補陀落山寺へ行くのがK川君の目的だったのですが、維盛の供養塔から降りて来ると、自然に隣に有る神社=熊野三所大神社に足が向いてしまいます。まぁ建立当初は一体のものだったようで、明治維新後の神仏分離・廃仏毀釈政策で別のものになったのでしょう。それにしても新政府からは排斥された当時の国学者や神道者の鬱積したエネルギーは相当だったようですが、こうしてみるとよくもまぁ沢山のお寺や仏像が残っているものです。そういった政策に同調しなかったり、反対した地域もあったということでしょうか。
現代は補陀落渡海の思想に触れたくて補陀落山寺を訪れる人が多いのでしょうが、熊野詣が盛んな頃は那智大社への分岐点として浜の宮王子を訪れる人の方が多かったのだと思います。それにしても一応は垣根も有るのに、お寺から神社へと足が向くのは何故なのでしょう。私は一昨年の1月にこの地を訪れ、記事にもしていて、今回は境内に有ったものは紹介しませんが、2本の大きなクスノキが圧巻なのです。
右の写真は社側に立つ上部が雷が落ちたように幹が折れて無くなっているクスノキの根の部分、K川君は恐竜の爪と評していて、私はなるほどと思ったのでした。右の写真は一番上の写真と同じ樹なのですが、これが1本のクスノキなのか、2本がくっついてこうなったのかは分かりませんが、私には影絵が踊っているように見えています。
鳥居横に立てられている案内板が新しくなっていました。1年半前に来た時の案内板は読めないほどではなかったけど、1ヶ所白く塗りつぶしてある箇所があり、何と書いてあったのだろうと思ったのですが、新しい案内板には塗りつぶされていた箇所の文字は書かれていませんでした。しかし前の案内板の白く塗りつぶされた箇所には絶対に何か書いてあった筈です。都合の悪いことでも書かれていたのかも知れません。
新しくなったと言えば、振分石の案内板も書き変えられていました。元の立札の一部を残し、新しく書いて貼り付けられています。それによるとまずタイトル“熊野古道 振分石 大神社”とあり、“この板碑は「熊野街道振分石」という。(中略)古来浜之宮は熊野街道(中辺路・大辺路・伊勢路)の落ち合う中心宿であった。「浜之宮熊野参詣振分石之地也(中略)正平13年(西暦1358年)道者立刻、因因縁建三百年」とあり300年毎に建て替えたようである。現在の板碑は万治元年(1658年)に建立したものである。以上”となっています。それなら1958年に建て替えなければならなかった筈ですが、当時の人はどうしたんでしょう。1年半前の記事では、この立札は少しだけ読め、中身は殆ど読み取れませんでした。「何とかならんか」と言う私の意見が通ったのでしょうか?
それにしても正平という年号は南朝側の使用したもの、熊野地方は南朝や平家の味方が多いみたいですね。