ぼんくら放浪記

Blogを綴ることによって、自分のぼんくらさを自己点検しています。

大國主神社

2014-02-28 05:00:00 | 大阪にて

先週末の週間天気予報では、今週の後半が暖かくなると言っていた通り、週明け頃は朝は寒かったものの昼は暖かく、出かけるのにもダウンのジャンパーはもう要りません。昨日は朝から暖かかったので、モモも散歩を嫌がりませんでした。犬のくせに寒いのが嫌いなイヌもいるのです。

ソフトボールの納会を難波で行った次の日、再び難波へ用事を済ませに行くことに、単に現金が無くなってきたので銀行に行っただけなのですが、こんなことなら前日にみんなより早目に出て、難波で落ち合えば良かったと思いながらも、自転車なので運賃の無駄遣いはしていません。

                       

往きは地下鉄の大国町駅の近くにある大國主神社に寄ってみました。自転車で国道26号線を走ると43号線との交差点を渡ることが出来ないので、勝間(こつま)街道を北へ走り、43号線を越えてJR環状線の高架を潜ると浪速区に入り、その辺りが大国という町名になります。大國主神社が有るところは大国町駅を越えて敷津西という町に入ってから、26号線沿いの西側に有ります。

鳥居を潜ると正面は大黒様と書かれた社、境内右に大きな銅像が建っており「誰やろ?」と思って近寄っていきました。

             

この案内板では何が書いてあるのかよく判りませんが、木津勘助と言う人らしい。大阪で育った私ですが、そんな人の名を今まで他人から聞いたことも、おそらく学校で習ったこともありません。何でも若い頃から豊臣家に仕え、木津川の造営に尽力した人物だそうで、その像はなるほど木津川の方向を向いています。しかしそのことよりもエライと自慢されているのは、寛永18年の飢饉の際、庶民を救うため官倉を破り、米を町民に振る舞ったとされる事件です。この神社の案内板には寛永16年と書かれていますがそれは間違い、官倉というのも黒田藩の米蔵だったというのが真相らしいのですが、その米は天王寺屋という商人に売り渡した後のものだったので、黒田藩は実質的に損はしていません。

               

銅像の下の案内板には要約すると、先の戦争が始まり、物資が乏しくなると金属類は軍に押収されましたが、ここでは翁の銅像にも召集令状が届いたので、愛国精神を発揮して応召したと書かれていました。その後は不幸な戦争は終わり・・・とも書かれており、愛国精神はあったのに戦争は不幸なものだったと書かれている辺りは、やはり国民は戦争はイヤだと思っていた証拠でしょう。区画整理に拠り台座まで解体されてしまい、残ったものがこの地に放置されていたようですが、昭和29年に再建されたと書いてあります。

左の写真から説明すれば、放置された狛犬、要らんのやったら貰ってあげるけど・・・真ん中は日露戦役忠魂碑、右は正面から見た境内の様子。

             

正面の社、大国様とはオオクニヌシのことを指しているのでしょうか、でも左右の狛犬の台座にはネズミの像が佇んでいます。スサノオに焼き殺されそうになった大黒天を救ったのがネズミでしたから、ここでは大黒様が相応しいのではないのか、この地が大国町なので昔から私はどうもややこしいのです。大黒様と大国様は同じなのでしょうか?

             

正面右にある社、こちらの方が神社らしくて立派です。こちらと比べると、大国様の社はオモチャみたいです。何故こんな造りになっているのか訳が解らないでいました。

             

屋根瓦にはこのような紋、あまり見慣れた紋ではありません。左の円の中は二つ巴ですから、四天王寺と同じです。

            

折口信夫の歌碑が有りました。でも表面は真っ平らで何が書いてあるのかさっぱり判らなくなっています。案内板には木津が生んだ国文・民俗学者・歌人である・・・『幼き春』の反歌を選び、昭和53年に大阪で初めて先生の歌碑を建てたとあります。右の碑には『御大禮記念 木津敷津青年會』と彫られていますが、御大礼とは天皇の即位の礼と大嘗祭と一連の儀式を合わせて呼びますが、さてどの天皇のことだったのでしょう。

             

境内の左側、つまり南側にも鳥居が有り、一旦外へ出て正面から撮ってみると、ひょっとしたらこちらが正面なのかなと思うような構図です。右に建っている碑には『敷津松之宮』と書かれており、私はここでびっくりしたのでした。子供たちが通っていた保育所の近くには松之宮小学校があり、近くには夏祭りが開かれる松之宮神社が有ったのです。これは何か曰くがあると、帰りにその神社に寄ってみることにしました。

夜の道頓堀

2014-02-27 05:00:00 | 大阪にて

ソチオリンピックが終わって、やっと静かな生活を取り戻せたように思えるこの頃ですが、テレビの放送を見ていて絶叫するアナウンサーはいったい何を考えているのかと思ってしまうほどでしたね。そんなに日本にメダルが欲しいのか、新自由主義というか成果業績主義というか、そういう勝ち残るものだけがエライという考え方に縛られ過ぎているのではないかと思って観ていましたが、あまりに喧しいのでテレビを消したこともしばしば、出場した選手にしても「勝たなアカン」「メダルを取らなアカン」と期待をかけられた選手ほど重圧に耐えきれずに力が発揮できなかったように思います。その時に生きてるかどうか分かりませんが、この調子じゃ6年後の東京オリンピックは目も向けられないかも知れません。

                       

だいたい私は冬期の雪や氷のスポーツは苦手です。家が貧しかったからスキーには行かせてもらえなかったし、何度か行ったアイススケートも上手く滑れませんでした。ゴルフにしてもそうですが、お金がかかるスポーツには手を出そうとしなかったのです。その点サッカーはボール一つあれば出来るスポーツですから、発展途上国の子供たちも興じることが出来るのです。

             

さてソフトボールの納会も無事終わり、記念撮影をして帰途に就きました。道頓堀ホテルのある御堂筋より西側の道頓堀は、昼間はあまり賑やかではありません。角座とかカニ道楽とかが立ち並ぶ東のエリアの方が昼間でも人通りが多い、でも夜になれば西側のエリアも活気づきます。昼より夜の方が明るいようにも感じます。道頓堀ホテルの向かい側辺りにてっちりが安くて美味しい店が有ったのですが、最近は出ていくこともなく、未だやっているのかも知りません。

                       

こちらは御堂筋を挟んで東側を望遠で撮ったもの、姫に住んでおれば考えられない光景です。物凄い電気の消費量、これだけ使っても原発が稼働していなくても電気の量は足りているのです。危険極まりない原子力発電に安倍は何故こうも拘るのか、奉仕する相手が私たち庶民でないことは確かです。

             

対面の2階に懐かしい寿司屋のロゴが残っていますが、おそらく〇に十を書いたこの薩摩藩の紋所のような店はもうやってないと思います。私が小さい頃によく親に連れて貰い、何皿以上食べたら小遣いを貰えたような記憶が有り、長男や次男までは私もそのようなことを言っていた時期が有りました。

なんばウォークのパン屋さんなどは9時には閉店になるので、私は一人でパン屋に出かけました。一緒に居た人は先に電車に乗って、二次会の店に向かいます。千円分ぐらいのパンを買って、私も追いかけて二次会へ急ぎました。11時ごろまで喋って飲んで、帰りがけに私が持っていたパンはたった一つだけになっていました。


道頓堀ホテル

2014-02-26 05:00:00 | 大阪にて

土曜日に淀屋橋から天満橋まで約1km程度の道を歩いただけなのに(とは言え、坐摩神社行宮を探したのでもっと歩いていますが)OMMビルで小便をした折には血尿が酷く、検査に行った火曜日からあまり容体が良くなっていないなのかと思いつつも、検査後に貰った石を出易くすると言う薬を飲んでいるお蔭か、時々尿に混じって何か塊のようなものが出てきます。検査時に見せて貰ったレントゲン写真には、もう石の塊は見えず、粉々になった石の粉末のようなものが漂っている感じ、そのような物が出ているのではないかと思えるので、それは良い傾向だと思うのですが、今まで出ていなかった血尿が出るのには不安が伴います。

       

翌日曜日は朝から練習試合が有り、もう試合など出る気の無い私にまで人数が足らんとか言いながら、試合に出ることを要請されます。まぁ小学校と中学校の連合チームであり練習試合ですから気楽なものですが、ウインドミルのピッチャーに対しては1年以上打席に立った記憶が有りません。普段なら練習の後は昼ご飯を食べながら、反省などと称しつつ飲むのが恒例ですが、この日は夜6時から区のソフトボールの納会が難波の道頓堀ホテルで開催されるので、誰も昼食に行こうとは言い出しません。

       

我が区のPTAソフトボール親善会の納会は長く地下鉄岸里駅の前にあった中華料理店『上海園』で開催されていたのですが、2年前にオーナーが中国へ帰ってしまい、マンションに建て替えられたので、去年から場所探しが大変になっていました。100人以上も一斉に集まる場所は近所にはなかなか無いのです。去年は難波の551でお馴染みの蓬莱“パンチャン”で開催されたのですが、人数制限が有り今年はどうなるのかと思っていたら、この道頓堀ホテルでの開催となったのでした。

                       

道頓堀ホテル自体は私としては2~3回目の利用になります。一度は連合町会の集いで使ったような記憶が有り、二度目は三男の高校の役員の懇親会に参加したのを覚えているのです。もうずっと前のことですから、どんな料理が出たのかは定かではありません。こうやって料理をいちいち写真に撮っておくと、あの時はどうだったとか比較できるので、ブログって結構重宝するものなのですね。

私の所属するチームは来年度は幹事校、1年間全校の試合の運営を管理していかなければなりません。もうずっと引退したいと表明しているのでしたが、この難局に際しては辞めるわけにはいきません。串本に在住するのがまた1年伸びたなぁと思っていますが、どうしても大阪市に住民票を残しておいて橋下と対決せねばとも思っています。

                    

去年の成績は男子は散々でしたが、私が監督する女子は準優勝、大きな楯を貰って久し振りに大満悦です。

             

6時から始まった催しは8時半には終了、みんなが帰った後も2位になった感慨を喜んでいる我がチームの参加者ですが、この中に私の二男と同級生の子がいて、自分の齢が自覚されます。納会が終わってからも二次会へと続くのですが、羽振りが良くない庶民ですから、難波で飲み直すわけにもいかず、地元まで帰ってのことなのでした。

窪津王子跡

2014-02-25 05:00:00 | 大阪にて

熊野詣の第1王子が、京と大坂を結ぶ大川の発着場である八軒家浜にあった窪津王子だったと堀越神社の項で書きました。ではいったい堀越神社に合祀されたという窪津王子は何処に有ったのか、何故元の位置を離れてしまったのか、その辺りが気になります。丁度、デサントのバーゲン会場のOMMビルは地下鉄谷町線と京阪電車の天満橋駅に近く、駅の裏の大川には八軒家浜の名が残っている桟橋も有るので、今回はバーゲンに行くと言うより、窪津王子跡を探しに出かけたという目的の方に力点が置かれていたと思っています。

            

土佐堀通沿いに天満橋駅に近づいてくると、天王寺から阿倍野王子神社の間に見られた字で『熊野かいどう』と書かれた案内板が有り、それを過ぎると『八軒家船着場の跡』の碑が老舗昆布屋・永田屋本店の店先に見られます。この永田屋本店には安藤広重(私たちはそう習ったが今は歌川広重と言う)の浮世絵『八軒家船着場の図』や歌川貞秀の風景版画『浪花大湊一覧』が蔵されているそうです。

             

土佐堀通を東に向かって歩いていると、天満橋に近づくにつれ右側が高くなっているのが分るのですが、ここが上町台地の北端ということになります。

       

目的の窪津王子跡は何処かさっぱり判らず、一旦大川沿いに出てみました。『川の駅はちけんや』という建物が出来ています。地図上では八軒家船着場と書かれた桟橋、この桟橋にはただの『八軒家浜』とだけ書かれていました。永田屋本店の店先の船着場の跡が本当なら、大川は当時もっと広かったということになります。

             

窪津王子は今の坐摩(いかすり)神社行宮にあったと言われ、その坐摩神社行宮は石町(こくまち)2丁目にあるとまでは調べることが出来ました。ところがいくら探しても石町2丁目が見つかりません。歩いていると島町の南東に石町1丁目はあるのですが、1丁目に隣接している筈の2丁目は何処を探しても無いのです。なのでバーゲン会場に先に行って来ました。会場では多くの人が並んでおり、催し場内に入るのに30分以上待たされました。フィッシングショーが催されるインテックス大阪で開催される時もあるのですが、インテックスでは並んで待たされると言うことはありません。

                       

バーゲン会場を出た後も石町2丁目を探すのですが石町1丁目の北西は天満橋京町と表示されており、真西も南も島町と表示されていたので石町は1丁目だけかと思ってしまったのです。仕方がないので見つけた古本屋に入って坐摩神社行宮が何処にあるのかを聞いてみました。すると坐摩さんは(ざまさんと読み方が間違っていましたが)大阪府立労働センターの手前だと教えてくれました。実はそこも歩いてはいたのですが見つけられなかったのです。最初の写真が見つけた時の坐摩神社行宮ですが、これに気付くには少し閑散とし過ぎているような感じです。

ここには神功皇后が新羅からの帰還の折に座ったと言われる腰掛石が残っているようですが、神功皇后自体が架空の人物であり(もちろん神様でもありません)、石はアルミの枠で覆われていたので写真は撮っていません。坐摩神社自体は大坂城築城の邪魔になったので、今は東区渡辺町に移転されていると書かれた書物を見ましたが、大阪市には今東区は有りません。東区は中央区に編入されましたが今の中央区には渡辺町は有りません。どうやら探す術は無くなってしまったようです。

             

土佐堀通

2014-02-24 05:00:00 | 大阪にて

先週土・日とデサントのバーゲンが有り、土曜日は学校のグランドが使えないのでソフトボールの練習は無く、日曜日は朝からソフトボールの練習が有るので、土曜日の10時ごろに家を出て、会場であるOMM(大阪マーチャンダイズマート)ビルを目指しました。行くのに地下鉄にするか自転車で行くか迷ったのですが、上町台地を昇り降りするのは体に負担がかかりそうなので地下鉄に乗って行くことにしましたが、地下鉄まで歩いているうちに26号線を淀屋橋まで走り(何処かで曲って松屋町筋でも堺筋でもいいのですが)、土佐堀通を東へ走れば上町台地の昇り降りはしなくて済むのに気付いたのですが、戻った上にエレベーターで10階まで上り下りするのが邪魔くさくてそのまま地下鉄に乗ることにしたのです。

             

地下鉄に乗ると今度は何処で谷町線に乗り換えるのか考え始めます。難波で千日前線、四ツ橋で鶴見緑地線、本町で中央線と三ヵ所ありますが、どちらにしてももう一度谷町線に乗り換えなければなりません。何と面倒臭いことか、それなら淀屋橋で京阪電車に乗り換えれば、乗り換えは一度で済むのですが、今度は無駄なお金がかかります。そんなことなら淀屋橋で降りてそこから歩けば良いということになり、経済的で健康的なコースを考えたものだと自画自賛です。おまけにこのようにネタが出来たと言う訳です。

             

無駄なお金をかけたくないという貧乏人の思いとは裏腹に橋下大阪市政はこの4月から地下鉄料金の値上げを実施するようです。市民には地下鉄の運賃を値下げすると公言していました。橋下のやり方はいつもこんな具合、初乗り区間の200円を20円下げるのですが、殆んどの人が乗る2区間以上の料金を全て10円上げるのです。地下鉄を1区間だけ乗ろうと言う人は先ずいません。歩くか自転車を使うでしょう。なので市の収入は減るどころか増えるので、とても自腹を切ったなどと言えるものではありません。こういうことをするのは、いずれ市営地下鉄を民間に売り払おうと言う魂胆があるからなのでしょう。

             

まぁ、こういう法案が通ったのも、普段は地下鉄など利用しない議員たちが寄ってたかって決めてしまったのでしょう。働いている時なら会社から定期代が出るので、鉄道料金の値上げはあまり堪えないでしょうが、年金生活に入るとそうはいきません。デフレ克服と言って何でも値上げするのは、全く増えることがない年金のみで生活する者にとっては堪えます。

             

おまけに4月から消費税が8%にハネ上がります。春闘で賃金が多少なりとも上がった大企業の労働者は何とかカバーできるかも知れませんが、賃金の上がり様が無い中小・零細企業に働く人、消費税を上納しなければならない商店主も大変でしょう。

             

等と考えているうちに堺筋の北浜までやってきました。数多くの証券会社が並び、中には聞いたことも無い会社まで有りました。ここは証券取引所、前に立つのは五代友厚の像です。堺事件の調停にも顔を出していますが、大阪の商業発展には無くてはならない人だったようです。

堀越神社

2014-02-21 05:00:00 | 大阪にて

2月18日手術後初めての通院、何日か前に見た週間天気予報では雨だったので、どのようにして行こうかと迷っていましたが、幸い雨は降ってなかったので、自転車で行くことに決めました。久し振りに自転車に乗るような気がして、何だか足が重たいなぁと上町台地への坂を登って行きます。診察は9時半からでしたが、早目に来て検尿とレントゲンを撮るように言われていたので、8時半には病院に到着し、その検査を受けたのですが、自転車で来たのが悪かったのか、濃い血尿が出てしまいましたが、診察の際は何も言われませんでした。

             

今回はあまり待たされず診察を終え、天王寺公園の裏側、谷町筋に面したこの神社まで帰って来たのが10時ごろ、家に帰るにはいささか早すぎる時間なので、いつも前を通るこの神社に寄ってみたのでした。

昭和40年に谷町筋の拡幅工事と、地下鉄谷町線の開通工事に伴って神木がこの神社に移転してきたと説明がありましたが、昭和40年当時の谷町筋ってどんなだったか知りませんし、神木だけが移転したのか、神社も移転したのか、どうも分かり難い説明です。明治中期までは神社の南側に堀があって、その堀を越えて参詣したので堀越神社と言う名前が付いたという説明が有ったのですが、聖徳太子が四天王寺を建立した際に同時に当社を建立創建したとする説明とは矛盾しているように思われます。

             

JRの天王寺駅が有るところが悲田院町、玉造筋を隔ててその北側が堀越町で、堀越町から西へと谷町筋を渡ったところにこの神社があるので、単に堀越神社が有ったから、堀越町と言う名前が付いたと説明した方が辻褄が合いそうです。

               

堀越神社は堀越さんと呼ばれ親しまれているそうですが、古くから堀越さんは一生に一度の願いを聞いてくれる神様という言い伝えがあるらしい。結構ケチな神さんですね。左の写真の後方に写っているクスノキが樹齢550年と言われている神木ですが、説明書きに書かれた年がありませんから、今は樹齢何年なのか分かりません。大阪でも梅が咲き始めています。

             

熊野第一王子之宮、この説明も合点がいきません。淀川を下って天満の浜で船を降りたところに窪津王子が有り、そこが熊野街道九十九王子の第一番目の王子でした。その窪津王子が四天王寺西門鳥居近くの熊野神社に鎮座していたと伝えられていたものを、後にこの堀越神社に合祀したと書かれていますが、窪津王子は窪津王子であり、熊野第一王子ではありません。何故そんなことが勝手に出来るのか、理解に苦しむのです。

       

かえる石と呼ばれる石や、徳川家康が大坂夏の陣で危機を救われたので信仰厚かったと伝えられる茶臼山稲荷神社、蛇の神様なのに黒龍社だそうです。

             

家康が大坂夏の陣で被った危機とはどんなものだったのか、稲荷神社が何故家康の危機を救ったのか、少し詳しいことが知りたいものです。

             

神社の北の出口にあった玉垣、私は出逢ったことがありませんが、大阪には『ごちそうさん』の主人公の苗字が多いのですかね?

渋滞

2014-02-20 05:00:00 | 田舎

今年2回目の雪が降ったのは先週の金曜日、串本の海上保安署に呼び出され、昼過ぎまで話をした後、姫の家を出るころには朝からの雨も止みかけていましたが、朝のニュースで阪和道は雪の為、通行止めになっているのは知っていました。1時には串本を出たものの朝から雨が降っていたのに相変わらず工事は続行されていて、途中何度も片側通行で待たされましたが、雪のせいか大阪方面に行く車は少なく、1時間半ほどで田辺まで着くことが出来ました。

田辺で見た道路情報では御坊南までは高速が使えそうだったので、田辺ランプまで行くと、車が走っている気配はありませんでしたが、気に留めることなく高速道路を走ってみましたが、暫らく走ると前に2台の遅い車が走っていて、邪魔やなぁと思いながら走っていると南部で降りたのでホッとしました。そこからは私の車1台だけ、こんな気分ので走るのは爽快です。御坊南の近くまで走ると後ろから車がやってきましたが、ということはその車は私よりスピードを出して走ってきたことになります。

             

案の定、御坊南で高速道路とお別れし、そこからは久しぶりの42号線ですが、ナビを使わないと道が分かりません。雪が積もっているせいなのか、それとも長い間通ってなかったせいなのか、42号線に出ても道に見覚えがありません。御坊の市街を走り、紀伊内原を過ぎて山道にかかり始めた辺りから車が進まなくなりました。パトカーが前を走っていたので事故でもあったのかと思ったけど、そのパトカーもみんなと同じように進まないので、事故ではないなと気が付いたのですが、途中広い所ではタイヤチェーンを巻きだす車もあって、私はそんなものを用意していませんから、だんだん不安になります。今から思えば紀伊内原を過ぎたところで海岸沿いの道を迂回すれば良かったのですが、ひと山越えて紀伊由良の近くまで来てから迂回しようと考えたのでした。2時間以上ノロノロ運転と全く動かない状態が続きました。もう少しで紀伊由良駅なのに全く動かず、5時を越えれば通勤の車も増えてくるだろうと考えていました。実は紀伊由良駅前から衣奈方面に抜ける迂回路を考えていたのですが、5時半を過ぎて急に動き出したと思ったら白崎海岸の方へ迂回するよう誘導が始まったのです。

             

一斉に車はスピードを上げて走り出しますが、途中で衣奈方面への標識も出ていたのですが、白崎海岸へも行ってみたいし、前の車に着いて走ったのが間違いのもとでした。白崎海岸は風光明媚な所ですが、もう辺りは真っ暗で、岩は白っぽく見えているだけ、衣奈まで来て前の車が停まったのですが、私はナビを見ていて三尾川というところを通るのだと思っていたので、三尾川の標識通りに走り過ぎました。ところがここから山に入って行く道が狭い、周りは暗いし、前から来る車との行き違いも困難な状態で、車は再び動かなくなりました。どうやら対向車と話をしている人が居る模様、暗いので何処に道が有るのか分かり難いのですが、遠くではヘッドライトがかなりのスピードで走っているのが分かります。少しの間停まっていたら後ろでドスンという音、どうやら側溝に車輪が落ちてしまったようです。正解は衣奈方面へ走らせた後、衣奈まで着かないうちに三尾川方面へ抜ける山道を走ると、ずっと広い道路を行けた筈です。

広川ビーチ駅を越え、湯浅の街並みを抜け、栖原を過ぎると夜で見難いのに一度来たことがある道に出ました。4年ぐらい前にT中君たちと釣りに行った千田漁港のややこしい道に違いありませんが、停まっているヒマは有りません。そのまま有田川手前の野という交差点まで走り、42号線に合流しましたが、そこでは混んでいる様子はありませんでした。和歌山市まで来ると雨が降り出し、久し振りに孝子峠を越え、みさき公園から26号線のバイパス(第2阪和国道)を初めて走り、関空道の下を通って、泉佐野から阪神高速・湾岸線に乗り、家に着いたのは10時前でした。疲れて、人に話しかけても聞こえるような声が出ませんでした。

橋杭岩の工事

2014-02-19 05:00:00 | 田舎

橋杭の道の駅が出来て以降、駐車場の入り口が狭くなり車を入れるのが以前より難しく、三重方面から来る車ならともかく、混雑時になると大阪方面から向かう車は渋滞することが多く、手前がカーブになっていて前が見えないので、追突することもあり得ると思っていました。

             

去年の秋ごろから駐車場の北側で工事が始まり、駐車場を広げるのかと想像していたのですが、今回前を通り過ぎると工事は完了していました。別段観光客が多く訪れることもない時期ですし、ただ通り過ぎただけでは何処がどう変わったのか分かりません。世間では珍しい岩だと言われていますが、私はもう見慣れていますから、わざわざ駐車場に赴くことも無かったのですが、今回は一応入ってみることにしたのです。

       

一番左が大阪方面を向いて撮った写真、真ん中は三重方面を見ています。駐車場を広げるどころか、狭めて道路側を広げたのです。そして駐車場の入口にあった橋杭岩のバス停を少し大阪方面へ移したのです。今まで2車線しか無かった入り口の前を大阪方面から来て右折しようとする車の為に右折ゾーンを作り、直進する車をスムーズに進めるようにしたのです。

             

どうやら入口も少し広げたようですが、道の駅を造った時に入口を狭くしたのですが、設計段階で入口を狭くしたら入り難くなって、渋滞することは予想されなかったのでしょうか。私は最初から入口を狭めなければ、そのための工事費も要らないし、わざわざ今回の工事をすることも無かったと思うのです。下司の勘繰りをしてみると、分かっていた上で必要の無かった2回分の工事費を掠め取っていったのではなかったのかということになります。

               

橋杭の海に並んで咲いていたハイビスカスの花は散ってしまい、今はスイセンの花が咲いていました。


文漁丸

2014-02-18 05:00:00 | 田舎

13日は12時ごろに串本に到着し、先ずは船が無事かどうかを見に南防波堤に行ってみました。1月に釣りに出た後、帰港した際に三男たちは両側に船が有って、右も左も隣の船と繋いでおけば万全なのに、一番右側の船の横に着けたので片方しか繋げることしか出来ず、かなり心配をしていました。更に繋げた船は私の船よりずっと小さいので船首が岸壁に当たってしまっていないか、船首側のロープを岸壁の係船柱と呼ばれる突起物が無かったので、輪っかに括り付けたのですが、思ったように括り付けられなかったので、外れてしまっていないか心配だったのですが、船は無事なようでした。

             

姫の家まで帰って昼食をとり、どうでも良かったのですが『ごちそうさん』を見て、さて何をしようかと考えていましたが、何もすることがありません。家に居ても仕方がないので伊串の港までポンカンを売ってないか見に行きましたが、今回もやはり小さいものばかり置かれていたので買いませんでした。去年も今年も重畳山のポンカンは不出来で、生産者が高齢になっているせいか、獣害に対する対策が十分に出来ていないのが心配です。

             

大阪を出て高速に乗り、阪和道を降りて白浜を過ぎると近くに海が見えるようになります。この日は雨が近いと言うのに海は静かで、所々では磯に上がって竿を出している釣人も見られました。ところが串本の街を過ぎて旧古座町に入ると波は高く、とても船を出したり、釣りをしようという気にはならないような状態でした。弘法の湯の裏はこのような状態ならサーファーが遊んでいる場所なのですが、寒いせいか誰も遊んでいませんでした。

             

何もすることがないので、夕方4時前に浦島の温泉に入りに行くと、未だ誰も入っていなかったのですが、次に入って来たのは何と文漁丸の船長ではありませんか。その人は田辺の方で、おそらく文里港の船なのでしょう。カツオを釣りに串本に来ることが多かったのですが、最近は釣れてないので来ていませんでした。最近は釣れてるのかと聞いたのですが、あまり釣れてないとのこと、この日は4匹だけだったと言うことでした。

             

串本で見かける漁船には検査証を貼ってない船をよく見かけます。文漁丸は検査証をいっぱい貼ってあります。次に受ける年のシールも貼ってありますが、私が教習所で習った通り6年毎の更新です。でも私に検査機構から送られてきたシールは4年後になっています。これは私が習ってから検査を受けた間に法律が変わったのか、検査機構が送る際に間違ったのか、だいたい12月に検査済証を送って来たのに、次回が4年後の3月と言うのも肯けません。だいたいこのような証を元号で記すのは如何なものか、現の天皇が死んだら元号は変わるのですから、平成29年があるのかどうか分かりません、西暦で記すべきです。

春はすぐそこ

2014-02-17 05:00:00 | 田舎

先週木曜日、串本にやって来ました。やって来ていますという表現でないのは、もう大阪に戻ってしまったから、明日18日は警察病院に診察に行かなければならないので、それまでには帰らなければならなかったこと、なので帰るのは今日の月曜日でも良いかと思っていたけど、田辺から串本までの間で工事をしている区間が多く、こんな田舎でも年度末に税金の無駄遣いが横行しているのかと思えば情けないのですが、片側通行で待たされる時間が長いので、工事をしていないだろう日曜日に帰ろうかと思っていたら、三男がいきなり土曜日の10時から車を使うと電話してきたので、金曜日に出頭を求められていた串本海上保安署に赴いた後、すぐに大阪に戻ったのでした。

       

写真は病院に入退院していた前後、当時は1月にしては暖かく、夜の公園にも徘徊する人が多いらしく、朝モモを散歩に連れていくと、いろんな物を目にします。忘れて帰るのか、放って帰るのか、置いておくのか、意図はよく解りませんが、とにかくいろんな物があるのです。

       

12月までは一人のおばあさんが毎朝、こういった忘れ物を片付けに来てくれていました。何故か1月からはプッツリと来なくなりましたが、それは私が散歩に出かける時間とずれているのかもしれませんが、何日も同じ物が残されている状態も続くことがあります。それにしても女の子が乗りまわすようなスクーターや自転車が放置されているのはどういうことなのでしょう?

             

暖かかったせいか枯れ草の中に新しい草が芽吹いて来ています。それこそ春の訪れを感じていたのですが、2月に入って暫くすると寒く感じるようになってきました。雪が降った日もあったんですもんね。

             

あんまり暖かい日が続いたので、サクラの芽はどうだろうと思って見てみたのですが、まだまだ固いまま、サクラの開花には未だ程遠いようです。

             

木曜日、高速道路を走らせていると、南部辺りまで来ると左右の山や谷で梅の花が満開です。走っている最中はフロントから見えるわけでは無いので写真は撮れませんが、『よってって』の東側の梅畑で満開の写真を撮ることが出来ました。梅が咲くと東風が吹き始め、寒い北西風の風とはおさらば出来そうです。もうすぐ春がやってくるのです。

最後の写真は『よってって』の西側に有った梅庭園が無くなって更地になっていました。こんな所に何を建てようとしているのか、結構不便なところだと思うのです、まして近畿自動車道紀勢道が出来ると、田辺インターで降りる人が激減し、私のようにこの地に来る人間も居なくなると思うのですが・・・。