ぼんくら放浪記

Blogを綴ることによって、自分のぼんくらさを自己点検しています。

龍潭寺 Ⅱ

2011-03-31 05:00:00 | 
最初の写真は別として、こちらから入ればよかったと思った参道の入口から、つまり撮った写真の最後から並べてみようと思います。

             

まず入口に龍潭寺についての立て札がありました。読めると思うので再掲はしませんが、井伊家が静岡出身だったとは、初めての見聞です。家康は駿府の出ですから、道理で井伊家は徳川四天王の一角だったわけですね。それでも幕末には朝廷側に立って戦い、言わば徳川家を裏切ったわけです。

『勝てば官軍』という言葉があるように、幕府側が総崩れに陥ったから井伊家、あるいは彦根藩は無事だったものの、負けておればどんなお咎めが待っていたことか。『勤皇の大義』を守ったと言うよりも、先見の明があったのかも知れません。

             

参道に入ってすぐ左に観音立像、佐和山観音と記されています。左の石柱に石田三成云々とあるのが見えています。

                  

石田三成公像と記されていますが、何故この井伊家所縁の龍潭寺の境内に置かれているのかが不思議です。わざわざ三成公と主君を呼ぶような形で座っているのか、佐和山城に因んで設置したのであれば、三成公の『公』の字は要らないはずですし、お寺の参道ではなく、外の広場に設置すればいいのです。

             

三成の幾つ位の像なのでしょう。関が原の戦いに於いて40歳で戦死していますが、おそらく関が原の戦いより2~3年は前のものだと窺えます。未だ若いですが、一昨年のNHK大河ドラマに出ていた人と比べるとブッチャイクですね。

             

参道に沿ってあまり深くない竹林が並んでいます。ここのお寺は石田三成の像といいナンデモカンデモ置きたがる趣味でもあるのでしょうか?右の石ではかろうじて字は判別できそうです(能力の問題で読めません)が、左の石は何か書いてあるのでしょうか。

                  

この碑も意味不明、一番上の字が想像できません。字を彫ってますから旁の上部が欠け落ちたのではありません。明らかにこのように彫ってあるのです。一番似たのは『招』ですが、それにしてもあまりにもバランスが悪いではありませんか。

それでもよ~く見ると一番上だけではなくて、3文字とも旁の部分の上に要る“点”がありませんね。単なる手抜きでしょうか、統一させてるのでしょうか。

平成22年度も今日でおしまい、明日からは新しい年度になりますが、私にとっては格別の1年になりそうです。明日以降、今の職場には先輩と呼べる人は一人も存在しなくなるのです。

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龍潭寺

2011-03-30 05:00:00 | 
彦根の駅近くの民家で井伊神社を尋ねた際教えていただいた龍潭寺が、地図で見るよりずっと近くにありました。隣り合ってるといっていいほど神社とお寺の間には何も建物はありません。

             

ただこのような顕彰碑が建っていました。井伊直弼の嫡男・井伊直憲の業績を讃えたものですが、彦根の人はいざ知らず、私などは全くもってその人を知りません。

桜田門外の変で井伊直弼が誅された時、直憲は未だ13歳でしたが、その歳で彦根藩主に収まったのです。当時は幕府側につくか、朝廷側につくかの決断を要される時勢、藩主となった直憲には重荷だったに違いありません。幕府筆頭の家柄でありながら、藩是の『勤皇の大義』を守った彦根藩は朝廷側につき、天誅組の鎮圧、禁門の変で長州と戦い、戊辰の役には会津まで出兵し多大な戦功をあげました。彦根県知事となった後も欧米に近代国家の文化を学び、現ある彦根の礎を築いたと記してあります。

直憲死後、佐和山神社の参道に塚を建てのですが、戦後は人知れず山中に樹木の繁茂するにまか
せ孤高を守っていたのをこの井伊神社の横に移設したのだそうです。

             

さて、今日の話題の龍潭寺、境内までの参道が長く、これからも何か工事を計画しているように思えました。本堂を見学するには入場料がかかり、そんなに悠長にしている時間も無いので、境内だけ散策、このお堂は観音堂。

             

観音堂への道に小さいですが七福神が祀ってありました。

             

境内は苔生して静寂さが漂い、春近い寒さに身が引き締まるようです。

             

佛足石もよく見ないとそれとは判りません。

             

私は井伊神社の方からやってきたので、この山門から入ったのではなく、出ただけになってしまいました。私としてはそんなことはどっちでもいいのですが、門から入るのが礼儀なのかも知れません。

                  

私が入ってきた道より狭いのですが、こちらが正式な参道のようでした。後になって判るのですが、やはりこの参道から入ってくるのが正解だったとも思っています。

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井伊神社

2011-03-29 05:00:00 | 
トレーニング禁止の階段を登って長寿院へ辿り着いたときは誰も居なかった境内でしたが、あれこれ観ているうちに2組の参拝客が来られました。2組ともちっともしんどそうではありません。彼らが来たほうを見やると広場があり、そこに車が置いてありました。車で来れる道があるのを知って、危ない階段を下りるのを止め、車の通る道を歩いて下りて行きました。きっと階段で下りるよりずっと楽で危険もありません。

             

車道を下って来て出くわした三叉路、大洞弁才天の看板があります。どうやらこちらが正規のルートなのかも知れませんが、階段を苦労して登った私からすれば、こんな楽な道を登っても御利益があるようには思えません。

私は左側の道を下りて来たのですが、こちらは上り用か下り用か、道路標識が無かったので判りませんが、狭かったので一方通行のようです。寺から下りてすぐの分かれ道のところで『一方通行』と書かれた看板がかかっていましたが、その方向を示した矢印が広い道を指していたので、訳が解らず下りて来たのです。

             

三叉路の前は公園のように広く、そちらに行きかけたのですが、左を見ると鳥居が建っていました。どうやらここが井伊神社のようです。車で来たら見逃してしまいそう。

             

鳥居をくぐって一直線の参道を行くと、大きな囲いで覆われた神社らしきものが見えてきます。当に拝殿なのでしょうが、これから修復工事が始まるのかも知れません。欄間の装飾はなかなか立派です。

             

境内右側に白梅が1本、花を満開にさせていました。

             

この老木の枝垂桜が有名なようで、満開の頃には花見も催されるとか、でも神社は随分以前から荒廃が激しいらしく、訪れる人にとっては早く修復して欲しいものです。

                  

社の左前には橘の樹が植わっており、橘の木は彦根の市樹だそうで、この日飲食する彦根市勤労会館の宴会場は“たちばな”という名だったのを納得した次第です。

             

橘の樹になっていた実、どのような味がするのでしょうか。柑橘系という言葉があるくらいですから、ミカンに近いのでしょうが、売ってるのを見たことがないので美味しくはないのでしょうね。

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和歌山北港魚釣り公園

2011-03-28 05:00:00 | 大阪にて
彦根でのお話が終わったわけではありませんが、彦根に行った18日の次の日からは3連休でした。実はその連休でチヌでも釣りに古座へ帰ろうかと思っていて、撒き餌用の配合エサも準備したのですが、南紀地方は日曜日が一日中雨という予報だったので、釣行を断念したのでした。でも当の日曜日、大阪はずっと晴れ模様で雨が降り出したのは夕方近くになってから、こんなことなら行っておけば良かったと思ったりもしていたのでした。

でも今は古座から津荷へかけての低い地磯で竿を出すとなると、否が応でも津波のことを思ってしまいます。あの辺りなら防災の放送も聞こえるでしょうが、樫野の地磯なんか防災の放送は聞こえないのじゃないかと思って、磯の危なさよりそちらの方に背筋がゾッとします。

             

三男が土曜日の夜、「古座へ釣りに行かんのやったら月曜日にT中君と和歌山北港へアジ・サバ釣りに行かへん?」と聞いていました。いつものことながら生返事をする私ですが、竿とリールを借りようと思って日曜の朝にA竹君に電話をかけたら、自分も行きたいと言うので、俄然行く気になった私ですが、夕方からの雨で意気消沈、朝になっても大阪は雨が激しく降っていました。

             

三男は朝の6時まで仕事なのでしたが5時過ぎに電話があり、こんな雨の中釣りに行ったT中君から「海はうねってるけど、雨はたいしたことない」と言ってるのでどうする?と聞きます。A竹君に電話して行く事を確認し、6時半に出発しましたが、雨脚は強まるばかりでした。

             

ところが和歌山市内に入ると雨は小降りに、北港魚釣り公園に着いた頃には雨は止んでいました。寒いのもあって合羽だけは皆着ています。

このブログを始めて5年を経過していますが、和歌山北港の記事が一つもありません。ということは随分長い間、この魚釣り公園には来ていないということになります。確かに久し振りで道も忘れてしまっていました。

             

朝早くから来ていたT中君、朝早い時間に竿を出したせいなのか、長い時間釣っていたせいなのか・・・ちょっといいサイズのメバルを釣り上げていました。

             

こちらA竹君の釣果、サバも小さいけど、メバルも小さい。この魚釣り公園では魚種を月別に分けて、ランキング5位までを表彰するというシステムがあり、3月の魚種はメバル。

公園の係員らしき人が来て、釣況を聞き回っていて、大きいのが釣れたら帰りに公園の事務所で寸法を測ってもらうよう言ってくれました。

             

これが事務所で測ったときのもの、23,8cmあり、当時のランキングで4位に喰い込みました。後10日間でこれより大きいのが2匹釣れん限り、T中君は5位以内の入賞ということになります。

             

私達も釣れないし、周りも釣れてる気配がないので、昼ごろには帰ることにしました。雨はすっかり止んでいましたが、大阪に入ると又雨が降り出してきました。

             

実は私、一行の中で一番左寄りで釣っていたのですが、1匹も釣れていません。なので写真係になってしまったのですが、私より左側で釣っていた人たちは全く釣れてませんでした。私の右隣はA竹君、どうやら私とA竹君の間に釣果の境界線があったようです。

でも潮は右から左へと早く流れていたので、左側で釣ってた人の方が条件は良かった筈なんですがねぇ。

             

朝来た時の海の様子と、帰りしなの様子、比べてみると陸の見え方が違っています。朝は未だ少し雨が残っていて、遠くは見え難いのです。

          

自分等だけ釣れたと得意満面な3人でありました。

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大洞弁財天 Ⅱ

2011-03-25 05:00:00 | 
山門を振り返ると遠くに彦根城が望めます。彦根城は4年前の秋に蕎麦打ち教室の際に寄ったので、再度行きたいとは思っていません。でもこういう眺めはいいものですね。逆に彦根城の方からこちらを見てもお寺は見えないのだと思います。

ここまで登ってくるのも一苦労だったのですが、こうして見ると彦根城も同じくらい小高いところに建っています。このお寺は階段を一気に登りますが、彦根城は建物の間を徐々に登っていくので、このお寺に登ってくるよりはずっと楽です。

             

陽が当って、ひっきりなしに雪解けの滴が落ちてきます。こういう光景は大阪や南紀ではあまり目にすることがありません。

             

山門の裏側、これは狐のようです。でも狐ってこんなに逞しかったか、もっと細くて小さいような気がします。

                  

こちらは阿形の方、鼻や目が人っぽくないですか。何となく眉毛もあるようにも見えるし。これだけ逞しければ、人など騙す動物には仕立て上げられなかったでしょうに。

             

これでやっとここが大洞弁財天であることが確認できました。お寺の名前は長寿院、大洞は何と読むのかと思っていましたが、「おおら」と読むみたいですね。立て札の下部が朽ちてきています。

                  

山門の表、仁王さんではないけど・・・まさか悟空じゃないでしょうね。龍玉の上に座っているなんて。

                  

こちらは影になっていてお顔がよく見えません。

             

この立て札を見て気付きました。今まで山門だとばかり思っていた門は楼門と呼ばれるものです。祀ってある神は毘沙門天と堅牢地神と書いてあります。きっと毘沙門天が影で顔が見えない方、悟空のように髪を逆立てているのが堅牢地神なのでしょう。

大黒天が4000体も安置されていると記されていますが、外からは見えません。お寺建立以来300年が経過し、その像の傷みが激しいので、修復するのに一躰3800円の募金を訴えていました。像の裏には奉納者の名前が記されるそうです。

日本三大弁財天のうちの一つの弁天様はどうしたかって?安置されているはずの本堂には入ってみましたが、暗くて何がなんだか判りませんでした。          

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大洞弁財天

2011-03-24 05:00:00 | 
昨年は彦根駅の東側を散策したのですが、今年は駅の北方面にある大洞弁財天や井伊神社、石田三成の居城だった佐和山城の跡を散策したいと思っていました。

地図を見るとJR東海道線のすぐ東側、駅から北向きに直線の道路があり、それに沿って歩けばそのうち行き当たるだろうと思っていたのですが、道は途中からどんどんと東の方へ逸れていきます。行きたい所は線路脇にある筈なので、線路から離れていく道を歩くととんでもない方向へ行ってしまいます。

道が逸れようとするところで民家に立ち寄って尋ねてみました。彦根城は井伊家の居城だったので、井伊神社を問えば彦根の人なら知ってるだろうと思ったのですが、さにあらずや首を傾げられてしまいました。地図を見てもらうと井伊神社より少し南の龍潭寺というお寺をご存知だったので、そちらへの道を教わりました。なんとJRの線路を一旦横切らなければなりません。そのための地下道があるとか、警察署を右に曲がって・・・暫く行くと踏切があって、そのお寺が見えてくるそうです。

             

今回行きたかったのは佐和山城跡ですが、一番北に位置するのが大洞弁財天、日本三大弁財天のうちの一つだそうで、教わったとおりに歩いていくと龍潭寺への案内板が見えてきましたが、そこよりは北にある筈だし、ずっと遠い線路脇に石の鳥居が見えるので龍潭寺の方へは行かずに、まっすぐに進みました。

             

どうやらここが大洞弁財天の入口のようで、すぐ奥に踏み切りもあります。

             

踏み切りを渡った所に子安地蔵尊の祠があり、その右に階段が続いていました。

                  

こんなことを書いてある石段も珍しいのですが、それには“この石段でのトレーニングは一切禁止します”とあります。確かに石段は一段一段幅も高さも違うのでよく見て歩を進めないと危ないのです。

             

禁止されてもこの石段、上まで歩くと結構いい運動になりますよ。お寺の注意も空しく、私は思いも拠らないところでトレーニングをさせられた感じです。

             

寒かったのにちょっとした汗をかいて、途中木の枝から雪が落ちてくるので冷や汗もかいて、ようやく山門に辿り着きました。
でもこの段階では、このお寺が大洞弁財天なのかは確認できていません。確か線路脇の鳥居の額に弁財天と記してあったとは思ったのですが、記憶は定かではありませんでした。

                  

境内の右隅に枝垂れの梅が咲いていました。青空と残雪とピンクの梅の取り合わせがいいですね。

             

この地はやはり寒いのでしょう。梅の木は未だ満開ではありません。枝には蕾がいっぱい付いていました。

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彦根へ行く

2011-03-23 05:00:00 | 
毎年恒例の彦根詣で、名古屋に赴任していたビルで働いていた人たちとの交流が先週の金曜日に催されました。同時に働いていた人、私が大阪に帰ってから新たに名古屋に赴任した人等、いろいろいるのですが、まぁひとところに集まって旧交を温めるのもいいものです。

当初は定年退職する方々の送別会的な意味合いで開いていたのですが、50歳を越えてから名古屋の中村ビルで働き出したものばかりですから、だんだんと現役が少なくなりつつあり、定年を迎える人の会費を捻出することが難しくなり、全員会費を頂くと言うことになってしまいましたが、皆さんそういう趣旨に賛同いただいて毎年続いています。

私の働いている尼崎から彦根まで行くと、おおよそ2時間ぐらい要ります。半日年休を取ると1時15分で会社を出れるのですが、集合時間の3時半にはぎりぎりなのです。そこで私は去年から半日と1時間の年休を取って(昼の休憩の1時間は勘定されないので)11時15分に帰れるようにすると、2時間ぐらいの余裕が出来ます。去年は五百羅漢寺大師寺を観て回ったのですが、今年はまた別の所を散策しました。

             

大阪から彦根までJRの運賃は1890円、会費を含めると1万円ぐらいかかるので、なんとか安くいける方法を考えました。一つは青春18切符を買うことですが、これは5人が一緒に改札を出入りしないといけません。金券ショップでは残った分を買い取ってくれるというのですが、いくらで買ってもらえるのか明示していません。


             

そこで回数券、昼間割引回数券というのがありました。JRの駅で買うと11枚綴りなのですが、金券ショップでは1枚づつ買うことが出来ます。なので金券ショップで買い求めたのですが、大阪から彦根までというとなんと片道4枚の切符が出てきました。普通こんな買い方をしたら高くつくのですが、JRという会社は訳が解りません。

             

レシートは2人分、同じ職場からもう一人行くので私がチケットを買いに行ったのでした。それにしても昼間割引は安い!往きはそれを使えるのですが、帰りは遅くなるので普通の回数券を使わねばなりません。兎にも角にも往復で2710円、約1000円安くなりました。

             

彦根市は琵琶湖の南側、東の果ての方にあります。新快速で向かって左側の席に座ったので、写真の風景は北側になります。琵琶湖の方にあたるのですが、湖は殆んど見ることが出来ません。

遠くに琵琶湖を越えて福井方面の山々が見えるのですが、この写真では解り難いと思います。

             

東へと進むにつれて雪が積もっているのが見えてきます。もう3月中旬ですから大阪では考えられない光景です。湖北ならもっと雪景色なのでしょうね。

          

車窓からの撮影なのでガラスに反射してるのが邪魔ですが、微かに遠くの山々に雪が積もっているのが見えます。富山から立山を見ると凄いなぁと思ったことがあるのですが、同じような感動で見ることが出来ました。彦根に近づくにつれて、右の車窓からも間近に雪の山々が見ることが出来、いいなぁと思いながら、来年この時期に開催されるなら座席は右側に取ろうと思ったのでした。

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忍びの国

2011-03-22 05:00:00 | 読書
先週一週間、我社は営業活動を自粛していました。毎日会社を出ると自由気儘に歩き回っている私にとっては、社内に閉じ込められ続けるのは苦痛の連続でした。鳥は大空を飛び回るもの、やはりカゴに入れて飼うのは鳥にとっては迷惑この上ないのでしょうね。

年末に『のぼうの城』を読みましたが、同じ作者の『忍びの国』という小説が文庫本で発売されました。表紙に『のぼうの城』のようなインパクトがありませんが、前回面白かったのですぐに手に入れたのでした。

天正4年11月、織田信雄(のぶかつ)=信長の次男が、伊勢の国の領主=北畠具教を暗殺するために、3人の刺客と共に馬上の人となっていました。3人の刺客は北畠家の元家来衆、そういう人物を選ぶところが信長の非道な所業です。一行4人は具教を仕留めますが、この一部始終を天井裏から見ていたものがありました。これが伊賀の忍者・文吾、後の石川五右衛門です。ここまで読むとこの本の主人公は文吾かと思われるのですが、そうではありませんでした。

所変わって伊賀の国、有力な地侍がお互いに牽制しあっていますが、この国を統率できるような強力な力を持った者もおらず、いつも諍いを起こしていました。その地侍の一人が百地三太夫、聞いたことありますよね。

この百地三太夫と下山甲斐という者が諍いを起こし、下山の砦でチャンチャンバラバラやっています。三太夫は下山家の次男・次郎兵衛を切るよう無門という下人に命令します。無門という男は腕は立つのですが、ゼニにならないことは一切しないという変わり者、百貫文で引き受け容易く次郎兵衛を斬り殺します。それに怒ったのが長男の平兵衛、無門と互角に勝負しますが、ここで鐘が鳴り響きます。この鐘は地侍を集めて評定を開くためのもの、鐘が鳴るとどんなに諍っていてもすぐに刀を引き、評定の場=平楽寺へ急がねばなりません。

評定では伊勢の国が織田方に落ちたので、伊賀の国はどうするべきかとの話、結果として織田と闘っても勝ち目は無いと、織田の軍門に下ることになりました。その使者に下山平兵衛を立て、文吾が付いていくことになりますが、平兵衛の腹は煮えくり返っています。途中、文吾に深手を負わせ、平兵衛は信雄に目通りを願い、伊賀を攻めるよう嘆願します。

             

この平兵衛の伊賀へ対しての裏切りを三太夫は忍法をかけた、下山との諍いも最初から計略であったと明かします。

伊賀を攻めることに意を決した信雄は、伊勢と伊賀の間に丸山城を築くことを決め、その築城のために伊賀者を雇います。伊賀者は毎日ゼニが入るのでせっせと働くのですが、城が出来上がったその日に三太夫は城を焼いてしまいます。

さて城を焼かれた信雄は怒り心頭、伊賀攻めを急ぎますが、一方大金を手にした下人たちは織田と闘ってもゼニは入らんと、伊賀の国から逃げていきます。無門とてもゼニにならない仕事はしたくありません。ここまでは三太夫も計算してなかったらしい。

下人が半減した伊賀の国、怒涛の如く攻め入る織田軍、伊賀一の使い手無門も逃げてしまうのか、ここから以降は作家のためにも明かせません。

面白いですから、買って読んでくださいね。

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飲み放題・食べ放題

2011-03-18 05:00:00 | 大阪にて
大震災からまる一週間が経過、亡くなった方の数が増える一方で、一向に復興の目途も立たず、食糧も水も乏しい方々が大勢居られるのに、昨日からこのような記事を書いていいものか、迷っています。

経済大国化した日本国ではありますが、このような大震災に遭わずとも、日々食糧に困窮している方は、年末の各地での炊き出しを見ても解るように、怠惰な僅かの人間だけではないのです。

それを尻目に好き勝手なことを毎日綴り続けている自分は、向き合うべきものにちゃんと向き合ってるのか、今ある生活が正当なものであるのか、それをも自問しながらやはりこのブログを続けるのでありましょう。1年後に今の職を失えば、必ず今の生活とは違った生活が始まるのです。その後との対比の為にも今のぼんくらな自分を残しておかねばなりますまい。

             

尼崎駅前に一昨年に出来たショッピングモール『COCOE』、店内は撮影禁止の放送が流れているのですが、レストラン街は別でしょう。そのレストラン街の一角で飲み放題・食べ放題で2600円の店を見つけてきた者がいました。5人で行ったのが震災前日の木曜日でした。

             

ステーキも食べ放題が売りですが、写真で見るほど分厚くありませんし、やはり硬いです。みんなはソースが美味しいと言いますが、肉が旨くなくてはいけません。

             

和風から中華、イタリア風と種類がありますが、お腹が膨れるものが多くて、私などはすぐに満腹になってしまいました。最近はどうも、食べ放題は私にとって利が無いように思います。

             

野菜も摂らなくてはいけませんが、こんなサラダでは量は食べれません。やはり火を通したものが沢山食べれます。

                  

これは千里中央の串揚げの食べ放題の店にもあったチョコレートのタワーです。プレッツェルがあったので1本食べてみましたが、チョコレートが乾くまで時間がかかります。

             

時間制限は90分、少し短いですがちゃんと帰ることを考えると、丁度いいのかも知れません。こういう飲み放題の店は、注文した飲物を持ってくるのに時間をかけている処が往々にして見受けられますが、この店は持って来てくれるのが早く、その点では気持ちいいですね。

すぐにお腹がいっぱいになったからなのか、持って来る焼酎が薄いのか、どちらかは判りませんが、随分飲んだ割には酔いませんでした。

             

誰ですか、こんなに量のあるものを最後に食べるのは!決して私ではありません。味見だけにしておくべきです。

                  

最初の写真は当日店の全景を写すのを忘れたので翌日午後に撮ったものです。ベンチに座りながら撮っていたのですが、私にはビルが揺れているのが感じられます。でも私から見る限り立って歩いている人達は何も気付いていないようです。揺れるのが感じられるのは自分の体調が良くないのかとも思ったりもしたのですが、随分長く揺れていました。

会社までの帰り道、長男から電話、家電量販店で働いているのでTVを見ていたのでしょう。「地震やで、串本にも津波来るで、串本大橋の下、物凄う潮引いてるで」と教えてくれました。もしこの地震が尼崎で起きていて同じような津波があったなら、何も知らないで歩いていた私などは、あっと言う間に飲み込まれていたでしょう。

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牡蠣食べ放題

2011-03-17 05:00:00 | 神戸にて
柏公園から帰ってくると、釣れない釣りが未だ続いていました。そろそろ予定の11時、日曜日なので私達が一番最初に停めた駐車場はもう満杯になっていました。

一緒に来ていた女性二人は牡蠣を食べれないとのことで、男4人がコンロを囲み、女性は隣のテーブルでエビフライとカキフライの定食を食べていました。カキフライ食べれるなら焼き牡蠣も食べれるはずですが・・・

食べ放題で2600円ですが、一人前を頼むと牡蠣8個で1200円ぐらい、なので17個以上食べないと損をする勘定になりますが、私はそれだけ食べる自信がありません。

             

表に山と積まれた牡蠣、これだけあるとどうも食欲が湧きません。最初にこんな状態の牡蠣を食べた人は、これを貝と認識していたのでしょうか。

             

焼けてプリプリの身、確かに初めは美味しかったけど、焼いて食べるのは牡蠣ばかりで、10個も食べたら飽きてきます。勿論帰りの運転をしない人はビールを飲んでいますし、私も飲んでいたので、余計にお腹がいっぱいになるのです。

若い人はいくらでも食べていましたが、私は17個食べれたかどうか・・・女性二人は自分の定食を食べた後は暇だったでしょうね。「食べてみる?」と聞いたら店の人が「ダメ」と言いますが、当たり前ですよね。でも、食べてみて美味しかったら次回は食べ放題にするかもなどと言っていたら、店の人も「ちょっとだけなら」許してくれました。

             

ここは相生湾、もう帰途についています。御津からはすぐなのですが、飲んだ者は皆寝てしまっていました。運転手も眠たくなったようで、ここに寄ったのでした。

             

ペーロン祭りというのが5月の最終日曜日に催されるそうです。こういう船で競漕するのは何処の海でも同じような気がします。
ペーロンとは中国の戦国時代(紀元前3世紀ごろ)に白龍(パイロン)という小船で競漕したのが始まりだそうで、そのパイロンが訛ってペーロンとなったようです。

             

ここは白龍城、あまりたいしたものは売ってなかったのですけど、食べ放題の店でお土産を買うのを忘れたので、ここでお土産を買いました。

          

西播磨なぎさ回廊って名付けられた道、赤穂市から姫路の手前まで続いています。

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