ぼんくら放浪記

Blogを綴ることによって、自分のぼんくらさを自己点検しています。

キイジョウロウホトトギスの里

2014-10-31 05:00:00 | 田舎

国王山行を諦めて、春に行った佐本渓谷へ再び行ってみようと思って、愚車を国道371号線で三尾川まで北上し、前回は工事で迂回させられた道へ入って、美女湯温泉の手前で左折すると佐本川に沿って県道があるので、その道で佐本渓谷まで行ってみようと思ったのでした。計画通りに県道に入ったのですが、その道の狭いこと、対向車が来たらさぞ難儀すること間違いありません。渓谷付近ではもっと道幅は広かったのにと思いながら、5分ほど走って車が2台停まっている所に私も愚車を停めて一旦下車しました。停めてあった車に乗って来た人は川に降りて、落ち鮎の簗漁の仕掛けを作っている最中でした。私はどんな道なのかと少し歩いてみましたが、どう考えても車2台分の幅はありません。仕方なくUターンして、七川ダムから佐本へ抜ける県道を走って行ったのでした。

             

秋になると渓谷の紅葉が素晴らしいと何かに書いてあったので、古座街道の佐本往来は歩いたので、もう一度最後の方の渓谷だけを歩いてみたかったのですが、なかなか上手くはいかないものです。秋になってもう一つ見ておきたかったのはキイジョウロウホトトギス、以前は一枚岩の前の国道際の山肌にもキイジョウロウホトトギスは咲いていましたが、今は一枚岩辺りではその花を見つけることが出来ません。春に佐本を訪れた際にキイジョウロウホトトギスの里と書いた標識があったことを思い出し、この日は西野川沿いの道を登ってどんな里なのかと期待を抱きつつ、歩き出したのでした。

             

大々的に水車小屋などと書かれた案内板もあるし、さぞかし観光地化されて、喫茶店風の店でもあって、そしたらそこで昼ご飯でも、オークワで買った弁当は夜にでも食べようと思って歩いていると2分も歩かないうちに山側の高い所にキイジョウロウホトトギスの葉が群生しています。ほとんど花が咲いていないので、車で通ったら気が付かなかったかも知れません。

            

群生していると言うより50mぐらいに亘って植えられているのです。来たのが早過ぎたのか、遅過ぎたのか、あのプラスチックで造ったような黄色い花が観れないのが残念です。

             

キイジョウロウホトトギスの花の成長を観察したことがないので、この白く立っているのがこれから花を咲かせる蕾なのかどうか分かりませんが、もし蕾だとしたらもう少し遅くやってきたら見ごろだったのかも知れません。

            

道路左側を流れる西野川も清流で見る目を飽きさせませんが、山側を見ていないとキイジョウロウホトトギスを見落としてしまうかも知れません。

       

ずっと人気のない道を歩いてきましたが、15分も歩くと田んぼや民家が見え出しました。10月中旬なのに稲が干されている風景を眺めて、もう脱穀した後の藁を干しているのかと思ったけど、よく見ると未だ籾は付いたまま、この辺りの稲刈りは随分遅いのですね。

             

更に3分ほどでキイジョウロウホトトギスについての説明板に到着、説明の最後の方は“西野川地区の山中茂氏は、この上の自宅の石垣にキイジョウロウホトトギスの栽培を成功させた人です。”とあったので、振り返って道の上の方の家を見ますが、キイジョウロウホトトギスの花を見つけることができません。

               

ところが歩いてきた道沿いの石垣に植えたキイジョウロウホトトギスを隠すように覆ってあるのを見つけました。隠しているのではなく、きっと日当たりが良すぎると花は咲かないのかも知れません。植えられているキイジョウロウホトトギスですが、やはり花をあまり付けてはいません。時期尚早だったのか、或いはキイジョウロウホトトギス祭が2週間前に行われているので、遅すぎたのかも知れません。

            

もう少し奥へ行ってみようと思って、更に歩き出しましたが、民家はなくなり、柑橘系の実がなる畑が続いてきたので、そこから引き返しました。

             

やっと見つけたキイジョウロウホトトギスの花、でももう枯れかかっています。キイジョウロウホトトギスを漢字で書くと紀伊上臈杜鵑となるようで、紀伊は紀伊半島を現し、上臈は宮中や大奥での位の高い女官のこと、杜鵑は花の内側の斑点が鳥のホトトギスの胸毛と似ているからだとか。紀伊半島に自生し、品位の高い女官のようで、ホトトギスの胸毛に似た斑点が有る花ということでしょう。しかし時代劇でよく聞く「この下郎」という言葉、上臈の反対語かと思ったけれど、違うんですね。

             

「鳴かぬなら」切って捨てようが、鳴かせてみせようが、鳴くまで待とうが、私はホトトギスがどんな鳥で、どんな鳴き方をするのか知りません。

水車小屋で軽く昼食をと思っていたのに、水車小屋はただの水車小屋なのでした。案内板に書くほどのことはありますまいに。往復1時間足らず、愚車に戻ってオークワで買った弁当を広げたのでした。

国王山

2014-10-27 05:00:00 | 田舎

台風19号が近畿地方を完全に過ぎ去った先週水曜日に串本にやって来たのは既述済み、その頃は天気も良くて、大阪に居る時から寒くなって来たと感じていたので、長袖・長ズボンでやってきました。ただ大阪では靴下を履くことがなかったので、そのままキーンのサンダルで来たのですが、夜になって随分寒く感じ出し、去年の冬に買っておいたユニクロの裏ボアのスェットが役に立ち、靴下も履かなければならないほどになりました。キーンのサンダルは裸足でなければ履けませんから、靴下を履くようになってからは、クロックスのサンダルに切り替えたのでした。働いていた頃は靴下を履くのは11月になってからでしたが、串本は大阪より朝晩が随分寒いと思ったのでした。ところがオスプレイがやってきた日曜日以降はそんなに寒くなくなり、雨が降り出した月曜以降は靴下も不要なほど温く、水曜日になって部屋の中では再び蚊が飛びだしたので、あわててアースノーマットのコンセントを繋いだのでした。

             

水曜日の昼過ぎに串本に着き、翌日も疲れていたので何をするでもなかったのですが、『古座川風土記』を再び読み出すと、後南朝遺跡の朝里家のことがしきりに出てきて、国王山に朝里氏が建立したという国皇大神が有ると言うので、一昨年貰った地図に虫喰岩のある池野山から登り、ぼたん荘の有る月野瀬へ降りてくるハイキングコースが紹介されていたので、金曜日の朝から出かけてみることにしました。去年の秋にはトレッキング用のシューズは買ってあったのですが、寒いと思ったのでいつも出かけるハーフパンツではないものの、サンダルではなくランニングシューズで出かけたのが間違いのもとだったのです。たいした山でもなさそうなので、すぐに戻れると思い、昼からは佐本渓谷へ行ってみようと考えて、朝の連ドラ『マッサン』を見終わってから串本のオークワへ弁当を買いに出かけ、そのまま42号線を戻って、古座川町役場の前を左折して(古座橋ではなく、河内橋を渡ったから、古座橋方面からなら右折)国王山登り口を目指したのでした。

       

虫喰岩の手前でガードレールに楠・樫山方面と書かれていたので左折し、よく見ておかなければ気付かないような小さな『国王山登山口』の標識を見つけたので、その辺りに愚車を停めて歩き出しました。往復で3時間ぐらいと見積もっていたので、弁当とリュックは車に置いておきました。これなら車でも来れると思えるほど舗装された林道を歩きますが、横を流れる川には水は流れていません。12~3分歩いて漸く水音が聞こえてきました。

             

ここで舗装道路は終了、土手の向こうは池があり、池野山登山口の標識もあります。池が有ったことで、この地が池野山と呼ばれている所以が解ったような気がしました。

       

池の畔の碑には竣工記念とあり、昭和24年4月3日の日付が刻まれていますから、私が生まれる前にこの土手が竣工されたのでしょう。さてここからどちらへ進むかが判りません。来た方からまっすぐ、池を左手に見ながら山の方へと歩いて行きました。

             

2分ほど歩くと滝がありましたが、このまま歩けと言われれば進めないこともないのですが、どうもおかしい。滝があるなら地図にも滝のことが示されているはず、ここで地図とコンパス(方位磁石)を取り出し、方位を合わせると、こちらではありません。私は北に向かっていましたが、土手からは西の方へ歩かないといけないのです。

       

土手の西の端まで来ると、池から水が落ちる堰があり、水が流れているので向こう側に渡れるようにコンクリート製の飛び石が置かれていますし、向こう側には何やら標識も有るようです。堰への階段を下ると池からの水は2cmぐらいの深さで流れており、階段の一番下から最初の置き石まで1,5mぐらい、若ければ飛べるかも知れませんが、もうそんな力は私には有りません。どう考えても水中を歩かなければなりませんが、ランニングシューズでは2cmの水深は辛い、絶対に靴底より上部まで水に浸かり靴も靴下も濡れてしまうでしょう。こんなことならサンダルで来た方が良かったと思ったのですが、後の祭りでした。

             

こんなことなら逆のコースで歩けば良いのだと考え、元来た道を引き返したのでした。ここでよくよく考えれば、靴と靴下を脱いで渡って足さえ乾かせば、靴と靴下は濡れずに済んだのですが、車をこちらに置いているので、月野瀬には降りられず、再びここを通らねばならないので面倒です。往復で約40分を要しました。

ところで月野瀬の登山口に行こうとしたら、集落に入る道路が工事中で全面通行禁止の立て札があり、落胆してしまった次第で、この日は国王山には行けず仕舞いでした。

オスプレイがやって来た Ⅲ

2014-10-23 05:00:00 | 田舎

オスプレイが帰ったと思い、ふと後ろの海を見ると、さっき隠れていた艦船が全体像を現せていたので、写真を撮ろうと海側へ移動しました。帰ってからニュースを見て分かったのですが、この船は海上自衛隊の護衛艦『いせ』だということ、せっかくなら三重県ではなく和歌山県に縁のある名前を付けた船がやってくれば良いのにと思うけど、そのような名称が付いた自衛隊の船は無いのかも知れません。でも何処を見ても『いせ』とは書かれていません。

       

船首から中央部、船尾と分けて撮ってみました。船首にも船尾にも砲台のようなものが装備されています。船首にはバスのような乗り物も載せられています。串本港に繋留している海上保安庁の船は私の船から比べたら、やたら大きいと思っていましたが、この船はもっともっと大きくて、やはり船ではなくて艦ですね。

             

船後方の向こう側に機関砲のようなものが2つあり、その左にも2つありますが、先が釣り竿のように曲がって細くなっているので、こちらは武器ではないようです。手前側には同じようなものが無いのには首をかしげますが、移動式なのかも知れません。

             

船尾と中央部にヘリコプターが1機づつ積まれています。中央のヘリコプターの横に並んで乗っている人たちは自衛官ばかりではないようです。こんな写真を掲載したら秘密保護法に違反したとして、逮捕され、拷問を受けるかも知れません。何と言っても、何が秘密なのか明らかにされていませんから、こんな写真でも秘密に当たるとされたらしょっ引かれる羽目になってしまうのです。だから皆さん、秘密保護法は廃案にして下さい。

       

『いせ』の後方に積まれていたヘリが飛び始めました。と思ってるうちに再びオスプレイも飛んできました。ニュースによると岩国基地のオスプレイは2機参加とありました。先に飛んで行ったオスプレイには尾翼と胴体に03という番号が打ってありましたが、今回のオスプレイは同じ箇所にⅡという意味でしょうか、二本線の縦棒が描かれていて別の機体が飛んできたことになります。

     


私の居た真上ではなく、少し斜め上をゆっくりと飛んで、着陸体制に入りました。着陸の瞬間は木が邪魔になってちゃんと撮影出来ていません。

              

今回の着陸後は救援物資のリレーや負傷者役の搬送などの災害訓練らしき行動が有りました。でもみんな真剣にやっていたのかどうか、実際に想定外の地震に見舞われたら、こんな状況じゃない筈です。日頃から訓練をしている自衛隊の人たちは、きっと冷ややかな目で見ていたに違いないと思います。

       

だいたいDMAT役(役か本物かは知りません)の人でも呑気に写真など撮っているのですから。DMATって災害派遣医療チームで、写っているのは看護師と書かれたベストを着ていますが、その下段はNURSEとありナースです。ナースって看護婦、女の人の仕事だと思っていました。男の人も看護するから、看護婦と言う言葉を使わなくなり、看護師に変ったんだと理解していたのです。ややっ、対面から写真を撮ってる自衛官(米軍人かも)の姿が・・・自分たちだけ勝手に好きな所から撮影しているなんて、ずるいんじゃないですかね。

             

日本国は未だオスプレイを購入していませんから、このオスプレイは米軍のもの(来年度は1機あたり100億円もするのに買うのかも)、なのに垂直尾翼には『竜』の文字が描かれています。何故なのか私には理由がよく解りませんし、米国空軍のマークや『竜』文字の下の8218(先のオスプレイは8223)という番号やMARINSという文字は消えかかっています。日本仕様にしているのか・・・それにしてもあまりきれいな機体ではありません。

             

回転ブレードの軸にあたるナセルといわれる部分、配線などがむき出しになっていますが、これで大丈夫なんでしょうか?飛んでいる姿を見ていると左右どちらのナセルも同じようにむき出しになっていますし、先に飛んできたオスプレイもこのようになっていました。

             

あまり上手く撮れていませんが、負傷者役を運ぶDMAT役の人たち。丁寧にも点滴を持って歩くDAMTの人の姿も、ここだけがやけにリアルです。

             

そしてついに乗降口が閉ざされ、飛び立っていくようです。この間35分程度、ずっとブレードは回っていましたからエンジンはかけっ放し、燃料は米軍持ちなのでしょうか。私たちの税金が無駄に使われてないと良いのですが・・・オスプレイのエンジン音は意外と喧しくはなく、飛び立つ直前だけやたら大きな音がしていました。

    


大きな音に変ったので、すぐ飛び立つと思ってカメラを向けたのですが、なかなか飛び上がらず無駄な時間を使ってしまいました。みんなが帰ろうとするので私も帰途に就いたのですが、この後オスプレイは『いせ』の船尾のヘリコプターが飛び立った跡に着艦し、負傷者役の人たちを降ろしたことをニュースで知りました。

オスプレイがやって来た Ⅱ

2014-10-22 05:00:00 | 田舎

望楼の芝に到着以降待つこと1時間半、やっと待望のオスプレイが飛んできました。正式名称はMVー22ですが、オスプレイとは猛禽類のミサゴのことで、ネーミングからして防災用ではなく戦闘用の飛行機であることは間違いありません。従来のヘリコプターよりも早く(最大速度565km/h)、航続距離も長い(3590km)ものを目指して造られました。従来の米軍のヘリコプターは前後に回転翼が二つあるCH型と呼ばれるもの、その代表格のCHー47で最大速度は315km/h、航続距離は2252kmでした。但し、MV-22は全長が短く、最大乗搭乗人数はCHー47の55名に対して33名しか乗れません。

       

海岸沿いに見物している人達が皆真上を見ているのは、後から写真で見ると滑稽な感じがします。ただ見上げているだけの人は少なく、殆どがカメラやスマホやケータイ、或いはタブレット端末をかざしていますが、かく言う私も同じようにデジカメをオスプレイの方に向け続けていたのでした。

             

飛来したオスプレイは案の定、芝を刈りあげて造ったヘリポートの上で半回転し、観客にお尻を向けて着陸、私としては正面から見たいものでしたが、後部から人の乗降があるし、物資の搬出もあるので、それを見せるためのショーなので仕方ありません。報道陣は自分とオスプレイの間には邪魔者はいませんが、私たち見物人はオスプレイとの間に報道陣や県職員・警察・自衛隊などの関係者が邪魔になってしまいます。

             

結構大きなオスプレイが撮れていますが、実際にはこんなに遠くから撮影しています。やはり20倍率もあれば、肉眼より大きく写すことが出来ます。

       

この日は時折風が強く吹き、係の県職員が帽子を飛ばされないよう頭を押さえる姿や、警察官などは帽子を顎で留めているいる者もいました。何故か空中ではジェット機が2機飛んでいました。自衛隊の戦闘機なのでしょうか?こんな所では着陸できないのですから、防災訓練とは一切関係がありません。

             

見物客がオスプレイを撮りたくてカメラやスマホを手にするのは理解できますが、自衛隊員なのか米兵なのか、ちょっと分かりませんが、何故か乗務員までがスマホらしき物を操っています。

     


15分ほど殆ど何もしないまま、オスプレイは離陸を始めました。オスプレイは東の方へ飛んで行ってしまい、防災訓練らしきこともないまま居なくなってしまったのでした。

オスプレイがやって来た

2014-10-21 05:00:00 | 田舎

台風19号が過ぎ去った先週の水曜日に串本に来ています。今回は誰も釣りに来ないので、山登りや佐本のキイジョウロウホトトギスを観に行こうと思っていましたが、何と言ってもCさんから教えて貰っていた19日の串本町の防災訓練にオスプレイがやってくることを楽しみにしていました。私は米軍が日本国内に基地を置くことを容認しませんし、1991年の試作機以来9度も事故を起こしているオスプレイが沖縄に配備されることにも懸念していました。しかしながら日本政府は沖縄どころか岩国基地にもオスプレイを配備することを容認、日本の何処へでもオスプレイを展開させる姿勢でいることに怒りさえ覚えます。そして今回は自治体主催の防災訓練では日本初となるオスプレイの参加を和歌山県で実施させたのです。戦争遂行のための飛行機であるオスプレイが日本の上空を飛ぶことには反対なのですが、実際にオスプレイってどんなヘリなのか、実際に自分の目で確かめることとは別問題、おそらく実際に近くで見ることなど二度とないであろうと思われるので、日曜日の朝が来るのを楽しみにしていたのでした。

       

串本町が沖合でM8,7の地震が発生したとする防災訓練をすると言うので、私はてっきり町民全員が防災放送などを聞いて、近所に設けられた避難所に走っていくものだと想定していましたが、そのような訓練ではなく、ただ単に潮岬の望楼の芝へオスプレイが物資を運んで来て、選ばれた町民がバケツリレーの如く物資を運び、負傷者をオスプレイに乗せるという訓練だったので、これはもう全くオスプレイの為のデモンストレーションのようなものです。

私は9時ごろに望楼の芝へ着けば良いと思っていたのですが、何故か8時半過ぎには着いてしまい、早過ぎたかと思ったのですが、もう展望タワーの前の駐車場は満杯、愚車を何処へ停めようかと車をゆっくり走らせたら、瓜田渡船の駐車場は未だ駐車している車が少なかったので、後から停めるであろう車があるといけないので、帰る時に出せないかもと思いつつ、奥の方に停めておいたのでした。望楼の芝の西側には訓練用の車両がいっぱい並び、観光タワーの屋上に見物客を確認したのが8時50分、オスプレイが飛来するのが10時ごろと聞いていたので、未だ1時間以上も待たなければなりません。

             

そんな時間なので未だ人は集まっておらず、来ている人は殆どカメラかスマホ・ケータイを手にしています。三脚に一眼レフのデジカメを用意している人も少なくありません。やはりオスプレイが珍しいのでしょうね。訓練見物場所などを設けているなんて、実際に地震が起きた時にどのように避難する訓練でないことは明白、このような訓練は町民にとって何の役に立つのでしょう。オスプレイを国民の身近なものにしようという政府の魂胆が見え見えです。

       

少し小高い場所から見ると望楼の芝の中央付近に芝を丸く刈ってあるのが確認でき、きっとここにオスプレイが着陸するんだろうと思える目印が作られてあり、その周りは遠巻きに虎ロープが張られて、見物人は近寄れなくなっています。辺りでは迷彩服を着た自衛官や和歌山県庁の人、それに警察官とおぼしき目つきの悪い人が行き交います。望楼の芝の中で最も見晴らしが利きそうな丘は自衛官によって占拠され、一般の人は立入禁止、頂上では自衛官がこともあろうにビデオカメラを用意していました。

         

このような催しにオスプレイが飛んでくる以上、それに反対の声を上げる人が絶対来ていると思っていて、遠くにゼッケンを付けた人が居たのを見つけたので、近づいたら負傷者役の人たちでがっかりしました。実際には来ていたようでしたが、私の目にはとまりませんでした。この催しを教えてくれたCさんも来ていて、大きな艦が来ていると教えてくれたのですが、私には見えなかったので、海の手前まで行ってみましたが、木の陰から少ししか見えませんでした。Cさんの居る所に帰ろうかと思ったのですが、見物人はあまり居ないものの、スタッフが前に居るので写真を撮るのに邪魔になると思い、海側から見るとあまりスタッフが居ないので、そこでオスプレイが飛んでくるのを待っていました。もう10時を回っていましたが飛んでいるのは新聞社のヘリコプターばかり、なかなかオスプレイはやってきません。10時13分、俄かに周りが騒然とし始め、展望タワーに上がっている人たちが一斉に西側の同じ方向を見ています。

             

芝の上の見物客には爆音は聞こえるけど何も見えていません。そして10時14分、南西の空からオスプレイが独特な姿を現しました。初めて見るオスプレイの現物ですが、未だこの時は遠くでした。

燃料携行缶

2014-10-17 05:00:00 | 田舎

4月20日に200ℓの軽油を29000円で漁協のタンクから入れたのですが、その後6月に私の行けない日に三男たちが釣りに行き、軽油があまりにも減っていたので、誰かに抜かれたのかと疑っていました。200ℓの燃料を入れる前にどれほど軽油が残っていたのかもよく分かってなかったし、燃料を入れてから出航したのは、4月28日と5月の3・4・5日の4日間だけでした。私は未だ一航海、大島の周りを一周、釣りをしている間ずっとエンジンをかけっ放しにしていたら、どれ位の燃料を消費するのかよく解っていません。一度にたくさんの燃料を入れても燃料の減り加減がよく分からないので、家の近くのHOMESに置いてあった燃料携行缶を買うことにしました。

       

携行缶は1缶で20ℓ入ります。今の軽油価格で約3000円、これで1航海できれば乗船された皆さんから1回3000円づつ頂きたいのですが、3人も4人も乗れば貰い過ぎてしまいます。まぁ三男は1日で2000円、2日で3000円と言う提案をしているらしく、燃料代として少々貰い過ぎても他にメンテナンス等にお金がかかりますから、私としては一度にたくさん乗ってくれれば有難いわけです。携行缶を買って暫くしてから、K川君にその話をしていたら、使わなくなった携行缶があるから「要らんか」と言うのです。もう少し早く言ってくれれば携行缶を買わなくても済んだのにと言う思いがあるのですが、一度に燃料を携行できる量には規制があるらしく、GSで聞いたところによると40ℓなのだそうです。それなら丁度良いのですが、もうだんだん力が衰えてきた私にとって20ℓ缶一つ持つだけで重く感じているのです。油は水より軽いですから、水を20ℓ持つよりは若干軽い筈ですが、とても重いのです。ですから40ℓなど持てる筈がありませんので、K川君の貰った缶は未だ使用していません。

               

その後、9月の末になってK川君からいつものように「やるもんある」と電話、いつもは一緒に飲む機会に貰っているのですが、今回は駅での手渡しとなったので、忙しいのかと思ったのに、私は夕方になって約束の時間をすっかり忘れて家で飲んでいたのでした。電話がかかって慌てて取りに行くと、今回はカレーでした。明治もレトルトカレーに手を出し始めたのかと思ったのですが、手提げのクーラー袋に入っていたので、レトルトではなくチルドだとのこと、あまり意味が理解できませんでしたが、これを食べてみると確かに美味しい、100円前後で売られているボンカレーなどとは全く違う味がします。写真左のキーマカレーは電子レンジで温めるだけですが、右のエスニック風グリーンカレーなどはこれを加えて調理をしなければなりません。5つほど貰ったのに私は1つしか食べてなく、全部三男が食べてしまいました。いったいいくらするのか知りたいのですが、サンプル品で値段は書かれていません。まぁ販売されているものにも値段など書かれてはいませんね。

       

先日、5月に釣りに来ていたヒィチャンから先週の日曜日にこんなものを頂きました。『サバの冷燻』という聞いたこともないもの、貰った時には酔っていた私は家に帰るなり冷凍室に入れてしまいましたが、冷蔵ですぐ食べた方が良いのに冷凍なんてと翌朝思ったのですが、断熱材で巻かれていたので、あまり凍ってなかったようです。酢で締めた後、皮を焼いたようで、しかも何か味が付けられているので、美味しいけど、サバ本来の味はさほどしません。

 

こちらはソフト仲間のH田君が丹波の黒豆の枝豆を持って来てくれた夕方7時前の西空、最近はこんな時間に外に出たことがなかったので、この夕焼けをみた瞬間は感動しました。マンションのエレベーターの昇降と駐車場の横断の往復だけなので、5分もかかってないと思うけど、扉を開けた時に見た光景は、帰って来てカメラを持ってきたこの写真よりももっと美しいものでした。

             

ただ単にポッカリと浮かぶ黒い雲なのに、麓から雲に覆われた遠くにある高い山の山頂に見えて、幻想的に思えて仕方ありません。

蜘蛛の糸

2014-10-10 05:00:00 | 田舎

8月23日に姫から電車で帰り、9月は18日に串本にやってきたのですが、その間約1ヶ月の間に玄関横の庇にクモの糸が張られていました。家から出るときは滅多にそのクモの糸にはかからないのですが、家へ入る時は壁沿いに歩く癖があるのか、その糸が頭にかかるのです。山など歩いていたら、時々張ってあるクモの糸に気付かずに体にかかることがありますが、サッサと歩いていますから糸は切れてしまいますが、この家に張られているクモの糸は結構弾力があって切れないのです。クモの糸と繭から取った絹糸を併せて新しい繊維を作る企画があると聞いたことがありましたが、その糸は強いことが特徴だったかと思うと、このクモの糸が切れにくいのにも納得がいきます。

       
                                    HOXYのティッシュの箱、真ん中右上から左下へ斜めの細く白い線がクモの糸
『蜘蛛の糸』は芥川龍之介の作品ですが、お釈迦様が地獄へクモの糸を降ろし、生前クモを踏み殺しかけたのを止めたことがあるカンダタに地獄から極楽へ登れるチャンスを与えた話でした。芥川はクモの糸が強いことを知っていたのですね。お釈迦様の降ろしたクモの糸は決して切れることは無かったのに、カンダタは自分に続いてきた罪人たちの重さで切れると思ったので「これは俺の糸だ!」と言ってしまったところで、プッツンと糸が切れたお話しでした。芥川の初めての児童文学ということですが、子供にはなかなか真意は伝わらないのではないでしょうか。

             

先にも記したように私は8月23日に電車で大阪へ帰ったのですが、その時紀伊姫の駅で『紀伊姫駅ノート』が置かれているのに気が付きませんでした。このノートによると、設置者の和歌山出身・大阪在住のベーシスト・鉄道ファンさんは14日にこの紀伊姫駅に来られ、4冊目となるノートを置いて行かれたようでした。私が帰るまでに15日・19日・22~3日と3人の書き込みがあったようです。22日に駅宿した人などは言ってくれれば私の家に泊めてあげれたのにと思います。

             

それにしても設置者のベーシストさんは毎年、8月14日に紀伊姫駅に来てるような気がします。でもこれが最後と書いてありますから、いくらニアミスしていてももう出会うことは叶わないかも知れません。私は3冊目が無くなった時にはもう諦めたのですが、それにしてもベーシストさんはしつこいですね、いや、諦めないことは良いことです。

             

今回は書き込みが順調なようで、1か月余りで9件、大阪や神戸からが多いですが、名古屋や東京からの方もおられます。地元の方や学生の書き込みはありません。こうして読んでいるとおそらくもう2度とはこの駅に来ないでしょうに、というより、2度とこのノートを見ることがないでしょうに、自分の書き込みに対して何か書き込んでもらえるような期待を抱いているように思えてなりません。私もこれまでにノートに書き込まれたことを少しばかりは紹介していますが、書き込んだ方がこの『ぼんくら放浪記』を閲覧した形跡が有りません。

                       

今回最後の書き込みは9月20日、Y下君が釣りにやって来た日です。どうやらJRの職員のようで、何故かこのノートがJR和歌山の職員によって設置されたかのような錯覚を抱かれているようで“・・・雨・風に負けずがんばれ”と激励を送っています。何よりもこのノートが何者かによって持ち去られることなく、まじめな書き込みが続くことを願っています。

材木流しトンネルの入口

2014-10-06 05:00:00 | 田舎

8月に『古座川風土記』や『探検絵地図』に載っていた“立合の木材流しトンネル”を訪れたのですが、それは出口だけであって、入口はどの辺りにあるのかがすぐに疑問になったのですが、どちらの書物にも当然のように書かれていませんでした。二つの書物(片方はマンガチックな地図ですが)の情報源って同じなのか、それとも現在まで何らかの情報が残っている物を掘り起こしただけで、疑問を持って新たに調べてみるといったチャレンジ精神に欠けていたのではないかと思うけど、一方で私の持った疑問などはそうたいしたものでもなく、串本・古座川を訪れる人にとっては、わざわざ書く必要もない程度のものだと判断されていたのかも知れません。

       

でも、出口だけを紹介して入口は無視するなんて片手落ちだと思うし、観光客がわざわざ“立合の材木流しトンネル”などを見に来るとも考えられず、興味あって材木流しトンネルを訪れる人は出口を見たら入口も見たいと思うのです。といってもトンネルの出口から入って、どうなってるか分らないトンネルを遡ることは出来ません。

中津谷の滝を見た後、その足で一枚岩手前まで戻り、きっとあるだろう材木流しトンネルの入口を探しに行ってきました。明神橋から国道で立合トンネルの手前の旧道への道へ右折して駐車、そこからは歩きます。すぐに道は二股に分かれて、まっすぐ行くと旧の相瀬トンネル(真ん中の写真)を抜けて七川ダム方面への道、トンネルの向こう側は車1台がやっと通れるくらいの道幅です。手前の立合川方面への道を選んで進みます。8月に滝の拝から七川へ抜ける道で見かけた林道立合川線です。右の写真で赤地に白の矢印はオトリアユの販売所を指しています。

             

旧の七川方面へ向かう道は今は往来が少ないようなので、林道もきっと狭くて車も走ってないのだろうと思っていましたが、いきなり猟犬を乗せた軽トラが曲がってきてビックリしました。道幅は案外広く、車は十分行き違うことが出来ます。こんな道が昔からあるのを知っていたら、この道の方が滝の拝へ行き易かったかも知れません。一枚岩の近くなので一枚岩と同じ地質の山が左に見えています。同じ地質と言えば、虫喰岩や牡丹岩と同じ風化の岩も有りました。

             

最初は立合川を左にして進みますが、途中で橋を渡り、川は右側を流れるようになります。歩き始めて5分、川は右に離れていき、前方に植林された僅かな平地が見えてきました。長い年月が経った林ではありません。

             

通り過ぎようとすると、林の向こうの川の対岸に大きな穴が見えたのです。私はきっとこれがトンネルの入口だと直感したのですが、真偽は分りません。これがトンネルの入口だとするとこの山の向こうは古座川が流れている筈です。でもどれ位曲って来たのか見当がつきません。

         

穴は2つあって、左の穴は一応封鎖されているようです。トンネルの出口は水が流れていましたが、ここからは水が落ちて行く様子は窺えません。ここから入ったらどうなるのか、考えようにも川を越えるために水に入らないといけないので、端からそんなことは出来ません。家に帰って国土地理院の地図を見ると同じような地形が有り、ここから材木を流すと、少し斜め左へ落ちて行くように思えます。歩き始めた所から等高線で10mのところまでしか登っておらず、出口まではもう1本等高線がありますから、20mほどでしょうか。

             

この後、10分ほど登りましたが、たいした景色でもなく、材木置き場が一軒あっただけなので、そこから引き返しました。地図で見ると立合林道は途中で細くなってるところがあるみたいですが、殆どが車は交差するのは簡単なようで、一度この道で大桑まで行ってみたいものです。

中津谷の滝

2014-10-03 05:00:00 | 田舎

姫の家から一枚岩までは結構遠くて、ガソリンが急騰した昨今は月一の串本行の中で何回も出かけるのを避けるようにしているのですが、今回は鳴滝を探しに出たのが、雨の止んだ昼からだったので、『古座川風土記』に記されていた五段の滝を見に行きたいと思っていたのに行けず、翌日もう一度古座川方面に出かけたのでした。

海岸沿いに走って古座川を遡ると、かなりの距離を走ると思ったので、今回は久しぶりに姫川から重畳山方面、高瀬へ抜ける山道を走ってみました。ところが相変わらずのガタガタ道は改善されておらず、四駆でない愚車で行くとどこかの溝や穴に嵌ったりすると抜け出せなくなるのではないかと思うような道が残っており、結局高瀬まで20分ほどかかってしまったので、時間的には同じくらいと感じたし、ひょっとしたら余計にガソリンを使ってしまったのではないかと思い、距離的には近くても損をしたような気分になってしまいました。

             

『古座川風土記』には景勝地などは紹介されているものの、地図は載ってなく、全て言葉で表現されているので、知らない所へ行くにはよく読んで、地図で確認しておかなければ目的地には辿り着かないような気がします。この本を書いた人は、この本を読んで彼方此方行ってみようと思ってる人を想定してなかったんじゃないでしょうか。

今回の五段の滝は明神橋から滝の拝方面へ向かい、直見の集落を越えて更に進むとトンネル工事が行われている所があり、このトンネルが来年9月に完成すると、目的の中崎の集落へは行くことがなくなるかも知れませんが、五段の滝に行くには少し足を延ばせばいいだけなので、対向車のことを心配することはありません。中崎集落は、小川の蛇行に沿って道が出来ているので、一枚岩の手前の相瀬と同じように長方形に突き出した土地になっています。今作っているトンネルは相瀬トンネルと同じように、長方形の短辺を突っ切って向こう側に出ようとするものなのでしょう。

       

明神橋から滝の拝への道は県道43号線、中崎の集落で適当に車を停めて、小川に架かる橋を渡って対岸の山の裾を歩いていきます。小川に架かる橋の風景を見て、小川どころと違うやん、大きい川やと思われるでしょうが、小川は名詞ではなく固有名詞で、読みは「おがわ」ではなく「こがわ」なのです。対岸の山裾を歩いていても、この道を行けば五段の滝に辿り着けるかは未だ分かっていませんでした。10分も歩けば道は終点、でもその奥に標識『中津谷の滝・15分』があったので、ホッとしたわけです。ここまで車で来ることが出来ます。

                 

山から小川に注ぐ川に沿ってもう水は流れていない灌漑用の手溝が残っており、その手溝を伝うようにして奥に進んでいきます。所々に岩や倒木があって歩き難いのですが、何故川の傍に灌漑用の手溝など作ったのか不思議な気分でした。

           

山に入って12分歩いたところで、手溝の左右に歩く道が無くなって、手溝のコンクリート枠を歩かねばならないところに出くわします。その場でかすかな音がするので右を見ると滝があり、これが目指していた滝かと思ったけど、五段にはなってなく、水の量も少ないので「これと違うよな」と独り言。

                       

これぐらいの滝なら、わざわざ見に訪れる価値は無かろうと思ったので、そのまま前に進んで行きました。

       

最初に見た滝から4分ほどで大きな瀑音が聞こえて、勢いよく足元まで水が迸っています。道からは直接滝は見えていませんが、間違いなく『古座川風土記』に記されている五段の滝でしょう。なるべく正面から滝を眺めたいのですが、水の勢いが強くて水の中に入ろうとは思えません。岩場で行けるところまで行って写真を撮りました。

 

五段の滝と言っても下から見えるのは三段目から下、上の二段はここからは見えないそうです。

                       

山に入って15分、左手に流れる川は静かな佇まいなのに、こんな凄い滝があるとは・・・、皆さんも訪れてみればびっくりしますよ。別の杣道を辿れば一番上の滝へ行くことが出来るようですが、その入り口の説明がないし、地図にも道は見えないので、今回は行くことは出来ませんでした。

             

五段の滝が何故中津谷の滝なのか、どちらが正しい呼び方なのか、私はよく解っていません。地図にはこの渓流が中津渓とも書かれていませんし、この辺りを中津と呼んでいるようでもありません。『古座川風土記』には五段の滝とタイトルを付けてあるのに、写真の説明には中津谷の滝となっていて、一貫性がありません。