ぼんくら放浪記

Blogを綴ることによって、自分のぼんくらさを自己点検しています。

神倉神社 Ⅱ

2012-01-31 05:00:00 | 田舎

階段下の鳥居を潜ったのが1時26分、神社の前に到着したのが44分ですから18分かかった勘定になります。583段もあるというから、どれだけ遠いのかと思ったけど、案外近かったのに疲れたなぁ。こんなことなら前日登っておいても良かったけど、どっちみち阿須賀神社には再度来ないといけませんから、二度手間なのは一緒でした。

この拝殿の上に載っかっているように見える岩がゴトビキ岩、所謂『天磐盾』でしょう。ここに石垣も社殿も無かったとしたら、不思議な光景でしょうね、太古から信仰が集められたのもなんとなく理解できます。

             

曇っていて眼下の景色はイマイチ、写真中央やや右にあるお椀を伏せたような山が蓬莱山、その手前に阿須賀神社資料館があるのですが、そこまでは見えません。拝殿前まで登って撮っているのが分かると思いますが、この階段も急です。

山上の境内には女性の二人連れの先客が休憩していました。登ってくる時も女性の二人連れに出会ったし、下る時にも女性の二人連れに出くわしたので、結構この神社は女性に人気があるのか、それともこういったパワースポットが女性に人気があるのか、まぁともかくも観光客らしき男性は私一人でした。

             

この手水鉢は、新宮第二城主・水野重良が寛永8年に花崗岩の一枚岩を刳り貫いて寄進した阿須賀神社の手水鉢と同様のもの。

             

私が休憩している時に私より歳をとってるだろう細身の女の人が息一つ切らせずに登ってこられ、お祈りをしてさっさと帰って行かれました。顔色一つ変えずに飄々としていて、私のように汗なんか全然かいていません。

私もすぐに引き返し、一つ下の社殿で見た防火用のバケツ、速玉大社と書かれています。速玉大社の摂社であるにせよ、ちゃんと名前の付いた由緒ある神社なのですから、バケツぐらい他所の神社のお古を貰わずともよいだろうにと思います。

             

何という木なのか分かりませんが、根っこを囲んで『神州院』と書いたものを四方に貼っています。全く意味不明、何の呪いなのでしょうか。

             

元の急な階段の手前まで降りてきました。末社の境内には『女坂』と書かれた矢印があり、女性用に迂回路があるのが分かります。

                   

階段の方は先が見えないのですから、怖いですよね、まるで義経の鵯越のようです。

老人が二人登ってきましたが、かなりゆっくり登ってきています。私のように一所懸命、早く登ろうなどと思わなくてもいいのです。

             

膝が芳しくない私は女坂の方から帰ることにしました。迂回と言ってもほぼ階段の横を通っています。階段を横から眺められるところがあったのですが、こう見るとそんなに急勾配には見えません。

             

女坂などと言ってもかなり険しい山道ですよ。ハイヒールなんかでは歩けません。

             

階段の一番下で合流、最初は怖いけど慣れたら何でもないそうですが、2度と行きたくないような気もしていますが、天気の良い日にまた登りたいような気もしています。

             

鎌倉時代に造られた階段ですから、面も並行でないし、段の高さも幅もまちまちなのが登り降りしにくい原因の一つでしょう。

             

社務所まで降りてきたのが2時4分、帰りはなかり早いペースで降りてきています。この2月6日にはお灯祭りという勇壮な行事が催されるようです。

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神倉神社

2012-01-30 05:00:00 | 田舎

味噌汁のダシが薄かったなと思いながら、勝丸を出て目指すは神倉神社です。歩くと15分ぐらいかかるけど、車なら5分もかかりません。

大阪には神倉神社と同じ呼び名の神座ラーメンが結構有名です。何故かみんな並んでまで食べようとしていますが、私は並んでまで食べたくはありませんし、そもそもラーメンなど高いお金を払ってまで食べたいとは思わないのです。インスタントでも半生の麺でも家で作ったら、いろんな具を入れても100円ぐらいで食べれます。店で出してるラーメンなんかボッタクリだと思っているのです。

いやいや今回はラーメンの話ではありません、神社前の駐車場に車を停めたのが1時20分ごろでした。


             

太古から信仰のあったというゴトビキ岩ってどんな岩なのか、多少の期待を持って境内への太鼓橋を渡ります。

             

行った当日は15日の日曜日、まだ松の内なので門松もお迎えです。

社務所の前では3人の大人が何やら小難しそうな話をしていました。そのうちの一人は野球のユニフォームを着ていました。新宮高校の先生かなと思ったけど、どうやら違うようでした。

             

鳥居までの境内には摂社やいろんな碑がありましたが、まぁこれが一番この神社に相応しいだろうと写しておきました。阿須賀神社でも紹介した日本書紀の『到熊野神邑 且登天磐盾』の一節が彫られています。

             

天磐盾というのはゴトビキ岩のことですね。ゴトビキと言うのは地元で言うヒキガエルのことですが、私たちはそうは言ってなかったように思います。

いよいよ源頼朝が寄進したと言われる階段に挑戦、前日はここまで来て時間が無さそうなので帰ったのでした。

ここから見ても急勾配なゴツゴツとした階段で、如何にも鎌倉武士好みだと言えそうです。

             

登り始めると最初は良かったものの、急勾配になると一所懸命になって、わすかに腰を曲げるだけで両手両足を使って登るれるような、つまり崖を登っているような感じ、いくら登っても平坦で休憩できるようなところには出ません。

もう息もハァハァと絶えだえになり、これ以上続けて足が上がらなくなったところで、階段の外に出て休憩、登ってきたところを撮ったのが上の写真、階段で振り向いて写真などを撮ろうと下を見ると、そのまま転げ落ちそうな気がします。

一旦転んでしまったら、もう下まで止まらんよ。骨折くらいでは済まないかも。

             

休憩したところからチョット上がると祠のある平坦な所まで出ました。でも下から見上げても何処が平坦になっているのか全く見えないのです。もし分かっていたら、せめてあそこまで頑張ろうという気になるのですがね。

             

ここから先はもう普通の階段、これぐらいなら怖くも何ともありません。

             

上に行くに従ってなだらかになって行くようです。

             

こういう写真を見ると普通の山道を歩いてきた感じですが、最初が最初だっただけに汗がいつまで経っても引きません。

             

やっと神社前の鳥居に到着です。鳥居のところに扉があるのがおかしいですね。夜になったら閉めるのかな?夜は周りが見えにくいので、あの階段が危ないのですから、扉を付けるとしたら下の鳥居の方が賢明だと思いますが・・・

             

通り道は平らな石を敷き詰めてありますが、周りの岩を見ていると、山に来たというより、海辺の磯に来た感じがします。

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歴史民俗資料館と宮井戸古蹟

2012-01-27 05:00:00 | 田舎

阿須賀神社の境内横に連なる歴史民俗資料館、新宮市は速玉大社だけが有名で、あまり個性のない商業地だと思っていましたが、それよりももっと古い信仰のあるところだったのですね。この阿須賀神社裏に聳える(といっても標高僅か48mですが)蓬莱山麓からは平安後期から室町時代にかけての200体近くのの御正体が見つかり、境内からは弥生から古墳時代にかけての遺構が発掘されています。蓬莱山はお椀を伏せたような形をして、神奈備型と呼ばれており、名前は徐福に因んで後年中国の名を付けたのでしょうが、神倉神社のゴトビキ岩と同様、昔から信仰の対象となっていました。

             

資料館の庭には復元された弥生時代の竪穴式住居が復元されていましたが、残念なことに私が行ったときはブルーシートがかけられ、惨めな姿になっていました。これも台風12号の影響だったのでしょう。弥生時代の特徴である農耕と共に漁もしていたようで、土で焼かれたオモリが出土しています。

             

資料館の階段の上から撮った竪穴式住居跡、左側が北にあたるのですが、まず真ん中の大きな丸い住居が先に作られ、その後に北側の住居が出来て、一番南側の方形部分は古墳時代のものだそうです。このように弥生から古墳時代の遺跡が一ヶ所に重なって残っているのは全国的にも珍しいもののようです。

             

さて館内、入館料は210円なので入館しました。これが500円だと躊躇うでしょうし、1000円するならきっと入館しなかっただろうと思います。

1階は蓬莱山麓、阿須賀神社境内から出土した弥生から古墳時代のものから、平安から鎌倉を経て室町時代に達する懸仏(御正体)などを中心とする品々がたくさん展示されています。貴重な物なら普段は見せない何処かのお寺や神社とは違いますね、堪能するほど見ることが出来ます。

2階へ上がると目を惹くのは、常滑焼の大窯ですが、なぜ常滑焼なのかの説明はありません。上にかかっている説明文は熊野の歴史について、1階からその歴史については順を追って説明されています。

2階には新宮城(丹鶴城)の資料や武具、古文書や産業資料なども展示されていました。

             

そんなものより目を惹いたのは、所々に設置されているベンチ、市立の建物なのに市が設置したものではなく、労働組合というのが面白い。和歌山県にある新宮市の労働組合が三重県労に所属しているというのも一考させられますが、そんなことの案内があろうはずもなく、この新宮分会なるものが歴史に理解がありそうだということを気付くぐらいです。歴史に深い造詣を抱いているというのは、きっと誠実な証拠であると思うのです。私の所属しているような御用組合などは、会社と一緒に如何にして働くものを苦しめるかとは口が裂けても言えませんが、決して働くものの幸せを追及しているとも言えません。

             

方角的には大分南東方面へ来ていると思ったので、もう12時半を回っていましたが車をそのままにして、暫らく散歩をしてみようと思ったのでした。歩いているとい宮井戸遺跡という看板があったので行ってみることにします。

暫らく歩くと熊野川河口に出ました。

             

熊野川に沿った道を下り、小さな林のある方向へ暫らく歩いて老人憩いの家の先にその遺跡はありました。今は小さな祠を祀ってあります。

老人憩いの家には『不老閣』という別名が付けられていました。大逆事件で処刑された人たちや中上健次、和歌山なのに三重県労の人など、新宮の人って結構興味深くて面白いかも知れません。

             

コンクリートでできた階段も上りましたが、その横の土の小道も通れそうなので裏へも出てみました。出ても何もありませんので、写真は撮っていません。

             

でもこんなワッペンが貼られてあり、糞害に悩まされているのが分かります。でも犬の毛まで持ち帰れと書かれているものまであって、道端で毛を梳いているのならそれは言えますが、散歩途中で自然に抜ける毛などは持ち帰る術はありません。

             

遺跡の中の道、大きな石がゴロゴロしていて、道は狭い。周囲は弥生式土器などが出土する埋蔵文化財包蔵地だそうで、この山の東の大石には梵字が刻まれているそうです。

古くは海中の小島だったとか。

             

もう1時を回ってしまったので急いで昼食です。阿須賀神社から新宮駅にかけてはあまり何も無いところでした。前日最初に停めた駐車場のあるスーパーでパンでも買おうと思ったのですが、入っても美味しそうなものがなかったので、何も買わずに出、駅の裏にあった『勝丸』という魚料理屋に入ってサービスランチの白身魚フライ定食を注文しました。注文してからメニューを見たら、クジラカツ定食があったので「それにしたら良かった」と思ったのですが後の祭り、次回来た時にはここでクジラカツ定食を食べようと思ったのでした。

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阿須賀神社

2012-01-26 05:00:00 | 田舎

補陀洛山寺は新しくできた那智勝浦新宮道路への入口を少し越えたところにありますし、三輪崎へも昼食をとりに行ったので、新宮へは新しい道路は使わず42号線を走り続けました。神倉神社はカーナビにも載っていて、新宮高校前という信号を左折せよと言い、すぐに狭い道を右折するような案内をします。

ナビの言う通りに右折しようとすると、1台しか通れんような狭い道で、向こうから車が来るし、きっとその車は42号線の方に曲がるんだろうから、その位置で待っているわけにはいかず、通り越してUターンです。辺りを見渡してもこんなところでは駐車場が無いし、先に何処かへ車を置いてから探そうと思って、42号線まで戻りましたが、適当な駐車場は見つかりません。

速玉大社まで行ったけど、そんなところへ車を置いたら、遠すぎて便利が悪い。一方、阿須賀神社へも行きたかったのにナビで調べても出てきません。新宮なんてどういう地理なのかもよく知らないし、あちこちと走り回ってスーパーの駐車場が空いていたのでそこに停めたのですが、42号線まで歩いていくと随分遠く感じて、また車を取りに行って、42号線沿いのスーパーの駐車場が空いていたので(先に通った時は満車だった)、そこに停めて探しに行きました。

             

ナビの言った通りの道を歩くと、全然神社らしきものはありません。山側への道は行き止まりです。仕方なく42号線まで戻って、あそこを右折するんやから、もう一つ南の信号(裁判所南)を左折して、また左折したら同じとこらへんへ辿り着くんではないかと思い、その考え通りに歩いていったら神社の前へ出ましたやん!駐車場もあるし・・・でももう3時を回っています。583段もある階段を昇り降りしていたら何時になるか分かれへんから、もう帰ろうと思ったのでした。

次の日は日曜日、土曜日よりも雲が低くて憂鬱な気分でしたが、釣りをするつもりも無いのでまた阿須賀神社と神倉神社へ行くことにしましたが、2回も行ったらガソリンがようけ要るなぁと高いガソリン、低い賃金に腹が立ってきます。

                     

ナビは阿須賀神社でヒットしないので、その近くにあるという新宮歴史民俗資料館で調べたらヒットしたので、場所が分かっている神倉神社は後回しにして、先に資料館の方へ行ったのでしたが、神社と資料館は隣同士、駐車場も同じです。何故かしら、私の車のナビはもう少し先の場所を案内していました。

             

神武天皇聖跡熊野神邑顕彰碑、日本書紀には神武が狭野(佐野)を越えて熊野神邑に到り、旦(すなわち)天磐盾に登るとあり、この辺りを熊野神邑と呼んでいた頃に神武が通ったということなのか、でも天皇を顕彰するなどと大逸れたことをする人もいるのですね。

拝殿の後ろにある山は蓬莱山。

                     

徐福伝説のあるところは全国各地にあるようですが、新宮もその一つですね。黒い石に刻まれた漢文は徐福を讃える詩だそうです。

『先生薬を採りて未だ曾て回らず 故国の山河幾度か埃さる 今日一香聊か遠きに寄す 老僧も亦為に秦を避けて来る』と彫られています。

境内の隅には徐福の宮なるものも祀られています。

             

秦の始皇帝が徐福に命じて探させた不老長寿の薬、徐福が探し当てたのがこのテンダイウヤクの木だという伝説があるそうですが、テンダイウヤクは享保年間に中国から伝わったのですから、そんな話は通用しません。

                     

これがテンダイウヤクの木ですが、クスノキ科となっていますから、やはり薬に用いられたのですね。

テンダイウヤクの木より子安之社と書かれた矢印が気になると思います。

             

なのでわざわざ奥まで行って撮ってきました。

                     

なんか日本の神社の石像というより、西洋のマリアの像のようなイメージではないでしょうか。

             

再び出口へ、今年の干支の出水口がある手水鉢、市指定の有形民俗文化財となっています。新宮第二代城主が1631年(寛永8年)に寄贈したもの、一枚の花崗岩を削り貫いて造ってあります。

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1月18日の釣り

2012-01-25 05:00:00 | 田舎

先週は月曜日から天気が悪く、垂れ込めた様な薄暗く厚い雲が覆い、月曜日は天気予報も午後から雨というので、釣りに行こうか迷っていたのですが、出るのを躊躇ってるるうちに昼になり、結局は釣りには出ずでした。雨は夜になって降り出し、翌朝目を覚ますと庭はびっしりと濡れていました。空も前日同様曇っているし、姫の前の海は波も高く、とても釣りに行こうと言う気分にはなれません。これも若いころとは随分違う感覚になってしまっているものだと納得したのでした。

             

水曜日になってやっと陽が差すようになり、気温も上がったのでいつもより早く釣りに出かけたのでした。

驚いたのはもう腰の曲がった歩くのもおぼつかないようなお婆さんが二人連れでやって来て、アジ釣りを始めたこと、最初の写真に先端のほうで写っていますが、海に落ちないのか心配でした。この波止場では私は初めて見かけたのですが、釣りは慣れているようで、結構アジを釣っていました。

腹が立ったのは、私の前ではありませんが、アジ釣りをしている人の前で操業しだした船、それは失礼でしょう。よく見てると漁船の人もアジ釣りをしています。カゴにアミエビを入れている風でもなく、波止から釣ってる人の撒き餌で自分はサビキだけで釣ろうという魂胆なのか、でもそんなことでは釣れている気配はありません。

             

私は前回と同じようにコマセを作り、手前にアジを引き寄せ、沖目でグレを釣ろうという作戦、昼まではそれで粘ってみようと思ったのですが、何も釣れません。アタリはあるのですが、いつものヒョコヒョコしたアタリでもなく、言ってみればヒョコだけなのです。それでエサが無くなってしまいます。いつものアタリならいつまで経ってもエサ自体は無くなることなく、ウキが入ったり浮いたりし続けるのですが、一回のアタリでエサが無くなるのは何か今までとは違うものが食っているに違いありません。でもヒョコだけなので合わせることが出来ないのです。

昼からは大祐丸のにいちゃんが教えてくれた作戦に切り替えました。

目の前の二つある養殖イカダの真ん中、50mほど投げるとV字型になった溝があるので、深さは15~6m、そこに大きい奴がついてるかもしれんと言うのを信じて、カゴ釣りに切り替えたのでした。

でも釣れませんね。刺し餌をペレットですると、エサは無くなりませんが、オキアミだとアタリも無いのにエサは無くなります。どうしたものか、少し手前に投げるとウキは一旦は立つのに、暫くすると寝てしまいます。タナが合ってないのかも知れませんが、あまり浅くとってもアジにつつかれるだけなので7ヒロぐらいで続けました。

             

ところでこのサギ、この日も表情を変えることも無く、何をするでも無く、じっと魚をくれるのを待っています。このような奴が誰かに似ていると先日書きました。そう、それは天皇と同じなのではないかとふと思ったのです。働くのでもなく、国民が納める税金を待って、それで飯を食ってるのに、国民に礼を言うわけでもないその姿がこの無礼なサギと同じように思えるのです。

             

結局、この日は全く何も釣れず、こんなことなら樫野へでも行ったらよかったとか思ったけど、もうこの頃は地磯へ行くのも面倒な気がしています。せっかく買った背負子も一度使ったきりかな、でもこの頃はやはり独りで磯へ行くのは危ないと思うのです。

木曜日はまた雨、金曜日は当初から釣りをする予定にしてなかったので、何処へも出かけませんでした。土曜日に帰る段になって姫の海を見ると物凄い波、きっとずっと海は荒れていたのでしょう。ところが車を走らせていると出雲でも磯釣りしている人は見かけたし、周参見あたりでも磯に渡ってたなぁ、東側だけが荒れていたのですね。

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那智駅周辺

2012-01-24 05:00:00 | 田舎

熊野三社大神社の近く、大辺路と中辺路の分岐点に振分石なるものがあると調べていたので探しまわりました。そのような大きな石など(大きいとは書いていませんでしたが)どうしても見当たりません。私が停めた駐車場の片隅に案内板があったので見に行ったら、なんとその案内板の後ろに何が書いてあるのが分からんような白い立て札があり、読める所を辿ると振分石と読めます。

                       

この立て札の後ろにあるのが振分石らしい。ただの石ではなくて、石碑ですね。かなり古いものらしいですが、案内板ももう読めないくらい古いですから、何が何やら分かりません。後方にも熊野道と記された新しい碑があります。

             

この立て札、何とかならんかね。タイトルの“熊野古道 振分石 大神社”と最初の一行、“この板碑は『熊野街道振分石』××”と最後の一行、“建立したのである 以上”だけが辛うじて読めるのですが、肝心なところが殆ど読みとれません。そもそも大辺路と中辺路の分岐点など存在するのでしょうか?中辺路は田辺から本宮までの道、本宮から新宮(本宮大社から速玉大社)までは熊野川を下りますから、道としての接点はありません。でも大辺露から参詣するとなればどうなるのでしょう。那智山からは妙法山へ赴き大雲取を越えて小口から本宮の方へ向っていますから、先に新宮へ参ってから引き返していたのでしょうか。山の中の道を中辺路と言うのなら、この振分石のあるところを分岐点としても妥当なのかも知れません。

             

那智駅の方に交流センターがあるそうなので歩いて行ってみました。道の駅などもあって、何か買おうと思ったら財布を車に置きっ放しだったので、また車を取りに戻るはめに・・・でも道の駅は地産の野菜とかしか売って無くて買うものはありませんでした。

写真右側がJR那智駅、左側が交流センター、二階が丹敷の湯という温泉施設になっています。私は入ったことがありませんが、今回も昼から新宮の神倉神社に行く予定だったので、入浴しているわけにはいきません。この丹敷というのはどういう由来があるのだろうと考えてみました。この地域には丹敷という地名はありません。

これはきっと神武が大和のナガスネヒコに負けた後、紀伊半島を海で迂回して熊野から大和を目指した時、上陸した地で丹敷戸畔(にしきとべ)という女酋長を殺しますが、丹敷というのはこの日本書紀の話が元となっているのではなかろうかと思うのです。この地の豪族の長であった丹敷戸畔を偲んで丹敷の湯と名付けるのはいいのですが、その侵略者としての神武(その頃は神武ではなかった)を今もなお初代天皇などと言って崇め奉っている日本人はどうかしているんじゃないかと思いますね。

             

駅の前にこんな顕彰碑を見かけました。未だ新しいものらしく日本サッカーの始祖、中村覚之助とありますが、高校生の頃サッカー部で励んでいた私ですが、この人の名前は知りません。1878年にこの浜の宮で生まれ、現在の筑波大学に学んで、アソシェーションフットボール(サッカーのこと)を翻訳、日本初のサッカーの指導書を発刊し、蹴球部の試合を行ったと書いてあります。弱冠29歳で急逝していますが、日本サッカー協会の旗章の八咫烏はこの人の出身地である熊野に因んでいるそうですが、遠藤選手も本田選手も知ってるのかな?

             

駅下の地下道を通って浜に出てみました。海水浴場になっていました。夏になればどれくらいの人が訪れるのかは知りませんが、東牟婁では一番広い海水浴場ではないでしょうか。

             

遊んだ後は温泉もあるので、結構いいところだと思います。方角で言えば先のは北の方、見えているのは勝浦、こちらは南の方で波止場の向こうは宇久井の半島だと思います。

             

那智駅の構内、無人駅ですが複線です。きっと列車の行き違いがあるのでしょう。

             

こちらへ来る前に昼食を何処で取ろうかと新宮市のHPを調べていたら、三輪崎でこのお店を見つけたので、運転免許センターとコメリ、光洋中学校を目印に一旦コメリに車を停めて歩いて探しましたが、車は三輪崎の街へ思ってたのとは南北逆の方向から入って行ったので、歩くのも東西逆になってしまい見つけるのに随分時間がかかってしまいました。でも定食のハンバーグは美味しかった。チーズの苦手な人は食べられないかもしれません。
店を出たらもう1時になっていました。神倉神社へと急がねばなりません。

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熊野三所大神社

2012-01-23 05:00:00 | 田舎

先日の記事で補陀洛山寺の境内、手水の横にこの神社の名前を記したポールが建ってたのに気付いた方はおられるでしょうか。お寺の境内に突如として現れた神社名が記されたそのポールに何だか違和感を感じた私ですが、その理由が解ったのは平維盛や渡海僧の供養塔を見終わってからのことでした。

補陀洛山寺の近くに浜の宮王子跡があるというので探していたのですが、そのポールより奥へと向かうと拝殿らしき建物があり、境内には立派なクスノキが目に飛び込んできたので、そちらの方へと歩いて行ったのです。

             

クスノキに近づくと鳥居があるのに気付き、鳥居を潜って表へと出て、一番上のの写真を獲ったのですが、クスノキの袂に浜の宮跡王子社と刻まれた石に挟まれた案内板がありました。

案内板には藤原忠宗の書いた日記『右中記』の中の1109年(天仁二年)10月27日の項に、浜宮王子の字がみえ、白砂の補陀洛浜からこの王子に参拝した忠宗は、南の海へ向かうこの地形が大変素晴らしいと記していると書いてあり、平家物語では維盛がこの浜から入水したと記されていると書かれています。

この写真でも判るように、案内板の文中の文字が故意に消されている箇所がありますが、文字数からして10字、昔はこの社をどう呼んでいたのかを書いた箇所らしく、記述が全く間違っていたのかどうか解りませんが、特段差別用語を用いたというフレーズではないと思われます。

             

横に英語で案内してあったので削られた所は何と書いてあったのかと読んでみたのですが、書かれてあったのは忠宗の右中記と平家物語の維盛の話まででした。面白いのは観音浄土あるいは極楽浄土のことをParadaiseと表現していること、パラダイスなら私が学んだのは楽園であり、極楽浄土とは一線を画していると思います。

                     

推定樹齢800年とされるこのクスノキ、だとすれば日記を書いた忠宗が来た頃には未だこのクスノキは芽も出しておらず、維盛が入水した頃には若木であったかも知れません。

             

この熊野三所大神社は、浜の宮王子跡に建つため浜の宮大神社とも呼ばれることもありました。境内を一望すると右側にも大きなクスノキがありますが、雷でも落ちたのか途中で折れていましたが、葉は茂っています。補陀洛山寺の堂もすぐ横に並んでおり、以前は一体のものであり、神仏習合の習わしが偲ばれます。きっと境内の境などは無いのでしょう。

             

熊野三所大神社などと書かれたものをみると、本宮・速玉・那智の熊野三社を思い起こさせ、何故こんな小さな神社にそんな大それた名前を付けたのかと訝しく思い、大の字を取っ払ってしまって、浜の宮神社、或いは補陀洛神社と呼ぶ方が相応しいように思うのですが、どうでしょう。

                     

神武天皇頓宮跡とある碑、神武天皇祭というのがあって(今はそんな祭りはないと思う)、大正時代にこの碑は建てられたという案内板がありました。

                     

どうでもいいことなのかも知れませんが、庚申塚がありました。

                     

この塚には摩利支天王と刻まれてあります。摩利支天とは陽炎(かげろう)を神格化したものであるらしいのですが、あまりややこしいことは考えないでおきましょう。

             

境内を廻っているとこんなものまで目にしてしまいました。誰がどのような状況でこのようなものをここに置いたのでしょう。情けないですね。

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平維盛の供養塔

2012-01-20 05:00:00 | 田舎
             
補陀洛山寺の裏手に平維盛や時子、渡海した僧の供養塔があると聞き及んでいました。何処にあるのかよく分かりませんのでウロウロしていると山寺の駐車場に、「無断駐車お断りします」と書かれた立て札がありおかしなお寺やなぁ、入り口には誰もおらへんのやから、誰でも有断で駐車することなど出来ません。

             

暫く那智山への道を歩きますが、供養塔があるような雰囲気では全くありません。

             

位置的にはよく分からないのですが、これが那智山で、この写真で言うと一番手前の電柱の横に見えている山腹の白いものが気になります。ここが那智大社なのかな、でもすぐ傍に滝があるようには思えません。それとも妙法山の阿弥陀寺なのでしょうか。

             

分からないので戻ってきたら、渡海船の模型を置いた館の前に供養塔への矢印がありました。このように道が付けられています。

             

林に入り込んだ途端、目の前の陽の当たってる所に墓らしきものが・・・違うやん、丸太で作った蜂の巣箱でした。

                     

山道を5分も歩くと、先ず最初の写真の墓碑、よくは読めませんが、真ん中の碑に刻まれている文字は“補陀洛山○○権律師周鎮”だと思います。

それからこのような木の根の道を歩くと、立て札が見えてきました。

             

ここが平維盛の供養塔のある場所、いつの時代にこの場所に祀ったのか、それが知りたいところですが、そんなに古いものでもなさそうです。

             

立て札には平維盛について記されていました。去年、夏の終わりにこの放浪記で書いたのと同じような内容です。

             

平家の供養塔の一段下にも同様の供養塔がありました。真ん中の大きな供養塔をよく見てください。供養塔そのものよりも、その前です。
             
             

正面から写すとこうなりますが、何処か違うのが分かりますか?たぶん分からないと思います。塔の前の花瓶が倒れていたのを写真を撮るので私が立て直したのでした。

この塔には“補陀洛山渡海宥照上人塔”とハッキリ読めます。

             

全体的にはこうなります。上が平家、下が渡海上人の供養塔ということになりますが、やはり負けた賊軍の平氏でも尊いのでしょうか。

             

山を下りて戻った私が停めておいた駐車場、無断で停めるなとは書いてないし、ここからの眺めの方が補陀洛山寺の本堂も入り整合性があるように思います。

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補陀洛山寺

2012-01-19 05:00:00 | 田舎

14、15日は土・日曜日にあたるので釣りはお休み、まさしく働く日に釣りをして、土・日は休むと言う労働者的習慣を堅持して生活しています。土・日曜日に釣りをしないのは、せっかくの休みに釣りを目的に来た人に対して、毎日釣りをしている自分が場所を占領するようなことがあってはならない、場所を譲ってあげなければいけませんという発想の元なのです。決して怠けてるわけでもありませんが、釣りばかりしていては釣りブログかと言われそうなので、他にもすることがあるだろうし、今回はその休みの日に新宮へと行ってきました。決してブログのネタ探しではありませんよ、自分の見聞を広めるためであります。

             

ここのところ、『藤原定家の熊野御幸』という本を読んで以降、未だ感想文を書いてはいないのですが、中上健次の『紀州 木の国・根の国物語』や同じ和歌山県出身・神坂次郎の『縛られた巨人ー南方熊楠の生涯』を読み、二人の作家が共通して取り上げていた補陀洛山寺に強い興味を抱いたのでした。

補陀洛山寺は国道42号線からJR那智駅の前の信号を左折、那智大社や青岸渡寺へと登る県道43号線に入ったすぐ右手にあります。

             

補陀洛信仰というのは南方の海の果てに観音菩薩の浄土があるというものですが、非常に興味深い話があって、61歳の11月になると、補陀洛山寺の僧はこの写真にあるような渡海船に乗り、補陀洛(サンスクリット語のポータラカ)を目指すのですが、船の屋形には十分とは言えない食糧を積み、屋形は決して逃れられないように四方を板で打ちつけられ、何の動力も無く、潮や風の趣くままに漂流しながら、観音菩薩の浄土を目指すと言われていますが、実際には死への旅立ちなのです。

             

誰がどのような動機でこのようなことを考えたのか知りませんが、よくもまぁこんなことを考え、そして実行したものです。何を調べても、このお寺の案内板にもこの行為を宗教儀礼と表現していますが、こんなものは自殺であり、周りからましてや習慣などと言って強制するのは殺人でさえあると思うのですが、どうでしょう。耐えかねて扉を壊し、島へ逃れた僧を役人が海へ放り込んで殺してしまったという話もあるくらいです。

             

この渡海船の模型は平成五年の作ですが、そういった儀礼があった頃の船にはこのような窓などあったものかどうか、あったとすれば死を悟したお坊さんが窓からの景色を見たのなら生への執念が甦りはしないのか、何の恐怖心も無く何の考えも無い人がこのような船を作ったのなら、それは惨い仕打ちをより一層強く与えてるという結果になりはしないかと思いやるのです。

             

どのような動機でこのような惨い儀礼を考えたのか解らないと書きましたが、平安末期から鎌倉と言う歴史を考えてみると、栄耀栄華を極めた天皇家や貴族たちの恩寵を受け、仏教としての道を外した僧(この南涯の地では、そのおこぼれさえも頂けないという恨みもあったのかも知れませんが)へ対する造反、法然や親鸞等が唱えた大乗仏教に対して、仏教とは本来こういうものだという本質に迫ったものだったのかもなどと思ってしまいます。

                     

さて本堂に足を踏み入れます。いろんな古物が目を惹きますが、特に本尊の両脇に脇侍として佇む平安中期の持国天と広目天、憤怒の相が真迫していて、足の下に捉えられて小さくなってしまっているのは本物の悪人のようです。

             

本尊は木造の千手観音立像、平安時代の作とされ国の重要文化財に指定されていますが、カギがかけられており、写真だけが貼り付けられていました。せっかく訪れた人に対して失礼やなぁと思ったりするのです。

             

平安時代より以前から建立されたというこのお寺、建立当初から補陀洛山寺と呼んでいたのかは分かりませんが、江戸時代の1808年の台風のために全壊しています。その後仮本堂であったのを1990年に現在の本堂が再建されていますが、なんと200年近くも放置されていたことになります。

補陀洛水と記されている手水、水道の水であるのにそのような勿体ぶった名前を付けて良いものか、「栓を最後まで締めよ」と書かれているのが何とも自嘲気味だと思えます。

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1月13日の釣り

2012-01-18 05:00:00 | 田舎

前日、大型とは言わないまでも30cmぐらいのグレが見えているのに釣れない状況を何とかしたくて、三たび大島漁港に行ったのですが、前日とはうって変わって風があります。一昨日よりは少しマシとは言うものの、雲があり陽が陰ると寒さが堪えます。前夜から冷え込みがきつくなったような気がしていました。

秋にも試したのですが、撒き餌をペレットだけではなく、オキアミも用意、グレを浮かせて釣るようにした集魚剤を混ぜて、それを手前1mぐらいのところに撒き続け、無数にいるアジをこちら側に寄せて、沖目でグレを釣ろうと言う魂胆で臨んだのでした。

             

配合餌をバッカンに入れると、中にペレットも少し入っていました、茶色の小粒なものがペレットです。ということは磯でもペレットは有効だということか、刺し餌のペレットはオキアミよりエサもちがいいので、状況によっては磯でも通用するかも知れません。

でもこの日、撒き餌を撒いてもグレの姿は見えません。コッパグレさえ現れないのです。きっと水温が下がってしまったのでしょう。

でも撒き餌の効果は凄い、ヒョコヒョコ・シブシブしたアタリしか出せないアジですが、食い気が増したのか、一気にウキを消し込むようなアタリを見せます。さっさと釣れたのが冒頭のアジ、このバケツの対角線が23cmですから、このアジは25cmぐらいあったでしょうか。こんな立派なアジをネコやサギにやるのは勿体ない、バケツに集魚剤を混ぜた時の水が残っていたのでキープします。更にすぐ1匹追加、これならサビキで釣らんでもなんぼでも釣れるやんと思ったのですが、1号の磯竿では硬いのでしょうね。アジを掛けても泳がせているうちに口が切れるのか、外れてしまいます。

             

暫くは面白いようにアジを掛けていたのですが、いつも間にやらアタリもバッタリ無くなって、どうもしようが無くなってしまいました。

この日はネコにもサギにもあげれる魚はありませんが、この鳥、イソヒヨでしょうか、オキアミを貰いに近づいてきます。サギのギョロっとした目と違い黒くてかわいらしい目をしています。オキアミをあげると一口で食べますが、首をかしげるようにして愛想を振り撒きます。食った後全く動かないし表情を変えないサギとは大違いです。

最近は大裕丸のにいちゃんも向こうから話しかけてくるようになり、この日も為す手が無くてボォっとしていたら、「釣れる?」と話しかけてくれます。「グレは見えん、おらんわ、水温下がったやろ?」と言うと、「下がったけど・・・」、この後この波止場での釣りに大いに参考になる話をしてくれたのでした。試してみたけど、1号の竿、2号のオモリでは攻めることはできません。出直して来週あたりにやってみようと思ったのは先週金曜日のことですから、現実には今週のこと。

                     

車の中にこんなスカリが入っていたのでアジを活かしておくのに使いました。と言うより、バケツにアジを入れておいたら、ネコがいつ何時、何をしよるか分かったものではありません。私のグレ用のスカリでは網目が荒くて小さなアジは逃げてしまいます。このアジだったら逃げられないかも知れませんが・・・結局持ち帰ったのは最初の2匹だけ、小さな釣果と大いなる希望を持って帰ったのでした。

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