ぼんくら放浪記

Blogを綴ることによって、自分のぼんくらさを自己点検しています。

茶臼山

2014-04-30 05:00:00 | 大阪にて

大阪市立美術館の北に茶臼山という小さな山があり、古墳だと言う説と古墳ではないと言う説がせめぎ合っているようです。周りには河底池という堀のような池が有り、古墳の雰囲気は確かにあるのですが、埋葬品が出ていないのです。その埋葬品は四天王寺に伝わっていると言う説もあり、ややこしいのですが、茶臼山は大阪冬の陣で徳川家康が陣を築いたところ、そして翌年の大坂夏の陣では真田幸村が陣を敷いたところで有名です。大坂夏の陣は1615年5月7日ですから、来年400周年を迎えるわけです。

             

美術館を出て右へと道をとるとすぐに河底池に囲まれた茶臼山が見えてきます。山を右手に見てまっすぐ進むとやがて山への登り口が見えてきます。

               

山と言ってもせいぜい10m程度の高さですが、上町台地の上にあるので海抜はかなり高いと思われます。山頂の写真と反対側に降りる階段が有ったので、階段を降りて広場から山を写してみました。

             

400年前にこの辺りがどんな風景だったのか知る由も有りませんが、この絵によると下が北で上が南、幸村隊は茶臼山、その裏の堀越神社から四天王寺へと陣を敷き、家康側は現在のあべのハルカスからアポロビル、ルシアス方面に陣を敷いていたことになります。だけどこの絵はおかしい、茶臼山・堀越神社・四天王寺の位置が正確なら、JR天王寺駅はもっと上、つまり南の方に描かれなければなりません。いやもっとおかしい、JR環状線は天王寺付近では南北に通っているのではなく、東西に走っているのです。そうなれば徳川軍はハルカスの方ではなく、通天閣の方に陣を構えていたことになります。これはあくまで、幸村陣営が図の通り茶臼山・堀越神社・四天王寺に沿って陣取っていたことからの推察です。

       

河底池には美術館方面に向かって橋が架かっています。この橋を和気橋と名付けられており、その訳は788年に和気清麻呂が河内湖や大和川の排水と水運のために上町台地をここで開削しようとして失敗した跡地と言われているからだとか。失敗したのに名付けるなんて変ですね。

                       

サクラはすでに散ってしまいましたが、山には黄緑色の新緑が眩しく、天王寺公園にはあちらこちらでツツジの花が真っ盛り、天王寺公園は広いので(茶臼山も公園内の一角)あらゆるところからハルカスが眺められます。ハルカスに登るためのチケットも当日券が発売されるようになりました。こんな天気の良い日には登ってみたいものですが、春は遠くが霞んでいて、おそらく西の六甲山系も東の生駒山系も南の金剛・葛城山系も観ることが出来ないでしょう。

             

新世界まで戻ってくる手前、動物園の入り口ですが、天王寺動物園は来年100周年を迎えるようです。この動物園に最後に来たのは、三男が共同保育所のお別れ遠足の時だったと記憶していますから、かれこれ30年前になります。この日もブリッジの上から遠足の子供たちの姿がたくさん見えていましたが、中身も随分変わったことでしょうね。

山の神仏

2014-04-28 05:00:00 | 展覧会

先週後半からは良い天気が続き、何処かへ行きたいとは思いつつも、電車や車に乗って遠くへ行きたいとは思わず、手軽に行けるところは無いかと考えていたら、ふと野球観戦に行った時に地下鉄で大阪市立美術館のポスターを見たことを思い出したのですが、いったい何の催しだったかは思い出せず、ただ「行かなアカン」と思ったことだけが頭にあったのを思い出したのでした。早速、ネットで何を催しているのか探ってみると、『山の神仏』という特別展をやっていました。サブタイトルは『紀伊山地の霊場と参詣道』世界遺産登録10周年記念というもの、確かに行ってみなけりゃなりません。



自転車を漕いで天王寺まで行ったのですが、自転車を停めておく所が無いので、新世界まで降りて、初めて動物園側のゲートからの入場しました。動物園を跨ぐブリッジを渡っていると右手にあべのハルカスが見えます。ブリッジを渡り終えて券売機で入場料を払ったのですが、電車の切符、食堂の食券みたいなものが出てきたのでガッカリ、展覧会のチケットってこんなんじゃないと文句を言ったら、係りの女の人が何か言ってました。



吉野・熊野・高野と三つの区域に分けて、紀伊山地の霊場を紹介しようと言う試みのようです。熊野はあっちこっちと行っていますが、高野山と吉野は何度か行ったことがあるものの、大峰山方面には行ったことがないし、高野山手前のこの展覧会でよく出てくる丹生というところにも行ったことがありません。



館内は撮影禁止なので、ここからは2300円も出して買った図録の写真を撮ったものです。一つ目は奈良の如意輪寺にある重文・蔵王権現立像、二番目は熊野速玉大神坐像で国宝ですが、速玉大社に行っても見たことがありません。三番目が藤白神社の薬師如来坐像、四番目は金峰山寺にある役行者坐像です。



奈良の喜蔵院にある天狗立像、背中にある羽根の形は何処かで見たような・・・南海ホークスの球団旗の鷹の羽根に似てると思ったのは私だけでしょうか。

          

左の写真はいずれも速玉大社のもの、右側が伊邪那美神坐像、左が伊邪那岐神坐像、伊邪那美神の方が少し早い年代のものらしい。真ん中が空海を高野山へ導いたと言う狩場明神像、丹生狩場神社に有ります。右の絵は那智参詣曼荼羅図で、速玉大社所蔵ですが、似たような曼荼羅図が他の寺社にも保管されています。全景を写せたわけではありませんが、右上から流れ落ちる那智の滝、下部の鳥居(上段しか写っていませんが)が浜の宮、ですからその辺りに補陀落山寺、左上に阿弥陀寺が描かれているようです。



受付で貰ったパンフレットの中身、吉野・大峰地域では厨子に入った蔵王権現や役行者に仕えた前鬼・後鬼が、熊野三山では那智参詣曼荼羅図の他に那智大社の女神坐像、どう勘定しても13体ある熊野十二社権現懸仏、熊野本地仏曼荼羅図、藤白神社の阿弥陀如来坐像が、高野山では狩場明神像の他に重文の弥勒菩薩像、高野山参詣曼荼羅図、金剛峯寺所蔵の
重文・不動明王立像が紹介されています。この不動明王は合体不動と言われ、空海が半身まで仕上げると春日大社からもたらされた半身と合体するとピタリと合ったという説明がありましたが、どんなに見ても接合したような部分が見つかりませんでした。

           

山の神仏とは関係ありませんが、この手拭いが美しかったので、ロビーで図録と一緒に買いました。太刀魚をデザインしていますが、“紀州てぬぐい”と書かれていると思ったのに、よく見ると“てめぐい”ではありませんか。



パンフレットの表紙、国宝の熊野速玉大神坐像の他に和歌山の三谷薬師堂というお寺の女神坐像と、奈良の櫻本坊というお寺の重文・役行者坐像が載っています。美術館の受付であの切符や食券みたいな入場券を渡すと、正式なチケットの半券をくれました。この半券でハルカスの東大寺展の入場が割引になるようです。ところで気になってるのですが、奈良の櫻本坊って何処に有るんですか、一度尋ねてみたいと思っています。

4月20日の釣り

2014-04-25 05:00:00 | 田舎

翌20日、日曜日は雨の予報、私はもう釣りに出るのはイヤだったのですが、たまにしか来れないT中君や三男たちのために、カッパを来てでも出なければなりません。前日の夕方には今回3回目の乗船となるT-YA君も合流、5人で6時に出船でした。6時の時点では未だ雨は降っておらず、このまま降らずにと願いたかったのですが、結果的には降らずにおいてくれませんでした。前日から知ってる船頭に「明日は風がきついで」と言われていましたが、雨にばかり気を取られ、そんなことはあまり気にはなっていないのでした。

ところが、その風のきついこと、船が思ったように曲がれないほど風が船の方向を変えてしまうのです。先ずは橋杭岩を目指せと言うのですが、風は東から吹いており、風上に向かって走るものですから、スピードも出ません。やっとの思いで橋杭を越えて、エンジンはかけたまま船を流しますが、風の影響であっと言う間に串本港の手前まで流されます。エンジンかけて一所懸命橋杭まで走ったのは何だったんだという感じです。これでは釣りにならないので、風裏になる猪喰鼻の浦へ移動しましたが、芳しくありません。

             

猪喰鼻の東浦のそのまた東の浦にも移動しましたが、テンヤで釣っていた人は誰も釣れず、一人ジギングをしていたT-YA君にアタリ、それはなんとマルハゲだったのでした。これで私以外の人は何某かの魚を釣ったことにはなりました。

シラサギの集団が磯に集まっていたので写真を撮ろうとすると、ここで電池切れ、三男は充電器を探しても見つからず、持ってこなかったのでした。一番上の写真はスマホで写したものです。

暫らくして私にアタリ、でも10cmぐらいの名前も知らない赤い魚でした。続いてまたアタリ、でも20cmぐらいのイソベラ、わざわざ船に乗らなくても釣れます。でも続けてアタリが有ったので時合かとも思ったのですが、それ以降ピタッとアタリは止まってしまったのでした。

あまりにも釣れないので、白野港から表に抜けようと思ったのでしたが、通夜島と大島の間の水道まで近づくと沖で白波が立っているのが見え、こりゃアカンと思って、引き返します。テンヤではあまりにも釣れないので、カゴ釣りでもしようと用意をしたのですが、2回ほど投げても何のアタリもないので、雨にも濡れていることですし、皆さんはもう帰ることにしたのでした。ところが南防波堤に船を付けようとしても、風の影響で船が流され、思ったところに舳を持って行っても、すぐに右へと流されてしまうので、船と船の間に入れることが出来ません。結局、元繋いであった場所には入れられず、一番左端の船に繋ぐような形になったのでした。

             

スカリに入れておいたトラフグとアナゴは未だ生きていました。何故だか釣った本人のマッサンはトラフグを持って帰るのを辞退、まぁ毒がある魚ですから素人には捌くのは怖いでしょうね。三男が貰って、天然トラフグのてっちりは我が家で頂きました。この日一人釣ったT-YA君もマルハゲを辞退したので、トラフグだけでは足りないので丁度良かった。アナゴはT中君の好物とかで彼がガシラと一緒に持って帰ったのでした。

土曜日に初めて燃料を入れました。コスモのガソリンスタンドから車で入れてくれると聞いていたので行ったのですが、漁協で入れて貰うよう言われて、漁協の給油所へ行くと、先に軽油を入れている船が係留していて、その後ろに着け順番を待ったのでした。燃料は軽油だと確信していたので先ず100ℓ入れて貰い、11500円ぐらいと言うので、200ℓ入れて貰ったのですが、免税券持ってるかと聞かれ、そんな券は聞いたことも無かったので、無いと言うと値段は29000円も取られてしまいました。

私は22日に病院へ行かなければならないので、三男と一緒に帰ったのですが、帰ってしまえば病院のことなどすっかり忘れてしまって、当日11時ごろに気が付いて、急いで病院まで自転車に乗って行ったのでした。病院でレントゲンを撮って診察してもらったのですが、石はかなり減ってるとレントゲン写真を見ながら医師は言うのですが、私が見てもよく分かりませんでした。次回は7月1日、2ヶ月も先の事ですから、また忘れるんじゃないかと心配しています。

明日からGWが始まりますが、ソフトボールが有るのですぐに串本へ行くわけには参りません。月・火は雨だという予報なので、30日辺りから行くことになりそうです。

4月19日の釣り

2014-04-24 05:00:00 | 田舎

先週の木曜日に下里に行き、翌日は雨、昼からは止むと言う予報だったのですが、夕方まで霧雨のような雨がずっと降っていました。土曜日には三男たちが釣りにやって来る予定でしたが、雨が長引くと波が残るのではないかと心配していたのです。朝5時ごろには着く予定だと言っていた土曜日の朝、遅れてはいけないので、5時前から起きて朝食をとっていたら三男から電話「後一時間ぐらいで着くわ」とは、いい加減な奴です。結局、出港したのは7時過ぎ、先ずは橋杭岩の方へと走りましたが、潮が濁っていたので、猪喰鼻を回った浦に移動しましたが、ガシラ狙いで頑張るのですが、一向に釣れません。何処へ行こうかと迷いましたが、出雲の双子島が大きく波を被っていたものの、通夜島の西の磯は波を被っているようではなかったので、何とか行けるやろと思って、大島の表に出、臼島の西側の浦で釣ろうと考えたのでした。

             

1月に釣行した時よりも波はマシでしたが、T中君は船酔い気味、船を潮に任せて流していたのですが、潮はあまり流れている様子はなく、ここでも釣れません。私はここで何度かアタリがあったのですが、食いが悪いのか、エサの胴の部分だけ喰われてしまうのです。何処か釣れるところは無いのかと思い、樫野漁港を越えて、ウキツ崎方面に向かったのですが、釣れそうな気配が無いので、古座方面へと方向転換、箱島と九龍島の間を流すことにしました。

             

12時前になって最初に魚を掛けたのは三男、何とアナゴです。こんな所でアナゴが釣れたのは初めてですが、何が釣れるのか分からないのが釣りの楽しみの一つでもあります。糸が前に向かって出るように釣座を構えるので、皆が左舷側で釣っています。船が左に傾くように思えて仕方ありません。韓国では修学旅行生などを乗せた客船が転覆したニュースを見たばかり、この日は全部で4人乗っていましたが、操縦している私もどちらかと言えば左舷よりに座っています。

             

次に魚を釣り上げたのは、今回初めて私の船に乗った三男の友人のマッサンと呼ばれる人、今度は何とトラフグです。通常なら釣れるはずのガシラが釣れませんが、まぁ珍しいものが釣れる日だったのかも知れません。

             

12時を過ぎて三男にまたアタリ、今度は30cmぐらいのマダイでした。T中君が言うには「チョットはマシなチャリコ」だとか、そういえばT中君は未だ釣れてないのです。

             

暫らく鯛島の横なども流しましたが以降アタリが無くなったので、再び橋杭方面へ移動、橋杭と大島港の権現島を結ぶ線上を流しているとT中君にアタリ、やっとガシラを釣り上げたのでした。橋杭岩の延長線上はきっと岩盤が連なっていると思います。3月4月は磯でも釣れない季節、船に乗ってもあまり芳しい釣果は得られません。私は何も釣れず所謂ボーズというヤツでした。

下里神社

2014-04-23 05:00:00 | 田舎

水路観測所から降りてきたのが12時半ごろ、昼ご飯を食べないといけない時間ですが、下里駅近辺では食堂などは見られず、前回買った潰れたオークワの横に有ったパン屋へ行こうと思いました。オークワが潰れたのでもうパン屋は無くなっているかと思いもしたのですが、オークワの建物は未だそのままでしたし、パン屋も未だやっていました。こんな所へパンを買いに来る人がそう多いとは思えませんが、どうなんでしょう。串本のAコープの前にあるパン屋と同じ名前だと思うので、チェーン店なのかも知れません。

             

新宮方面へ行く時にはいつも左に見えていた神社、いつかは寄ってみようと思っていましたが、車を走らせているとこんな所で停まりたいとは思わないのです。オークワの駐車場に車を停めて、パンを食べながらここから歩いてもあの神社が近くにあるのではないかと考えていました。

       

考えた通り、パン屋の前の道を北へ向かって歩くと、すぐに42号線と交わる信号機が有り、右にコメリ、左に神社が見えます。境内に入ってみるとこの神社少し変わってます。まず最初にある社は賽銭箱も無く、扉は閉ざされたまま、たいていの神社は先ず拝殿が有るのが普通です。裏に回ると拝殿があるのです。拝殿の手前左に護国神社があり“英霊よふるさとで安らかに”と書かれた柱が立っていました。A級戦犯を祀る靖国神社とは考え方が違うようです。

             

「国のために命を犠牲にした英霊たちに哀悼の誠を」と言いながら靖国神社に参拝する閣僚たちは、全国に有るこのような神社にも参拝したらどうかと思うのです。まぁそのように考える殊勝な閣僚など居ないでしょうが。

                    

拝殿の右隅には猿田彦尊の石碑、享保元年(1716年)9月4日と素人が彫ったような字も見えます。

水路観測所辺りから、デジカメの電池切れのマークが点滅し始め、これはヤバイ、今回は充電器を忘れてきています。土日の釣行時に電池切れになってしまってはアカンと思い、三男に探してもらいましたが、見当たらないと言う返事、来るまでに探しておいて、持って来ることが出来るよう期待をしていたのですが・・・

下里水路観測所

2014-04-22 05:00:00 | 田舎

いやはやこんな所にサーフィンの隠れ里が有るなんてなどと考えながら、海岸と別れて山への道を登って行きます。暫らく歩くともう汗ばんでくるような陽気、つい先日カゼをひいてしまうような寒い日があったことを思うと、暖かくなって良かったとしみじみ思います。この日ぼたん荘へ行って、久し振りに体重を量ると68kg、働いていた頃より4kg、働かなくなって体重が増えた頃からすると6~7kgも減っています。手術のせいなのか、カゼのせいなのか、それとも節制のお蔭なのか、どれだか判りませんが、これはなかなか良い傾向です。

       

暫らく登って行き「何か臭いな」と思っていると牛舎が有り、全部で6棟、カラスがやたらと飛び回っています。ここで飼われている牛は熊野牛として売られるのでしょうか。途中、『お知らせ』と書いた看板がかかっており、“ひらみの畑で農作物を荒らすものあり。見つけ次第警察へ連絡してください”と書かれています。何故これがお知らせなのか、よく理解できませんし、警察に連絡してくれと言われても、荒らしているのか、耕作者なのか私には判断がつかないではありませんか。

             

10分ほど登ると空が開けて来、アンテナのような物が見えてきました。目の前に水路観測所が有るんだと思ったのですが、それは間違いでした。

             

そこにあったのは和歌山県漁業無線局と書かれた看板、要するに漁業無線局なのですが、これって県の管轄だったのか、それとも私が働いていた電電公社の管轄では無かったのかと、今更ながらどうなんだろうと疑問が湧いてきました。というのは、働いていた電報局では何度も漁業無線局宛の電報を目にしていたから、要するに局同士のやり取りだと思っていたのでした。

             

無線局の前の道を歩いていくと、天文台みたいな建物が見えてきました。これが下里水路観測所の建物です。でもここからは海を見渡すことが出来ません。どのように水路を観測するのか、よく理解できませんが、一般公開もしているので入っても良いと思い、建物の中にも入ってみましたが、誰も出てきてくれません。靴を履き替えて上がるよう書いてありましたが、勝手に上がっても何も解りませんから、玄関で暫らくじっとしていました。

                  

誰も説明してくれないなら居ても仕方ありません。パンフレットだけ貰って外に出ました。パンフレットを読むと水路の観測と言うより、航路の観測です。天体の位置を観測し、船や飛行機の現在位置を求める仕事をしていたとあり、今は海図の作成などの基礎データとなるレーザー光を使った人工衛星の測距観測を主に行っているとか。この下里水路観測所は本土の基準点になっているのだそうです。右の写真が本土基準点を示したもの、北緯33度34,6分、東経135度56,2分、標高63mとなっています。

             

天神社に車を停めて歩いたのですが、車でも登って行けます。私は往復50分ぐらいで海の見える位置まで戻ってきました。下里が本土の基準点となっているなんて、全く知りませんでした。あくまで基準点であって、中心点ではないので勘違いしないように。

天神社

2014-04-21 05:00:00 | 田舎

去年の今頃は熊野古道の大辺路を辿って、串本町内である田子~田並~有田を探索し、袋から古座・田原にかけては昔歩いたことがあったので飛ばし、那智勝浦町に入って浦神から大泰寺のある下里まで行って、一旦休憩となったのでした。今年は2月は用事で一泊だけ、3月にもこちらに来ていなかったし、あの頃頼りにしていた手書きのマップが見つからないので、未だ続きを歩いていません。そろそろ歩いておかないと、また暑くなってきて歩くのがイヤになってしまいそうです。2月に海上保安署に行った時に下里に水路観測所が有り、一般人も見学できると書いてあったので、金曜日は雨が降る予報だったので、前日の木曜日に行ってきました。

             

15日に来て以来、当日は快晴だったのですが、16日も17日も天気予報は晴れなのに花曇りというか、隣の国からの贈り物に拠る曇り空というか、すっきりしない天気なのです。
下里水路観測所へは、地図に依ると八咫鏡野の信号を南へ折れ、ぶつぶつ川を探した際に渡った橋を東に進み、下里駅を超えて暫く行くと南へ曲がるというコース、でもその南へ曲がるという道がよく判りません。一旦は南へ曲がってみたものの先端は工事をしているようで、行き止まりかと思われたので、引き返したら太地の街の手前まで行ってしまい、また元の道まで戻り、そこをもう一度南へ行くと工事中の手前で左へ行く道が付いていました。何処をどう走っているのか、ナビの付いてない愚車は不便です。ともかく交差する道があっても広い方の道を進んで行くと目標にしていた天神社があったので、そこへ車を停めました。

             

天神社は天の神社なのか、天神の社なのか、判断し難いところですが、鳥居を見ている限り、梅鉢の紋が付いていたので、ここは天神の社なのでしょう。下里は那智勝浦町内であり、この辺りは天神社に因んでいるのか天満地区と書かれていましたが、那智勝浦町にはそれこそ紀伊天満というJRの駅が有るように、天満という字名が付く集落が有るのです。ややこしいのに何故こんなことが罷り通っているのでしょう。

               

天神社のすぐ傍には松林があり、林を抜けると海が開けています。この湾を玉ノ浦と呼んでおり、昨年行ったぶつぶつ川の近辺の玉ノ浦海水浴場は、この前の半島を回った向こう側になります。サーフィンを楽しんでいる人を数えると9人いました。

             

海に沿ってずっと歩いていると、海の家みたいな店も有り、9人どころではないぐらいの車が停まっています。サーフィンをしていた人達はここに車を停めたのではなく、天神社の松林を抜けたところにある広場に車を停めていたと思うのです。ここに車を停めている人達は何処で何をしているのか、釣りに出るような船が停泊する港はこの近辺には有りません。

             

海を見ながら歩いていると、今頃からサーフィンを楽しむ人が居るのが納得できるような波が次から次へ押し寄せてきます。そんなに大きな波ではありませんが、確実に波に乗れるような波が数回に一回は押し寄せるのです。この湾の地形がこういう波を呼び寄せるように出来ているのでしょうね。穴場的な存在なのかもしれません、食べ物を売ってるような店さえ無いのですから。

             

松林に落ちていた大きなマツボックリ、このようなマツポックリは、小さなマツボックリが数年かけて大きくなるのではなく、つまりマツボックリって毎年落ちるのだと思っているので、1年でこんなに大きくなるのでしょうか。

えらいことになってんで

2014-04-18 05:00:00 | 田舎

船を出して釣りを始めれば、帰港するのはこの桟橋の波止場、でも今は使えない状態になっています。昨年12月、津荷沖で座礁したクレーン船を引き上げる為に派遣された救助船も座礁してしまい、クレーン船はそのまま沈没したようですが、この船はこの波止場で陸揚げされたのでした。詳しいいきさつは知りませんが、ここにこの船が陸揚げされたのを知ったのは一月ほど前、エライ所に揚げたもんやと思っていましたが、自分で見に行ってびっくり、半分ほど解体されています。

             

この船はもう運航不能だったのでしょうか?何処か修理すれば動くんだったら、こんな無残な姿にはならないと思うのですが、船の持ち主は、もう要らんとでも言ったのか。見ているとどうも解体している人は玄人ではなく、鉄を売ってカネにしようと考えているような働き方なのです。漁船のようにFRPで出来ているんではなく、この船の主な素材は鉄のようです。

             

持ち主は鉄の塊として売却したのか、廃船処理をしたのか、はたまた勝手に誰かが解体して、鉄クズとして売っているのか、私にとってはどうでもいいのですが、ここに置かれたら私にとっては邪魔なのです。

       

仮に誰かが請け負って解体しているにしても、ひと月経ってこれだけじゃペースが遅くないですか、こんな状況なら残らず無くなるまでにどれだけの時間を費やすのか?船を何処に停めた所で、誰に咎められることもないのですが、ここに停めるのに慣れたし、車も停めて置き易いのです。

             

おまけに大島港の漁船まで陸揚げされています。私の船も船底の貝殻を取りたいので、陸揚げしてくれたらいいのにと思ったのでした。陸揚げしたら貝殻を取って、貝が着き難い薬を塗って、新しくペンキも塗り直したいものです。でもペンキなんか塗るのって相当な時間がかかりそう、そういう作業って嫌いです。

             

今回土・日と三男たちが釣りに来る予定なのですが、燃料を入れておきたいし、桟橋の西側の波止場にでも停めておくことになるでしょう、COSMOのガソリンスタンドがすぐ傍に有ります。

             

ところで自分の船、1月に南防波堤に繋留した際、両側の船に括りつけるように留めなかったので、船首が壁に当たっていたのでしょう。ガードする役目の?が半分取れてしまっています。でも他の船にはこんなん付いてないですよね。

2ヶ月ぶり

2014-04-17 05:00:00 | 田舎

15日火曜日、久し振りに姫にやってきました。前回来たのは2月13日、14日に海上保安庁から来るように言われてやって来たのでしたが、三男が車を使うと言って帰れと言うので、海上保安庁での用事を済ませた後、すぐに帰ったのでしたが、前日夜の雪でエライ目に遭った帰路でした。

あれから2ヶ月、早いものであれだけ寒かった朝晩も、めっきり暖かくなっています。特に今年は昼間の気温が高いようで、昼間なら半袖でも過ごせそうです。

             

未だ田植えは始まっていませんが、その準備は着々と進んでいるようです。姫の家の南横の田んぼは土を掘り起こしていますが、米苗を植えるには掘り過ぎているように思われます。また繰り返して、土に空気と栄養を与えようとしているのかもしれません。

       

家の前の田んぼは、一面にレンゲが咲いています。これから掘り返す作業が行われる模様です。昨年、GWに来た時、近くの家にフジの花が見事に咲いているのを見て、写真を撮っておこうと思っていたのに、気付いたら前部刈られてしまっていました。今回も同じように咲いていたので、刈られる前にと、来た日の夕方写真を撮りに行ってきました。踏切の所にあるお店にも、おそらく分けて貰ったんだろうと思われるフジの花が咲いていました。路地から出てくると西の方向、南側の家にフジが咲いていますが、手前のピンクの花の方が目立ちます。

             

でも見事に咲いているでしょ。何故、サッサと刈り取ってしまうのか、それが不思議でなりません。私が思っている以上に枯れてしまっているのか、それとも花弁が散ってしまう前に、掃除が楽なように早く刈ってしまうのかもしれません。

               

家の庭では芝桜が満開です。芝桜と言ってもいろんな色があるようです。2011年に植えたサクランボの苗木は、幹も太くなり、私よりはるか背が高くなり、2m近くに成長しています。3月初旬に花が咲くので、今年はどんな具合だったか全く知りません。一昨年虫に食い荒らされたので、葉には薬を散布していますが、定期的に散布できないのでどうなることやら、今年は実をつけてくれるのでしょうか。

引っ越し先

2014-04-16 05:00:00 | 大阪にて

先週の月曜日に正常でない体に鞭打って行ってきた長男の新居、築10年ぐらい経っていますが、殆ど誰も住んでいなかったらしい家です。実はこの物件を探すのに2月の雪が降った数日後にこの地を訪れています。安い家があるから買おうと思っていたらしく、同じ田原台でも1丁目から9丁目まで走って行き、ゴルフ場がある山の麓にある一軒家を見せて貰ったのですが、横から山が崩れて来そうですし、広いのは良いとしても、日当たりや建て付けなどの面で難の残る家でした。この辺りの1丁目の広さは大阪市内で考えるような広さではありません。とにかく1丁目の端から9丁目の端まで遠かった。それは同じような街並みを何度も曲がったからかも知れませんが、大阪なら完全に違う町名になっています。

             

2軒目に見せて貰った物件は、未だ引っ越しが済んでなく(人は住んでませんが)、家財道具が多く残っており、空になったらどうなるのかを想像するのが難しい家でしたが、日当たりだけは良好でした。ただ土地が付いてなく、家だけを買うと言うシステムで、土地の貸借契約が終了すれば、更地にして出て行かなければならないという条件が付いている家でした。

             

3軒目に見せて貰ったのが、この物件なのでした。空気を入れ替えるのにおばあさんだけが時々泊まりに来ていたと言うお家、外観は苔っぽい色で汚れていますが、中は全く新しい、琉球畳の部屋もあり、凝った面もあるけど、長男家族にはお似合いではないように思えます。

       

コンセントも使ってないし、風呂も炊事もオール電化です。この辺りは都市ガスが来てないので、丁度良いかも知れません。ゆくゆくは太陽光パネルを付けたいとも言うのですが、そのための資金を貸せと言います。もう既に手付金の250万円は貸してあります。返ってくる目途は、孫たちが働き出して、少しは暮らしに余裕が出来てからなのかも知れません。私がそれまで生きているという保証は何も有りません。人にお金を貸すと言う行為は、自分が早く死ねと思われるだけではないかと、別に思われても良いのですが、人間不信に陥る第一歩なのかも知れません。

             

裏庭に突き出たバルコニー、ここでBBQなどを楽しむつもりなのでしょうか。楽しい時間は過ごせますが、後の片づけが待っていて、それが結構辛い時間に変わるのです。その大変な片づけをしないで放っておくと、現在住んでる家のようになってしまいます。

             

まぁ何年かかって何千万払うのか、よくは覚えてませんが、払い終わったころには、この家も二束三文の値打ちしか無くなるのです。そして、金持ちが買い取って、新しく家を建て、貧乏人に高値で売ると言う、その背景には何の労働もしないのにローンでたんまり儲ける銀行があり、貧乏人が苦しんでいても少しも手を差し伸べる気は無いのに、銀行が破たんすれば国が補てんをしてくれる、日本国とはそういう社会の仕組みが絶えない国です。