ぼんくら放浪記

Blogを綴ることによって、自分のぼんくらさを自己点検しています。

三尾川

2013-12-27 05:00:00 | 田舎

とうとう2013年も今日を含めて五日となり、間もなく新しい年がやってきます。今年の年末、来年の年始はサラリーマン(この言葉は嫌いですが)にとっては都合よく、土曜から始まって翌週の日曜日まで年休を取らずに9日間休めます。私のブログも定年以前と変わらない休みを頂いているので、今年の記事は今日で最後です。昨日は警察病院へ行っている筈ですが、綴っているのは今朝ではありませんから、そのような記事などとんでもありません、悪しからず。

古座川町の三尾川というところには何の因果もありませんが、トンネルとバイパスが出来たお蔭でかなり近く感じるようになりました。一枚岩からなら車で5分ぐらいで行けるようになったのではないかと思います。古座川にかかる三尾川橋を渡り、左へ(右へ行くと行ったことの無い美女湯温泉がある)すぐに左折する分岐に光泉寺の標識がありますが、直進でも行けるとも書いてあります。ということは左へ行っても直進しても道路は繋がっているということです。

             

私は通常左へと細い山道を通って光泉寺に行っていたので、直進する道の風景は知らなかったのです。なので今回光泉寺から歩いてみたという訳でした。この辺りに徳本上人の名号碑が有るらしいのですが、それも探そうと思っていました。さっそく大きなカーブのところの山への登り口のところでお地蔵さんを見つけましたが、名号碑ではありませんでした。

             

地図で見ると左からの道と直進する道に囲まれた部分は、山の名前は分かりませんが一つの山の裾を一周していて、丸い円ではなく三角形に近く、丁度自転車のサドルのような形をしています。左の道をとると暫らくして古座川の支流である小節川という川に沿って走るのですが、小節川は一周しているわけではありません。

             

三尾川という集落は古くからあったようで、コンクリートやセメントを一切使ってない石垣が今もたくさん残っています。私はサドルの形をした山に沿って歩いていましたが、対面の山側にも数戸の家が散在していました。

               

このような壁は地層ではありませんから、人間が造ったもの、コツコツと一つ一つを積み重ねたのでしょうが、内側はどうなっているのか知りたいものです。古い家並みが続く集落ですが、一軒だけ似つかわしくない新しい家が建っています。

             

歩いていると『ワンワンランド』と書いてある家がありました。でも見知らぬ私が通っても犬が吠える気配はありませんし、犬の姿も見えません。「おった」と思ったら犬の置物でした。

       

よく見るとボーダーコリーのような犬が2匹、私の歩く姿を見ているではありませんか。三尾川から七川ダムへは大川、真砂という小さな集落を経ますが、三尾川の集落は大きいようで、郵便局も立派でしたし、このような何処かで見たようなモダンな絵を壁に描いている家(倉庫)もあり、人がたくさん住んでいるんだと思いました。

この辺りで今年の記事はお仕舞い、読んでいただいていた皆様の来年のご健康とご活躍をお祈りいたします。来年もよろしくお願いいたします。

光泉寺の大銀杏

2013-12-26 05:00:00 | 田舎

冬至を過ぎて三日経ちました。これからは日の出が約1分づつ早くなり、日の入りは約1分づつ遅くなっていきます。寒さはまだまだこれからですが、明るい時間が増えていくのは私は嬉しい、闇の世界が短くなっていくのです。近い将来起こり得る国際紛争に於いて、憲法9条を投げ捨て武力により解決を策す安倍自公政権、再び戦争と言う暗闇の世界が訪れることのないよう、平和な明るい国であり続けるよう微力を尽くさねばならないと思っているだけ、なかなか行動に足が踏み出せません。

先月の22日に大阪に戻る前、古座川町三尾川にある光泉寺のイチョウは色づいているだろうかと尋ねてみたものの、未だイチョウの葉は黄色く色づいてはなく、全体として黄緑色をしていたので残念に思い、次回12月なら丁度良いだろうと写真も撮らずに光泉寺を後にしたのでした。光泉寺の大銀杏は秋になると何度も訪れていますが、未だ黄葉の只中にある樹を見たことがありません。今回串本を訪れた翌日、昼食をとってから期待を込めて愚車を走らせたのでした。

             

桟橋の港に居た私は三尾川へ行くのにあの鍛冶屋のあった高富から行くのと、古座川を遡るのとどちらにしようかと迷ったのですが、姫に来たのに古座川を見ないで帰るのも片手落ちのような気がして、古座方面へ車を走らせたのですが、考えてみれば高富から北上すれば鶴川橋からは古座川沿いを走るのです。ましてや高富から上ったとしても帰りを古座方面へ走れば一周することになり、結局はどちらでも同じことだったのです。

                       

道路より少し高台にある光泉寺、屋根より高いイチョウの木は遠くからも見ることが出来、運転しながら葉が総て落ちてしまったイチョウを見て、びっくりした気持ちと残念に思う気持ちを抱きながら、車を停めたのでした。僅か20日間の間に黄金色に黄葉し、総ての葉を落してしまうなんて考えも及びません。大阪で見るイチョウなどは葉が黄色くなって1ヶ月ほど黄葉を楽しませてくれ、その後徐々に落葉していくのです。

       

それにしてもこのイチョウの枝から派生する(根なのか瘤なのか、よく知らないのですが)気根は見事です。大阪は府としての木をイチョウに定めていますが、このような気根のあるイチョウを見たことがありません。古座川町にも和歌山県にもこのように独特な雰囲気を持つ樹を天然記念物に指定する気運はないのでしょうか。

             

イチョウは銀杏と書く他に公孫樹とも書いているのをよく見かけます。イチョウを銀杏と書くのは実が銀杏(ぎんなん)であり、読み方が違うのでしっくり来ませんが、公孫樹の方は植樹したイチョウは孫の代になって実が食べられるようになるからだとか、こちらの字の方がイチョウをよく表していると思います。私は勝手にイチョウは長く生きるので何処の樹も子孫代々受け継がれる樹だという風に考えていました。

             

目的の黄葉が見られなかったので、最近は長く歩いてないこともあって、少し三尾川の村落をブラブラしてみようと考えました。車で来た方はさておいて、光泉寺より前方に向かって歩き出しました。狭い耕作地が左側に並んでおり、少し離れたところに立札が立っており大きな字が書かれていますが、上の段の三尾川小と下の段の学と田は読めますが、真ん中の字がどうしても読めません。帰って写真を拡大して見ると校と言う字、これで三尾川小学校田と書かれているのが解りました。小学校の児童が田植えから稲刈り、そして脱穀して収穫したコメを食べるのでしょうね。

12月16日の釣り

2013-12-25 05:00:00 | 田舎

日本年金機構や企業年金基金から年金額改定の通知書が届きました。どちらも2ヶ月分の計算ですが、企業年金は20円程度減らされ、厚生年金は2000円もの減額で、どちらもキッチリ源泉徴収されています。来年からの5年間で総額24兆6700億円もの大金を防衛費に費やす国が、国民への福祉となると削ることに躍起になっている、私たちが暮らしている日本国はそんな国なのです。総理大臣や政権党が悪いからだと言う勿れ、選んだのは当の国民なのですから。

             

Y下君が帰る予定の月曜日、なんとか波は収まって大島の表側に出ることが出来ました。須江崎を越えて大耳浦まで走り、そこから臼島の方に流していきます。

             

9時ごろにY下君にアタリ、上がって来たのは少し小さめでしたがアカハタ。幸先がよろしいようですが・・・

             

私にはこんなワカサギの親玉みたいなものしか釣れません。テンヤのオモリを3号から10号に変えたので底は取れますが、私の流している方には魚が居ないようです。

             

1時間ぐらいしてまたY下君にアタリ、今度は35cmぐらいのオオモンハタでした。11月の釣行より少しサイズが小さいようです。

             

ここで私のデジカメの電池が切れてしまいました。Y下君もあまり釣れなくなったので場所を移動、海金剛を越えて鷹須鼻から広浦へかけて流していきます。

こちらでは私にアタリ、38cmのアカハタが上がってきました。11月に40cmのオオモンハタを釣った時は、重さで糸がどんどん出て行きましたが、僅か2cmの差なのにいとも簡単に上がってきます。

             

暫らくして、また私にアタリ、今度は30cmを越えるガシラとしては大物です。この日はどうやら写真の撮り手側には、魚が喰い付いて来ない状況だったのかも知れません。そうだとすればデジカメの電池が切れた私はラッキーだったかもね。

             

この日の釣果、他にイソベラが数匹釣れていますが、放流しました。水温が下がってきて、食いが渋ってきているのかも知れません。2時半には切り上げて、船を南防波堤の方に繋留してきました。水位が随分高くなっていて、船から岸壁へ飛び降りた瞬間に右の脇腹に激しい痛みが走りました。結石のある方ではありませんが、以降今でも時々痛むのです。

             

夕方Y下君は大阪へ帰って行き、私もモモの眼の病いや納品書の印刷、久し振りにアカハタも食べてみたかったので、次の日に帰ったのでした。クエを食べた後だったのでアカハタはかなり淡泊、でも美味しかった。アクが一切出なかったのが不思議でした。

12月15日の釣り

2013-12-24 05:00:00 | 田舎

先週あたりから橋下大阪市長が夕方のテレビの報道番組に出演する機会が増えてきました。落ち込んだ人気を回復したいのでしょうか、最初は辛辣な言葉を投げかけていたコメンテーターも番組の終盤には意気投合したような形になり、本人も満足なのか笑顔を振り撒いています。報道番組と言いながら、凋落し続ける橋本人気の挽回を策したとんでもない番組に見えて仕方ありません。盛んに民主主義を口にする大阪市長ですが、思想信条の自由を認めない人間が、如何に人気回復のためだとはいえ、民主主義を守っているような顔をするのは止めて貰いたいものです。

冬になると強い北西風が吹く串本、波は高くなり2mを越える日はざらです。前日クエ鍋を食べて満足したのか、朝私は比較的早く起きたのですが、Y下君はなかなか起きてこようとはしません。釣りに行くはずなのに「昨日飲み過ぎたかな?」と自然に起きてくるまで起こさないでおきました。

               

天気は良かったので前回オオモンハタを釣った須江近くの海域に行こうと思いましたが、通夜島辺りまで来ると波と風が強くなり、大島の表へ出るのは諦めて、最初は猪喰鼻と通夜島を結んだラインの内側、つまり風が当たらないように湾の中で試してみましたが、全く釣れません。

                    

釣れなくては面白くないので昼からは波の穏やかな大島の裏側でやってみることに、橋杭岩と大島の権現島を結ぶラインはおそらく岩礁で出来ていそうなので、その辺りを流しますが、エサはそこそこ無くなるものの、北風が強くて船が大島方向へ流されるので、仕掛けがどんどん出て行って、アタリも取れずに釣ることが出来ません。

             

1時間ほど粘っているとアタリらしき感触、おまけに糸をスゥーッと引っ張るので思い切り竿をしゃくってみると、魚の重みが腕に伝わります。ここで何が釣れたのかと期待してリールを巻いていると、上がって来たのはマルハゲ、25cmぐらいはあったでしょうか。テンヤ仕掛けの大きなハリによく掛かったものですが、ハリは口の中にかかっていたのではなく、口の外に掛かっていました。

             

それ以降また釣れなくなったので、九龍島の方に移動してみましたが風が強くて釣りになりません。大島の裏側は海底まで20mほどのところが多いのですが、古座方面へ行く途中で40mほど落ち込むところを見つけました。その時に船を止めれば良かったのですが、九龍島まで行こうと思っていてそのまま走ったので、その場所へ戻ろうと思ってもどの辺りだったか、なかなか見当がつきません。

             

古座方面へ走っていた時は右に金山灯台が見えていたので、その辺りを丹念に探り、やっと40m落ち込んでいる場所を見つけました。金山灯台と弘法湯を結んだ辺りの海域です。

             

ここでY下君がヒット、色は違いますがくっきりとしたラインはニモのモデルとなったクマノミみたい、でもこれはマハタの若魚でしょう。大きくなってから釣られて欲しかったけど、おそらく海に帰しても生きられないでしょうから、持ち帰りました。♪マハタ色したシクラメンほど清しいものはない 出逢いの時の君のようです♪などという歌を思い出していました。

クエ鍋

2013-12-20 05:00:00 | 田舎

久し振りと言っても3週間も経ってないけど、串本に着いた日の夜は古谷魚店に出かけました。その時に主人曰く「金曜日の夜、潮岬病院の人らが来てクエで忘年会するんや、そのクエ見るかい?」と店先にあった長さ1mほどのクーラーを開けると、ギリギリまで入った大きな本クエが横たわっていました。「いくらで買うたん?」と尋ねると7万だったと言います。7人では食べ切れんから土曜日においでと言ってくれましたが、それでもまだ余ると言うので、「土曜日はY下君も来るで」と言うと「丁度エエよ」と言って、私にY下君に電話をかけさせ、「ようけあるから奥さんも連れておいで」と言っています。私にも「息子さんも呼んでおいで」と言うけど、どちらも来るわけがありません。

             

金曜の朝、今は無きCさんと会った時に「明日の晩ごはんは予定ある?」と聞くと無いと言うことだったので、いきさつを話して家族で来るように誘うと「主人はシャイなんで来るかどうか分からん」と言われました。でも夕方になって「行ける」旨のメールが来たので魚屋に二人増えると連絡し、6時半に店に行くことにしたのでした。私たちはアルコールを飲むのでいつも必ず紀伊姫発6時11分の電車に乗るので、店に着くのはいつもだいたい6時半ごろになるのです。

             

金曜の午後、クエを捌く前に写真を撮っておこうと思って魚屋に行ったのですが、一足遅かったようで頭と胴体は外され、皮もそぎ落とされてしまってました。

             

当日は紀伊姫駅で4分遅れの放送があり、ホンマに4分で済むのかと心配しましたが、だいたいそれぐらいの遅れで出発、6時半には遅れずに済みました。考えてみればCさんは私の名前を知る筈もないし、私もCさんの本名を知らないし、Cさん達が先に行っても古谷魚店の主人は何のことなのか分からない筈なので、時間通りに行けてホッとしたのでした。

先に座った私の前にクエの皿、こんなところに座ったのが縁の尽きで鍋奉行とやらの役目に、もう歳を重ねてからは鍋奉行などは久し振りのこと、そういう役目は若い人がするのが常態だったので、ちょっと面倒臭いなぁと思っていましたが、そんなことは悟られてはいますまい。Cさんが綴った顛末はコチラ。

             

私がクエを食べるのは何年ぶりかのこと、Cさん達は串本に住んでいるのにクエを食べるのは初めてだと言います。そういえばクエは串本より御坊・日高川地域の方が有名です。やはりクエを養殖している白浜が近いからでしょうか、同じ和歌山県でも食文化が違うようです。

今回はY下君がいつもよりよく喋る、飲んでなくてもよく喋る人ですが、今回は初めて会う人に対しても、既知の人のように喋っていました。まぁCさん達にとっては、クエは美味しかったし、Y下君の喋りは楽しかったようです。

             

8時を少し回ったところで〆の雑炊、これを食べるとおそらく串本発8時27分発の電車には乗れません。慌てているとCさんが姫まで車で送ってくれると言うので、安心して最後まで食べ切ったのでした。この日はいつもより2杯多く焼酎の水割りを飲んだけど、作ってくれる人がいつもと違ったので、焼酎の量が少なかったので2杯多く飲めたのです。なのでいつもより酔いは少なく、家へ着いてからも少し飲み足したのでした。

津荷沖

2013-12-19 05:00:00 | 田舎

姫に来た日、橋杭岩の坂を越えて、旧古座町に降りて行く道から東の方に大きな船が停泊しているのが見えていました。工事に使うような船でクレーンでも積んでいるのかと思っていたのですが、エライ傾いていても、クレーンを傾かせているものとばかり思っていました。

金曜の朝、今は無きCさんに会って「動鳴気の向こうで韓国の船が沈みかけてる」というような話を聞き、それは一大事とその日の夕方古座に向かって車を走らせたのでした。

             

行ってみると動鳴気漁港を通り過ぎて、津荷へのカーブを曲がる手前で車を停めるスペースが有り、浜へ降りる道も付いていました。こうしてみると沖合にあるように見えますが、結構近くで座礁しています。

             

陸からだとよく分かりませんが、オイルフェンスが張ってあるのを確認でき、油の流出はくい止められているようでした。

             

こちらの船にはハングル文字で何やら書かれていましたが、私はハングル語を理解できません。人が降りている磯はおそらく平島だと思います。初めて津荷の磯に上がったのが平島だったのを覚えているのですが、絶対にこれかと問われれば絶対やという自信はありません。

翌日はY下君がやって来るので、船でここまでやって来ようと思ったのでした。

             

土曜日、前日夜に荷物が届いたので午前中家に居なければならない必要はなく、船にその荷物を積もうと10時ごろに家を出て、桟橋の港でどうやって積もうかと思っていたら、Y下君から電話があり、橋杭に居るとのこと、いつもより早く着いたなと思ったけど、行き過ぎてます。漁協の近くのドラッグストアの辺りから電話がかかってくるのが通常だったので、私としては港に居ても良いと思っていたのでした。

荷物を積むのを手伝った貰い、黒球も救命胴衣も使うつもりは全く無いので、船倉へ入れてしまい、昼食をとろうと思ったのですが、時間が勿体ないのでAコープでお茶と弁当を買い、船で津荷沖へと向ったのでした。

             

20分ぐらいで座礁船の近くに到着、近くで見ると想像以上に大きな船で、思ったよりも傾いています。

             

今にもこちら側に倒れてきそうな感じ、あまり近寄ることは出来ません。私は操縦していたのでこの日の殆どの写真はY下君が撮ったものですが、この写真は私が撮りました。

             

船には日本語で『安全』という字が確認できますから、この船は日本のものだと思われます。操縦していたのが韓国人だったのか、『安全』と書かれていても今やこの船は危険ですよね。

この後釣りをしながら時間を潰すのですが、この日は風が強く、大島の裏側で湾になったようなところを探すのですが、なかなか条件の良い所は探せませんでした。おまけにまたまた魚探のスイッチが入らず、底の状態もよく分かりません。結局Y下君がエソを1匹釣り上げただけ、何故直してもらったはずの魚探が使えなかったのか、港に着いてから直してもらった人に来てもらったのですが、何もしないのに魚探のスイッチは入ったのでした。何だったんだと腹は立つけど、翌日からは魚探が使えるので一安心したのでした。

陸に上がってホテル浦島でひとっ風呂浴び、帰りの廊下ですれ違いざまに「ぼんくらさん」と後ろから呼ばれ、振り向くとY下君ではなく(Y下君は私のことを「ぼんくらさん」とは呼ばない)、覚えのない若い人でしたが、よくよく見ると見たことあるとは思ったのですが、さて思い出しません。「今晩行くの?」と聞かれ、きっと古谷魚店のことと思い、「行くよ」と答えて、「古谷で遭った人らやな」と思い、ブログを辿ってみると今年の2月に遭ったこの人たちでした。よくまぁ私の顔など覚えていたものですが、「ぼんくら!」などと呼ばれても固有名詞ではありませんから、きっと振り返らなかったと思います。

地震でも起きたかと思った

2013-12-18 05:00:00 | 田舎

先週の水曜日に姫にやってきました。途中フィッシングMAXに寄って、カレンダーを貰って来いと三男が言うので、泉大津まで下の道を通ったついでに泉佐野ジャンクションまで高速を使わずに走ったら900円安くつきましたが、ガソリンは余分に要ったかもしれません。絶対に余分に使ったのは時間、9時過ぎに大阪を出たのに、串本に着いたのは3時を回っていました。もちろん田辺で『よってって』に寄ったし、釣具屋『ベイマルチョー』にも寄ったことには違いありません。

             

串本に着いて真っ先に寄ったのは桟橋の船着き場、船が無事あるのかとても気になっていたのです。船の安否よりも先に驚いたのはこれから工事でも始まるのかと思うほど、工事用の仕切りとトラロープで岸壁が囲まれた部分があり、当に私が繋留しているロープもその中に入っているではありませんか。

その時は「えらいこっちゃ」と思いながら、気にも留めずに家に向かったのですが、翌日工事でもしていないかと岸壁を見に行くと、それらしきことは無かったのですが、よく見ると岸壁に起伏が出来ています。この辺りで地震でも揺ったのかと思ったのですが、他の所は何ともありません。よくよく思い出していると以前から陥没していたのは思い出すことが出来ました。でも右側の隆起はこんなに高かったかと思うほど、もし工事が始まったらここに繋留しておくと邪魔になるんでしょうね。まぁ危ないから囲ってあるだけかもしれませんが、串本にいない間はここには留めておくわけにはいきません。

                       

泉大津のフィッシングMAXに寄って、船に付けるロッドホルダーがあれば便利だと思っていたのが有ったので買いました。勿論船にはラーク竿受けがあるのですが、大き過ぎて私の持ってる竿には不釣り合いで、このような小さなものを買ったのですが、箱の左下のロゴをよく見て下さい。一瞬ダイワのロゴマークに見えますが、何か違うような感じもします。私はダイワ製品をあまり使わないので、よくは知らないのですが、どう見てもDAIWAの文字をデザインしたようには思えません。

             

なので裏面を見てみると、やはりメーカーはダイワ精工ではありませんでした。ダイワ製品を使わない私にとってはそれで良いのですが、ダイワのロゴに似せたロゴに対して腹が立ちます。

             

やって来た夜にネット通販で1着2000円の救命胴衣を6着と、一つ1000円の黒球を注文しました。私が大阪にいる間に消火器を付け、汽笛と消火器を付けたことを連絡してくれたらしく、小型船舶検査協会から電話があり、早く救命胴衣と黒球の納品書を送れと言ってくるので、早々に注文したので翌々日は朝少し用事を済ました以降はずっと家で品物が来るのを待っていました。午前中に配達するよう指定してあったのに配達が来なかったので、土曜になるかと思って昼からは船の中で用事をしていたら3時過ぎに電話が有り、荷物を届けに来たと言うのです。今からすぐ帰ると言っても家に置いておくと言うので、そうして貰うよう頼みました。てっきり救命胴衣が届いたと思っていたら黒球の方でした。

       

土曜日はクエを食べなければならないので、前日の金曜日は家で夕食をとっていると7時過ぎに「こんばんわ、佐川です」という声、今頃誰やと思ったら佐川急便でした。救命胴衣を配達しに来てくれたのですが、配達時間の指定なんか見てないのでしょうか?もし居なかったら、またまた家に置いておくつもりだったのでしょうか。それにしても大きな箱です。前回帰った時に急いで大阪の家に送らなくて良かった、こんな荷物をクロスロードのラゲッジスペースに入れたら他のものが殆ど入りません。

黒球の方は納品書も領収書も入っていましたが、なんと救命胴衣の方は納品書さえ入っていません。仕方なく電話してみると「うちは納品書なんか入れん、ホームページに書いちゃあるやろ」と高知弁で喋ります。「ホームページなんか見てない」と言おうと思ったのですが、そこを堪えて「検査協会に送らなアカンねん」と言うと察しがついたらしく「月曜日にメールで送る」と言いますが、月曜日の夜になってメールフォルダを開いても着いていないと思ったら、なんと電話した1時間後にメールが届いていたのでした。でも姫の家にはパソコンは有っても普段は使わうことが無いプリンタは置いていません。

愛染堂 Ⅱ

2013-12-17 05:00:00 | 大阪にて

『愛染かつら』という小説、映画、ドラマ、私はどれも知りません。愛染かつらと言えば“♪花も嵐も踏み越えて 行くが男の生きる道 啼いてくれるなホロホロ鳥よ 月の比叡を独り行く♪”と言う歌を歌詞まで覚えていますが、とは言え一度もカラオケで歌った覚えはありません。これは『旅の夜風』というタイトル、子供の頃の私は“踏み越えて”を“文超えて”だと思っていたし、何故ホロホロ鳥など出てくるのか不思議に思っていました。恋人同士が誤解やすれ違いを繰り返す話だとは何処かに書いてありましたが、何故タイトルを愛染かつらとしたのか意味がよく解りません。実際に愛染かつらという桂の樹種は存在しませんし、調べてみると上田市にそう呼ばれている桂の木があるそうです。

             

この愛染堂では桂の木に蔓(かずら)が絡まっている様子を愛染かつらと呼んだようですが、それはそもそも意味が違うように思えます。愛染堂の桂の木に蔓が絡まって愛染かつらなどと呼ぶのは余りにも見たまま、もう少し何かを絡ませないと「それは面白い」と言うことにはなりません。

             

水子観音、何らかの理由で生まれて来れなかった赤ちゃんを慈しむ観音さん、地蔵さんは幼くして死んでしまった子供が賽の河原で苦しむのを救う役目もあるようです。

                       

金堂の真裏にある多宝塔、1597年(慶長2年)秀吉が再建したと言われています。国の重要文化財、このようなところにこんな古い建物が残っていたなんて、初めて知りましたが、近くに出来たあべのハルカスより貴重だと思います。

             

七福神を祀った祠、七福神は恵比須、大黒、毘沙門、布袋、弁財、福禄寿、寿老人の7神ですが、どうも福禄寿と寿老人の区別がつき難い、どちらも寿が付いているからなのかもしれませんが、もっと分かり易い名前にしてくれたら良かったのにと思います。

             

中を覗くと中心に金色の大黒天が居ますが、後ろにも小さい同色の神体が七つあります。手前の赤い神体は七つ、何故か小さい金色の神体と同じ大きさで赤色の恵比須と大黒だけが2体、何を考えて配置しているのかよく解りません。

                       

これがこのお寺で言う『愛染かつら』説明はもうしましたが、映画『愛染かつら』の主演は私には馴染みの無い上原謙と田中絹代、私なんかは上原謙の子供と同世代ですからね。その後何作か同名の映画が造られ1960年代に入って吉田輝雄という人が主演していますが、その人が植樹したのがこのカツラだと言います。立て札では輝雄が輝男になっているのが気になりますが、勿論私はこの人も知りません。

             

このお寺の勝鬘院の鬘という字ですが、これって“かつら”と読むらしい。その辺りの方が愛染かつらに相応しいかもしれません。

             

山門のすぐ傍に有った大力金剛尊を祀った祠です。像は清王朝時代のものだそうで、大正時代に活躍した天王寺区出身の横綱・大錦が気に入って持って帰ったものだそうですが、清国を見下して勝手に持ち帰ったのではありますまいなぁ。最初は大阪国技館(そんなものがあったんですね)、昭和25年にこの愛染堂に縁あって移されたそうです。どんな縁だったんでしょうね。是非その像を拝みたかったのですが、暗い上にすだれみたいなものが張っあったので、よく見えませんでした。

愛染堂

2013-12-16 05:00:00 | 大阪にて

谷町筋から見えた鳥居に向かって大江神社を訪れたのですが、鳥居の手前の右にこの愛染堂があったのです。愛染坂はこの愛染堂から名づけられた坂なのでした。重要文化財に指定されている多宝塔は桃山時代の再建といいますから、古くからこの地に建っていたことが窺えます。

             

正しくは勝鬘院愛染堂と言い、聖徳太子が著したと言われる勝鬘経義疏が存在することから、四天王寺が近いこのお寺も聖徳太子ゆかりの寺なのかもしれませんが、このお寺には縁起が記されていませんでしたから、本当の所は分かりません。

             

6月30日から始まる夏祭りは『愛染まつり』と言われ、全国で一番早い夏祭りだとか、谷町筋に露店がぎっしり並ぶようです。

             

この金堂は江戸時代初期の再建だとか、こちらも大阪府の重要文化財に指定されています。

               

金堂の前に狛犬のように一対の像が並んでいます。左側が慈母観音、右側が慈父地蔵、観音さんは女性、地蔵さんは男性というイメージがあるのですが、ここでもそうなっています。どちらも台座は古そうですが、像は新しいものと見受けられます。

                    

金堂の両脇に聳えるクスノキの根元、どちらにも座れるように平らな石を設置してあり、右が哲学の椅子、左が腰痛封じと名付けられていました。

             

12月上旬の撮影ですが、紅葉がきれいでした。

             

片隅に『愛染かつら』の立て札、愛染堂なので愛染がらみなのか・・・考察は明日と言うことで。

大江神社 Ⅱ

2013-12-13 05:00:00 | 大阪にて

再び大江神社に戻ってきました。当然です、鳥居の前に自転車を置いて周辺を散策したのですから。境内の北の方にも鳥居があって、そちらに行ってなかったものですから再度境内に入りました。

             

日吉稲荷大明神の幟旗が並んでいますが、それは左の赤い鳥居、私は右の古い石の鳥居の方に興味があったのです。鳥居を潜るとその先は狭い場所、新しく造られたような狛犬が置かれているだけと思ったのですが、よく見ると狛犬ではありません。私にはクマかタヌキかと思ったのですが、実はトラらしいのです。

大江神社の狛虎、大阪のパワースポットなどとも書かれたものも置かれています。

             

狛虎と表現しているようですが、そういう言葉はありますまい。古くからあった狛虎は吽形の方は神仏分離令の折り、滋賀の某寺に持ち出されたとされるが不明であり、阿形の方は損傷が激しく保管中であるらしい。古来夕日が美しい所であったなどと続けながら、話はだんだん阪神タイガースの方に向いていき、星野仙一が監督就任2年目の年、破竹の勢いで勝ち進むに従って、失った吽形の狛虎を再建する機運が高まり、有志によって立案され、2ヶ月かかって8月末にこの境内に鎮座したと書き記してあります。以来一対となった狛虎は大阪と阪神タイガースの守護神として慈光を照らし続けるであろうと、阪神タイガースファンにとっては嬉しい限りの言葉が連ねられているようですが、阪神タイガースファンではない私は、何とも感動の仕様がありません。

             

吽形が新しくなったのは2003年、以降年月が流れましたが、阿形の方も損傷が酷く2011年に新しくしたようですが、阪神タイガースはその御利益を授かってはいないようです。古い阿形と新しい吽形の一対となった狛虎を是非見たかったものです。

             

狛虎の後ろにある柵に気が付きましたか?タイガースのメガホンが突き刺さしてあります。タイガースファンってヘンなことをするものですね。

             

やはりこの狛虎はトラには似てないと思っているタイガースファンもいるのか、金属製や陶器製のトラの人形(虎形)が置かれていました。

             

このパワースポットの左側は大江神社の本殿でした。

阪神タイガースファンが好き勝手にしているような熱狂的な神社があるのを監督・コーチ・選手を始め球団関係者は知っているのでしょうか?年が明けると毎年西宮神社に必勝祈願しているようですが、この大江神社のパワースポットにもお参りした方が良いのではないでしょうか。