ぼんくら放浪記

Blogを綴ることによって、自分のぼんくらさを自己点検しています。

舞子公園から垂水海岸へ

2010-01-29 05:00:00 | 神戸にて
国道2号線を東に行くと、垂水駅まで行ける事は解っていましたが、その辺りにある案内図を見てみると、海岸沿いに道が造られており、国道沿いの排気ガスが充満しているような道を歩くより、海岸沿いのオゾンいっぱいの道を歩くほうが風情があります。

右に造成された砂浜を見ながら、東へとボチボチ歩いていきます。

             

振り返ると徐々に明石海峡大橋が遠ざかっていきます。平日のせいか寒風のせいか、あまり訪れている人を見かけません。

             

裏側からの写真になりますが、立ち寄り湯もあるようで、夏はここで海水浴をして砂まみれになっても、温泉で潮や砂を落として帰れるようです。表は国道に面しているのか、それは確認していません。

大蔵海岸にも立ち寄り湯がありましたが、あの温泉も国道には面していませんでした。

             

温泉を過ぎた辺りから、砂浜が終り、プロムナードは少し北方面へと向かいます。正面を見た写真ですが、建物を撮っているのではありません。中央をよく見てください。あの五色塚古墳が見えています。

             

歩道の周りはだだっ広い駐車場になっているので、ここは夏になるとドッと海水浴客が押し寄せるのかも知れません。今は車が1台も停まっていません。

それにしても、JRの車窓からでは一部しか見えない古墳が、ここからは完璧に見ることが出来ます。

             

望遠10倍でこんなもの、後円墳の墳上の埴輪もはっきりと見ることが出来ました。
JRや山陽電鉄が走っているので、電線が多いのには閉口します。

             

もう少し東寄りで、ソテツが前面に入るようにと撮ったのですが、バックにマンションまで写ってしまいました。

             

この日、淡路島の切れ目の奥には四国でしょう。薄く徳島県の山並みを見ることが出来ました。

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舞子公園 Ⅱ

2010-01-28 05:00:00 | 神戸にて
これは中央地区公園の前にある園銘石ですが、裏を見てもどこの学校の誰の手跡のものとも記されていません。

またまたこの垂水近辺への電車の話になりますが、新快速という列車が15分に1本運転されています。JR神戸線ではこの新快速専門の線路が敷かれていて、普通列車や快速列車はこの線路を走りません。
新快速は尼崎を出ると、芦屋・三ノ宮・神戸・明石と停まり、私が行っていた朝霧は明石の一つ手前、舞子は二つ手前なのです。神戸~明石間は駅も沢山あり、距離も長いので、普通考えると新快速で明石まで行き、普通電車で引き返すのが目的地に早く着くので、そういうルートをとることを考えます。

             

しかし、そのルートで旅費を請求すると会社は言うのです。「何もそんなに急いで行かなくても良い、三ノ宮で普通電車に乗り換えて行きなさい。」と・・・。

少しでも売り上げを伸ばせと叱咤する(激励はしない)会社が、悠長に普通電車でゆっくり行けば良いのだとは、そこに考え方の温度差があるのではないですか?まぁ、少しも売り上げの上がらない私どもに、そんなに頑張らなくても良いのだと言ってくれているのなら、私としても少しは理解が出来るのですがね。でもそこは成果業績主義の賃金体系の下、やれることはやっておかないと、低評果を下されるのは、目に見えています。

             

ただ私が新快速電車に乗って一つや二つ先の駅まで行き、引き返そうと思うのは時間を無駄に使いたくないとの思いからなのであり、少しでも多く訪問数を増やそうとか、売り上げを伸ばそうという考えは少しもないのです。

ですから今は三ノ宮で普通電車に乗り換えて、ボッツラボッツラのんびりと普通電車に揺られて眠気を催しながら、本を読んでいます。

さて、ここは国道2号線を越えて海岸まで歩いてきています。西の方角には孫文記念館=移情閣が見えています。

             

冬にしては暖かい風に吹かれながら、暫くは海を眺めていました。ここには釣り人が見えません。県立公園内なので釣りは禁止なのかも知れません。

暫くすると日の丸をはためかせた『JAPAN COAST GUARD』と書いた船がやってきました。きっと海上保安庁の船だと思います。西から東へと向かっていますが、エンジンを噴かしているのか波飛沫が立っています。

             

同じ時刻に東から西へと向かう荷物船を見ていると、同じ速度なのに波飛沫の立ち具合は少ないのです。これは今潮が東から西へと流れていることの現われで、前述したように大阪湾から瀬戸内海へと流れる潮は、広いところから狭いところへと流れようとするので、とにかく速いのです。

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舞子公園

2010-01-27 05:00:00 | 神戸にて
JR舞子駅から元町までの運賃が290円、垂水駅からなら210円です。たった80円の差ですが支払う時には300円払って10円おつりを貰うのと、200円に10円足すのとでは全感覚が違います。因みにJRでは昼間割引回数券というのが区間限定で設けてあり、尼崎~元町間が普段380円のところを215円という格安で乗車することが出来ます。でも尼崎駅からは元町以遠の駅に昼間割引回数券は適用されていません。

                  

最初は運賃が100円近くも違うことを知らないものですから、舞子で降りて、舞子から乗って帰っていました。通照院の前を通り、古墳を見学して垂水駅まで歩いて、漸くこの事を知った次第で、それから帰りは2度と舞子からは乗りません。往時は時間的なこともあり舞子で降りるのですがね。

舞子台から垂水まで歩くには、あの通照院の前の道を東へと歩くか、JRの南側の2号線を歩くかと考えていました。

一度、JRより南側を歩いてみようと思い、旧木下家住宅へと抜けたトンネルを潜り、東南方向へと歩を進めます。

ここにも舞子公園と刻まれた碑があり、裏には園銘石の題字についてという説明があります。この説明によると先の若宮八幡宮のは歌敷山中学校の生徒、これは東舞子小学校の児童の手跡によるものなのですね。

              

こちらの公園では子ども達が遊ぶ遊具が少しだけ見られますが、舞子公園という公園は小さい子ども達が遊びにやって来るように造られた公園ではないようです。

                  

この案内図によると、旧木下家住宅があったところが舞子公園の西地区、今日紹介している地域が北地区、孫文記念館があった辺りが南地区になっており、西地区と南地区を省けば、松の木がやたらと多く生えている公園だなぁという気分です。

             

昔の渚は青松白砂などと表現されるような海岸が続いていた、そのことを思えばこの辺りの海岸は青松ばかりが残って、海辺は人工的に造られた浜が所々に散在しているという観があります。

             

この公園の北側に大きな樹木に守られるようにして長い白壁の家があり、JRの車窓から眺めることが出来ます。私は当初、駅に備えられている地図を見て、この家が旧木下家住宅なのだと思っていた時期がありました。

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五色塚古墳 Ⅱ

2010-01-26 05:00:00 | 神戸にて
前方部から後円部へと繋がる階段を登ります。墳頂はどのようになっているのかなどと考えると、ワクワクしてきます。

しかし後円部の石積みは相当なもの、いったい何個の石を使ったのか、復元する前から管理しておれば、石の数は後世に残せたと思うのですが、今となって数えるのは至難の業です。

昨日載せた案内板とは違う案内板には、この古墳の全長は194m、後円部の高さは18m、又違う箇所では“葺いた石の数は223万個と推定されている”と書かれていました。推定ですが223万個と言い切っているのは不思議です。“約223万個と推定されている”ではないのです。きっちり223万個なんて、そんなことがあるはずがありません。

             

登りきったところから北側を展望しています。頂上が結構広いので28mmの広角でも全体を写すことが出来ません。

そして広いばかりで、何も無いのです。石棺や石舞台みたいなものでもあれば、興味も増すでしょうけど・・・元々何も無かったのなら、何も付け加えないのが正解ですね。

             

北の端へと移動して南方面を望みます。全長が194mのこの古墳ですが、堀なども含まれていますから、前方部の端から後円部の端までは150mも無いかもしれません。しかし後円部の端からの眺めは前方部の端からの眺めとは全然違います。

             

昨日の写真で気付かれた方もいると思いますが、石葺の上辺には何かが規則正しく並んでいました。それがこれ、埴輪だと説明されています。案内板には10mに18本の割合で並んでいたとあり、この墳頂部だけでなく中段や下段にも並べられていて、総数は約2200本もの埴輪がめぐらされていたと書かれていました。この箇所では『約』という言葉が使われています。

埴輪というと、人型や家型、馬型などを思い浮かべますが、これはヒレ付円筒埴輪と言うそうで、数本に1本は朝顔型埴輪が立てられていました。左から2本目が朝顔型なのでしょうね。

             

墳頂から西側の眺めです。小壺古墳が見えています。

この日は通照院を取材してこの古墳に来ていますが、あれだけ晴天だった空が、ここに来るうちにぐっと曇ってしまいました。おまけに雪まで降ってきて最悪です。この辺りは天候の変動が多いなぁと感じています。
神戸に戻ると空は青空に戻っていて、私がここにいた瞬間だけ曇ったのかと思うと、とても残念でなりません。

             

登ってきた階段と前方部の眺め、入口からは向かって右側(西側)の階段から登ってきました。東側の階段は鎖で閉鎖されていました。

             

前方部の東側は広場になっており、何かの用途があったのかも知れません。階段の下辺りに四角く盛り上がった箇所がありますが、元々このように盛り上がった状態であったそうで、埴輪が置かれていたのであろうと言われています。

             

前方部の石葺やテラスを左に見ながら帰っています。

             

墳墓の周りにめぐらされた堀、造られた当時から水は無かったと思われています。

             

五色塚古墳の入口の前・小壺古墳の南側に、狭い土地に無理矢理建てたのか、鳥居と社の向きが同じではない神社がありました。

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五色塚古墳

2010-01-25 05:00:00 | 神戸にて
歌敷山の街を抜けると、北側が霞ヶ丘、南側が五色山という町名に変わりますが、そのまま二つの街を分ける一本道を東へと進みます。

地図で見ると、霞ヶ丘交番の四つ角で南へ歩をとれば、五色塚公園という大きな公園があるらしく、その辺りが探している石組みのある何かだと見当をつけていました。

南下する道の突き当たりにそれらしきものが見えてくるのですが、まず目にするのは案内板です。

          

探していたものは古墳だったのですね。文字は十分読めると思いますので、この古墳の説明は省きます。

             

古墳の入口は右への矢印があり、沿って歩いていきます。明石海峡大橋が見え、その下にも墳丘が見えます。そちらが・・・

             

小壺古墳、五色塚古墳の入り口に向かうと手前にこちらの古墳があります。直径67mの円墳です。芝生で覆われているので、春になると一面緑に変わるのでしょうね。小壺古墳に立ち入ることは出来ません。

                  

五色塚古墳の入り口までやってきました。このモニュメントは二つの古墳の復元が完成した記念に建てられたものですが、この碑にもあの名前を刻むのが好きな市長の名が記されています。

             

後円部の石葺を左に見ながら古墳を登っていきます。なかなかきれいな紋様ですね。

             

こちらは前方部の頂上、明石海峡大橋や淡路島が展望できます。この古墳に葬られた人はきっとこの眺めが好きだったのでしょうね。もちろん当時は大橋はありませんが。

             

先端まで行って明石海峡に臨みます。この海峡は瀬戸内海から大阪湾へと流れる(その逆もあるのですが)唯一流れが速くなるところで、流れが速くなる海では美味しい魚が獲れるのです。私は西から東へと流れる海流より、東から西への海流のほうが早いのではないかと思っています。

             

方墳の先端部、山陽電鉄の電車が眼下に走っています。山陽電鉄より少しだけ海側にJRが走っていますが、その車窓から見える石組みは、この眼下のものだったようです。

             

さて、次は後円部の方を探索です。

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通照院 Ⅱ

2010-01-22 05:00:00 | 神戸にて
このお寺、全体的に見ても整った観があるのですが、一つ一つを取ってみても面白いものが数点ありました。

昨日はこの像を如来だと書きましたが、手が6本あるのが判ります。如来像って手が何本もありましたかね。菩薩様が正解なのかも知れませんが、頬に手を添えている以外の手は必ず何かを持っています。そのうちの1本は確実に薬箱を持っているので、やっぱり如来様なのか・・・、私にはよく解りません。

             

池の水は一旦上の浅い水溜に注いで、そこから下の池へと少しずつ水を落としています。このせせらぎにも似た音が訪れた人の心を和ませるのかも知れません。

             

上段の水溜は水が透き通っていますが、下の池は深いのか透明感がありません。

             

納経大塔の前に並んで建つ狛犬ならぬライオン、2頭の獅子の背中がひっついていますが、どのような謂れがあるのでしょう。

             

向かって右側の獅子像ですが、こちらは何だか笑っているように見えます。どちらも口を半開きにしているので狛犬や仁王といった阿吽を表しているものではなさそうです。

             

納経大塔を支えている怪力の男像、物凄く踏ん張っている様子が伝わってきます。

             

向かって左側の男像ですが、顔は上を向いて「もうこれ以上は無理や!」と叫んでいるように私には思えます。このような縁の下の力持ちの存在を留めておくという考え方は、なかなか好ましい。
この像の向こう側にも足だけ見える像がありそうですが、どうやって向こう側に回るのか分らないので、見ることができませんでした。

             

山号を額に、歌敷山と書いてあります。街の名前が山号と同じというのも面白いですが、それは街の名前の最後に山が付いていなければ出来ないお話です。

                  

もうひとつだと思った仁王さん、顔は迫力あるのですが、髭があるので間が抜けているように見えるのではないかと私は思います。

             

こちらは向かって左の吽形の仁王さん、顔も迫力がありません。腹筋は凄いのですが、腕の筋肉をもっと力強いものにしないとダメですね。

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通照院

2010-01-21 05:00:00 | 神戸にて
JR舞子駅で降りて舞子台へと東へ歩きます。少しは東へと歩いているのですから、帰りは一つ東の駅・JR垂水駅まで歩いてみようと思いつきました。垂水駅まで歩いてみようと思ったのは、電車に乗って山側を見ていると(普段は本を読んでいるのですが)石積みの立派な何かがあるから、何なのか確かめてみたいのでした。

歌敷山の街を歩いている途中で毛糸の帽子を被ったお地蔵さんがあり、一旦は通り過ぎたのですが、立派なお寺の一角でもあり、Blogネタにと、戻って撮っておいたのです。

             

お寺の名前は通照院、真新しい碑に由来と、お寺の名が記されています。
門の両脇の壁には仁王さんがリレーフされたいます(頭だけ見えてます)が、イマイチへたくそやなぁと思ってしまいました。

          

字は彫ってあるだけなので、ひどく読み難いですね。読み易いように何故色を着けないのでしょうか。

             

境内は非常に手入れが行き届いていて、京都のお寺のようです。知恩院の宿坊として建立されたと由来には書かれていました。

             

水を湛えた池があり、鯉が泳いでいたら心を和まると思うのですが、残念ながら魚は泳いでいません。

             

如来像のようですが、右手を頬にあてがっているので、○×如来なのか、その○×がよく解りません。土台に幾つかの家紋が並んでいて苗字も書かれています。きっとこの像を建てるにあたって、このようにするからと寄付を募ったのだと思います。

                  

如来像の反対側にまだ新しそうな納経大塔なるものが建っていましたが、なかなかインド風っぽいですね。

             

門の裏側にこのような仏道と書かれた碑がありました。これくらいのコントラストがあれば表の由来も読みやすかったのですがね。しかしこの法語を語ったという弁栄という坊さんを私は全く知りませんが、この文を読んでいる限り、大乗仏教の方とは思えません。

このお寺、いったい何宗のお寺なのでしょう?知恩院に関係有るなら浄土宗なのですが・・・

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舞子台というところ

2010-01-20 05:00:00 | 神戸にて
JR・舞子駅や山陽電鉄・舞子公園駅から舞子台1丁目へ入って行く道は、神戸淡路連絡道路の側道となる道路から2箇所あります。これは自分が住んでいる大阪市内から比べると、実に少ない数です。入口が少ないということは出口が少ないということであり、一種の閉鎖性を感じます。

                  

何を撮ってるかというと、この街の西側から北側一帯にこのような階段の上に家があるという状況が10箇所もあるのです。階段の数は数えていませんが、一番下の家の玄関も階段の途中にあるという、1軒1軒訪問しなければならない私どもの仕事にとっては、至難の難所なのです。

             

上から見ると階段も結構急でしょう。おそらくこの家を買われた頃は若かったのでしょうが、それから数十年、住んでられる方は殆んどがお年寄りでした。昇り降りの大変さを実感した私です。

                  

何を同じような写真ばかりをとお思いでしょうが、この街の難点は階段と階段が上では繋がっていないということなのです。上に道があって階段同士が繋がっておれば、階段が10箇所あっても昇り降りは5回で済むのです。

繋がっていないお蔭で私は階段を10往復しましたが、このような街の造り方はお隣と疎遠になりがちになるということを理解した上で造られたのでしょうか?

同じ階段上の家はいいとしても、他の階段の家へは必ず降りて登って、帰るのにまた降りて登らねばなりません。

             

この階段がある家を結ぶ道から更に下の景色を写したのがこの写真ですが、ガードレールまで設置してあって、下の家へ行くには大きく迂回せねばなりません。この街の造りは私には理解し難いものがあります。

この先の突き当たりはなだらかな崖になっていますが、そこからは歌敷山という街になります。

                  

駅からこの街への道はもう一つあります。旧木下家住宅へと続く道の際に書いた山陽電鉄下のトンネルです。非常に小さいトンネルで、背が高い人なら必ず屈んでしまうのではないかと思います。

             

ここは舞子台1丁目と歌敷山との境の道を南へと降りてきたところ、この先に見えている舞子台の南端の家へとは繋がっていません。わざわざ柵がしてあり、その下は一段低くなっているし、この駐車場の先は川です。

この街の難点は行き止まりがやたらと多いこと、こういう造りは考え方によっては防犯に役立つのかも知れませんが、コミュニケーションを取るには不向きです。

             

歌敷山方面への道、これもこの1丁目からは1本しかありませんでした。ここを登って真っ直ぐ行けばJR垂水駅方面へ行ける筈です。

                  

山陽電鉄の電車が通ったので、急いでカメラに収めました。

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若宮八幡宮 Ⅱ

2010-01-19 05:00:00 | 神戸にて
読めないと余計に気になる性分の私は、何とか読めないものかと、角度を変えて立て札の字を撮ってみました。

            

これで何とか読めるでしょうか。

『人皇第15代応神天皇 第十六代仁徳天皇祀る 若宮八幡宮は往古より 厄除神として一般庶民の崇敬篤 殊に東舞子の氏神として 吾々住民ひとしく朝夕の御加護を蒙りつつある』と書かれています。

人皇というのは初代を神武天皇として数える代々の天皇のことですが、実際に実在した天皇は仁徳天皇より10代ぐらい後の人ではないかと言われています。

堺市に大仙陵古墳と言われる世界最大の陵墓がありますが、私どもが歴史を習った頃は仁徳天皇陵と教えられました。名前が変わったのはおそらくこの陵墓が仁徳と名乗った天皇のものであるのかどうか、疑わしさが残るからなのでしょう。

由来の最後に書かれている“御加護を蒙る”という表現ですが、蒙るというと何か災いを蒙るような、御免蒙るとも使いますし、良くないことを頂くような表現だと思いませんか。
御加護なら、授かるとか、戴くとか、賜るとかの表現がしっくり来るような気がするのは私だけでしょうか。

                  

最初の写真で改築記念碑が建っているのが判るのですが、いつ改築したのかが判りません。立て札の裏書を見ると昭和53年になっていますから、今から三十数年前に改築されたものだと思われますが、碑はそのまま残るとしても、この立て札はそのうち立て替えられそうなので、やはり改築記念碑にその年月日を入れてほしいものです。

             

狛犬の後ろに散歩道が見えます。神社の裏側は歩いたり出来ないものが多いのですが、ここはオープンですね。神社の裏などと言うと、夜市のような霊界への入り口がありそうで気味が悪いです。

             

でも道さえ踏み外さなかったら、そのような霊界などに落ちることもありますまい。夜でもないのでヘッチャラです。でも夜歩くのは怖いでしょうね。かなり寂しいところです。

             

この公園を出るところに(駅から来れば入り口に)地元の中学生の字による『兵庫県立舞子公園』の碑がありました。これだけ見れば、旧木下家住宅と若宮八幡のある小丘が舞子公園だと思ってしまうのですが、あの孫文記念館のあった辺りまで、総合して舞子公園と呼んでいるようです。

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若宮八幡宮

2010-01-18 05:00:00 | 神戸にて
旧木下家住宅の西側に並ぶようにして小さなお宮さんがありました。旧家がピカピカしているのに比べて、何とも古めかしい建物です。

             

お宮さんと旧家の間に階段が作られてあり、何故か工事用の衝立で通せんぼをしていますが、危険とも書いてなくて右隅が空いており、その気になれば遮るものが無いので、登ってみました。

空が見えているのでそんなに高くはありません。小山というより丘ですね。頂上まで行くと旧家の2階部分にあたる部屋が東側にありました。

階段から続く散歩道が整備されていますが、たいした距離ではありません。散歩するにしても周りが薄暗いのと歩く距離が短いので、散歩している人も見かけません。

             

小さい社でしたが、狛犬もやはり小さいです。仕事で使っている普通のボールペンを置いてみました。比べてみると狛犬の大きさが想像できると思います。

             

小さいけれど、なかなか精悍な顔つきです。前足の地面への付き方が、相撲の仕切りで土俵に手を付いて構えたのと同じような感じを受けます。

                  

両側にあるのは物置ですから、この社の大きさが判ろうというものです。注連縄も小さいですが紙垂れは普通の大きさだと思います。

             

境内も狭いですが、木々が多い割には落ち葉一つ落ちていません。一応どなたかが掃除をされていることが窺えます。

             

由来と書かれた立て札が立っていますが、古くて墨書きなので読めない箇所があります。

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