ぼんくら放浪記

Blogを綴ることによって、自分のぼんくらさを自己点検しています。

大師寺

2010-04-30 05:00:00 | 
駅への帰り道、バッテリーを売ってないかとヤマダ電機に立ち寄ってみました。探しているとメーカーのものではありませんが、同じ品番のものがあり4千円ぐらいで売っていました。高いのでどうしようかと迷ったのですが、またこのようなことがあっても辛いので清水の舞台から飛び降りたのでした。なのに、バッテリーを入れ替えてみると新しい電池も充電しないと使えないではありませんか。電池が切れて困ってるんやから、こんなものを売るなよな。店員も「充電しないと使えませんよ」とぐらい説明しないといけませんよね。

             

充電要のサインを見つつ、それでも数枚は撮れるだろうと思って、横になってる弘法大師の像があるという大師寺を訪れました。天寧寺とはうって変わって街中の小さなお寺でした。

狭い境内にはずらりと七福神が並んでいますが、何故真言宗の寺に七福神なのか、その関連がよく解りません。因みに石像は新しいのですが、台座は苔むしていて古いのはどういうわけでしょう?

一番端にある刀を振り上げている毘沙門天も珍しいですね。

             

こちらは空海像なのでしょうが、とても平面っぽく、立体感がありません。きっと像は昔からあるもので、台座を新しく設えたのではないかと思ってしまいます。

             

坊さんにどうぞと案内され堂内に入れてもらいました。文句を言ってるわけではありませんが、戒壇には所狭しと物が置かれ、禅寺を見てきた後だけに雑然とした雰囲気を煩わしく感じてしまいます。

             

これが横になって休んでいる空海さん、空海さんも忙しかった人ですから、横になって休むこともあったのでしょうね。
空海さんの頭を撫でて、その手を自分の頭にこすりつけたのですが、少しは賢くなったでしょうか。

             

送別会を終えて、彦根駅まで帰ってきたら、「熟れ寿司を食べよう」と誘われました。そのようなものは食べたくなかったのですが、強引な人がいるものです。結局店に入ったのですが、熟れ寿司は期待したほど旨くなく、お茶漬けを頂きました。
こうやって見るとお猪口があるので酒も飲んだのですね。明くる日は朝からとてもしんどかったのでした。

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五百羅漢天寧寺 Ⅱ

2010-04-29 05:00:00 | 
いよいよ今日からGWの始まりです。月末までに彦根の話を終わらせたいので、今日は祝日ですが、特別投稿です。

デジカメのバッテリーが切れてしまったので、ここからは携帯電話のカメラなのです。
デジカメのバッテリーは、充電式のものは長時間作動するのですが、今回のように自分のミスで充電するのを忘れたりすると、電池切れになった時に困ってしまいます。乾電池式のものは容易に取り替えることができますが、作動時間が短い上に重いのも難点のひとつです。
充電式バッテリーと乾電池のどちらでも使える機種もあるみたいですが、それをウリにするデジカメって機能がもう一つのような気がします。

             

雨は降ってないものの天気も曇りがちで、私がケータイのカメラで撮るハメになる時って、いつもこんな感じの天気で、写真もパッとしませんね。

天寧寺の本堂、仏堂の裏にあります。禅寺らしく枯山水風の石庭が設えられてあります。

             

中央の色の違った石は、はるばるお釈迦様の身近にあったインド仏跡から運んできたと書いてありました。

                  

崖っぷちに立っている樹の根元に安置されている像は何のためのものかは解りませんが、安置とは言い難いような斜めに置かれています。台座の底が欠けているのかも知れません。

                  

小さい割には存在感があって、こんな崖っぷちに置いておくのは勿体無くて、可哀そうな気さえします。

             

仏堂の本尊が祀ってあった所の丁度裏側に当るところに布袋さんが安置されています。こちらはドッシリとして、当に安置です。この像は木で出来ていますが、300Kgもあるそうで、木造の布袋さんとしては日本一の大きさだとか。

臍に触れば、ヘソクリが出来るとか、そんなたわいも無い説明がなされていました。

                  

笑っているのでしょうか、眼を見開いているので、表情がちょっと気色悪くないですか。何か悪いことをしたことが図に当って喜んでいる風に見えるのは私だけでしょうか。

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五百羅漢天寧寺

2010-04-28 05:00:00 | 
先週の金曜日、名古屋の中村ビルで共に働いていた仲間に今年3月で4人の退職者があり、その送別会が彦根でありました。私どもが彦根に行くには、1時間半、1980円もかかりますし、名古屋から来られる方はもっと時間も費用もかかるのですが、まぁ大阪と名古屋の中間辺りで適当なところといえば、彦根辺りしか無いのかも知れません。

この送別会が企画されて彦根で開催されるのが3回目、いつも半日年休を取って行っていたのですが、4時に始まる宴会には少ししか時間が無く、辺りを散策する時間すらありませんでした。
3回目にもなると少し賢くなるもので、半日年休と1時間年休を併せて取ると11時15分には職場を出ることが出来るので、今回はこの方法で行くことに決め、彦根の地図を眺めたのでした。

             

彦根には一度蕎麦打ち教室の際に寄ったことがあり、その際に彦根城は見学したので、今回はJRの彦根駅からは反対側の五百羅漢天寧寺という禅寺を訪ねてみることにしました。

彦根駅の周辺もかなり整備が進んでいて、ケーズ電気とヤマダ電機が競合して建ち並んでいました。


             

小高い丘の上に建っているこの天寧寺の仏堂です。このお堂の中に五百羅漢がいらっしゃるのです。「亡き親・子供に会いたくば五百羅漢の堂に籠れ」といった伝承もあるくらいで、五百体の羅漢の中にきっと探し求めている像があるというのです。

             

拝観料が400円、入るのに有料・無料の寺があるのはどうしたことでしょう。でもここは撮影禁止ではありませんでした。

                  

中央に釈迦像、周りに十大弟子像が並んでいて、この面の左右と壁面左右に五百羅漢が並んでいます。何処かに十六羅漢もあるらしく、全部で527体が安置されていると書かれていました。

             

遠くからの見方によっては絵が並んでいるようにも見えますが、近寄ってみるとやはりみな像が並んでいます。しかしちょっとした見物程度では、探している人を見つけることは出来ますまい。全部の像を隅々まで見ようとすると、やはり籠らなければならないでしょう。

                  

私には探しているような人がいないので、詳しくは見ていないのですが、この像などはその日に来る予定のK村氏によく似ています。

羅漢とは尊敬するに値する修行者という意味で、この羅漢像を500体も造るのは大変な作業だと思いもするのですが、こうやっていろいろな表情や表現を見ていると、造るのも楽しいかなと思ったりもするのです。

             

さて、表に戻って境内を観て回ります。先ほどからカメラが電池容量が残り少ないと警告を告げています。
こちらは井伊直弼の供養塔、桜田門外の変で惨殺された大老ですが、彦根では井伊家は尊敬されているのでしょうね。

             

鐘楼の下にではありませんが、仏足石もありました。足の裏の文様が消えかかっていますので古くからあり、参拝者が皆踏んでいったのかも知れません。

             

彦根の城下町を一望できるポイント、中央の小高い山の上に彦根城が見えますが、城を望遠で撮ろうとした瞬間に電池が切れてしまいました。前日から容量が少ないとは思っていたのですが、そのことをすっかり忘れてしまっていたのでした。

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帰途につく

2010-04-27 05:00:00 | 
多くの人波に気おされながら、今度大仏を見学に来るときは、冬の寒いときに来ようと思いつつ、来た道を引き返します。家を出たのも遅かったけど、もう3時前、未だ昼ご飯も食べていません。

南大門をくぐって少し歩くと小さな川で子ども達がはしゃいでいます。この日は暖かくて水遊びをするのにももってこいの気候でした。

             

子どもだけではなくて、外国人の大人も鹿も集まっています。というより、鹿がいるから集まってきたのかも知れません。

             

登大路通りを下るのですが、対面に氷室神社が鎮座しています。時間があれば、人がいなければ寄ってみたいとは思うのですが、この日はどちらの条件も満たしていません。

             

これから行こうとする人、もう帰る人と入り乱れていますが、結構家族連れが多かったようですが、子どもに大仏さんを見せても仏教のことが解るのかと、少し訝しんでいます。

             

往時は興福寺を見学したので、この奈良県庁は見ていませんでした。近鉄・奈良駅までもう少しです。

          

駅前に行基の像が建っていました。若い頃にも駅前にあったことは覚えていますが、東大寺に向かって登大路通りの左側にあったような気がするのですが、勘違いでしょうか?

この碑文では、行基が当時の朝廷から尼僧令に違反したしたとして弾圧を受けていたことなどは書かれていませんが、行基の知識や行動力を以って聖武天皇の考えを変えたというのは、特筆すべきことだと私は思うのです。

                  

この行基像は細くて、唐招提寺等に残るごつごつとした行基像とは似ても似つきません。

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東大寺

2010-04-26 05:00:00 | 
南大門を通り過ると大仏殿の屋根が見えてきますが、その前にもう一つ屋根が見えてきます。それが中門、金堂(大仏殿)への回廊になっていて、この門をくぐる事は出来ません。

                  

最初の写真は中門の柱の間から撮ったもので、大仏殿まで行くには右か左かどちらかへ廻って行かなければなりません。どうやら私のこの日の行程はここまでのようです。花見をせかされては、大仏さんを拝む余裕はありません。

             

帰途、「今日だけですよ!」と呼び込みがされていたのが、『聖武天皇殿特別開扉』という催し、今日だけなら時間が無くても見てみようと入ってみたのです。門前で立っている人達が何か配っていましたが、私にはくれませんでした。よっぽど信心の無い奴に見えたのでしょうね。

             

門内に入ると、目に入ったのがこの2体の地蔵さん、未だ新しいもののようですが、何となく品があります。

             

そのまま進むと・・・皆さん並んで待っておられました。これには降参です。そんなに待ってる時間はありません。でもホントにこの日だけだったのですかね。

             

同じ敷地内にあった倉風の建物、人がいない時に撮りたかったのですが、この人達いつまでもこの建物を眺めているんです。

                  

南大門に帰って、国宝の金剛力士像を見ます。人が多くて近くから撮れないので、望遠です。あまりよく判りませんが、こちらは向かって右の吽形の仁王さん。一般的な仁王さんとは左右が逆なようです。この仁王像の建立の総指揮を取ったのは運慶だと言われています。

             

鹿が私の方に近寄ってきたので、カメラを向けたのですが、間近には寄ってきませんでした。せんべいを持ってなかったからかな?

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奈良公園

2010-04-23 05:00:00 | 
興福寺の見物を終えて、奈良公園を横切るようにして、東大寺へと向かいます。私は拝観ではなくて見物なので、罰当たり者です。
この地図では何が何だかよく分りませんね。

先日NHKで『大仏開眼』というドラマがありました。土曜の夜はいつもなら酔っ払っているのですが、放送のあった2週の土曜日はお酒も程々にして、ドラマを観ました。感想を述べると、たいしたドラマじゃ無かったですね。

大仏建立のために駆り出された庶民の苦しみが全く描かれていなかったし、阿倍内親王の東宮学士となった吉備真備は当時50歳前の壮年、吉岡秀隆では若すぎたようです。

             

奈良の鹿も子どもたちの遊び相手、内心何を思っているのかは分りませんが、頭をなぜられたり、体を触られたりしても、怒る様子もありません。こうしていると鹿はおとなしい動物なのでしょうが、野山では植林の若芽を食べたりするので困った面もあるのです。

             

公園内の一角に奈良国立博物館があり、大遣唐使展が開催されていましたが、入場している暇はありませんでした。

             

その傍らに真新しい碑が建っており、宝蔵院流鎌槍発祥の地と彫ってあります。興福寺の宝蔵院がここにあったということは、その昔、興福寺の境内は相当な広さを持っていたのです。山田風太郎の魔界転生には宝蔵院流槍の胤舜が出てきていました。

             

東大寺への道に入ると、日曜日のなんばWalkの地下街を思わせるような人・人・人、せっかく古の都を訪ねて来たのに、そんな雰囲気は全くありません。

             

すぐ近くに若草山を観ながら歩くのですが、どう考えても人を観に来たようで、出直す方が賢明なようです。

             

             
とにかく南大門までは辿り着こうと、渋々歩きました。人がいっぱいで望遠で屋根の方しか写せません。東大寺の南大門は国宝です。

             

南大門の前にあった立て札に光明皇后の1250年法要が今年10月に催されると書いてありました。光明皇后は藤原不比等の娘・光明子、この娘を聖武天皇の后として奉り、安倍内親王を産んだことが始まりで、藤原家は代々娘を献上することにより天皇の外戚とする地位を利用し、朝廷での地位を確立していったのでした。

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興福寺

2010-04-22 05:00:00 | 
興福寺は天智天皇の時代に鎌足の夫人=鏡大王が夫の病気平癒を願って山背国・山階に創建された山階寺が発端で、天武天皇の時代に藤原京に厩坂寺として移転、聖武天皇が平城京に遷都した際、藤原不比等がこの地に移し、興福寺の名を冠しました。

源平の合戦が始まった頃、平重衡によって南都焼き討ちがなされ、東大寺と共に興福寺は大半を消失しました。その後復興しますが、現存の建物は鎌倉時代以降のものとなります。

江戸時代の享保2年にも火災があり、その時消失した講堂や南大門は、現在に至ってやっと復興中なのです。

             

復興中の講堂の前を通って西の方角に小さなお堂があり、これが南円堂。参拝者なのか見物者なのかは判りませんが、結構人がいて、どうも日本語を喋っている人の方が少ないような感じです。

             

南円堂の左手に階段があり、その先に池が見えますが、位置的に考えればおそらく猿沢池だろうと思われます。あまり時間が無いので降りては行きませんでした。

             

南円堂から眺めた東金堂と五重塔、両方とも国宝です。五重塔を真っ直ぐに捉えると、金堂が斜めになってしまいます。写真って難しいものです。

                  

これでも最下部に人の頭が写っていますが、本当はもっと下から撮りたいのです。

休日でなければこんなに人はいないのでしょうか?それとも遷都1300年ブームで最近は訪れる人が絶えないのか、故加藤周一氏は『三題噺』という本の中で(京都の話ですが)春4月には市内の名刹で人のよく知っているところには近づかないと語っていました。

案内図にも無いのですが、こう見ていると本堂がありませんね。まぁ急いでいるので東金堂と五重塔の間の道を東へと進みます。次は大仏さんを観に行きたいのです。

             

するとすぐに『法相宗 興福寺』と刻まれた石柱のある門がありました。それならこれが興福寺の本堂ではありませんか。でも誰も知らん顔をして先へと進んでいきます。

             

門の中には入れそうもありませんが、門の外からの様子です。

             

奈良公園の至る所には鹿がのんびりしています。山で鹿に出会うと一目散に逃げていきますが、この公園の鹿は天然記念物として保護されていて、人を恐れていまません。こういうことも遺伝するのでしょうか?
そう言えば、この間、奈良公園の鹿を弓矢で射って捕まった人がいましたね。金に困って、山で鹿を撃とうとしたら当らなかったので、ここの鹿なら射てると思ったらしいけど、安易というか、バカとしか言いようがありません。

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『せんとくん』がやってきた

2010-04-21 05:00:00 | 
JR尼崎駅に『せんとくん』がやってきました。いやわざわざ尼崎駅にやってきたのではなく、北新地駅でも見かけたし、きっと大阪駅や三ノ宮駅、あちらこちらの駅にも姿を現していることでしょう。土曜日にはNHKにも出演していました。

                  

『せんとくん』があちこちで姿を現していると言っても、中に入っている人が同じ人だとは限りません。『せんとくん』はきっと酷使されているのではないと思うのです。

それに釣れられて行ったのではありませんが、先日日曜の夜桜の昼に奈良に行ってきました。

             

ここ数年は日本の古代史に関する小説や論文を読んでいる私ですが、中臣鎌足以来脈々と日本を支配し続けた藤原家の建立した寺、興福寺を一度見ておきたいと思ったからです。一度と言っても、そんなに遠くない奈良のことですから、小さいときに来ていたかも知れませんが、興福寺の由来など知らなかったのですから、きっと興味も無かったのでしょう。

近鉄奈良駅から登大路通りのゆるやかな坂道を登ると、5分も歩かないうちに奈良公園の一角に興福寺への参道が右手に現れます。

             

参道を歩むと真っ先に見えてくるのが東金堂と五重塔、境内は広いので人はまばらに見えますが、参道などは広くないので人でごった返した雰囲気です。

普通のお寺では金堂は一つなのですが、興福寺には東と西と中の三つの金堂があるのです。

                  

3枚目の写真では五重塔がピサの斜塔のように傾いて写っているのですが、これは広角レンズのせい、ちゃんと撮ると真っ直ぐ建っているのです。

             

行ってみて知ったのですが興福寺は只今調査復興工事中で、全ての建物が見れるわけではありません。平成30年の落慶予定とありますが、まだ8年先のこと、私が生きていることやら?、天皇が亡くなって年号が変っているかも知れないのに、何故西暦で書かないのでしょうね。

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京セラドーム

2010-04-20 05:00:00 | 大阪にて
先の日曜日、何もすることがないのでTVで横浜VS阪神の試合を見ていると、当然といえば当然なのですが、金本選手がスターティングメンバーから外れていましたね。きっと前日のスローイングが問題だったのだと思うのですが、いつも緩い球を投げていて、急に速い球を投げようとすると、ボールを持ちすぎてあのようになってしまうのです。

内野への返球をずっと緩く投げていたというより、そうしか出来なかったのですから、プロとしては出場できなくて当然なわけです。あれなら私より投げられていません。

連続フルイニング出場が1492試合で終わったわけですが、この分では連続出場は衣笠選手の2215試合に及ばないかも知れません。金本選手の出場記録1492は、丁度私たちが習ったコロンブスがアメリカ大陸を発見した年と同じ数字ですね。クイズに出ても覚えていられます。

さて先週火曜日、京セラドームへホークスVSバッファローズの試合を観にいってきました。

通勤通りにJRで大阪へ行き、地下鉄に乗り換えてドーム前千代崎で降りると、ピタパを使ってるので無料で行けるのですが、家まで帰るより時間がかかります。
阪神電車で行くと特急に乗れれば10分程度で到着しますが、運賃が320円要るのです。三宮からドーム前までは400円、尼崎~三宮は280円ですから、如何に尼崎~ドーム前までは割高か分ります。

まぁ当然阪神電車で向かったわけですが、尼崎で買い物をしていると遅くなってしまいました。到着した時は2回の表、未だホークスは1-0で負けていました。でもすぐに逆転したのですが・・・ご覧のとおり乱打戦、逆転に次ぐ逆転です。

             

オーティズの打席です。この後2塁打を打って、次打者の小久保のヒットで生還。

             

その小久保が打席に入るところ、ユニフォームのズボンが短めになっていました。オーティズが生還する間に2塁まで進み、次打者・松中の2塁ゴロで3塁へ、次打者・多村の外野フライでタッチアップ、差を2点に広げました。

             

その多村、なんと生年月日が隣に座っていた長男と1日違い、長男曰く「(多村は)もっと歳取ってると思とった」と。

             

6回途中から登板した摂津のフォーム、去年のホールド王であり、新人王です。

             

ジェット風船も解禁されました。今までレフトスタンドの応援の方が多かったけど、最近はライトスタンドの応援も増えてきましたね。今年のスタートはオリックスの調子も良かったですからね。

             

カブレラやT岡田が調子良くて、バッファローズの『いてまえ打線』が健在ですね。3回にはアベックホームランが飛び出して、一時は危うかったものの、最終的にはホークスの勝利です。もう少し早く終わって欲しかったけど、満足して帰れます。

             

帰りの京セラドーム、電気が殆ど消えています。

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平家物語の本の中に

2010-04-19 05:00:00 | 読書
イヤなものが2回続けて入っていました。何故このようなしょうも無いものを入れるのか、中央公論社は読売新聞社とグルなのでしょうか。

             

こういった調子の本を読む人の中に、どれ位のジャイアンツファンが居ると考えているのでしょう。橋本治氏がジャイアンツファンであり、是非入れてくれと懇願したのなら理解のしようもあるのでしょうが、その辺りのことは判りません。

             

東京や片田舎の書店で売られている本に入れるなら納得する人も多いと思うのですが、買ったのは大阪のジュンク堂ですよ。このようなムダをするから世の中おかしくなっていくんですな。

           

いやはや、ジャイアンツファンには垂唾の写真なのかも知れませんがねぇ。

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