ぼんくら放浪記

Blogを綴ることによって、自分のぼんくらさを自己点検しています。

タチウオ釣り

2007-10-31 05:20:00 | 大阪にて
先の日曜日、関東以北で台風が駆け抜けた翌日、深日から出る船に乗ってタチウオを釣りに出かけました。

深日港は昔、四国や淡路島へフェリーが出ていた港です。

前日から風が強く私の頭では出船は無理かなぁと感じていましたが、リーダーが「行く」と言うので、とにかく4時前に出発。

     

ところが6時前に港に着いてみると、かなりの波です。
波止を越えてくる波もあって、普通なら出船しませんよね。




船頭は「チョット待て」と言う。
金儲けを考えてるのか、何とか釣りに連れて行ってやろうと考えてるのかは判りませんが、南紀では波止を越えてくる波があるような日に船が出た経験がありません。

太平洋と大阪湾の違いでしょうか、それとも磯釣りと船釣りの違いでしょうか?

しかし船頭は『もしも』のことを先に考えるものです。釣り客の安全を真っ先に考えなければならない筈です。

     

確かに波は収まってきているようには思うのですが・・・

結局1時間待って中止を決定、私は船頭が前日のうちに中止を決定すべきであったと思います。
台風一過の朝の海がどんなものなのか、経験上よく知っているはずです。

わざわざ朝3時過ぎに起きて、2時間かけて車を走らせるような無駄なことはすべきではないと思うのです。


酒蔵通り Ⅲ

2007-10-30 05:30:00 | 大阪にて
工場のあった白鹿・白鷹・日本盛・大関には、それぞれ粋なお食事処があって「入ってみようかな?」なんて思ったりします。

     

ここは日本盛の煉瓦館にある『花さかり』というレストラン、玄関にメニューが無いので入りにくいのですが、工場の壁に貼ってあったのを撮ることができました。

なんと高い!酒蔵定食が辛うじて1050円か・・・それくらいなら奮発して昼食にできますか。

     

こちらは白鹿のお店『白鹿クラシックス』、洋風料理が中心とか。



道路を挟んで白鹿記念酒造博物館、通称『酒ミュージアム』と呼ばれているそうです。

古い酒造りを見る機会も少なくなり、昔の資料や文献をこういった博物館に保存することで後世に伝えていくことを目的として建てられました。

     

『白鹿クラシックス』の裏側にある酒蔵館です。

どちらも入場していないのですが、『酒蔵館』の方はチケットを頂きました。

     

『酒ミュージアム』前の庭に古井戸がありましたが、水は・・・?

     

こちら、白鷹の『禄水苑』・・・昼下がりの一杯なんて、仕事中でなかったらネ。

     

歩いているうちに、こんな寮も・・・ホークスの若手選手の寮のような名称でしょう。

酒蔵通り Ⅱ

2007-10-29 05:30:00 | 大阪にて
今度は宮水井戸場です。最初は白鷹のもの。
宮水とはお酒造りに利用する水のこと、だいたい石在町に集中して存在しています。

     

こちらは白鹿です。

     

日本盛。

     

もともと宮水というのは、『西宮の水』を指して言ってたのが、いつの間にか『宮水』と言うようになったようですよ。

      

共同で使っている井戸のようです。
利用しすぎて枯れてしまわないように、管理されているのです。

     

大関ですが、工場とはかなり離れています。

        

   

こちらは菊正宗ですが、工場は見当たりません。
宮水というのは硬水のようですが、そしたら富田の水はお酒に向いているのでしょうか?

     

懐かしいなぁ。まだ水を汲んでるんでしょうか?

     

42号線沿いにある沢の鶴の井戸・・・この工場も見かけなかったなぁ。

調べてみると、沢の鶴は西郷に工場があり、菊正宗は御影郷に工場があるそうです。
ちなみに御影郷には白鶴や剣菱というメーカーもあるようですよ。

酒蔵通り

2007-10-26 05:00:00 | 大阪にて
阪神電車の今津と西宮の中間辺りの南に西宮市東町という街があります。
そこへ仕事に行くようになって久しいのですが、会社は急に宝塚の月見山へ行けとか、美座へ行けとか言うもんで予定が狂ってしまいます。

その東町の北側に沿う道路は『酒蔵通り』と呼ばれているそうです。

初めて今津駅から東町へ歩いて行ったときは、いきなり日本盛の工場があってビックリしました。

     

西宮駅から歩いていくと、今度は白鹿や白鷹の工場がありました。

     

1枚目の写真の表示は、酒蔵通りを左右に右(東)・今津郷、左(西)・西宮郷となっていますが、これは灘五郷の一部で五郷とは、今日の2つに加えて神戸市東灘区の魚崎郷・御影郷、灘区の西郷で構成されています。

     

大関の工場もあるというので探しましたが、今津駅より東の方にありました。

     

大関と銘打つ建物は多く、おそらく上の写真は工場ではないと思います。

     

こちらが工場なんでしょう。タンクの上にOZEKIと書いてあります。
安全の後は・・・どないしたんでしょう?

     

こちらも有名な会社ですが、ここは工場ではなさそうです。
どうやら松竹梅は魚崎郷に工場があるようですが、松竹梅は京都のお酒ですよね。

もっと沢山の工場があったそうですが、阪神大震災で移転した工場も多いということです。
  

吉原御免状

2007-10-25 05:00:00 | 読書
明暦3年(1657年)旧8月14日、松永誠一郎は浅草日本堤の吉原を歩いていた。

育ての親であり師である宮本武蔵の遺言で、26歳になったら肥後の山を出、江戸吉原の庄司甚右衛門を訪ねよということであった。

     

実はこの小説、半分ぐらいは歴史の解説ではなかろうかと思えるほど、吉原がどうの、当時の湯屋はどうの、柳生がどうの、花魁はどうのとやたらと解説が多い。

まぁ、勉強にはなるし、ストーリーも面白い。

タイトルの吉原御免状とは、神君御免状とも言い大御所・家康が庄司甚右衛門に対して、吉原に色街の営業を許可したものであった。
単にそれだけのものなら、柳生家も執拗に狙いはしないのであろうが、このお話は家康の影武者だった二郎三郎という者が、家康そのものが亡き後も家康を演じ続け、徳川家としてもにっちもさっちも行かなくなり、家康の二郎三郎が世を去る時この御免状を書いたことに秘密があった。

この二郎三郎という者を家康の影武者に仕立てたのは天海僧正だが、その天海は実は明智光秀だったという凝りようなのだ。

誠一郎は吉原に滞在中、高尾という吉原一の花魁をあてがわれる。
そして、誠一郎にあこがれる謎の少女おしゃぶ、誠一郎と交じり合うことで過去にタイムスリップさせてくれる比丘尼・おばばさま、柳生の命を受けた女忍者・勝山も誠一郎に惚れてしまう。

吉原の店を仕切る甚右衛門たちは傀儡子の一族であった。
家康の差別政策をまともに食らっていたのは傀儡子や旅芸人や比丘尼など『道々の輩』である。定住するところを持たない『道々の輩』は団結して助け合った。吉原の存在もその一つであると著者は主張している。

     

兎に角、誠一郎は二天一流、滅法強い。
表柳生の総帥・宗冬は弟である裏柳生の総帥・烈堂=義仙を倒すために、誠一郎に新陰流の奥義を教えるのだった。

この神君御免状の謎とは、表柳生は何故裏柳生を倒さねばならなかったのか・・・二郎三郎が家康の影武者であり、甚右衛門とも面識があったこと、『道々の輩』は団結していたことがヒントです。

『へたも絵のうち』・熊谷守一記念館

2007-10-24 05:40:00 | 
次に向かったのが、車でならすぐ近くの『熊谷守一記念館』です。




歩いていったら、どれ位かかるのかチョット判りません。

     

生存中に記念館を建てる話があったのでしょうね。守一自身の字で『熊谷守一記念館』と書かれています。

中には土門拳が撮った守一の写真も飾られてありました。

     

この階下に作品が展示されています。

熊谷守一は97歳まで絵を描き続けました。エライ長生きです。
ここ付知町出身で、若い頃は日庸として材木を川で運ぶ仕事をしていたこともあるそうです。

1968年と72年に文化勲章なんか要らんと言って、オカミに楯突く飄々とした画家でした。
『絵でも字でも うまくかこうなんてとんでもないことだ』流の人です。

     

裏の付知川の方の庭に何か訳の解らんモニュメントがありました。
付知川は幅の狭い川やなぁと思っていたら、上流に行くに従って川幅が広くなっていく妙な川です。

守一の言葉の中にこんなものがありました。
『学校の先生はしょっちゅう偉くなれ、偉くなれと言っていました。しかし私は人を押しのけて前に出るのが大嫌いでした。人と比べて、それよりも前の方へ出ようというのがイヤなのです。偉くなれ、偉くなれと言っても、みんなが偉くなってしまったらどうするんだ、と子供心に思ったものです。』

今の市場優先、競争社会への強烈な批判ですよね。
私も余生をそのような考え方で生きていたいものです。

     

表に出るとモミジが少し紅葉しています。


ところで、運賃・小屋の使用料・夕食での暴飲暴食・朝食・入湯・昼食・入館まで全部込みで参加費10,000円でした。安いの何の、一人なら高速代だけでも往復13,000円ぐらいかかりますものね。

付知峡・倉屋温泉

2007-10-23 05:00:00 | 
翌朝、少し山道を散歩してみました。

     

以前来た時は、見晴らしのいい所があったのですが、どうやら忘れてしまったようです。

     

でも、骨董ファンなら泣いて喜びそうな看板が・・・捨ててあるのか?見てもらおうとしているのか?でも誰も通りませんよ。

     

前に来た時は、こんな彫り物は無かったなぁ。徐々に変化していく山小屋です。

     

それでは記念写真を・・・撮られる方から1枚。

     

男ばかりで少々むさくるしいです。

     

名残惜しいですが、雑木林窯とも暫しの別れです。

そして一路、付知町へと向かいました。

     

目的地は新たに出来たという温泉施設『付知峡・倉屋温泉』と『熊谷守一記念館』です。

     

2年前に出来たということで、まだキレイな施設でした。
10時過ぎに入湯したのですが、すでに沢山の方が入っておられました。

     

山の高さcmまで表示してるって、細かいなぁ。

     

こちらが夕森山、残念ながら恵那山は見えませんでした。


蕎麦打ち教室

2007-10-22 04:10:00 | 
2時に中津川のアピタに集合なので、慌しく彦根を後にし一路中津川を目指します。

夕食と朝食と飲み物を調達して、山小屋へ・・・車1台ギリギリの山道をほんの少し登ったところに炭焼き小屋がありました。

     

着いたら早速火を熾し、栗を焼いています。誰かの左手には早くも怪しげな缶が握られています。

     

立派な竹箒が立てかけてありました。

        

この小屋の象徴でしょうか?

さて、早速蕎麦打ちが始まりますよ。
師匠は名古屋の我社で働くUさんです。




そば粉1Kgに小麦粉200gを丹念に混ぜ合わせます。
ここで均等に混ぜられなかったら、小麦粉だけが水を吸ってしまいます。




少しづつ水を入れて捏ねていきます。粉がボツボツと玉になっていきます。




突然ですが、塊になっています。丹念に空気を抜きます。





徐々に薄く、広く延ばしていきます。
最初は円ですが、四角になっていきます。




だいぶ広がったでしょう。




これは案外簡単だそうで・・・待ち切れない人が手を出していました。




後は丁寧にアクをとりながら、湯掻きます。師匠の手作りのソバツユと山菜、辛味大根を添えて・・・美味い!!

     

名古屋のOさん、ご満悦です。

     

実はこの催し、2002年5月と11月に大阪や北陸や四国から、本人の同意無しに無理矢理名古屋に配転をさせられた人たちを励ます意味で、翌年の秋から始めていただいたものです。

楽しいのと珍しいのと美味しいので、毎回参加させてもらってる私です。


彦根城 Ⅱ

2007-10-19 05:40:00 | 
天守を出て、黒門で内堀を渡り『玄宮園』という4代藩主が造ったという庭園へ行ってみました。

鳳翔台という茶室の向こうに彦根城の天守が聳えています。

     

内堀沿いに対岸を眺めると何故か心が落ち着きます。

     

こちらは欅御殿と呼ばれた東屋で、井伊直弼はここで生まれたと言われています。
今は楽々園という名で親しまれ、整備工事中で近寄れませんでした。

        

園を1周していると、みんなから離れてしまって、なんとハスの大群に出くわしました。花咲く時期は綺麗だろうと思います。

     

桜の木があり、立て札が立ててありました。

     

二季咲桜と書いてあります。11月から1月なので今咲くには少し早いのか・・・

     

だけど見つけましたよ。ひとつだけ。

     

この後、直弼が青春時代を過した『埋木舎』に寄ったのですが、入場料を払ってまで入ろうとは思わず、外で待っていました。

すると・・・




黒い白鳥が泳いできます。何という鳥なのでしょう?
白鳥とよく似た鳴き声です。

        

白壁に彼岸花が咲く彦根の街角でした。


彦根城

2007-10-18 05:00:00 | 
先週土・日曜日、私の所属する労組ではない組合の愛知支部の主催で『蕎麦打ち体験』が岐阜の中津川で開かれたので参加しました。

はるばる中津川まで車で走るだけでは勿体ないので、途中築城400年を迎える彦根城に寄ったのでした。

     

彦根城といえば徳川家大老・井伊直弼の居城、日米修好通商条約に調印した直弼は、1860年3月3日江戸城桜田門外で水戸の攘夷派に討たれたのでしたが、条約に調印した英断は讃えるべきものだと私は思う。

まずは京橋口から外堀を・・・と思っていたら、これ外堀ではなくて中掘、外堀は何処にあるのでしょうね。

     

これは重文『天秤櫓』ですが、狭くて全体が写せません。

     

太鼓櫓を通って、天守閣へと出ますが、以外に小さいお城です。

     

初代から第14代までの260年間、一度も国替えや城攻めも無く安泰に聳えてきました。

     

屋根裏の柱組みです。直線の木でないのが面白い。

     

廊下も狭いし、階段も非常に急勾配で、下から攻め上がったら全て鑓で一突きといった按排です。

     

天守から琵琶湖が一望でき、左にポツンと浮かんでいるのが沖島とか。