ぼんくら放浪記

Blogを綴ることによって、自分のぼんくらさを自己点検しています。

江田を歩く

2013-03-29 05:00:00 | 田舎

田子駅からほぼ42号線に沿って歩く大辺路、田子からは殆ど歩道が無いので危なく、車で徳本上人の碑があるところまで走りました。今回はその続きを歩こうと野凪(のうなぎと読む)の港に車を置いて江田まで歩き、戻ってきて野凪から山越えで田並まで行き、再び野凪に戻ってこようと試みることにしました。野凪は本当の漢字は野と氵(サンズイ)に和と書くのですが、IMEパッドで手書きしても候補の字は上がって来ません。氵に和と書いて“なぎ”と読むという感覚はよく解るような気がします。

             

野凪のバス停、今使っている地図ではこの場所に道分地蔵があると書いてあるのですが、何処を見てもそれらしきものはありません。

             

野凪の港は田並漁港よりはるかに大きく、野凪自体が田並の一地区なのですから、こちらを田並漁港と名付けても良さそうなものです。規模の大きさからすれば閑散として侘しい感じがしますが、それはそれ見方を変えれば余裕のある静かな港内です。

             

東の方を見れば田の崎半島が見えます。ここのところ調べ物があってネットを見ているのですが、たまたま見つけた『田並の昔の写真集』に拠ると昭和初期の田の崎の山には数えるほどの松が生えているだけでした。今はいろんな木々がこんもりと生えています。

             

田子から江田にかけては歩道がありませんが、野凪から江田へは歩道があり、安全です。ここは田の崎の付け根、切通しになっているので昔は田の崎からの山が連なっていたのでしょう。ヤマザクラの花が満開できれいでした。

             

江田で目指したのは徳大明神社と浦氏屋敷跡と海蔵寺、まずは一番遠い徳大明神社です。先月訪れた徳本上人の碑は目と鼻の先です。

             

この小さな社は42号線を走っているといつも気になっているのですが、来てみると何の変哲もない社です。

       

江田の浜を少し歩き、紀勢線の線路を潜って浦氏屋敷跡へと向かいます。車を停めてからここまで30分ぐらいでした。

             

立派な石垣が残っていると書かれていた浦氏屋敷跡、これかなと思いながらも、辺りには案内板もありませんので、もう少し奥まで歩きましたが何もありませんでした。

             

きっとこれだと思い近寄ってみましたが、浦氏自体どのような家柄なのかも知りませんから、あまり感慨はありません。石垣の上には浦氏ではない人の家が建っていました。

             

江田の浜から双島を見ながら海蔵寺へと向かいます。

             

海蔵寺へは案内板がありました。やはり紀勢線の下を潜ります。

             

お寺へは坂道を登りますが、お寺の海抜は7mほど、一応避難場所には指定されていますが、大津波が来れば心もとない場所です。

             

本堂と境内、おじいさんが掃除をしていました。

                       

葉がないので確かなことは言えませんが、イチョウの木だと思います。境内ではこの木が一番に目を惹きます。ここまで1時間近くを費やしました。

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住崎の地磯

2013-03-28 05:00:00 | 田舎

前日、串本港で漁船を見た後、頼んでもいないのに古谷魚店の主人が潮岬の知人の家を巡るというので、そのまま運転して行きました。よくも私の愚車で出かけたものです、古谷氏の運転する車に乗ると、全く進まないのです。まっすぐな道路でも最高速度は30kmぐらいで走るものですから、後続する車は大変です。私もこの日4時にaコープで待ち合わせがあるのに、彼の人の車に乗せられていたらと思うと、とても間に合うものではなく、「あっちを曲がれ」や「ここ曲がれ」と中の集落をあちらこちらを走り、予定外のドライブも何とか待ち合わせの時間には間に合うことが出来ました。古谷氏も来年は80歳とか、時々何を言ってるのか解らないこともあるほど、口も回らなくなってきています。

             

そのドライブがてらに潮岬には売り地や売り家が結構あるので、翌日独りで前日行った中学校付近を見て回ったのでした。馬坂からの周遊道路を走っていると、ふと海岸に降りれるような道が付いているのを発見、灯台までは600m、キャンプ場までは1kmの地点です。

             

坂は心持ち急ですが、普通に歩いて降りられます。いろんな地磯に降りる道を体験してきましたが、この道が一番楽で安全です。

       

途中から道は細くなりますが一応舗装は続きます。水路を超えて歩き続けると地道になりますが、険しさはありません。前夜の雨にもぬかるんだところが無く、それだけ気候が暖かくなっている証拠なのかも知れません。

             

5分ほどで浜に出て来れます。薄く伸びている半島は江須崎でしょうか。

             

こちらは灯台側、灯台に向かって行ける所まで歩いてみました。約20分ほど歩くと「まぁこんなもんか」という所まで到着。

             

歩いているうちには、歩けそうな所を選んで先端にも歩いてみたのですが、先端は浅そうです。この地磯には楽に降りることが出来ますが、釣りは出来そうにありません。

             

この日はこの時間が干潮のようです。なので大潮の満潮時にはここの磯は水没してしまうかも知れません。魚釣りというより、貝などを採るのに適した磯だと思います。

             

一人先端でごそごそしている人がいます。おそらく貝採りをしているのだろうと思いますが、漁協に加入してないと貝などを採ってはいけません。

             

車を停めた展望台に戻りました。往復40分ぐらいかかっています。もう12時を20分も回っていて、浜の西側には行っていません。

             

展望台の下には浜の西側に降りていけるような道がありました。今度はこの道を降りてみようと思いますが、釣りは出来なさそうな浜なので、行っても仕方ないかも知れません。

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無量寺

2013-03-27 05:00:00 | 田舎

5年前の秋に初めて訪れた無量寺、その時は永沢芦雪の絵のことを中心に書きました。田舎のお寺と言うのは大阪などのお寺とは違い、境内が広くて大きな本堂を持っているなぁと思います。勿論土地が余ってる田舎と、空き地など滅多に無い都会との違いでしょうが、境内が広いと参拝に来ても心がゆったりと落ち着いた気分になれます。大阪で見てきたお寺は殆どが狭い境内にあれもこれもと置いてあり、見ているうちに気忙しくなってしまって、仏教の教えは何処かへ消し飛んでしまいそうです。

             

今回は2度目に訪れた図書館からの帰りに再び裏口からの入場です。裏口から入ると以前見えなかったものまで見えてくるのが不思議ですが、それは2回目だからかも知れません。

             

本堂の幅も広くて、前庭の幅も狭いせいか私の広角のカメラでも斜め横からでも入りきりません。前庭の幅は狭いのですが、長さは本堂より長いので広さは十分あるのです。

             

裏口の傍に建つ観音堂、横には数体のお地蔵さんと五重の石塔が並んでいます。

             

こちらは納骨堂、前に来た時は、このようなお堂は無かったと思うのですが、壁に何か字が書かれているので近寄って見ると・・・

             

タイトルは別にして、1枚のタイルに一文字づつ字が書かれています。小さく名前も書かれているのですが、どうやら子供たちが書いたもののようです。繋げて読むと般若心経になっています。“羅”や“蘊”のような難しい字から“一”だけの簡単な字までありますが、全部違う子が書いたのでしょうか?近くの串本小学校の子供が書いたのかも知れません。でも“空”や“色”や“是”のように同じ字もたくさん有りますから、誰が何処の“空”なのか、何処の“色”なのか、ちゃんと分担されていたのでしょうか。

             

こちら側には“羯”や“咒”のように安易には読めない字もあります。子供たちはどのように思いながら、こんな字を書いたのですかね。

ここ無量寺は東福寺の別格寺院だとか、そう言えば京都のお寺と比べると、田舎のお寺の方が規模が小さいですね。

             

境内の片隅には理解に苦しむ彫刻が置かれています。作者は酒井良さん、この彫刻のタイトルは『根』何処がどう根なのか私には解らないのです。1973年の作品だそうです。

             

こちらは『武地』だとか、どちらかが武ちゃんでどちらかが地チャンでしょうかね?こちらは1983年作、前回来た時には既に有った筈ですが、気付いていません。

1950年生まれと書いてありますから、私より1~2歳年上、感覚的にはよく似た世代なのですが、私の理解不足ですかね。
             
             

こちらが正面、左に鐘楼です。右に見える石碑の文字が読みたいのですが、1番上の字がどうしても読めません。無量寺には大きなフェニックス(たぶん4本)が植えられていて、近くまで来ると壁越しにその木が見えてくるので、門に着く前に「ここや」と判るのですが、それにしてもお寺にフェニックスはどうも似合わない気が気がします。

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船を買わないか

2013-03-26 05:00:00 | 田舎

♪♪これこそはと信じられるものがこの世にあるだろうか 信じるものがあったとしても信じないそぶり♪♪と唄ったのは吉田拓郎の『イメージの詩』、もう40年も前のことですが、世相は今もあまり変わってないようにも思えます。その『イメージの詩』の中にこんな歌詞がありました。♪♪古い船には新しい水夫が乗り込んでいくだろう~古い船を今動かせるのは古い水夫じゃないだろう♪♪今頃そんな古い歌を思い出しているのですが、もしこの中古の船を私が買ったとすれば、乗り込むのは新しい水夫であったとしても、拓郎が期待したような若く情熱的な人間ではありません。

串本に来た11日の夜、古谷魚店の主人が不躾にも「ケンケンガツオの船買わんか」と聞くので、藪から棒に何を言いだすねんと思いながら、好きな時に船にも乗れるようにはなりたいなと常々思っていたので、少し興味が湧いてきて翌日2時にその船を見に行くことになりました。

             

一目見て、今まで乗った船と比べて幅が狭いと思ったのでした。今まで乗った船と言ってもたいがいが渡船の船であり自分で操縦などしたことありませんし、第一未だ免許さえ持っていません。渡船はお客さんを乗せないといけませんから定員は20人ぐらい、この船だと何人乗せれるのか見当も付きませんが、10人も乗れないと思います。

幅が狭いと言うことはスピードは出るけど、安定が悪いと言うことになりますから、これから免許を取ろうと思ってるような素人にとっては危険この上ない代物かも知れません。

             

ただ装備は完璧らしく、魚探もありテレビまで付いています。エアコンまで付いておれば言うこと無いのですが・・・

             

私はカツオ漁などしたいとはこれっぽっちも思って無く、ただただ船を出して、釣れそうなところで竿を出してのんびりしたいだけなのです。つまり漁師になろうなんてこれっぽっちも思ってないのです。自分に船があれば、道中重い荷物を背負いながら遠い道のりを歩くことを思うと楽だと思うのですが、磯を歩くのとは違う危険もあるのです。

             

船には竿受けも数個付いており、ケンケン漁しか出来ないような装備ではありません。これらの竿も仕掛けも全部付いていると言います。燃料も9万円分積んであると言いますが、いったい船ってどれ位の燃料が要るものなのか、それさえ分かってないなどと思うと、やはり容易には手が出せません。

これはリールなのか?リールだとしたら一体何を釣ろうとするものなのでしょう。

                       

まぁ進水してからはだいぶん年月を経ている感があります。最近60万円かけて何処かを修理したのだとか、持ち主はその後、急に癌で亡くなったのだとか聞かされました。船を造ったのは田子の大辺路を歩いた時に平見下のバス停で見た坂本造船。150万円でと言われても高いのか、安いのか・・・買えない金額ではありませんが、維持費や台風の時などどうしているのかが不明であり、乗りこなせるのかが心配で躊躇しているのです。

今回は釣りをしようとは思っていませんでしたが、様子見にと一度だけ大島港を訪れました。その時大裕丸のにいちゃんが声をかけてくれたので、話の中でその船の話を持ち出してみると、「今時古い船は100万円もせんでぇ(しませんよ)」と言い「船はエンジンが命や」とか「坂本さんの船やったら大丈夫やけどの」とまたまたややこしいことを言います。「いっぺん、見といたるわ」と言ってくれました。

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田並から有田への旧道

2013-03-25 05:00:00 | 田舎

田並漁港を何となく見た後、未だ時間も有ったし田並橋から山へと続く道があったので、少し登ってみることにしました。これと言って目的があったわけではありません、どのような道なのか、何処に通じているのかぐらいを知りたかっただけなのです。

道にはガードレールがあったり、センターラインなどを引いているわけではありませんが、車は十分行き違うことが出来る広さです。

             

少し登ると左下の集落から登って来る階段があり、津波の時の避難路かと思いましたが、階段は別段新しいものでも無く、一昨年の3,11の教訓から造られたものではないことは明らかですが、津波の時の避難路として十分役に立ちます。

                        

ヤマザクラが咲いているのを今年最初に見ることが出来ました。大阪から車で来た時は、前の車に気を取られていて、あまり山の景色を見ていませんでしたが、鮮やかなピンクが目に飛び込んで来なかったことを思うと未だ咲いていなかったのかも知れません。ただこの日の4日後には満開になっているヤマザクラをいくつも見ています。

             

10分ほど歩くと左側から登って来る道が見え、そこに『大辺路』の案内札が立っているのを見て、田並で見た子供たちが描いたと言う地図はこの道のことを指すのかと思い、ここは再び歩かねばと思ったのでしたが、時間が来たので引き返しました。

駅前でCさんに会い、依頼事をして、山道のことを尋ねると、トンネルの無かった時代に利用されていた道で有田へ抜けると言います。では帰りにこの道を走ろうと思ったのでした。

             

田並のトンネルが出来たのはどうやら1965年のこと、私が中学1年の頃ですから、父親の車に乗せられて何度か古座に行ったこともありましたが、おそらくこの道を通った事は無いと思います。

スペースが少し有るところで車を停めて、戻ってきました。この案内板には田並の大辺路について書いてあり、田子からサンワへ抜ける道のことを書いた後、江田→松尾平見→野凪(ここでは氵に和と書かれていた)→田並海岸→田並川を北上して飛渡谷に下り、谷沿いを池の谷へ上がり、有田との境界に登っていったと書かれています。

             

案内板の少し上に少し戻りながら登っていく道があったので、海岸へ降りる道はないかと思い歩いてみることにしました。すぐに農作業をしている男の人が居たので、「この道の先はどうなってますか」と尋ねると、「こんな畑ばっかりや」と言われ、「海には降りられませんか」と聞くと「降りれる」と言うので確信して進んで行きました。

     

暫く歩くと道が左右に分かれたので右への道を選びました。5分ほど歩いて海が見えてきましたが道が無くなり、そこで作業していた女の人に「海へは降りられませんか」と尋ねました。分かれ道で「山の中の道やったらいける、左へそれからすぐ又左へ行ったら降りれる」と教えてくれたので、その通りに歩いたのでした。そこから10分ばかり、一番右の写真のところまで車で来れます。

       

梅の木を左に見ながら細い道を僅か1分、ここまでは舗装していましたが、この先は土道でした。この平見では家は一軒もありませんが、水道が通っているようです。

             

土道を5分ほど歩くと、海岸に出てきました。どのような浜になっているのか、どのような地磯があるのか期待が膨らみます。実は私はこの時までここが田の崎だと思っていたのでした。

             

正面は斜めに切り立った歩き難そうな磯、浅そうなので大物が居そうなところではありません。

             

右側の風景、何処も浅そうなので、田の崎で釣りをしたと聞くことがあるのですが、何処で釣るのかと思ったほど、でもよくよく考えてみると、この写真の向こう側の半島が田の崎なのです。無駄足だったかと思ったですが、まぁここがこんな浜だと分かればそれはそれで納得です。

                

駐車した場所まで戻り有田に向かって車を走らせましたが、道の幅は相変わらず、カーブが多い、絶対こんな道は通ってないと確信したのです。ゆっくり走って(ゆっくり走らないと危ない)10分足らずで入谷の集落に到着、NTTの敷地内にヤマザクラが咲いていたので車の中から撮っておきました。ここから42号線まで目と鼻の先です。

それにしても道を尋ねた二人はどちらもコテコテの和歌山弁ではありませんでした。何処かからの出戻りか?

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民謡 串本節

2013-03-22 05:00:00 | 田舎

昨日書いた頼まれ事をCさんだけに頼るのは虫が良すぎるので、私も串本の図書館に行くことにしました。串本の図書館は無量寺の近くだと聞いていたので、車を駅前に停めて歩きます。

             

結果的には図書館にも駐車場があったのですが、どうもこんな狭い道を車で行くと、対向車が来た時に困ります。串本の街の北側は住宅がびっしりと建て込んでおり、道幅も狭くて未だに何処をどう通っているのか分かり難いのです。

             

これが無量寺、1度来たことがありますから、その時は迷ったものですが、ここまでは簡単に来れました。でもここからどう歩けば良いのかが解りません。取り敢えず小学校への標識があったのでそちらに歩いていきます。

             

串本小学校、町内の小学校では一番児童数が多いのだろうと思います。さてこの前で左右どちらに行くか迷います。図書館への標識も立てて欲しいものです。迷っていても仕方が無いので左の方へ進みました。でも図書館らしき建物はなく、一周してまたこの学校の前まで戻り、今度は右へと進路を取りました。

             

小学校の裏門を超えた所、奥に駐車場があり関係無いと思ってまっすぐに進むと石碑屋さんがありました。

             

右に写っているのが無量寺の裏門、このままずっと進んでいくと行き止まりになってしまったのでした。途方に暮れて役場に聞きに行くことにし、無量寺の裏門から入って戻ったのがダメだったのです。役場で尋ねるとこれがまたよく解ってない若い人、年配の人に聞いて貰って判ったのが、どうやら通り過ごした駐車場の一角にあるようで、無量寺の裏門に入らなければ、ものは試しと駐車場へと歩いた可能性はあります。

             

これが串本町図書館です。さっそく入館すると入口付近に郷土の本を集めたコーナーがありました。でもそれらしき本はどうみても有りそうには思えません。本を検索できるパソコンも無さそうですし、奥の方でも探してみましたが全く分からなかったのでした。でもCさんは田並の公民館で見つけたらしく、関連の箇所をコピーしましょうかと連絡が入ったので、お言葉に甘えてコピーを依頼しました。夕方そのコピーを持って来てくれた時に、何というタイトルの本かと尋ねると、『民謡 串本節』確かに串本の図書館にも有った覚えがありました。
なので、翌日再び図書館へと出向いたのでした。

                       

『ひごのおばあさん』は句を読むのが好きで、依頼人からは“いこか下地へ もどろか上地 ここが思案の田並橋”といううろ覚えの句を教えて貰っていました。この『ひごのおばあさん』のことを調べたのが国道沿いにある田並屋旅館の息子さん、堀さんと言って、新宮で新聞記者をしていたとも聞いていました。今はもう田並屋旅館自体が有りません。昔のことですが、私も何処かで田並屋旅館を見たような記憶があります。

『ひごのおばあさん』は肥後すてと言う名前、うろ覚えの句は、最後“田並橋”の所が“寺のした”で、調べたのは堀利一さんという人でした。私もコピーを読んでこんな句もあり“神を頼んで信心しても へだてする身にゃ効きゃせまい”当時としては、非常に先進的な考えの持ち主だと思ったのです。

この『民謡 串本節』と言う本は、串本節の由来を多方面からの取材で書かれたものであり、肥後さんのことはむしろ関係無いのです。Cさんが何故この本を見つけることが出来たのか、それが不思議で仕方ありません。平成元年の発行ですから、串本節の由来を取材した人もされた方も、多くはもう亡くなられたのだろうと思います。

             

発行者が串本町公民館であり、定価も書かれていません。図書館の方に「この本何処かで売ってますか」と尋ねましたが、「もう古い本なので」と暗に売って無いことを示されました。売り物ではないのかも知れません。串本町公民館に行けばあるかもと思ったのですが、地図で調べても串本町公民館は見つかりません。

串本節の由来が“南方起源説”“れっきとした地元漁師の歌”“大島本命説”など結構興味をそそられるので、私も是非一冊手に入れたいものだと思っているのです。

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田並漁港

2013-03-21 05:00:00 | 田舎

明日には大阪に戻ろうかというような今日から、遅まきながら今回の串本での出来事を書き始めます。今回の串本では、コメントを下さった方から頼まれ事があり、その責を果たすために串本に着いた翌12日、田並へ行くことになりました。頼まれ事と言うのは詳しくは明日の記事に載せることとしますが、昔田並に『ひごのおばあさん』という方がおられ、田並では結構有名だったらしく、堀と言う人が詳しく調べて一冊の本にしたから、その本を探してくれということだったのです。

私は田並のことなど全く知らないし、田並へは『才助の滝』へ行ったことしかありません。たまたま友人のCさんが田並のことなら詳しいかなと思ったので、JRの田並駅前に来て貰って又聞きならぬ又頼みをしてしまいました。

             

先月もちょいと田並駅前に寄ったのでしたが、海を観に行く途中で呼び戻されたので、今回は早めに駅に着いて海を観てきました。田並橋の上から海の方向、漁港とは名ばかりの小さな船溜まりがありました。右の道路は42号線です。

             

これだけ浅いと大きな船は入って来れません。ボラの大群が右へ行ったり左へ行ったり、どれも未だ小さくて人間にすると小学生ぐらいでしょうか、でも2匹だけ大きなボラが居ました。この大群の親なのでしょうか。奥に架かっているのが田並橋です。

                       

漁港施設と言うほどの施設など無いのですが、船溜まりに係留することを指しているのでしょうか。こういう立て札をするのはたいていが漁協なのですが、ここでは町が立てています。それにしても石を使って立てているなんて、どうにも応急措置的で信憑性がありません。

             

昔は田並の浜では、サンゴを原料として、良質の石灰を作っていたと言います。堤防の先に見えるのが田の崎、その半島の向こうに野凪という漁港らしい漁港があります。

             

船溜まりに停泊しているのは、このようなボートクラスの船ばかり、どうやらこの船の持ち主はタイガースファンらしい。でもどうやってこの船に乗るんでしょう?飛び乗るには船は低過ぎます。

             

川沿いに陸揚げされている船が数隻、中には漁船と呼ぶに相応しい船もあるにはあります。その後ろに鉄筋の建物がありますが、町営の住宅でしょうか・・・A2と書かれているのですが、国道沿いにはA1もB2も有りません。集落に入るとあるのでしょうか。

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黄砂

2013-03-19 05:00:00 | 大阪にて

気象予報士がテレビで黄砂の飛来を予報したのは3月8日のこと、「明日から黄砂が運ばれてくる」とシュミレーションを使って説明していましたが、この写真は3月8日の朝、モモを散歩に連れて行った帰りのことです。予報も無かったのに前夜雨が降ったような道の濡れ方を見て帰って来ると、我が車のフロント部は黄砂が降っているではありませんか。いやいや私の車だけではありません。駐車場に停めてあった殆どの車に黄砂の跡が残っていました。

気象庁が予報を出そうが出すまいが、毎年黄砂はやって来るのですから覚悟はしておかなければならないのですが、「明日から」と予報したのは、もう私の車に黄砂が降った後のことでした。降った後なのに、これから降りますなどと言うのは、どういう神経をしているのか確かめたくもなると言うものです。

             

政治家のように黒を白と言っているわけではありませんが、既成の事実を予定にするなど時間のずれという感覚ではないでしょう、明らかに無責任です。台風が過ぎてから台風がやって来ると言ってるのと同じなのです。

タイミング悪く雨も降ったものですね。雨さえ降らなかったら黄砂が飛来していたなんて気がつかなかったかも知れません。

             

まぁ、黄砂の飛来を予報されても別段何の手だてを講じるわけでもないのですが・・・

黄砂は中国の自然が元で偏西風に乗って、やって来るので仕方ありませんが、同様にやって来るPM2,5という代物は厄介です。こちらは中国特有の風土とは違い、経済発展の副産物であり、そのために他国の人間が被害に遭うと言うのは納得できるものではありません。半世紀前には我が日本国も所謂公害を撒き散らした時代がありました。それはそれで大きな問題になりましたが、煤煙が偏西風に乗って何処かの国へ迷惑をかけたという話は聞いていません。

だいたい黄砂にしてもPM2,5にしても、通り過ぎて太平洋の真ん中で落ちればいいものを、何故丁度日本国の上で落ちてくるのか・・・まぁそういう問題ではありません。要は中国が公害を撒き散らすことを反省し、今すぐ公害ストップの政策を打ち出さなければならないでしょう。そのための技術は日本国にはあるのですから、学んで貰わねばなりません。

             

これは9日の昼ごろの写真、マンション10階のベランダから南東方面です。いつも見えている二上山が全く見えません。

             

こちらは北東方面、晴れているのに生駒山も見えないのです。

この日、ソフトボールの練習に行こうと2時半前に扉を開けた途端、何かに猛烈に喉が襲われて咳が止まらなくなってしまいました。それまでは咳をするなど何の予兆も無かったのです。悪いことに杉の花粉の飛散も最盛期、この日を境に目は痒くなり、鼻水は出るわ、咳が出て喉が痛いわと災難続きです。

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紀伊姫雑記

2013-03-18 05:00:00 | 田舎

2月の記事は今日で最後ですが、もう3月も半ばを過ぎてしまいました。私もすでに先週初めから串本に来ていますから、ひと月前の気候とはだいぶん違うと思いながら、その最後の記事を綴ろうとしているのです。

大相撲3月場所が中日を過ぎましたが、上手いこと私の帰省時に場所が開かれてしまいました。一度は大阪府立体育館(ボディメイクコロシアムなどという名前が付いているとか)へ大相撲を見に行こうと思っていたのですが、今年もこの夢は叶いそうにありません。ただ先場所で高見盛が引退したので、仮に観戦できたとしても一つの楽しみが無くなっていたことは確かです。

             

残念なことを報告しなければなりません。3冊目の紀伊姫駅ノートが2月の帰省時には無くなってしまっていました。いつもはこの乗車駅証明発行機の上に置いてあったのです。誰が持ち去ったのか、今回はこんな想像が出来ます。

             

今回駅に行くと、配電盤がすっかり新しくなっていました。ということはJR関係の人がこの駅にやって来たということです。この駅で乗り降りする客が、このノートを持ち去る理由がありません。つまり犯人探しの捜査で言うところの動機が無いのです。だけどJRの人には明らかに理由があります、個人的なものを他家の庇の下に置くなというわけです。私でも他人のものが私の家に置かれてあったたら困ってしまいますよね。だからJRの人は自分が困ってもしていないのにノートを持ち去ってしまったのだろうと想像するわけです。

でもここは家ではありません、駅=公共的な施設です。ノート1冊ぐらい置かれていても誰にも迷惑はかかりません。ノートを置いた人の思い、そのノートに記述した人の思いがJRの人には理解できないのですかね。JRの人が持ち帰ったとすると、幾らなんでも勝手に処分はしないでしょう、忘れ物を置いておくコーナーに有るかも知れません。

             

姫の家です。前日、前々日と雨が降った明くる朝8時ごろの撮影です。もう気温も上がってきていて睡蓮鉢の表面に張った氷も溶けてきています。

             

車の窓にも粒状の氷がへばり付き、太陽が当たる方からそろそろ溶けかかってきています。田原の海霧を観に行った時は、6時頃で太陽が登っていませんでしたから、完全に真っ白だったのです。

前々から気付いていたのですが、我が愚車は朝日や夕日が当たると窓にまだら模様が出来て、物凄く見難かったのでした。なのでわざわざガラス用のクリーナーを買って拭いたのですが、その傾向は一向に治りません。なので内側を拭いてみたらきれいになったのです。この車を買って未だ1年も経たないし、そんなに乗っているわけでもありませんし、タバコも吸わないので室内がそんなに汚れるとは思えません。こうなるとこの車、私に売る前に車内の掃除すらしていなかったのではないかと疑ってしまいます。こんなことでは、業者としてだらしないとは思わないのか、普通売りに出す場合は一応掃除、窓拭きぐらいはすると思うのですがね、商品化されていないものを買わされたと言う思いは、今になっても後を絶ちません。貰ったものならこんな文句は言わないのですが・・・

             

庭の草もこの通り、如何に夜が寒いかが分かりますね。今は夜も随分暖かくなっています。

             

こちらの睡蓮鉢は夕方の5時ごろ、日中は暖かくてきっと水温も上がっていることと思います。

             

メダカも浮いてきています。エサをやるともっと数が増えますよ。14~5匹は確認できました。

             

早朝から田原へ行き、昼前は田子へ、そして前回最後の夜は古谷魚店で夕食にしました。木曜日だったのに3人連れの若い釣り人が集っていました。いつものように仲良くなれたけど、飲み過ぎてスマホを忘れてきてしまい、朝帰る支度をしていてスマホが無いのでどうしたのかと思いましたね。スマホにかけても電源が入っていないと言う応答、そうです、スマホはすぐに電池が無くなり、困りものです。

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道を間違えた

2013-03-15 05:00:00 | 田舎

国会の論戦を聞いていると(このブログの公開時と執筆時には1週間のずれがあります)、答弁する内閣総理大臣と同じような考え方をする議員(このような人の方が多いのですが)への回答は、顔もやや朗らかになり懇切丁寧に答えているように見えますが、考え方が180度違う議員からの質問があると、質問にまともに答えようとしない、木で鼻をくくったような言い方をします。答えたくないのか、答えられないのかは知りませんが、そんな態度は見ていて気持ちの良いものではありません。きっと彼は自分の常識が他人にとっても常識であるとは限らないことを忘れてしまっているのではないでしょうか。片方には一所懸命に働きかけ、他方にはそっけない態度を取るというような人では、総理大臣を務める器ではなかろうと思うのです。現の国粋主義者と言われる総理大臣のことだけを言っているのではありませんからご安心を、その代り反省してください。

しかし木で鼻を括る(くくる)とはどういう状況を指すのか、もちろん無愛想でそっけないと言う意味は分かりますが、どうやっても木で鼻は括れません。せいぜい細い枝なら括れるかも知れません。どうやら本来は“くくる”ではないようで、元々は“こくる”と使われていたそうです。木で鼻をこくる、こくるとはこする(擦る)と言う意味、それでも私にはそういう状況が想像できません。やはり枝なら、括るより簡単に擦ることが出来そうです。

             

田子駅前の坂道を降りていくと紀勢線のガードを潜って42号線へ右折する道と、まっすぐに山の方へ登って行く道がありました。当然のこととして山道を選んだ私、もう地図がどうだったか完全に忘れてしまっています。後の祭りですが、ここにも是非案内札を立てておいて欲しかったものです。

             

あまり民家の無いところですが、そのようなことは熊野古道とは関係ありません。

             

何か大きな動物の小屋らしきものが広場の片隅に、柵はしてありませんから何かが出てきたら怖いなぁと思いながら見ていました。ウサギぐらいなら怖くはないけど、そのような小さな動物を飼っているような大きさではありません。

             

その広場を通り過ぎると右にカーブしながら登っていきますが、カーブしたところから来た方向を撮ってみました。未だ新しい家が2軒建っています。ここなら津波の心配はないかも知れません。

             

15分ほど歩いて平らな所に出、数件の集落がありましたが、もう行き止まりでした。途中、案内札は一つもありませんでした。完全に道を間違えています。

             

帰っていると、ここから大辺路かと思わせるような狭い坂道がありましたが、案内札が無いのでそちらには降りていきませんでした。

             

海がこのように見えます。どうやらここは元峰ノ平見というところらしい。

             

紀勢線のガードを潜り、42号線も越えて海岸に降りました。ここもノリがたくさん付着している岩場です。安指沖の磯が見えています。

             

この地磯も干潮ではいつも誰かが釣りをしていますが、どうみても浅そうで、私は試してみようとは思いません。真ん中のポツンと突出した岩が面白いと思いませんか。

       

実はここからの大辺路は42号線そのものなのです。少しだけ山側に迂回した道がありますが、すぐに元の42号線に戻ってしまいます。真ん中の写真は日曜に朝市が開かれているという広場、私は開催されているのを見たことがありません。民家の裏に徳本上人の碑があると書かれていましたが、裏に行けそうな民家を見ましたが見つけることが出来ません。その代り特急・オーシャンアローが走って来たので撮っておきました。

             

42号線沿いに歩くのは危ないので、田子のバス停まで歩いて引き返しました。この辺りは最初平見下の停留所を探した時に歩き回った覚えがあります。車に乗り潰れたシーサイドサンワを越えると大辺路は田並まで42号線そのものです。少し先の海側に小さな碑が二つ並んでいるところがあるので、車を停めてみました。

これも徳本上人の名号碑、文政13年庾寅年造立とありますから、有田で見たものより5年新しいことになります。有田のものは鮮明に残っていましたが、ここのものは彫が浅く、少し読めない箇所がありました。

             

こちらはこの辺り出身の一路という人の歌碑らしいのですが、何と書いてあるのかさっぱり読めません。

             

ここでも海岸に降りてみました。整備されてないせいか、あまり美しいと思えるような海岸ではありませんでした。遠くに見えているのは潮岬、手前の半島は田並の田の崎でしょう。

最初の黄色いスイセンは山から降りて来て紀勢線のガードの手前にあったもの、たくさんは咲いてなかったけど、きれいだったので写したのでした。

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