ぼんくら放浪記

Blogを綴ることによって、自分のぼんくらさを自己点検しています。

5月21日の釣果

2013-05-31 05:00:00 | 田舎

4月27日、28日とソフトボールの練習や試合で今年のGWのスタートは例年より遅くなり、その後もブラブラとしていたら姫に行くのが5月の1日になり、10日まで滞在したのでした。翌11日は雨で練習が中止、その次の12日は試合があったので、13日の月曜からは再び姫に行くことが出来たのですが、またまたブラブラとしてしまい、次に姫に行ったのは17日の金曜日でした。本当はその前日にでも出発しようと思っていたのに、三男が金曜の昼から一緒に行くと言うので1日延長したのですが、てっきり土・日と釣りをするものと思っていたら、T中君が有田辺りに釣りに来るのでそちらに行くと言って、車に乗って行ってしまったのでした。姫に居る間は愚車のハイゼットがあるので不便ではありませんが、帰りは電車で帰らねばなりません。三男はまた次の金曜日に迎えに来るようなことを言っていましたが、そんなことをすれば余計なお金がかかります。一人で電車で帰れば5000円ぐらいで済むのです。

             

土曜日はダラダラと過ごし、日曜日は雨、月曜日もどんよりと曇った1日でした。下里以遠の大辺路を歩くのも雨の次の日は足元がぬかるんでいそうですし、写真を撮ってもきれいでは無かろうと思い、昼から大島港に様子を見に行ってみました。

             

釣り人は案外少なく、地元の人も釣りをしていないようです。ということはあまり釣れてないということなのでしょう。駐車場には車が3台のみ、私の愚車と大裕丸のトラックを除けば1台だけ、こんな日も珍しいことです。

             

翌21日、釣り人は来てないと思い油断して昼前に大島港に到着すると、結構たくさん居てますやん。でもグレ釣りでは無さそう、いつものポイントは無事、手前側では誰も釣りをしていませんでした。

       

早速0,8号のオモリと円錐ウキ、竿一本分のタナで仕掛けを流すと少しだけ押さえ込むようなアタリ、これでは合わすことが出来ませんが、エサは無くなります。エサが無くなるということは魚が喰ってきているということ、期待を持って釣りが出来ます。最初にスゥーッとウキが入り、釣り上げたのはフグ、この波止場でフグを釣ったのは初めてです。ここではフグはおらんと思っていました、厄介です。ちょっと怒って写真を撮るのを忘れてしまいました。12時から1時にかけてコッパグレやベラがとんとん拍子に釣れましたが、以降さっぱり釣れません。

             

3時になって再びフグ、今度はちゃんと写真も撮っておきました。フグ対策と称した撒き餌を見たことがありますが、効果はあるのでしょうか。あるとすれば次回から使わないといけません。

             

潮が込んできて、一面に海藻が浮き始め、仕掛けを投入するのに邪魔になってきました。去年の5月の末には大きなグレを釣っているので、今回もそのような時期になったと思って4時まで粘ってみましたが、結局大物は顔を見せませんでした。

今日か明日、この拙ブログも100万PVに達そうとしています。PVとはプロモーションビデオでもパチンコヴィレッジでもありません。ページビューと言うらしく、ページのアクセス数だとか、毎日更新していたらそんなになって・・・読んで下さっている皆さんに感謝です。

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下里駅

2013-05-30 05:00:00 | 田舎

ぶつぶつ川から30分もかかって下里駅に帰ってきました。時間は2時前、12時過ぎにオークワの横の踏切を普通電車が通過して行きましたから、2時間に1本の電車として2時過ぎには電車が来るだろうと思っていたら、駅舎内で時刻表を見ると2時34分発の電車がありました。未だ40分以上待たねばなりません。ぶつぶつ川から直接浦神まで帰れば運賃180円もかからずに済んだのにとも思いましたが、ここまで来たらついでです。下里駅も次の太地駅も見ておかなければ気が収まりません。

             

浦神というような他に名の無さそうな駅に紀伊が付いていたのに、下里などと何処にでもあるような地名なのに駅名には紀伊が付いてないのが訝しく、ぶつぶつ川が日本一短い川と認定されたのも最近の話題、和歌山県下でも下里などという地を知ってる人はそんなにいないのではないかと思うのです。でも結構人は住んでいるらしく、駅前に停めてある自転車の数も多いのです。

       

この駅にも案の定、乗車駅証明書発行機が置かれていたコンクリート製の台が設置されたままになっています。ずっとこの近辺の駅を見てきましたが、どうやら乗車駅証明書発行機が残っているのは紀伊姫駅だけのようです。このような台が何処の無人駅にも残されているのですが、何のために残しているのかJRの考え方が計り知れません。

             

考えてみれば駅のホームに入って行くには入場券が要りますよね。でもこの辺りの無人駅ではホームに入場するのに入場切符を買わなくてもいいのです。そうなるとおそらく新宮駅でも古座駅でも串本駅でもホームに入るには入場券を買わねばならないのでしょうから、この差は大きいのではありませんか。私は無人駅のホームに入るのに入場料を払えと言っているのではありません。殆どの駅で無料でホームに入れるのですから、駅員のいる駅でも無料で入れるようにすべきだと思っているのです。

             

駅舎内で避難経路などを見ていたら、避難所までの経路近くに古墳があるのに気が付きました。時間がとってもあったので、古墳まで歩いてみることに、近頃歩くと言う習慣が無くなってきているので、5時間近くも歩いていると足はもうくたくたです。

       

この古墳、下里古墳と言う前方後円墳で、今から約1600年前ごろ、古墳時代中期に築造されたものだとか、国指定の史跡になっています。紀伊半島南部では唯一の前方後円墳だそうで、前方の部分には平安末期から明治時代までは神社があったそうです。なので見た目には前方部分が無く、ただの円墳のように見えます。

             

この辺りにはもう古墳時代から人が住んでおり、人々を統率する豪族が居たということになります。こんな辺鄙なところに人が住んでいたのかと思うと感慨深いものがありますが、当時は日本全国どこもかしこも辺鄙な所ばかりだったのですね。

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ぶつぶつ川

2013-05-29 05:00:00 | 田舎

日本一長い川は信濃川と小さい頃に習ったけれど、習ったことが覆される昨今です、今も信濃川が日本一の座を占めているのかという気持ちが湧いてきても不思議ではありません。信濃川は新潟県を流れる川ですが、上流は長野県を流れており千曲川と呼ばれているそうです。信濃川と千曲川を併せての長さが日本一だとか、しかも信濃川の流域より千曲川の流域の方が長いのだそうです。そうなると信濃川が日本一長い川とするのは些か問題がありそう、千曲川が日本一と言い換えても良さそうですし、名前が違えば同じ川とは見做さなければ他にもっと長い川があるのかも知れません。

             

まぁ兎に角、日本一短い川・ぶつぶつ川にやってきました。この案内板が立っていなかったら、きっと何処にあるのか分からなかったでしょうね。どうも那智勝浦町は日本一が嫌いなのか、街にはぶつぶつ川の案内が無いし、この案内板は和歌山県が立てたもののようです。
この案内板によると、日本一長い二級河川(日高川)が和歌山県にあるそうで、そうなると二級河川で日本一長いのも日本一短いのもこの県内にあるという、今まで全く知らなかったことを学びました。“日本一長い二級河川と日本一短い二級河川が同一県内にあります。さてそれは何県?”こんなクイズを出されたら、和歌山県自体マイナーな所があって、殆どの人は分からないだろうと思います。

             

川原へ降りて行く階段も整備されていました。でも階段の前に写っている川が『ぶつぶつ川』なのではありません。

             

これが『ぶつぶつ川』、何か文句ばかり言ってる川のようで、あまり良いネーミングではないように思います。川の名前って殆ど地名が付いていますよね(地名が先なのか、川の名前が先なのかは分かりませんが)、せっかく日本一に認定されたのですから、地元の人は昔からぶつぶつ川と呼んで親しんできたとは思いますが、下里川とか粉白川とかにした方が良いと私は思います。

                       

付近の家も入れるとこんな感じ。『ぶつぶつ川』の案内板はこちらの方からは見えますが、上の道路からは見えませんから、上の道路を歩いているとおそらく通り過ごしてしまいそうです。

             

道路から撮るとこんな感じ、幅は50cmも無いでしょう。

                       

右側の石垣の塀が途切れた所で山から流れてきた川(名前は不明)と合流しています。フツフツと清水が湧くから昔から『ぶつぶつ川』と呼ばれたと案内板にありました。それなら『ふつふつ川』でしょ、でも沸々と水が湧いているようには見えません。それにしても4本の小さな杭みたいなものは何の役目を果たしているのでしょう?ここから沸々と水が湧いてると言う印なのかも知れません。

             

河原にはベンチも設置され、憩いの場として提供されているようです。

             

合流した後の川に架かる橋、この先道は二つに分かれていますが、どちらも42号線と繋がっているようです。

             

玉ノ浦海水浴場、この時潮は引いていたようですが、かなり遠浅な海のようです。時折42号線を走っていて、海水浴の風景を見ることがありますが、周囲の環境を壊すような人がやって来るような海水浴場ではなさそうです。

             

浦神の岩屋崎が見えています。ここまで来れば車を停めた紀伊浦神駅まで歩いた方が近いかも知れません。でもそうなると危険な42号線を歩かなければならないし、紀伊田原駅や紀伊浦神駅を紹介したのですから下里駅も取材しなければなりますまい。なので再び下里の街の方へ戻ったのでした。

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ぶつぶつ川への道

2013-05-28 05:00:00 | 田舎

昨日、食堂を探していた時に“何か食べさせてくれる店は無いか”と探したと書いたのですが、普段はそう使ってるけどおかしくないですか。“店は有るか”と思って探さなアカンですよね。“店は無いか”と思いながら探すなんてヘンでしょ。

もう4年ぐらい前になりますか、下里にある川が日本一短い川として認定されたと言うニュースを見ました。いつか行ってみようと思っていましたが、地図には載っていないので何処にあるのかよく判らず、新宮や宇久井へ行った際にも寄ってみることはありませんでした。今回は浦神から下里まで歩いてきたので、絶対に見つけようとの強い思いで探そうと歩いてみました。街には何処にも日本一短い川の掲示がありません。古座観光協会で貰った『熊野体感ウォーク』というパンフレットの地図に海沿いの道を西南方向へ歩くようになっていました。

             

潰れたオークワでの昼食後、JRの踏切を渡り、42号線より海側の道を歩きます。5分ほど歩くとキリスト教会が有りました。パンフレットにも載っていた西村伊作が設計したという教会です。西村伊作と言われても誰なのか知りません。新宮に有った西村記念館と関係があるのでしょうか。関係が有るのか無いのか、説明が無いのでさっぱり分かりません。分かるのはこの地方では西村と言う苗字の有名な人が居たんだということだけ。

       

そんなに有名な設計家でも私が見る限り、ひしゃげた建物のように見えます。このように見えるのはカメラのせいではありません。この教会の会堂は古座にも有るのですね。キリスト教会なのに牧師の名前が本宮なんてヘンですよね。

             

太田川の手前のAコープ、42号線から見た時はエサ屋かと思っていました。写真では見えませんが玄関と側面の窓ガラスに“Aコープなら下里店”と書かれていて、土日は休みだし、10時から5時までしかやってないしと「何が“Aコープなら下里店”だ!」と思っていました。今、しげしげと写真を見ていたら“なら”ではなくて“なち”なのに愕然。ひらがなだけ小さく書いてあるから見間違ったのだ!“なち”なら“那智”と漢字で書いて欲しいものです。

             

橋の上から見た太田川河口、右に小さく見えているのが立岩、今日のトップ写真、望遠でアップしました。

             

この道は太地港まで続いているのですね、一度車で走ってみたいものです。

             

街の所々にある案内看板にあった懸泉堂、すぐに見つけることが出来ました。佐藤春夫の父・佐藤豊太郎という人が文政6年(1823年)に建てた、地元の医療・教育に心血を注いだ場所だとか。

       

残念ながら(佐藤春夫も豊太郎も知らないのに何が残念なのか)入ってはいけないようです。でも佐藤春夫自身はこの懸泉堂との直接的な関係は無いようです。

             

懸泉堂の先に佐藤春夫の墓があるというので、探そうと思います。でもこんなにたくさんの墓がある墓地、見た途端に探究心は萎れてしまいました。まぁ佐藤春夫などよく知らないのですから、当初から目的にはありません。奥に見えているのは下里小学校。

             

墓地を見渡している祠。

             

こんな所に大辺路の道標がありますが、この『ふところ山』は地図に懐山とあり、海側にあるので、矢印の向きが反対です。もう1時になっていてクタクタ、大辺路を歩こうとは思いませんでした。

             

そのまま道を進んで行くと玉ノ浦海水浴場まで出てきました。ここは粉白という地区、42号線を走ると見えています。

             

ここでやっと見つけました。『ぶつぶつ川』が日本一短い川の名前でした。

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下里への道

2013-05-27 05:00:00 | 田舎

大泰寺を後にして歩き始めたのが11時半ごろ、下里駅を目指して太田川の右岸に沿った県道を何処かに食事が出来る所が無いかなと探しながら歩きます。左岸の方は太田川から離れて42号線まで無駄足を運ばねばならないし、Googleの地図では県道沿いに3軒ほど食堂らしき名称の店が載っていたのです。

             

歩き始めてすぐにこの看板、結構大きなもので、遠くから“やど”の文字を見て何処かの宿の看板かと思っていました。和歌山の人は面白いですね、そこは“やど”ではなくて“やぞ”でしょ。方言は口で言うだけに留まらず、文字で書いても訛ってしまうものなのでしょうか。“あかんげ”の“げ”って何?これも訛りなのか、私はそういう言い方は知りません。しかしこの看板は誰が掲げたのか、自治体ではないことは明白ですが、土地の所有者でなければ、これこそゴミそのものです。

       

確かに看板のある所の山側(看板は川側に設置されている)にはテレビが捨てられていました。
所々に竹林がありましたが、もうタケノコの季節は終わっていて、掘れそうなのを見つけたのは一つだけ、後は皆背丈ほども伸びています。面白いのは上の方だけ切ってあるタケノコを見受けるのですが、大きくなっても上の方は食べられるのでしょうか?

             

山に向かって緊急避難場所の表示、旧お寺跡地と書かれていたし、登れ易すそうだったので、興味もあって登ってみました。

       

坂の途中で、三界万霊等の石碑と六体のお地蔵さんが有りましたが、確かに建物は一切有りません。お墓があちらこちらに有り、整然としていませんが、古いものや未だ建てかけのお墓まであります。

       

ここがお寺であった事を証明するかのようにいろんな供養塔やお地蔵さんがあちらこちらと並べられています。どうせならお寺の名前を書いておけばいいのにと思ったのでした。5分ほど見て回り県道に戻ります。この県道、当初踏み入れた時は車が何台か通ってイヤやなと思ったのですが、それ以降さっぱり車は走って来ません。

             

暫く行くとまた緊急避難場所の表示、このように民家や畑の所有者の名前まで書き出していますが、旅行者には絶対に判りません。後ろは八咫烏神社、ここは八尺鏡野という地区、42号線の太田川の手前に八尺鏡野という信号があり、何と読むのかと思っていましたが“やたがの”と読むようです。書き難いからなのか咫の字は使わず、尺という字で誤魔化しています。

             

太田川が見える所まで来ました。清流と呼ぶほどではありません。ここから川と道はまた離れていきます。

             

Googleの地図に載っていた『れんげ亭』、確かに食堂のようですが休みです。この日は木曜だったのですが・・・定休日なのか、客が来ないからなのか。この時点で12時を回っています。もう一つの『あづみ野』は見つけられず、『ほんまもんの館』は木製品の展示場のようでした。

             

とうとう八尺鏡野の信号まで到着、まっすぐ海の方へ行っても何も無さそうなので、42号線に沿って下里の中心街を目指します。遠くからオークワの看板が見えるので、適当に路地を歩いてオークワに到着。食堂でゆっくり食事をしたかったのですが、オークワなら最低パンは売ってるやろうと思って来たのですが・・・

                       

破産宣告を受けていました。それなら何故串本のオークワは営業しているのでしょう。破産管財人はさっさと看板を「外さんかい!!」と言いたい、そうでなければ私のように何か買いにやって来る旅人も居ることでしょう。

             

この後、下里駅の方へ何か食べさせてくれる店はないかと探したのですが、到達したのは駅の裏側、全く何も有りません。また戻ってきて、串本のAコープの前にあるのと同じ名前のパン屋が、潰れたオークワの傍にあったので、最初はやってないと思ったのですが、行ってみると開いていたのでパンと紅茶を買い、オークワのベンチに座って昼食にしたのでした。破産管財人も店の外にあるベンチに座るなとは言いますまい。もう12時半を大幅に回っていて、食事にしたいなぁと思い始めて1時間も彷徨い歩いたのでした。

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大泰寺

2013-05-24 05:00:00 | 田舎

庄の集落を後にして県道に出ました。未だ大泰寺が何処にあるのか見当も付いていません。あまりにも遠くの景色ばかり眺めていたら、案外近くのものを見逃している場合があり、何だか不安な感じですが、県道を右へと曲がります。もう11時近く、歩きだして2時間ぐらい経っています。

大泰寺を目指していると言ってもそのお寺をよく知っていると言うことではありません。地図が大泰寺を目指すように描かれているのです。でも大泰寺はこの辺りでは有名なお寺のようですよ。

             

擬宝珠のある橋、何やらお寺か神社がありそうな雰囲気です。橋を渡ってもう少し歩くと、目の前の大木に“平維盛お手植えの椎の巨木”という案内板がありました。800年前に植えられて、この程度の木かと思うと木の成長って遅いなぁと思います。そう書くと伝説を信じているようですが、実は「ウソやろ」と思っているのです。維盛は勝浦沖で入水したとか、色川で生き永らえたとか、どちらにしてもこの地方に逃げ伸びたという伝説があります。

             

椎の巨木の手前が大泰寺の入口、“国宝薬師如来之霊場”と書かれた碑が建っていました。桓武天皇云々という由来が書かれていましたが、もう古いものらしく字が消えている部分も多かったので読めませんでした。

             

ここは境内なのか、参道なのかよく分かりませんが、お堂のある所までは遠いような感じ、途中お地蔵さんが全部で十体並んでいました。

             

5分ほど歩いたような気がしました。やっとお堂のある所まで到着、先に薬師堂、後ろに本堂が前後して並んでいます。こちらが本堂、大泰寺は臨済宗・妙心寺派のお寺だとか、出発時に通った海蔵禅寺も妙心寺派、平井で見たお寺も姫地区の海林寺も妙心寺派でした。串本の無量寺も臨済宗でしたが、東福寺派だそうです。

             

こちらは薬師堂、室町中期の面影を残しているという建築物だそうです。国宝に指定されている薬師如来像ですが、国では銘文中に阿弥陀如来と書かれていたので阿弥陀如来像として登録されているようです。

       

薬師堂より上段にあった忠魂碑や納骨堂、手前の自然石には梵字が刻まれてます。真ん中の写真は三界万霊等と書かれた碑と七体のお地蔵さん、普通六体置かれて六地蔵などと呼ばれていますが、何故七体なのでしょう。妙心寺派のなせる技なのでしょうか?花を活ける花瓶がみんな倒れているのも不思議な風景です。“等”も普通なら“塔”ですよね。右は薬師堂の扉、石に穴を開けたものを吊り下げていますが、何を意味しているのでしょう。

             

薬師堂の前の踏み石?でしょうか。普通ならなるべく平らな石を並べているのに、僅かですが角度を付けて屋根の型に盛り上げています。坂に沿うように小石が並べられていて、奇妙なのときれいなのとで見とれてしまいました。

                       

納骨堂より上にあった薬師如来像、屋外なのでこれが国宝だというわけではないでしょう。木製なのか石製なのか遠目からは判断できません。

             

20分ほど境内をウロウロしたので、そろそろ下里の駅の方へ行かなければなりません。県道を東へ向かって歩きだし、振り返って維盛が植えたと言う椎の巨木を写しました。

             

ここで熊野古道の標識、私はきっと途中で道を間違えたらしい、この場所に出てこないといけなかったのです。それなら目の前に大泰寺の入口が見えます。右方向を指している標識通りに歩くと市屋峠を経て湯川方面に行くことになります。

             

車で来たら見えるちょっと大き目の案内板、方角的には先の道標と同じ方を指していますが、私は湯川方面には向かいません。昼近くなっているので下里駅近辺で昼食をとりたかったのでした。

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2013-05-23 05:00:00 | 田舎

紀伊浦神駅に車を置いて、浦神峠を経て歩いた大辺路は約1時間で山を越えることが出来ました。降りてきた所は庄というのんびりとした集落、下山途中に庄池という池もあり、降りてくれば小さいですが庄川という川も流れていました。

             

庄をのんびりとした集落と書きましたが、どの辺りにせよここらの集落は皆のんびりとしています。でもこういう標柱が捨てられている姿は無残さを感じますし、あまり気分のいいものではありません。

             

集落まではまだ少し距離があり、このような道を10分以上歩きます。

             

歩いていると広い家、何か商いをしているのかと思いきや、『かぶと虫の家』と看板が上がっていました。誰か居てるような気配も無く、夏になればカブトムシがやって来るのかも知れません。

             

遠足でしょうか、子供たちが何かして遊んでいました。通行止めの看板のところで話した人を最後にここまで1時間15分、誰にも出合いませんでした。だいたい大辺路を歩いていて、山の中で誰かに出会うと言うような場面は今のところ一切ありません。この子どもたちはザリガニ釣りをしているのでした。置いてあった車を見ると串本町の小学校の送迎用のものでした。何もここまで来なくても、町内にもザリガニ釣りが出来る所はあるでしょうに。

       

田んぼがある所まで来ると道が分かれています。すかさず道標がありましたが、何か掲示板のようなものがあるので道標に従わずにわざわざ行ってみると、獣害用のバッテリーでした。歩いていると私よりずっと若い女の人に何処から来たのかと尋ねられたので「浦神から」と答えると、通れたの?と聞かれましたが、大辺路を歩いてきたとは言わず「来れました」とだけ答えました。

             

この辺りでも田んぼを続ける人が少なくなったのか、放置されている田んぼがた所々見受けられます。

             

私が目指しているのは大泰寺、そのお寺が何処にあるのかさっぱり分かりません。さっきの女の人に聞けば良かったと思ったのですが、もう付近には誰も居ません。この民家の庭、真ん中に煙突のようにつっ立っている木が不思議でしょ。あんなまっすぐな幹に枝が無く、葉がびっしり生えているなんて、どんな木なのでしょう?

             

左手の小山に長い階段が見え、あの階段を登るとお寺が有るのではと思ったのですが、何度も地図と見比べると大泰寺は現在地より右手に有る筈なのです。山を降りて平地になってからここまで30分以上歩いてきました。

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浦神峠

2013-05-22 05:00:00 | 田舎

先月は清水峠を通る大辺路を串本町と那智勝浦町の境から海蔵禅寺まで歩いたので、やってきていた友達がみんな帰った後に、その続き海蔵禅寺から浦神峠を経て大泰寺までの大辺路を歩くことにしました。今回は紀伊浦神駅に車を停め、大泰寺まで行けば下里駅まで歩き、JRで一駅だけ帰ってこようと思っていました。

             

9時過ぎに紀伊浦神駅に着き、海蔵禅寺を超えて歩いていくとお墓が並んでおり、そして急にこの看板、通れないとは聞いてないので、たまたまそこで作業していた人に尋ねると、途中で大辺路に入る右へ曲がるところがあるからと教えてくれました。つまり私の目指していた道はトンネルの崩落とは関係ないのでした。

             

看板から3分ほどでみろく庵という海蔵禅寺のペット用の供養塔がありました。

             

続いていたアスファルトの緩やかな坂道はここから地道に変わります。通行止めになっていた割には前から車がやたらとやってきます。

       

煙に苛まれながら炭焼き小屋の前を通り、水の流れてない川に架かった橋を渡り、橋のガードレールの案内標を確認、川の名前は田無川、水が流れてないから水無川にすればなどと考えて歩いていました。

             

ここが教えてくれた右への分岐点、看板からここまで12~3分でした。

             

ここからは今までとは違って急な登り道、浦神峠を経て4km程度の道のりですから1時間程かかると思っていました。

                       

私は半袖にハーフパンツ、サンダルといういでたち、このような山歩きには向いていないと反省しながらも、汗ばんで仕方ありません。この日は地図をコピーする時間が無かったのでリュックに地図を入れて背負って歩きました。

             

曲がり角から15分ほど登って、休平という平地に到着、ここが浦神峠でしょうか。駅から30分ほどしか歩いていませんが、汗が噴き出します。でもそんなに疲れていません。休平に到着しましたが「休みたいな」とは思いませんでした。国土地理院の地図を見ると標高147mになっています。

             

標識の隣に有った台座、願主は預西か須西、右に浦神住、左に誌焉と書かれています。

             

地図には少し奥に行くと見晴らしが良いと書かれていましたが、たいしたことはないなぁと思いました。

       

休平には休憩できるようにベンチも置かれています。田原や下里から歩いてくると疲れるだろうと思います。私は切り取り、切り取りしながら日を変えて歩いているので疲れてはいないのです。ここでも道が解り難い所では道標が置かれています。

       

珍しい苔が生えているところがありました。休平から下って20分、分岐点にやってきました。ここでまっすぐに行けと標識は言っていますが、左への道を行ってみたいとも思います。

             

左へ降りて行くとおそらくこの池に着くと思います。地図に書いてあった庄池という池だろうと思います。 

             

休平から30分、広い道まで出てきました。おそらく崩落したトンネルの道はこの道と繋がっているのだと思われます。ここからはずっと平地です。

             

ここの道標地蔵には“右ハ山みち”“左ハ大へち”と書かれています。でも右も大辺路だったのですよ。

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砥崎

2013-05-21 05:00:00 | 田舎

昨日の朝、NHKの『あまちゃん』を見る前にテレビを点けていたら、NHKが橋杭岩の隣の弘法湯を取材していました。前日から大きなアンテナを載せた車が弘法湯に停まってるとは思っていましたが、NHKの取材だとは思っていませんでした。朝の連ドラ、前の作品よりずっと面白いので毎日見ていた(このごろあまり面白くない)のでこの放送を見ることが出来たのですが、きっと和歌山だけの放送だったのでしょうね。

高浜トンネルから串本方面へ東雨、高富の集落を越え、42号線にしては長い直線道路を走ると次の曲がり角に弘法大師の青い像があります。ここには二色と言う集落があり、その集落のための津波からの避難階段が、普通山の方へ造られているのに、ここでは海の方へと造られています。国道より海側に小さな半島となった山があるのです。3年ほど前にその避難路を登ったことがありましたが当時は行き止まりでした、今は新たに階段も設けられているので、ずっと奥まで行けることでしょう。

             

私の持っている地図にこの半島の何処かに丹敷戸畔の墓があると言うので探してみることにしたのですが、地図上にプロットしていないのでいったい何処にあるのか見当もつきません。山に登るのか、海沿いを歩くのかも分からないのです。取り敢えず42号線から海側に外れて車を停めました。そして海側をずっと歩いて行くことにしました。

             

袋湾を左手に見ながら、先へと歩きます。この半島を砥崎と呼んでいます。正面にせり出した山がありますが、それを袋の緒のように見立ててこの湾を袋と呼んでいるのでしょう。こちら側を向袋とも呼んでいます。

こちら側は浅いのですが、少し沖に出ると深くなっています。船釣りやダイビングの船が行き来します。その港が山の左側の家並みが並ぶところ、昔はこの辺りに軍事施設があったようです。

       

どんどんと先は進みますが、墓らしきものは見当たりません。

             

人家を過ぎると道も無くなり、もうこうなってくると、何処かエエところは無いかと釣り場探しです。この先は深くなっているので何か釣れるかも知れませんが、釣りをした痕跡がありません。42号線脇の袋の波止場ではアジ釣りやイカ釣りが盛んなので、この辺りにもアオリイカは居ると思います。

             

半島の山に向かって聳え立つ岩、こういう岩は須江崎の岩と似ていますが、形状が小さいのでもっと歩き難いです。

             

ここは何か植物が生えていたのですね。放射能に汚染された跡の廃墟のようで気味が悪いです。

             

どんどん先へと歩いていると、見つけました。オキアミの袋です。誰かがここで釣りをしたという証拠ですが、袋を持ち帰らないとは不届きな釣り人です。

             

ここでも同じような岩が並んでいますが、海は釣りが出来るほど深そうではありません。

             

30分ほど歩いて先端までやってきました。こちらは西側、こちらでも同じような岩が並んでいます。よく見るとみんな西の方に傾いていて、決して山の方に傾いているのではありません。須江の岩はどっち向いて傾いていたのか、ひょっとすると同じ向きに傾いているのかも知れません。今度行った時確認しておこうと思いますが、磯の先端に行くとどちらが西か南か、とても判り難いのです。

             

この砥崎の西側の入り口はゲートボール場になっていて、そこからこの先まで歩いて来れるのかどうか分からないので、一周回らずに引き返すことにしました。先端からは上浦の港や串本の西側の街並み、馬坂を見ることが出来ます。

             

物凄く小さいので判り難いのですが、中央の少しだけ頭を覗かせた山の下の部分が新しい串本病院のあるところ、その左横2cmぐらいの山、コンクリートで一部塗り固められている部分の下が、よく釣りをしているのを見かける袋の波止場です。

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通り穴

2013-05-20 05:00:00 | 田舎

和深から串本間の42号線上を除いた大辺路の箇所はほぼ歩いたのでしたが、一つだけ残っているところがありました。距離にして30mぐらいでしょうか。有田を過ぎて海中公園も超えると高浜隧道という短いトンネルがあるのですが、昔はトンネルの外周を海側へ回っていたと言うのです。そして岩を刳り貫いた通り穴が残っている珍しい所があると言うので4月の帰省の折に行ってきたのですが、1枚目の潮岬全体の写真を撮るや急に電池が切れてしまって写せず、今回もう一度挑戦となった次第なのです。

             

4月に行った時はトンネルを越えてから車を停めて海岸へ降り、海岸を歩きながら通り穴へと辿り着いたのですが、今回はトンネルの手前で車を停め、通り穴の方から海へと出てみました。

             

なるほどトンネルになっています。穴の中から海中公園が見えますが、この穴を意識して正面になるように造ったのではありますまい。

                      

ポールには“大辺路(熊野古道) 通り穴(高浜トンネル横)”と書かれています。岩の前にこのようなポールを置いても42号線を走る車からは見えませんから、誰もやって来ないでしょう。

そしてこれより先には行けません。道は途中で崩落していました。先に(4月に)海側から歩いたので崩落しているのを知っていましたが、今回が初めてなら何故通行止めになっているのか不思議に思ったでしょうね。

             

これが崩落現場、きっと最近崩落したものだと思います。Googleの航空写真を見ると、ここは未だ崩落していませんし、地図などにも崩落してあるとは書かれていません。

             

このように下から見ると古くからあった自然に出来た道だったのか疑問です。この石垣や崩落現場を見るとどうも後年造った道ではないのかと思われるのです。

             

左は潮岬、手前の岩などとのコントラストとも相まって、良い景色です。

             

右は海中公園、こちらの海はずっと浅いみたいです。有田の海ってこの辺りのことを見ていたので、浅い所と思っていたのです。

             

下から見える通り穴、道が崩落していなければ、下から見ることも無かったかも知れません。

             

通り穴の下にあった穴、こちらは自然に出来たもののようですが、実際には分かりません。通るにはちょっと狭いのですが、4月にはここから上に上がりました。あるパンフレットを読むとこちらが古道であって、上のトンネルは旧の県道だったそうです。

             

穴に入って海を見ると、海中展望塔が見えます。

       

穴を通り過ぎて東側の海岸へ行けそうなので行ってみたのですが、左側の写真に写っている岩を踏んだらグラッときて、思わずひっくり返りそうに・・・3回揺られて元通りになり、結構バランスええやんと自画自賛したけど、危なかったです。

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