ぼんくら放浪記

Blogを綴ることによって、自分のぼんくらさを自己点検しています。

フランドルの鐘

2007-06-29 05:00:00 | 大阪にて
有岡城址で見えていた鐘=カリヨンです。

JR伊丹駅からはこちらの方が近い。

     

ハッセルト・・・ベルギーの都市らしい。
この間ベルギー王立美術館展を観に行ってきたとこです。

フランドル・・・英語で言えばフランダース。
フランダースの犬じゃなくてフランダースの鐘ですか。
フランシーヌの場合はあまりにもお馬鹿さんでしたね。

   

何時になったら鳴り出すんやろ? 待ってられへん。

     

あまりにも天気が良くて、この写真を見る限り外国・フランドル地方へ来たような面持ちです。
バックのマンション2つが邪魔ですが。

     

でも振り返れば・・・JR、日本の国そのものです。




有岡城址

2007-06-28 05:10:00 | 大阪にて
尼崎城富松城を見たので、ついでに伊丹の有岡城址を見に行きました。

いくらなんでも徒歩ではつらい、JRの伊丹駅で降りたのでした。

     

この有岡城は、南北朝以来伊丹氏の居城であったのを天正2年に荒木村重が伊丹氏を滅ぼし、新たに手を加えて有岡城と名を変えました。

   

荒木村重は信長の下、摂津各地で功績を挙げこの地方を治めていましたが、家臣が石山本願寺と通じていると咎められ、信長に叛旗を翻します。

村重は天正6年~7年にかけて10ヶ月間信長の攻撃に耐えますが、嫡男のいる尼崎城へ脱出、主のいなくなった城は全滅してしまいます。

   

当時の石垣がそのまま残っていました。

   

造られた年代も違いますが、大阪城や姫路城などと比べると、非常に小さいお城です。

     

礎石跡のようですが、狭いんですよ。
このような広さのところに何人住んでいたんでしょう?

     

向こうに見える鐘の塔があるところもお城だったんでしょうね。今は道路で隔てられています。

2枚目の写真はその塔の下の部分です。

     

土塁のあった東の端から奥行きを撮ってみました。
富松城よりは広そうですが・・・。

     

漢文で書かれた碑がありましたが、何が書いてあるのかさっぱり解りません。
横に訳してくれていました。     

   


糾弾!佐川急便

2007-06-27 21:17:38 | 社会問題
320ギガのHDDをNTT-Xストアで10800円で売っていたので、Blog用の写真を溜め過ぎていて、何とかしたいと思っていた私は「おぉ!これは安い」と思い注文をしたのでした。

『品物が確保でき次第発送します』ということで、配達日時の指定は出来なかったのですが、仕方なく頼んだのでした。

我が家は皆働きに出ています。それでも家計は豊かにはなりませんが。

1回目の配達は昨日の朝10時前でした。
誰もいるわけがありません。

それでネットで配達指定を依頼したのでした。
時間指定は今日の18時~20時の間・・・辛くも在宅している時間帯はそれしかありません。

17時半に仕事が終わる私は、必死になって帰っても18時半を越えてしまうのです。しかも今日は飲みに誘われたのを断って・・・「この頃付き合い悪いのぉ!」と罵られながら、その屈辱、或いは誘惑に耐えて帰ってきたのでした。

     

帰ってみると『不在連絡票』が・・・左が昨日のもの、右が今日のものです。
今日は18時20分ごろに来ています。

20時までは配達してくれるのだろうと思って、配達の係りの人に電話しても出ません。当該配達センターも電話に出ません。いったいどういうこと?

18時~20時までの配達を希望しているのですから、1回目に来たときに居なくても20時までは配達に来れる姿勢を持ってなくてはなりません。
それが配達指定18時~20時の約束です。

私は一所懸命に帰ってきて18時40分前です。こんなことで佐川急便は配達を果たせるのでしょうか?

明日も明後日も予定があり、早くは帰ってこれません。
土・日だって忙しくしているのであります。

今まで宅配便でこんなことは無かったけどなぁ。

妖怪

2007-06-27 05:00:00 | 読書
妖怪とは、鳥居甲斐守忠耀のこと、名前の『耀』と『甲斐』を組み合わせた綽名である。



鳥居忠耀は鳥居耀蔵として、海音寺潮五郎の『悪人列伝・近代篇』に出ていた。

忠耀の父親は林大学頭、寛政の改革で『学問吟味』という中国の『科挙』制度を真似た制度を唱え、世間の奢侈を押さえる代わりに学問で優秀な者を召抱える政策を実現させた。
しかし中国で隋の時代から行われていた制度を、日本で江戸時代の末期に採用するなど時代遅れの観は紛れない。

それでも享保の改革からこの小説の舞台である天保の改革まで『学問吟味』の制度は下級武士に希望を与え、学問に勤しむ者が急増したのは悪いことでは無かっただろう。

海音寺氏はこの鳥居耀蔵を賄賂とスパイ行為の首謀者と決め付けている。
しかしこの本の著者平岩弓枝氏は、天保の改革を進めるために水野忠邦の配下に置かれ、旗本として徳川家の御為に命を擲って奔走した忠義者として描かれている。



鳥居忠耀の行った罪状として海音寺氏は・・・忠耀が洋学を極端に嫌う儒家あがりであり、自分の出世のためには手段を選ばぬ陰険な人物として

①大塩平八郎の乱の罪状作成
②浦賀海岸の測量
③渡辺崋山・高野長英等を捕らえた『蛮社の獄』と呼ばれた疑獄事件
④前将軍斉昭の寵臣・水野美濃守の追い落とし
⑤南町奉行・矢部定謙の追い落とし
⑥長崎の町年寄・高島秋帆への冤罪
⑦幕府に都合の良い上知令を見限って水野忠邦を裏切った

を挙げている。

これに対して平岩氏は一つ一つを取り上げながら、忠耀には出世欲など無かったとして、執った行動を小説化している。

さて、どちらが本当なのか・・・

ちなみに⑤の南町奉行の後任は忠耀であり、当時の北町奉行は遠山の金さんであった。


夾竹桃 Ⅱ

2007-06-26 05:20:00 | 大阪にて
せっかく咲いた職場の夾竹桃ですが、サッサと刈り上げられてしまいました。

暑い日差しを遮って、ひと時の憩いを与えてくれる影を作ってくれてたのに。

     

誰の差し金かは知りませんが、咲きたての花をムゲに刈ってしまうのはどういうつもりなのでしょう。

あたかも「わしの気に入らん奴はすぐに首を切るぞ!」と言いたいみたいに勘繰るのは私だけでしょうか?

   

けど、こんなん見つけることが出来ました。
「切ってしまえ!」と命令した人も知らんのではないでしょうか。

『阪神・淡路大震災・・・』と書き出されていますが、後は不詳です。
12年前ですものね。板に墨で書かれて、雨陽に晒されっ放しです。


ところで、こちらは名神高速道路の袂、大西町の辺りです。

     

北に向かって右側ですが、見事に咲いています。

     

左側はあんまり咲いてないなぁ。

     




生島神社

2007-06-25 05:00:00 | 大阪にて
富松町から南へ、つまり我が社のある方へ帰る道上で前述の山幹通りの手前に栗山町という町があり、生島神社の看板があったので寄ってみました。

     

驚いたことに、尼崎の祖神とあります。

     

これを読んでも祖神の由来が解らない。
ましてや、830年に朝廷の財力によって開発され・・・朝廷の財力とは人民から搾り上げた租税であり、開発に従事したのはやはり人民であっただろうから、尼崎の教育委員会さんよ、いったい何を書いてんねん。

   

造られたのは仁徳天皇の時代らしい。
けど尼崎は田能地域で弥生時代の遺跡が発見されてます。
その当時の人達だって神を祀ってただろうから、自らを祖神などと名乗るのはちとおこがましくはありませんか?

     

まぁ、この絵馬などは、富松神社の絵馬よりも随分ましですか。




富松城址と富松神社

2007-06-22 04:44:44 | 大阪にて
武庫之荘本町の東側に富松(とまつ)町があり、そこに城址がありました。

尼崎城周辺を訪れていた頃、中央図書館で富松城址があることを知りましたが、遠くてわざわざ出かけることも出来ませんでした。

いやはやホンマに、城址と書いてなければ何なのか判りません。

     

こちらは城址の南側。とあるスーパーの駐車場から撮っています。
尼崎城もそうでしたが、この辺りの城は全く原型を留めていません。

     

一応柵を施して入り難くはしてありますが、今時の子はこんな所で遊ぶでしょうか?

応仁の乱以降、細川家内の争い=晴元VS高国は最終的には晴元側の勝利になりますが、この富松城をめぐる戦いでもあったようです。

     

これは隣の家の庭なのでしょうが、富松城址より歴史の匂いがします。

更に東へ歩を進めると富松神社の参道の看板が目に入り、それに沿って歩いていくとすぐに神社がありました。

     

城址に比べると立派な神社ではありませんか。
初詣には沢山の参詣者があるのかも知れません。

     

それが証拠に大きな絵馬が・・・
しかし乱暴な絵ですなぁ。子供が猪に乗って何やら書いた旗を掲げ、棒を振り回してる絵です。

   

神社自体は落ち着いた佇まいなのですが。

   

説明では何の神を祀ってあるのか書かれていませんが、春日大社の末社とありますから、中臣=藤原氏を祀ってあるのでしょう。

     

ちょっとテカテカしすぎの感がありますね。

出世不動明王

2007-06-21 05:40:00 | 大阪にて
南武庫之荘を越えて武庫之荘本町に行くこともあるのですが、どこをどう通ったのか・・・この神社が何処にあったのか思い出せなくて、磐長姫神社と名前が判るだけ、尼崎市お得意の説明文がありません。

     

鳥居や社殿よりこちらの方が信仰の対象になりそうです。

     

狛犬と狛犬の間を相対して一直線に樹が鎮座しています。何か曰くがありそうです。

     

尼崎にはこのように至る所に水路が見られ、柵や蓋をしてないところが多くて、夜など酔っ払ってはまってしまう人がいないかと心配です。
今でこそ阪神工業地帯の中心的存在ですが、この水路の多さは昔は田んぼや畑ばかりの地だったことが偲ばれます。


     

もう少し先を行くと、何やらモダンなお寺。
いかにも電線が邪魔ですが、それが現代的なのかも。

     

お寺の傍らに不動明王、上に出世が付いています。
出世を叶える不動明王など、仏教の教えにあるのですかね。

右の紙に『誤りを素直に認めない頑固さが向上を阻んでいる』と教示されています。誰に言ってるんでしょう。出世を望む輩に薀蓄をたれているのでしょうね。

   

あまりよく読めませんが、天保6年に大阪天満の法輪寺に建立したものを1963年に寺と共に武庫之荘に移ってきたとあります。

天保6年といえば災害や飢饉がひっきりなしに起きていた頃で、人々は出世などとは無縁の暮らし振りではなかったかと思うのですが・・・ましてや米経済の破綻による商人の台頭で武家社会の方も屋台骨が揺らいできており、田沼時代に逆行したような賄賂の横行、大奥の権勢の増大など経済と社会の危機の中、片方では自らの努力によらない『出世』が氾濫していたのかも知れません。

そのような『出世』を助ける明王などまっぴらなのですが。

大井戸公園

2007-06-20 05:10:00 | 大阪にて
6月初旬初めて南武庫之荘を訪れたとき、私はこの大井戸公園を目指しました。
公園の中に古墳があるとか。

     

公園自体は大きいのですが、意外と小さな古墳でした。まぁ大阪では堺に仁徳天皇陵があるので、地方の豪族の古墳ならそれ相応の大きさなのかも知れません。

       

コフンの始末は誰の責任・・・?

     

『春夏秋冬 古墳の謎を秘める蔦』
この碑がとりわけ大きいものでもないので、この古墳の小ささが判るでしょう。

     

横でサックスを練習している人がいてて、風流なんですが下手なんです。

     

公園の中には花壇があり、この時期はバラが終わりを迎えようとしていた頃でした。


     

掃除のオバちゃんが何袋も花びらをかき集めて捨てようとしていました。
ですから写真のものは、沢山の花びらが散った後なのです。
上部の黄色いバラが綺麗そうですが、1番散った花が多かったので写しませんでした。

   

まだ盛期の花びらを見つけて撮りました。

     

バラや琵琶湖を見ると加藤登紀子を思い出す私です。

   

公園にやって来る野鳥の紹介がありましたが、こんなにやって来るものなのでしょうか?
トビも描かれていますが、尼崎では見たことがないなぁ。




OH!Presley Elvis

2007-06-19 05:30:00 | 大阪にて
西長洲町から記念公園を経て、JRを地下で渡ると尾浜町に出ます。
大西町で名神高速を越え、立花町から南武庫之荘に至っています。

尾浜町は以前から通っていたところなので、よく知っていたのですが・・・

遠くから見ると誰か居てるように見えました。

    

でも動かない・・・近づくとプレスリーの人形ではありませんか。
しかも可哀そうにも右腕が捥げている。

居酒屋の客寄せのプレスリーかと思ったのですが、どうやら手前の看板屋のものらしい。

       

もっと近寄って・・・プレスリーってこんな顔やったっけ??
『田舎のプレスリー』は吉幾三でしたね。

     

暴れ出さんようにでしょうか?しっかり紐で括られています。
靴がダサい冴えへんなぁ。

左手は丁度Cコードを押さえているようですから、本来はギターを持っていたのかも知れません。

なんだか、哀れです。