ぼんくら放浪記

Blogを綴ることによって、自分のぼんくらさを自己点検しています。

浜の宮王子社跡

2014-05-30 05:00:00 | 田舎

補陀落山寺へ行くのがK川君の目的だったのですが、維盛の供養塔から降りて来ると、自然に隣に有る神社=熊野三所大神社に足が向いてしまいます。まぁ建立当初は一体のものだったようで、明治維新後の神仏分離・廃仏毀釈政策で別のものになったのでしょう。それにしても新政府からは排斥された当時の国学者や神道者の鬱積したエネルギーは相当だったようですが、こうしてみるとよくもまぁ沢山のお寺や仏像が残っているものです。そういった政策に同調しなかったり、反対した地域もあったということでしょうか。

             

現代は補陀落渡海の思想に触れたくて補陀落山寺を訪れる人が多いのでしょうが、熊野詣が盛んな頃は那智大社への分岐点として浜の宮王子を訪れる人の方が多かったのだと思います。それにしても一応は垣根も有るのに、お寺から神社へと足が向くのは何故なのでしょう。私は一昨年の1月にこの地を訪れ、記事にもしていて、今回は境内に有ったものは紹介しませんが、2本の大きなクスノキが圧巻なのです。

               

右の写真は社側に立つ上部が雷が落ちたように幹が折れて無くなっているクスノキの根の部分、K川君は恐竜の爪と評していて、私はなるほどと思ったのでした。右の写真は一番上の写真と同じ樹なのですが、これが1本のクスノキなのか、2本がくっついてこうなったのかは分かりませんが、私には影絵が踊っているように見えています。

             

鳥居横に立てられている案内板が新しくなっていました。1年半前に来た時の案内板は読めないほどではなかったけど、1ヶ所白く塗りつぶしてある箇所があり、何と書いてあったのだろうと思ったのですが、新しい案内板には塗りつぶされていた箇所の文字は書かれていませんでした。しかし前の案内板の白く塗りつぶされた箇所には絶対に何か書いてあった筈です。都合の悪いことでも書かれていたのかも知れません。

             

新しくなったと言えば、振分石の案内板も書き変えられていました。元の立札の一部を残し、新しく書いて貼り付けられています。それによるとまずタイトル“熊野古道 振分石 大神社”とあり、“この板碑は「熊野街道振分石」という。(中略)古来浜之宮は熊野街道(中辺路・大辺路・伊勢路)の落ち合う中心宿であった。「浜之宮熊野参詣振分石之地也(中略)正平13年(西暦1358年)道者立刻、因因縁建三百年」とあり300年毎に建て替えたようである。現在の板碑は万治元年(1658年)に建立したものである。以上”となっています。それなら1958年に建て替えなければならなかった筈ですが、当時の人はどうしたんでしょう。1年半前の記事では、この立札は少しだけ読め、中身は殆ど読み取れませんでした。「何とかならんか」と言う私の意見が通ったのでしょうか?

それにしても正平という年号は南朝側の使用したもの、熊野地方は南朝や平家の味方が多いみたいですね。


             

補陀落山寺

2014-05-29 05:00:00 | 田舎

この私のブログをよく読んでいるK川君なので、おそらくは船に乗ろうと思って串本にやって来たんだろうと思うのですが、私より若くて元気な人なら乗せることは可能ですが、一応は体内に管が入った障碍者ですから、あまり無理は出来ないので、風もきつくはなく、天気は良かったけれど船には乗りませんでした。私は一人で船を片付けるのはとても大変なことに最近気づき始めたのです。

             

なので翌日は愚車に乗って観光です。何処に行きたいかと問うと先ずは補陀落山寺、それから神倉神社だと言います。やけに遠い所をと思ったのですが、まぁ大阪から来ているのですし、私のブログを読んでのリクエストですから、応えないわけにはいきません。私としては古座川のステッカーが貰えるジオパーク巡りだと都合が良かったのですが・・・

             

前に一人でこのお寺にやって来た時は気が付かなかった渡海を果たした僧たちの名を刻んだ記念碑が有りました。全部で25人いますが、坊さんだけではなく1184年に平維盛、1475年に万里小路冬房という公家のような名前の人も混じっています。17番目には補陀落渡海記に出ていた金光坊の名も有りました。でも記念碑と書くのはどうか、生きたまま観音が住むと言う補陀落を目指す人をエライと讃えて良いものなのか、金光坊のように死にたくないと思った人も居たのだし、現在の倫理からすればしてはいけないことなので、記念碑とするのは納得がいきません。

             

こんな所に入れられて、僅かな食糧を与えられ、枠を釘で打ち付けて出られないようにして、海に放り出されるわけです。死ぬのが分かっておるのなら、僅かな食糧さえも要らないと思うのですが。

             

K川君は思った通り、平維盛の供養塔に行きたいと言います。私としては一度行ってるし、ウソかホンマか判らん維盛の果てなど見ても仕方ないと思うのですが、そこは我慢して木の根の階段を登って行きました。

               

左の写真が維盛の供養塔、どれがその供養塔なのかはよく分かりません。右の写真は渡海上人の墓、殆どの墓に“勅賜補陀落渡海〇〇上人”と書かれているそうです。勅賜とは天皇から頂いたものという意味ですが、補陀落渡海は天皇から頂いたという、つまり命令されたと言う意味なのでしょうか。補陀落渡海って誰からも強制されるものではなかった筈、自らが自分の意志に沿って観音浄土に赴くものだった筈です。

             

そうなると天皇なんてろくなことを言わんヤツってことになるのですが、今の天皇は「平和憲法は守らなければならない」と表明したので、安倍なんかよりずっとマシな人間であることが窺えます。

三段壁

2014-05-28 05:00:00 | 田舎

K川君が串本に来るのは15年ぶりだとか、その時は名古屋方面から電車でやってきて、私は紀伊勝浦駅まで迎えに行ったのでした。今回は白浜駅で少し白浜観光をしたのですが、円月島は遠くから眺めるだけですし、千畳敷はだだっ広くて歩くのは面倒そう、そして三段壁を見物に訪れたのですが、千畳敷から車で走って一応三段壁と書かれた一番手前の駐車場で車を停めたのですが、1年半前にU畑君に案内してもらった時とは雰囲気が違う、両側に土産物屋が無いと思っていたら、みんなが三段壁と呼んでいる所よりかなり北寄りに車を停めてしまったらしい。

             

やはり白浜のことは串本ほどは知らないところが出てしまいました。それでも観光用に整備されたような道を南に向かって歩くのも良いもので、一直線に三段壁まで歩くよりは体にも良いものだと言うような言い訳を考えながら歩いていました。

             

このように道が続いています。どうやら私は初めてこのコースを歩いたのではないかと思います。

             

こんな歌碑が有ったのも知ったのですが、素人の字で“白浜の海は 今日も荒れている 1950・6・10 定一 貞子”と彫られていて、どうやらここで身投げでもしたのでしょう。歌碑が有るという案内板が無かったらおそらく気が付かなかったと思います。でも昭和でなくて西暦で書かれているから、少しは進歩的な人だったんだろうと考えるし、その頃からこの道はあったんだろうと思います。

             

三段壁の洞窟には昔降りて行った記憶があるし、きっとエレベーターに乗るのにはお金が要るのでしょうから、下には降りません。雄大な眺めを見ているだけで十分ですが、ブログのネタに降りた方が良かったと思っています。さぁ帰ろうと思って、南側を見ているとお堂が有りました。洞窟に降りるエレベーターが設置されているのは牟婁大弁財天の像が有る一見土産物屋みたいなお寺、こちらは殆ど訪れる人もないような文殊堂です。

             

そういうところを見て回るのが好きですから、ちょっと寄ってみました。雑然と石仏が置かれ、お寺の名前が付いています。どうやら西国三十三カ所巡りをここだけで巡れる便利で有難いお堂ですが、どうもさもしい根性とも思えてくるのです。

円月島

2014-05-27 05:00:00 | 田舎

GWが終わり、世の中の人々が仕事に精を出し始めても私は相変わらずのうのうとしていたわけですが、第2土曜と日曜にはソフトボールの練習と試合があるので、木曜日に姫を後にして、大阪に戻ったのでした。その際に42号線から旧道に入るところにある車屋さんに愚車を車検に出して、次の週には再び取りに行こうと思っていたのですが、雨の予報の日が多く、GWに入って串本に来た日に雨に降られ、前後のダンプに車を散々汚されたのを思い出すと、雨の日はどうしても出かけるのが億劫になってしまい、K川君がいつか串本にやってくると言ってたけど、「いつやったかな」などと呑気なことを考えているうちに金曜日になってしまい、そのK川君から電話がかかり、「今日和歌山に泊まって、明日白浜まで行くから迎えに来てくれ」と言うので、「明日やったか」と思い出して、K川君が白浜に到着する時間を見計らって大阪を出たのでした。

             

和歌山発10時半ごろのくろしおに乗って白浜駅に到着するのが12時過ぎ、私の家から白浜までなら2時間もあれば着きますから、途中『よってって』に寄って買い物でもしようと思ったので、十分時間の余裕を持って9時に家を出たのでしたが、途中湾岸線で工事が行われていて、泉大津を過ぎた辺りから岸和田までノロノロ運転になってしまい、余裕を持って出て良かったと思ったのでした。『よってって』にも寄って、白浜駅に着いたのが12時前、工事で遅れたのが結果として駅で待たずに済んだので良かったのかも知れません。

白浜で昼食をとるとしても何処が良いのかよく分かっていないので、『とれとれ市場』に寄って食事をすることにしたのですが、市場の食堂では丼物や麺類には行列が出来ていて、とても並ぶ気にはならないので、いつも並んでないコーナーでご飯とみそ汁とおかずを2品買って済ませました。おそらく私たちが食べ終わっても行列の最後に並んでいた人たちが買えたのかどうか、何故あんなに並んでまで食べたいのか、その心理がよく理解できません。

             

日本人って並んでいる所に並ぶ癖のようなものがあるのでしょうか。並んでいる=人気がある=美味しいとでも思っているのか、きっと安心という心理も働いているのでしょうが、そんなことで時間を無駄にする方が勿体ないと私は思ってしまいます。それに騙されたくないという考えもあって、群集心理に扇動されたくないのです。

             

2週間前、富田に来た時にラフォーレ南紀白浜に連れて行ってもらったので、白浜の地形はだいたい理解できてるつもりですが、やはり詳しいことはよく分かっていません。小さい頃、円月島の近くに住んでいたと言われても何も覚えてないし、その頃とは道路の事情も大きく変わっていることでしょう。ここは千畳敷ですが、白良浜にしても私が若い時に来た時ははこんな白い浜ではなかったという記憶も有ります。

             

無料だった日帰り温泉施設『崎の湯』も420円と有料になってしまったし、人工的なものが増えました。円月島もライトアップする計画があるとか、交通の便が良くなった分、宿泊客が減って施設は困っているようです。私も白浜に泊まりたいとは思えません。

これは何だ

2014-05-26 05:00:00 | 田舎

串本町の袋港の奥、国道42号線からJR紀勢本線の高架下を潜る道が有り、その道を辿ると串本の街を迂回するようになっていて、紀伊姫駅近くに出てくるのですが、そのルートが大辺路であり、私が歩いた最初の大辺路なのですが、その大辺路と42号線が合流する辺りに奇妙な物が出来ていました。側溝を逆に置いたような形をしていますが、そんな小さなものではありません。柵も付いているのでプラットホームにも見えますが、まさか紀伊姫駅を移転するわけではありますまい。乗り降りする人が少ないとは言え、こんな人里から離れた(それは大袈裟か)所に駅を造ったものなら、利用する住民は不便です。

             

紀伊田辺から新宮までの小さな駅では紀勢線の電車は1番前の扉しか開かないので、このような小さな駅であっても使用は可能かと言えば可能です。おまけに元々切符を売ってないので、こんな簡素な造りでも駅としては十分利用可能なのです。

               

ちょっとだけ中を偵察してみると、どう見ても電車から人が乗り降り出来るように造られているようなのです。しかし幅が狭いので危ないと言えば危ない、どうせ紀伊姫駅などは乗降する人が少ないので混雑することはありませんが、よろよろした爺さん婆さんがこのホームで待つことを想定するなら駅としては利用できません。いったい何を目的に造ったものなのか、大地震が起きたらここで電車を停めて、乗客を降ろせるようにしたのか、それならもっと数が必要でしょう。確かにこれと同じものを紀伊浦神駅の近くでも見ました。なのでもっと他にも造っているかも知れませんが、地震対策にはなっていません。東南海地震が起こって津波の襲来を予測してのことなら、線路はグニャグニャに曲がってしまい、まず電車はここまで走れますまい。ここで止まれたとしたら物凄い偶然です。

             

第一、避難のためなら、もう少しだけ紀伊姫駅に近い所に避難路に指定されている大辺路への出入り口が有るのです。もし大津波が2分程度で押し寄せるなら、こんな所で降りていては山へ逃れることは出来ません。なのでこれは駅でも地震対策でも無いようなのですが、何を目的としているか考えが及びません。コンクリートに打ち付けてあったプレート、赤い矢印が印象的ですが、これは写真に撮れば有ることが分かるのですが、とても人の目につくような大きさではないのです。だから矢印が何を意味しているのか分かりません。

             

42号線を走っていると地面に大きく数字が書かれています。同じ地点に昔から設置してある距離標も写っています。

                       

これがその距離標、ゆっくり走ってる人ならこの距離標でも読みとれるかも知れませんが、なかなか気付き難いので道路に大きく書き直したのでしょうね。では何故浜松を起点としているのか、その謎がなかなか解けません。浜松からの距離なんて普通の人にとっては意味が有りません。でも例えばこのように姫が307kmならそれを覚えておけば、途中の地点で後何kmあるのか計算が出来ます。

             

ここは橋杭公園前信号、サンゴ台やコーナン、ホテル浦島、橋杭小学校などを利用する人が利用する感応式信号です。GW中に2回同じ目に遭ったのです。前の車が赤信号で停まっているのですが、あまりにも前に停まってしまっているので信号機は感応していません。この信号は自車が感応されているかどうか、分かる仕組みになっています。

             

信号機の下の感応式信号の文字の右横に、車が停車位置に止まれば『感応中』という表示が出るのです。そのことを知ってか知らずか、この車は後続のことも考えずに呑気に止まっています。この時は2回目だったので慌ててカメラを取り出して写真を撮ったのですが、私の後ろの車に乗ってた人がすぐに降りて注意を促していました。きっとその人も何度か同じ目に遭った事が有るのでしょう。

                       

これで今回の串本でのGWのお話は終了、10日余りのお話を長~く引っ張りました。庭のサクランボの木は今年も実を付けませんでした。3月は1度も訪れませんでしたから、花が咲いたかどうかも分かりませんでしたが、実が生ってないのですから花も咲かなかったのかも知れません。背丈だけが伸びて、もう2mは悠に超えています。

古座川ワッペン

2014-05-23 05:00:00 | 田舎

一枚岩で見つけたジオスタンプラリーの用紙、スタンプを押すのは一枚岩と滝の拝の他に牡丹岩と虫喰岩、橋杭岩の5ヶ所です。4日に一枚岩と滝の拝を済ませているので、6日に他の3ヶ所を回りました。4日は朝から釣りをして疲れていたのか、滝の拝からの帰りにぼたん荘でスタンプを押して貰えばよかったのに、何も考えずに通過してしまったのです。

             

久し振りに行く虫喰岩、こんなに遠かったかなぁと思いながら車で走っていました。以前来た時は向かいの家に白くておとなしい犬が飼われていて、私のことを覚えているか楽しみにしていたのですが、姿は見えませんでした。良い犬だったのに少し残念です。

             

虫喰岩の前に道の駅が出来ていましたが、オープンしていませんでした。どうやら月に一度くらいしか利用しないようです。スタンプは入口の前に置いてありました。

  

虫喰岩の全貌は、道の駅が出来て広くなったとは言え、全貌を写すには距離が足らなくて、どう撮れば良いのか迷った挙句、パノラマで撮ってみたのですが、やっぱりヘンです。

             

こちらは牡丹岩、虫喰岩と同じ質の岩です。風化してこのような形状になったようです。

             

橋杭岩の前は少し前から信号が付きました。駐車場の工事が終わって以降の設置です。今までのように弘法湯から降りていく際にスピードを保っていると少し危険です。GWになると余計に混むのではないかと心配していましたが、あまり混乱は無かったようです。

                    

橋杭岩でスタンプを押し、そのまま売店でステッカーを貰いました。愚車にでも貼っておきましょう。スタンプラリー期間は6月30日までですが、景品交換期間は7月31日までだそうです。もう2~3枚貰おうかなと思うけど、滝の拝までは遠いですね。

ジオパークとは『大地の公園』とも言われ、ジオ(大地)とその恵みに親しみ、それらを楽しみ、学ぶところだそうです。すさみにフェニックス褶曲という岩が飴のようにひん曲がった岩脈が有るそうで、一度見に行きたいと思っているのですが、入る所が分かり難いようです。

滝の拝へ行く

2014-05-22 05:00:00 | 田舎

今日は5月22日だと言うのにGWの4日の話です。11時過ぎに一旦桟橋の岸壁に着けた船ですが、三男たちはもう釣りを止めて夜のBBQの準備をすると言います。A竹君やY下君はおそらく未だ釣り足らんだろうと思って、どうするかと考えていたのですが、私もずっと操縦しているのはチトしんどいし、三男が居なければ私以外に誰も操縦する者は居ないわけですから、二の足を踏んでいたのですが、二人にどうするか聞いてみるとどちらでも良いと言うので、即行釣りを切り上げることにしたのでした。翌日予想外の雨で急いで帰港したことを思うと、もう少し釣っていても良かったかも知れません。ヒラメとマハタを釣ったTA-YA君は機嫌良く帰途に着いたのですが、彼は休みが取れないのか、いつも私たちより一日早く帰ります。

             

三男たちは買出しに行くとか、風呂に行くとか言っていましたが、私はヒィチャンが初めて姫に来たので、何処かへ連れて行ってあげようと思い、Y下君は何度も訪れているので暫し休憩して貰って、A竹君を伴って三人で一枚岩まで行くことにしたのでした。一枚岩の大きさに驚いていたヒィチャンですが、私は何気なく道の駅『鹿鳴館』でスタンプを眺めていると、ジオスタンプラリーという催しがあるのを知り、それなら滝の拝へも行ってみようと思ったのです。

             

滝の拝の橋を渡って、少し戻るように歩くと道の駅。久し振りに行く滝の拝にはヘリポートの付いた道の駅が出来ていました。

             

古座川町の小川出張所も同じ敷地内に出来ていました。以前は来た道をもう少し上がった所に有ったような気がします。へき地診療所というようなものも出来ていましたが、へき地というほどへき地ではないように思います。

             

滝の拝の橋を渡って道の駅へと向かう途中にあった墓石や地蔵像群、以前から有ったのでしょうが、私は全く知りませんでした。でもここは墓地ではないですよね。

             

道の駅にスタンプを貰いに行ったのは私だけ、二人は川原に降りて見学していました。ここを訪れた人は珍しさに必ず川原へ降りるのが常です。道の駅では地元のブルーベリーを使ったジャムを無理矢理試食させられました。美味しかったのですが、私が甘いものを控えていることを知らないのでしょうが、アリガタ迷惑な行為です。

             

相変わらず、迫力のある岩です。何度も見ているので私はそう感動しませんが、ヒィチャンはびっくりしたことでしょう。古座川を見てきれいな水だと言っていましたが、私から見ると少し濁っています。やはりダムの無い小川の方が水はきれいです。

             

帰ってから浦島の温泉に入りに行き、帰って来ると未だ5時前だと言うのにもうBBQは始まっていました。捌くまでは三男が行ったのですが、TA-YA君に半分分けて貰ってA竹君に造って貰ったマハタのお造り(私は鍋で食べたかった)、サザエは向こう隣りのオジサンがくれていました。始まるのが早かったので明るいうちにお開きになったのでした。

佐本渓谷

2014-05-21 05:00:00 | 田舎

昼の12時前から歩き出して2時間、喉が乾いてくるし、お腹も減ってきて、足もだるくなり、休憩を取りたい気分ですが、ゆっくりと座ってられそうな所も無く、もう既に2時なので3時までに串本に到着することは、今バスが来ない限り無理だと思っていたのです。なだらかな舗装道路が続きますが、左側に佐本川を見ながらいくら歩いてもバスの停留所などは有りません。10分ほど歩くと吊り橋に出会いましたが、標識では5tまでの車が通れるようになっていますが、車など通った跡すら有りません。

             

絵地図に拠ると二ヌ瀬橋と書かれていました。佐本の集落で見た穏やかな佐本川とは違い、ゴツゴツした大きな岩が目立ちます。渓谷というに相応しい眺めです。

       

橋を渡って今度は右に佐本川が流れます。絵地図には県道224号線と書かれていて、佐本渓谷三尾川線とも書かれていました。最初の橋から20分ほど歩くと舗装道路はチェーンが張られて行き止まりとなっていて、それなら車で三尾川には行けないではないですか。

             

でも橋はコンクリート製であり、車は通れるように造ってあります。スタート地点で愚車を停めた道路は確かに224号線だったのにどうなってるのか分からなくなってきました。

             

二つ目の橋は下山橋と書かれていました。橋から見た右側の眺め、下流になります。

                       

左の方は山が続き、フジの花が咲いていました。橋を渡り終えるとそこからは地道、とても車が通れる幅では有りません。

             

再び佐本川を左に眺めながらなだらかな道を歩きます。

       

これまでは川より高い所を歩いてきましたが、この辺りでは川面がすぐ傍にある所を歩いて行き、堤防のような所も歩きました。緩やかな道だったので油断して水溜りにはまってしまい、川に降りて足とサンダルを洗いました。足を洗った所からが急な上り坂になっており、30分ほど歩いて元のスタート地点に到着、結局3時を15分ほど超えてしまいました。帰ってからGoogleの地図を見ると確か224号線はに三尾川まで続いていましたが、私は224号線の何処からどう歩いてきたのかよく分からないでいます。疲れていたのと急いでいたので、ゆっくり景色を眺めることが出来ませんでした。秋の紅葉のシーズンに再び平家落人伝説を辿ってみたいと思っています。

古座街道 Ⅱ

2014-05-20 05:00:00 | 田舎

三体仏から5分ほどで町界の三叉路に差しかかります。峠に近いのか青空も見えてきて、晴れやかな感じです。町界とはすさみ町と古座川町の境界のこと、もっと山奥へ行けば何処かで古座川町と白浜町の境界もある筈です。白浜町と言えばそんな山奥なのかと思うでしょうが、旧の日置川町との境界になるのです。昔は何度も山越えで合川ダムや百間山渓谷を越え、前の川とか将軍川の畔を走って古座へと走った記憶が有りますが、田辺まで高速が通ってからはそのような無謀なことはしなくなりました。齢を重ねたせいもあるでしょう。

       

三叉路地点です。古座街道の標識が有り、どちらへ行くかは明白ですが、もう一方の道は絵地図では将軍川方面と書かれていて、そんな遠いところまで歩いたら途中で道に迷ってしまいそうです。この辺りでも未だ軽四なら通れます。

                       

絵地図に描かれていた杉の大木はこの木のことでしょう。

             

未だ道幅はありますが、いくら軽四でもこの道を走るのは怖いでしょう。

               

三叉路から10分ほど歩いくと急に道幅が狭くなり、二人並んで歩くのも難しくなりました。つまり軽四でもこの先は行くことが出来ないということで、司馬氏はこの道を来ていないことが明らかになりました。それにしてももし車で来ていたら、車を転回させる場所も無く、引き返すのが困難な道幅でした。

                       

このような石畳が続く道があるのですが、これは人の手によって敷かれたものなのか、歩いてみてどうも自然のもののような気がしてなりませんでした。

       

三叉路のところから30分ほど歩くと、標識の矢印が双方向になり出しました。つまり反対から上って来た人にも知らせようとする意図が感じられます。でも真ん中の写真の標識の矢印は方向が違います。上って来た人は矢印通り右へ行けば良いのですが、降りて行く人は矢印の通りに左に行けば間違ってしまうのです。私は左方向へ歩いていき、誰も住んでない廃屋に辿り着いてしまいました。この廃屋を見て間違ったと思って引き返したのですが、絵地図では福井谷集落跡と書かれていて、もう少し進むと地主神社が有ったようです。後で地図を読み返すとこちらの道でも抜けられるとのことでした。

                       

引き返して、先ほどの標識を見直し、上って来た人が見ればどうなるのか考えてみました。この標識に向かって真っすぐな道は有りませんから、左右どちらかから上がってくるのです。それで道を探すと右方向から上ってきているのです。先には橋も見えていました。だからこの標識を下って行く人が分るように矢印を書くには、右下方向に向けなくてはなりません。余計な道を選択してしまって10分程度時間を食ってしまいました。気を取り直して下った先の橋からは『なめとこ岩の滝』を眺めることが出来ました。

             

三体仏から1時間ほどで、やっと224号線らしき舗装された道路に出てきました。途中何処かで左へと曲がる道が有り、400mほど歩くと柚ノ木谷温泉という川に白い湯の花が浮かぶ冷泉が有り、温泉地蔵も有ったようなのですが、流石に行く気にはなれませんでした。

古座街道

2014-05-19 05:00:00 | 田舎

司馬遼太郎が『街道をゆく』シリーズで“熊野・古座街道編”を出版するためにすさみから古座までを旅したのが1975年の春のこと、もう40年近く前のことなのですが、司馬氏が古座街道を実際にどう辿ったのか、これから私が描こうとしているコースを歩いたのか、車を使ったのかも含めて考えてみたかったのです。司馬氏はすさみの平松から県道38号線を北上し確かに車で佐本まで来ています。私は江住から36号線を北上し、防己で38号線と合流しました。36号線は栗垣内から北上して38号線と別れるのですが、実は36号線と言うのは古座街道のルートである白浜町の朝来からが起点となっているのです。38号線をそのまま走ると七川ダムで国道371号線に合流しますが、371号線はそのまま走ると高富で42号線に合流、38号線は鶴川の三叉路で左折、明神橋を渡って古座駅方面へと繋がって行きます。

             

私が手にした絵地図の裏は、表のお散歩絵地図ではなく、山歩き絵地図になっているのを見落としてというか、何も気にせずに同じような雰囲気だと思っていました。38号線の深谷というバス停から右へ逸れ、県道224号線に入るとすぐに山歩きのスタート地点が有りました。車を停めて歩き出すですから、もう一度同じ地点に戻って来なければなりません。

             

スタートするとすぐに『古座街道』の案内標識が有り、この道で間違いないと確信できます。暫らくは一本道のようで、次の分岐まで標識は見えませんでした。最初はこれなら軽自動車なら通れると思って、ひょっとしたら司馬氏もここを通ったのかも知れないと思ったのでした。

       

最初の地点で絵地図にあった墓地も見え、道幅は広いし、山道を歩いていると言う雰囲気ではありません。地図に書かれた三角点も確認することが出来ました。

        

復路との分岐を過ぎ、スタートして20分程度で絵地図には無い大師像を発見、山から流れてくる水も先日の大雨のせいか幾分水量も多いように感じました。未だ軽四なら通れると思います。

         

ところが二つ目の水が流れ落ちるところを過ぎると、道が塞がっているのです。ここで終わり?それとも道を間違えた?と思ったのですが、塞がった向こう側には道が続いているのが見えます。きっと大雨で土砂が崩れ落ちたのだろうと思い、引き返すか、越えて行くか、どうしようかと迷って、取り敢えず絵地図に書いてあったNPO法人の電話番号にかけてみたのですが、昼時だからなのか出ません。すさみ町役場の電話番号も書いてありましたが、翌日がイノブタダービーの日だったので忙しいだろうと思い、電話しませんでした。結局サンダル履きだったので苦労しましたが、崩れた土を乗り越えて向こう側に降り、続けて歩いて行ったのでした。

                       

実はこの日、3時までには串本に戻りたいと考えていたのでしたが、どれ位の時間を要するのかも考慮しないままにぼつぼつと歩いていたのです。

        

あの崖崩れさえなければ、未だ軽四でゆっくりなら来れるなどと思っていると、絵地図にある三体仏を発見、ここで歩き始めて丁度1時間を経過したのでした。

             

ここで引き返せば、もう一度崖崩れを越えなければなりませんが、2時にはスタート地点に戻れ、3時には串本に戻れるとも思ったのですが、復路まで降りてしまえば県道224号線と絵地図には書いてあるので、バスにでも乗って帰れば何とかなるのではと思い、また歩き続けたのでした。