぐらい前に買ってあったのですが、なかなか読もうという気が起こらず、放りっぱなしになっていました。丁度、藤白王子を訪ねた際に有間皇子のことが再浮上したので、読んでみようと思ったのです。

古代の系図というのは素人の私にとっては結構ややこしいものでしたが、この本を読んでみると以前読んだことのある名前が次々と登場して、案外頭の中は整理できているものだなぁと思ったのでした。舒明天皇の后であった皇極天皇の子、中大兄皇子(天智天皇)と大海子皇子(天武天皇)、皇極天皇の弟が孝徳天皇であり、天智の異母妹である間人王女が孝徳天皇の后になるのですが、歳が離れていて間人は孝徳になじめず、中大兄と関係を持ってしまう。こういう点では中大兄は異常な好色家であったのだと思うのです。中大兄は妃として蘇我倉山田石川麻呂の娘・越智郎女を宮廷に入れており、二人の間に鵜野讃良皇女(持統天皇)を生み、大海子皇子の妃であった額田王を得るために大海子皇子に鵜野讃良王女を妃とさせるのでした。

             

こうなってくると中大兄皇子の振る舞いは尋常ではありません。私などから見ると現の大阪市長も尋常ではありませんが、お子さんはたくさんいらっしゃるようですが、ここまで好色家ではないでしょう。

中大兄皇子は藤原鎌足や大海子皇子と組んで、百済を滅ぼした唐と新羅の連合軍と戦いますが惨敗します。当初中大兄が信頼していた大海子は次期の天皇にと考えていたようですが、中大兄の妃であった伊賀采女との間に生まれた長男・大友皇子を溺愛、大海子は大友皇子に対して、額田王との間に生まれた十市王女を差し出します。そして大友皇子を次期天皇として定めた天智は亡くなり、大海子は難を逃れて吉野に隠遁すると見せかけますが、そこから壬申の乱が起こり、天武朝となるわけです。

ですから天皇は34代舒明の後は皇極ー孝徳ー斉明(皇極の践祚)-天智ー弘文ー天武ー持統と繋がっていきます。

             

ここまでの感想を書くと主人公は中大兄なのか大海子なのかと思われるようですが、主人公はあくまで額田王。タイトルの『茜に燃ゆ』は彼女の万葉集にある詩“あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る”から取ったものなのでしょう。皇極帝に仕えながら、その二人の息子の間で闊歩する額田王の姿を生き生きと描いています。

ところでこの両冊、どちらも290ページ程度のものなのですが、定価が100円ほど違います。下巻の方が解説も付いているのに100円ほど安いのは、どういう訳なのでしょう。

             

この本も随分前に買ったもので、読んだのに感想も書かずに放ってありました。作者の坂東真砂子氏はかなり以前に読んだものに一度感想を書きました。坂東真砂子氏は私の購読している新聞に書評を載せたりしているので、少し注目をしていました。

この二つの連作と見えるものが、別の出版社から出されているのが不思議で買ったのですが、これまたどのような意図があったのかはっきりしません。

                  

実際に読んでみると、帯に書かれているようなエロティシズムなどはあまり感じません。こちらは現代版ですが、生きていく上での設定の方が無理があるように思えたりもします。

                  

古代からの男女の営みがどうであったのかを考えた一冊、前述の中大兄皇子のような好色さはありません。やはり天皇家っておかしいんじゃないかと思ってしまいます。

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