ぼんくら放浪記

Blogを綴ることによって、自分のぼんくらさを自己点検しています。

樫野地磯

2013-02-28 05:00:00 | 田舎

今回の串本滞在は、13日に大阪を出発して22日に帰阪していますから実質8日間、そのうち15・18・19日と三日が雨でした。残り五日間のうち何処かで釣りをしたいと思っていたので、まずは何処の磯で釣ろうかと思案、大島港ではこの時期には釣れなくなるのです。

             

それでも気になる大島港、釣り道具は持たずに見に行ってきました。木曜日だと言うのに結構釣り人がいます。ずっと見ているとアジ釣りをしているみたいですが、釣れてくるのは小さいイワシばかりのようでした。やはり冬の大島港は期待が持てません。でも何が釣れるか分からないので、アジ釣りの人でもタモを用意していました。

             

大島港での釣りは諦めて磯で釣ることにし、反対側の樫野の地磯を目指しました。あくまでもこの日は偵察、釣り道具は持っていません。釣り道具を持たずに駐車場から灯台まで歩くのは楽です。磯釣りの道具は竿とリールだけならどうって言うこともないのですが、エサやらタモやらスカリやら小物まで含めると、重くて大変です。その点エギングやジギングの人は竿とリールタモと疑似餌さえあればいいのですから、若い人がそういう釣りにハマるのも頷けます。

             

途中にあるトルコの土産物屋にはNHKに出演していたイスメット氏は居ませんでした。居たら冷かしてやろうと思っていたのに・・・

                       

前日の雨のせいで山道はドロドロ、スニーカーでは滑りそうです。でもこの山の中なら滑って転んでも、まぁ服が汚れるぐらいのもの、岩場まで出ると海側が崖になっているので、うっかり滑ったりすると骨折ぐらいでは済まないかも、今まではなんとか歩いて行ってましたが、この歳になるとどうも億劫です。

             

地磯の見えている範囲では釣り人は一人だけ、沖磯にはたくさんの釣り人が乗っていました。

             

釣りの用意はしてこなかったので景色だけ観てきました。樫野のスイセンももう終わりの時期を迎えています。

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周参見代官所跡地

2013-02-27 05:00:00 | 田舎

和歌山県のすさみ町と言っても、日本全国の中ですさみ町という名の町は和歌山にしか無いと思うのですが、JRの駅名は周参見と書きます。昔はきっと周参見町と書いていたのだろうと容易く想像するのですが、いつから仮名書きになったのか、その分岐点はあると思うのですが、民族歴史資料館は火曜と土曜しか開いていませんでした。なんと頼りにならない資料館だと思うのですが、おそらく訪れる人もそう多くはないのでしょう。

その周参見という字にどのような意味合いがあるのか、こちらは安易に想像することが出来ません。すさみ町の由来は昔、周参見氏が領主だったからということらしいのですが、今周参見という苗字の人っているのでしょうか?ある意味で人の名前に携わるような仕事を長く続けてきましたが、そういう名前の人に遭遇したことがありません。周参見氏が領主だったからといって肝心の周参見の意味が解ったということではありません。“周りを見に参った人”というようなこじつけも出来ますが、どうもそうではないようです。

             

弥生時代の頃、この国土には国は誕生していませんが、当時はまだ字というものがありませんでした。この地で暮らしていた人(因みに5世紀ごろの古墳が発見されています)はこの地を「すさぶうみ」と発音していたと言います。漢字の伝来とともに「すさぶうみ」は「荒ぶ海」という字があてられ、それが進化して荒海を「すさみ」と読んでいたという説を聞いたことがあります。その「すさみ」に当て字をしたのが周参見氏の始まりらしい。実際には須佐見氏や周参美氏、周産氏、須佐氏などの名前が残っているそうです。荒海を「すさみ」と読んでいたというのは初耳ですが、実際に荒海という苗字の人は津荷の渡船屋の船頭さんを知っていますが、ひょっとするとすさみ町の出身だったのかも知れません。

             

開館してなかった資料館を後にして郵便局を探すことにしました。歴史・民族などと付く資料館に期待を持った私の目論見は外れたのですが、ブログに書かれてあった場所は是非見つけたいと思っていたのです。すさみ町の中の道は何度も通った事があり、だいたいどんなものか知っていましたが、ナビの案内通りに進むコースは「知らんなぁ」と思いながら「目的地付近です」の案内があるところまで来ました。

             

郵便局の駐車場に車を停め、辺りを見渡します。周りは消防署や町役場があるので中心街の筈ですが、何だか寂しい所です。お店が無いからかも知れません。あらぬ方向を行ったり来たり、景色を見ると町営の温泉施設があった辺り(今もあるのかどうかは知りません)のような気もします。ブログには郵便局の目と鼻の先とか書いてあったけどなぁと思いながら来た道をそのまま歩いていくといきなりありましたね。

             

このような案内板があるところなので、何かあるのかと思ってたら、歯医者さんの壁にこの案内板があるだけでした。

                       

これが説明板の最後にある青木でしょうか。普通植物の青木はアオキと書かれていますよね。常緑樹だと言われるアオキ、でもこの木には葉がありませんし、2mぐらいの低木だとか、この木は2mどころではありません。なので私はこの木がアオキなのかどうか確信が持てませんでした。アオキがどれくらいの生命力を持つ木なのかは分かりません、江戸時代と言っても範囲は広い、この説明板に書かれていることが2~300年前の話だと仮定しても、代官所の庭に植わっていたアオキは当時でも大きかった筈ですから、もしこの木が説明板に書かれているアオキならば、相当な生命力があると言えそうです。

             

歯医者さんの先には、職員室のある所は昔米倉があったという周参見小学校、工事中なので近寄れません。

             

3時半を目途に田並へ行く用事が出来たので、いつもは無視する恋人岬に寄ってみました。いつもは無視するので全く見てなかった看板、なんかおかしい、普通例えば『夫婦岩』などでは夫が先に書かれますよね。「ふうふ」でも夫が先です。ここでは女性の権利向上を願ってのことからなのか、『婦夫波』と婦が先に書かれています。これでは「めおと」とか「ふうふ」とは読めと言われれば読めますが、普通に読めと言われれば「ふふ」でしょう。波の右の字は観、でも1字脱落しています。何と書いてあったのか、さんずい偏が残っているよう(波のさんずいとは違うのでさんずいとは言い切れませんが)ですから観光ではなさそうです。でも観波では語呂が悪いでしょ、観潮かな?

             

ここのレストラン、今までずっと『黒潮茶屋』だと思っていました。急カーブを曲がるのであまり景色は見てられません。今回車を停めてしげしげ見ると『黒嶋茶屋』だったのです。

                       


目の前で左右からの波がぶつかるので恋人岬とか婦夫波とか呼んでいるようですが、波の向こうの島は陸の黒島と呼ばれています。もう少し右沖に沖の黒島があります。

             

因みにすさみの街を抜けると白島という島もありますが、ここまでは結構遠い、道の駅を超え、黒島トンネルを抜けてまっすぐ走ると、この岬なのですが、この地点で大きくカーブするので危ない所、カーブを抜けるとまた下り坂のまっすぐな道、追い抜き禁止ではありませんし、すさみ町内では一番スピードが出せる所でしょう。

この辺りの海岸は県立自然公園になっています。この写真を見ると左下から右斜め上に向かって道らしきものが(途中で途絶えてます)見えますが、何処からも降りる所は無いようです。ただカーブを抜けた直線上の道路の海側にはいつも車が停めてあるのを見かけるので、降りる所があって、釣りをしているのかも知れません。

             

予定時刻より少し早めに田並の駅に到着、田並の海はゆっくり見たことがなかったので、歩いて海の方へ行ってみました。

             

すると42号線下のトンネルに大辺路の地図を描いた案内板があるではありませんか。でもこれでは何処をどう歩けばいいのかよく分かりません。海まで到達しないうちに待ち合わせの方からメール、引き返してこの案内板のことを尋ねると、小学生が描いた絵だったようでした。

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すさみ町立歴史民俗資料館

2013-02-26 05:00:00 | 田舎

全国至る所、どんな町村にも歴史があるわけで、普段知ることの無い史実や寓話、場所を探しては串本町や旧の古座町を探索しているのですが、だんだん飽和状態になってきたのか、なかなかネタも無いもんです。先日今はもういない串本町在住のTさんのブログ(Bさんと名前を変えてブログは続けておられます)にすさみ町のことがチョコっと書かれていたので、あまり普段は縁の無いすさみ町ですが、気になったので串本への道すがら、寄り道をしてきました。そのブログには郵便局がどうのこうのと書かれてあったので、『よってって』を出てすぐにナビですさみ町の歴史物を調べてみると歴史民俗資料館というのが出てきたので、きっとその近くやろと思って、気の利かないナビに道案内をお願いしたのでした。

             

平松というおそらくすさみ町の中で一番大きいと思われる交差点を左折です。バイパスが出来ていて川沿いに走り、最初の曲がり角を左折して川を渡り、また左折して海の方へ戻ります。すぐに「目的地付近です」というナビの案内、右側を見ると鳥居が見えたので、「おぉここか」と思って右折すると駐車場らしき広場があったので、そこに車を停めました。先客がいるのか車が3台停めてありましたが、神社の境内には人影はありません。平日のこんな時間に歴史に興味ある人が来てるんやと思っていたのですが・・・。

             

神社は王子神社、熊野古道沿いのことを考え併せると何の変哲もない名前です。

             

今まで知らなかった割には立派な拝殿です。正面のガラス戸の両横の柱に貼られた白い紙には“2拝2拍子1拝”とお願いの仕方を指図までして書かれていました。これはこの神社独自の拝礼方法なのか、田舎の人に解らせるように書いてあるのか・・・でも2拍子はおかしくないですか?2柏手じゃないのかなぁ。

             

拝殿の裏、津波対策の避難階段が作られていますが、この神社の海抜はせいぜい3~4mでしょう。こんな階段では心もとない。

             

こうして見ると、資料館はこの神社の境内の一角にあるように見えます。

             

すさみ町立ですから規模は小さいのですが、どのようなものが陳列されているのか楽しみです。

             

開館を確認しようとして・・・休館日が火曜と土曜やなと思ったですが、早とちり、逆です。普通は開館日などは書いてなくて、休館日を書いていますよね。おまけに年末・年始は休館と念を押してあります。ここは火曜日と土曜日しか開けてないのです。なんというところや!?

             

開いてないなら帰らなければ仕方がありません。それにしてもこの辺りに郵便局は有りません。

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よってって

2013-02-25 05:00:00 | 田舎

停止する理由が無くなったので、支払いを開始すると言う厚生年金の報酬比例部分、12月の支払日に107333円入金されていました。これは一月分、通常は2ヶ月に1度、倍額支払われます。他に入って来る年金は会社の基金年金が2ヶ月に一度45008円、相互扶助部で貯めていた分を全額年金で受け取ることにしているので、3ヶ月に一度107242円となり基金年金は一月当たり25004円、相互扶助部の方は35747、333・・・円と割り切れない額、それはそれでおかしなことですがまぁ横に置いといて、合計約165584円となるわけで、だいたいで十五万円ぐらいと思っていたよりは少しは多いのですが、働いていた頃の手取りの半分くらいです。働いていた頃は税金や保険料などは差し引かれての額ですが、これからは自らがこの年金額から支払わねばなりません。たぶん私一人で生活するにはこれ位あれば足りそうですが、長男を除いて残りの男どもは稼いだお金を自分のためだけに使っている不逞な考えの持ち主で、食費はもちろん、光熱費から町会費に至るまで一切親に任せ切り、いくら我が子とは言え、三男でももう30歳を超えた筈、私には扶養する義務など無いのですがね。まぁ退職手当で補いながら、65歳から支給される筈の厚生年金の定額部分の支払いが開始されるのか、されないのかは定かではありませんし、額も計算できてないままなのですが、65歳に至るまでの後4年このような生活を送るとすると、退職手当は半分ぐらいに目減りすることとなるでしょう。

             

さて先の3連休中には串本へ行こうと決めていたのですが、ダラダラしていたら水曜日になってしまい、重い腰を上げて車を走らせました。昼は結構暖かな南紀地方も夜は寒いし、魚も釣れないので嬉々として足が向くことが無いのかも知れません。
田辺まで高速で2時間足らず、料金所に近いので来る度に産直店『よってって』に寄って買い物をしてから、42号線を走ります。産直店と書きましたが、近隣の農家のものばかり置いているのではありません。遠くの県のものも売られていますが、私は近隣の安い野菜を買うのが目的です。

ここでいつも腹を立てるのは車の停め方、和歌山県の人がそうなのか、何処の県でも田舎の人はそうなのかよく解りませんが、エエ加減なのです。枠内に入ってないとかそういうことではありません。軽自動車を停めるための専用スペースが作られているのにも拘らず、そこに車を停めないで、普通車用のスペースに停めて平気なのです。私は停める所が無くて、軽自動車用のスペースにはみ出しながら停めたことが何度もあります。

             

今回も普通車用のスペースが満杯だった(軽自動車が2台ほど停まっていた)ので、軽のスペースには収まりきらないので、遠いスペースの区切っていない壁際まで停めに行きました。軽自動車用のスペースに停めている軽自動車は皆無でしょ。自分たち用に作ってくれている場所を使わず、店の入口に近いからといって安易に停めると、普通車は軽自動車用のスペースには停められない(はみ出してしまう)ということがまるで分かっていません。はみ出しても停める事は出来るのですが、気持ちのいいもんじゃありません。

             

いっそのこと、普通車用のスペースを店の入口から遠い所に設置し直してくれてもいいと思っています。買い物を終えて出てくると普通車用のスペースはガラ空き、まぁ私が来たタイミングが悪かったのかも知れませんけどね。

             

こんなことを言うと、「(私が思っているような)普通車専用のスペースなんか無いんや、そこは誰が停めてもエエねん」と言う方がおられると思いますが、では何故軽自動車専用のスペースをわざわざたくさん作ったのでしょう。そういうスペースが無いのなら私は文句なんか言いませんよ。

『よってって』のフェンス越しに見える梅畑、丁度満開です。すさみ町の江住まで伸びると言う高速道路、田辺インターの近くも橋桁がいくつも出来ています。

             

42号線は高速道路建設のためのダンプカーがひっきりなしに走っています。すれ違う車の2台に1台はダンプカーなどと大げさな表現もしたくなります。ただ今回は初期の頃と違って、前を走るダンプカーは道を譲ってくれるようになりました。おそらく普通の車から苦情が寄せられたので、会社から強いお達しがあったのでしょう。江住を過ぎるとダンプカーは居なくなりますが、江住から以遠に伸びる工事が始まると、また同じような現象が想像できます。その頃まで私は生きているのか、そんなことを考えると、42号線でダンプと行き交うのはこの工事が終わるまでなのかも知れません。

             

串本へやって来る前日は雨が降る予報でした。実は朝から晴天で雨の予報さえなければ一日早く出れたのですが、いや予報を信じたのが悪かったのかも、雨は夕方になってから降り出したのでした。午後少し外出して戻ると西の工場地帯からは凄い色の煙が出ていました。火事かとも見まがうほどの煙、火事では無かったようですが、古来からお世話になって来た(近世、侵略というお返しをした日本国ですが)隣の大国の煤煙が日本国にも到達して大騒ぎになっていますが、今日の日本国でもこんな煤煙を出す企業もあるにはあるようです。

             

どこであろうと科学的な根拠も無いのに自国の領土だと強調したがる隣の大国は、煙の及ぶ範囲まで我が国の領土だと言い出しかねません。

3~40年前までは今の隣の大国と変わらなかった日本国の汚染度、経済の発展を第一に考えてきた日本国は、豊かな自然を失いました。大阪湾の海や川は幾分戻ったとは言え、とても泳げるような状態ではありません、きっと何年経っても元に戻ることはないでしょう。隣の大国に対して日本国は汚染防止技術を伝えるよりも、経済第一の考え方が如何に大事なものを破壊するかを伝えるべきです。でもそれは今の日本国ではムリ、だって今の日本国の政府も経済第一の考え方なのですから。

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御霊神社

2013-02-22 05:00:00 | 大阪にて

この日、朝食を食べずに長男の家を出てきたので、そろそろお腹も減ってきて、東の方を見ると少しは賑やかそうなので奈良駅の方かと思い、駐車場が無料だったので車はそのまま放置して、歩いて溜め池に沿って賑やかそうな方向へ歩いて行きました。賑やかそうと思った大きな建物はパチンコ屋だったのでがっかり、個人がやってるような小さな食堂は無いかと見渡したけど、あるのは吉野家とか餃子の王将とかチェーン店ばかり、もうモーニングの時間は終わっており、早い昼食をとって北へと奈良駅方面へ歩いて行きました。前に長男と正倉院展を観に行った時は東大寺を抜けて転害門を見つけ、その後その近くにテレビで紹介された手作りの飴屋があるのを知って、その店を目指したのですが、いつまで歩いても奈良駅には届きません。奈良駅より随分北にある筈の転害門ですから、あまり遠くまで行くと再び大安寺まで戻らなければならないので、諦めて大安寺まで戻ることにしました。

             

戻る途中で大安寺という交差点があったので元来た道ではありませんがそこを右折、西に向かって歩くと大安寺参道の案内板があったので、その案内に沿って左折し、暫く歩くと左側に御霊神社という石碑があったので、「もう大安寺も近い筈、ようけ(たくさん)小さい神社があるなぁ」と思いながら、中に入ってみました。

そこに有った立て札には、“本神社は元石清水八幡宮と称す・・・”と書き出してあり、「おいおい、ややこしいことを書くなよ、もう元石清水八幡宮は観て来たぞ」と言う気にさせます。そして同じような行教和尚の話が続き、要約すれば、閼伽井の水を求めて和尚が託宣を受けてここに穴を掘れば清水が湧き出て、石清水と号したとありました。

             

その井戸は原型は留めないけど今もここにあるというのが、この水溜りみたいな池でしょうか、何とも訝しい話だと思いながら神社を出ると、目の前に柵で囲まれた広場があります。歩いて来た時は気にも留めなかったけど、案内板もあるようで興味をそそられました。

             

柵で囲まれていて、入る所がありませんが、入ってはいけないとも書かれていませんし、入らなければ案内板も読めません。適当に柵を越えて中に入ってみました。右側の木が茂っているところが御霊神社です。左の鉄筋の建物は大安寺小学校。

             

柵の中にもコンクリートで区画されたところがあります。
             
             

『史跡 大安寺旧境内』と書かれた石碑、その右に案内板があり、案内板の中には地図もありました。地図によると大安寺横の溜め池は芝池とあり、今しがた歩いてきた東西の道の右には古墳があったようです。

             

昭和29年から発掘調査が始まり、全容が明らかになってき、歴史的、学術的重要性から昭和43年に国の史跡に指定されたようです。そしてここのコンクリートで区画されている所は旧大安寺境内の一画で、経楼があった場所だとか。

             

地図をじっくり見ると(行った時では無く、写真に撮ったもの)元石清水八幡宮より未だ南側に東塔や西塔があり、境内は芝池までにも繋っていることから、芝池は平城京が出来た当時は無かったものなのでしょう。

大安寺の横(推古天皇社)まで戻ってきて、経楼後への道を撮りました。よく見ると突き当たりに白く案内板が見えますが、最初は全く気付きませんでした。帰って来たコースが良かったのだと思っています。

             

少し晴れてきたので、もう一度大安寺の本堂を撮っておきました。

大安寺関連のお話はこれでお仕舞い、2月8日(金)の午前中の話だけで7回分のネタを拾い、大変貴重な時間を費やしたものだと我ながら感心しています。

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推古天皇社

2013-02-21 05:00:00 | 大阪にて

大安寺の駐車場に車を停めた時から、隣に小さな鳥居があったのを見ていたので、元石清水八幡宮からの帰りに1時間ほど歩いたので一旦は車に乗り込んだものの、気を取り直して隣の祠を見てみることにしようと思ったのです。目的の大安寺は観たし、おまけに往馬大社、元石清水八幡宮も観たので、これでネタは1週間分(5日分)はあるとは思って安心していたものの、実際に鳥居の前に立ってみると推古天皇社という石碑が建っており、「おぉ、またネタになる」と喜んだのでした。こんなものばかり載せているのを読んで下さる諸子方々には辟易されているかも知れないと思いながら・・・

                       

元石清水八幡宮からの帰り道、車に乗っていたら見逃しそうな、いや完全に見逃してしまう小さな道標を電柱の傍らに見つけました。右は大安寺、左は薬師寺と書かれています。右の大安寺は歩いても1分ですが、左へ行くと薬師寺とあるのはどうでしょう?地図で見ると確かに左へと行くと大きめの道路に突き当たり、そこでまた左へと曲がるとまっすぐに1,5kmほど歩くと薬師寺に辿り着きます。方向で言うと道標の前に立つと薬師寺は後ろ(西)ということになるのです。私はてっきり大安寺より東(奈良駅)寄りだと思っていました。

             

推古天皇は日本史上、初めての女性天皇であると学校で教えられましたが、正確にはそうではありません。他に初の女帝がいたのかというとそういうことでは無く、推古が女帝になった頃は未だ日本国ではなかったのです。推古は天皇家の帝ですが、日本国になる前の女帝です。日本国が出来るずっと昔、女帝と呼ばれるに相応しい人物がいます、それは魏志倭人伝に出てくる卑弥呼、日本国になる前であってもヤマト政権の推古を初の女帝と呼ぶことが可能なら、それこそ邪馬台国の卑弥呼こそが初の女帝であった可能性があると言っても過言ではないのではないかと思うのです。

                       

狭い境内には「よぉこれだけ集めたな」と感心するぐらい、いろんなものがありますが、こんなものもありました。弘法大師の腰かけ石、どうも安定が悪そうで、座るなら石を横にした方が良いと思わせますが、何処に弘法大師が座ったと言う証拠があるのでしょう。手前に植えられているのは枯れているけどアジサイ、葉が出て花が咲くとこの石は隠れてしまって、見えなくなるのではないかと思います。

                       

奥にはこんな祠も、後ろに見える土手の向こうは比較的大きな溜め池です。この辺りは田んぼや畑も多いので灌漑用に利用されているのでしょう。祠の横に箒が幾本か立て掛けられていますが、境内は朝早くから掃き清められているようで、私のような者が土足でズカズカと入ってもいいものかと、柄にもないことを思ってしまいます。庇の上に金の文字の紋様が・・・何を期待しているのでしょう。

             

狭いのに手水鉢まで有りますが、水は出ていません。小さな池には橋まで架かっています。後ろの森が元石清水八幡宮。

推古の頃の政治は摂政となった聖徳太子が執り行っていました(学校ではそう習った)が、旧来の神道派と外来の仏教派の対立が顕著になり、蘇我家を味方につけた太子の仏教派が勝利し、仏教を中心とした政治が進められていきます。境内にあった案内板には“「外交の刷新、仏教に依て日本民族の思想と生活を改める事」・・・日本の歴史の中でも輝かしい時代であった。”と記されていた(この中にも日本という言葉が2回出てくる)のですが、天皇家の後続争い、蘇我家の野望など血で血を洗う凄惨な時代だった、何処が輝かしいのだ?と私は思っています。

                       

大日如来の碑とともに草鞋が奉納されているのが面白い、これも弘法大師の為せる技でしょうか。

推古天皇の在位は593年~628年、日本という国の名が最初に使われたのは689年なのです。

             

一番左端にあった祠、全ての祠の扉が閉まっていたので中に何があるか分かりませんでした。分かったとしても私には解らないものばかりだと思っています。

                       

この祠の扉にはガラスや紙が貼られていませんでしたので中が見えています。碑のようなものが建っていたので撮ってみたのですが、何が書いてあるのやらさっぱり分かりません。

             

推古天皇社の裏からの様子、裏からなら全体像を写すことが出来ます。鳥居の向こう側は道を隔てて大安寺の境内です。

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元石清水八幡宮・八幡神社

2013-02-20 05:00:00 | 大阪にて

大安寺に近づくとあちらこちらと大安寺への案内看板が出ていたので、頼りないナビに頼らなくても大丈夫、私はどちらかというと先入観が強い人間なので、看板の先にこんもりとした森などが見えてくると、もうそこが目的地だとか思ってしまうのです。

             

フェンスに大安寺への矢印が無かったら、きっとその向こうにある森を目指したかも知れません。この矢印から大安寺までは1分もかかりません。この森は元石清水八幡宮の八幡神社だとか書かれていて、あまりよく飲み込めない表現だったので、余計に興味を惹かれて、大安寺を散歩した後行ってみることにしました。

             

田んぼの前の道を歩くと森の前で鳥居がありました。この道路、田んぼの中の道にしては車がよく通ります。

この八幡神社は大安寺の僧・行教が807年に宇佐八幡を遷し、大安寺の鎮守としたと伝えられているそうです。それだけでは腑に落ちないので調べてみると、石清水八幡宮のHPでは行教が宇佐八幡で宣託を受け石清水八幡宮を清和天皇に建立させたのが860年、その差は53年にもなり、疑問が生じます。元石清水八幡宮などウィキペディアには出ていないだろうと思ったところ、調べてみると有りました。そこでは行教が大安寺内の石清水房へ807年に鎮座させたのは同じで、その後859年に神託によって現の男山へ遷座させたとあり、男山の石清水八幡宮には行教が関与したことは書かれていません。現石清水八幡宮はそのことを否認しているとか、伊勢神宮と並ぶと言う大神宮の元宮が、このような小さな神社であることに納得できないのか、或いは屈辱的だと思っているのかも知れません。

             

森の中の道をまっすぐ歩くと、再び鳥居、その向こうに神社が見えてきました。神社の前に到着したのが最初の写真です。応神や神功を祀っているのは双方同じです。石清水八幡宮のHPに拠ると、全国八幡宮連合会には940社が集結、各県ごとにその神社の名前を紹介しているページがあったので、元石清水八幡宮を否定している現石清水八幡宮が載せているのか興味が湧いたのですが、クリックしても何の表示もされませんでした。

             

こちらは中門、室町時代に建てられたものが江戸時代初期に大きく改修され、現在に至っているというもの、組木などがそのまま残っていて、奈良市の重要文化財になっています。

                       

中門の前庭に並ぶ燈籠、かなりの歴史を感じさせます。天明の年号が見えますから、240年ぐらい前のもの、八條村の地名も見えますが、どの辺りのものなのかは全く分かりません。

             

拝殿の前、八幡宮の神額がありますが、鳥居には何の文字も見えませんでした。建物に比べてかなり新しいものに見受けられます。独特の面白い狛犬の姿が本殿の前に置かれています。

             

何故か鳩の置物が物凄い数ありました。これが生きてるハトならヒッチコックの映画のようで、少々気味が悪いのですが、まぁ人形というより鳥形ですから怖くはありません。

             

本殿を斜め前から、拝殿の奥にある本殿は、全く見えなくしてある神社が多いのですが、ここは無防備です。いったいいくつあるのか勘定はしていませんが、やたらと燈籠が置かれています。

             

こちらは大安寺への道、まっすぐ歩くと突き当たりにあります。この辺りも旧大安寺の境内でした。

             

八幡神社と大安寺の間にあった広場に植えられた梅の木、和歌山の南部(みなべ)や田辺ではもう咲き誇っていますが、奈良ではまだ芽がかすかに出てきたばかりです。

実は私が歩いたのは、このブログで紹介したのと全く逆のコース、写真を反対から見ていったなら、私が歩いたコースと同じになります。鳥居から紹介した方が分かり易いと思ったのでした。

             

10時半ごろになって少し天気は回復してきました。右側が大安寺の方向です。

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大安寺 Ⅱ

2013-02-19 05:00:00 | 大阪にて

大安寺が平城京に建てられた時には約8万坪もの広さがあったそうですが、現在はそのような大規模なものではありません。でも境内は意外と広く、お堂の他にも目を惹くものがたくさんありました。

大安寺は、松永久秀の起こした戦乱と1596年の大地震で伽藍が全て壊れ、衰退の一途を辿ります。以降江戸時代の中ごろに海龍王寺の僧が大安寺再興を願い出るまで寂れたものだったようですが、明治になってから細々と復興し、今は癌封じの祈祷で有名で、訪れる人も多いようです。

             

門を入ると正面には宝物館があります(入った時にはそれと気付きません)。その手前には石塔や何等かの碑が並び、冬場でも美しい木々が目を和ませます。

             

宝物館に入ろうとは思いませんが、何かポスターが貼ってあるのが気になり、近寄ったものの両方とも既に終了している行事でした。

             

歓談できるように(?)と机や椅子が並べられています。この写真の左側にある碑が、このページの最初の写真の歌碑、大伴家持の詩、これくらい大きくしないと皆さんに読んでいただけないと思ったのです。“うつせみは数なき身なり山川の さやけき見つつ道をたずねな”意味は「この世にいる私は物の数にも入らないくらいの儚い身、あの山や川の澄み切った自然のさやけさの中に入って、心を研ぎ澄ませて悟りの道を辿りたいものだ」と政争の泥沼の中で一人間として自重と分別を諭したのでした。

この碑は『奈良市に万葉歌碑を建てる会』が建てたもの、何処に誰のどのような他の万葉歌碑があるのか、それも知りたいものだと思っています。

                       

枝先に行くほどピンクが増すこの木は何と言う木なのでしょう。葉や花が付いてないのに何とも言えない風情が感じられ、この木の後方にある絵馬がカラカラと風に吹かれて鳴る音が、静けさの中でふと我に帰ることを促せます。でも写真で見ると何故か薄気味悪いですね。

       

本堂の右手奥にはお地蔵さんや歴代の大安寺に係わった僧侶の名が刻まれた碑などが並んでいました、中には空海の名も。設立当初の大安寺は内外の僧侶が800人以上も宿居した言わば迎賓館的、仏教大学的な役目も背負っていたといいます。

                       

数ある燈籠の中の一つに目を惹く赤いものが・・・誰が置いたのか、小さいダルマがポツンと置かれていました。

             

昨日載せた中門跡の碑もこの南大門跡の碑もそんなに離れた場所に有ったわけではありません。どちらも境内の中にありましたが、南大門は境内の外にあったことが分かっています。案外いい加減に碑を建てたものだと思ってしまいますが、外には建てられなかったのかも知れません。

             

基壇の上に印されたこの丸(門の外側にもある)は、元の南大門跡を示すものとか、それなら境内は今のお堂の位置よりもっと北側にあったに違いありません。

             

南都七寺のうち東大寺興福寺薬師寺元興寺法隆寺、そしてこの大安寺を訪れました。残るは西大寺のみ、実はこの後平城京・大極殿の裏を通って西大寺に赴こうとしたのですが、ナビの案内は車1台通るのに四苦八苦するような細い道を指示、駐車場も分からなかったし、三男が帰ってきてくれ(車に用があったので私に用事があったのではありません)と電話してきたので、西大寺には行かずに帰ってきてしまいました。

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大安寺

2013-02-18 05:00:00 | 大阪にて

北朝鮮が3回目となる核実験を強行しました。民主主義人民共和国と名付けられた国家で、今やアメリカでも削減に取り組もうとし、世界中の人民が懸念している核兵器を「どうや」と言わんばかりに(朝鮮語で「どうや」をどう書くか知りません)振り回す、民主主義のかけらも無い国家の有様におぞましいものを感じます。一方では餓死者が年間何万人も出ると言う国、経済は軍事に向けるべき状況ではないでしょう。金一族独裁国家とも言うべき北朝鮮、最高指導者が若すぎる感もあるし、金正恩なんかより吉本新喜劇の烏川耕一(金正恩に似ているとツッコまれてる)の方がなんぼか民主主義を知ってると思うのでマシかと思ってしまうのです。

いつぞやは大安寺に行きたいと思っていたことのある私、ナビの不具合で往馬大社と言う思わぬネタの拾いものをしたのですが、目標はあくまで南都七寺の一つである大安寺、南都七寺とは大安寺の他に興福寺・東大寺・西大寺・薬師寺・元興寺と少し離れた斑鳩にある法隆寺、法隆寺は南都から離れているので唐招提寺の方が南都七寺に相応しいと思うのですが・・・。

             

往馬大社から高速を経て30分ぐらいで大安寺に到着、もう10時前でした。朝出発した時は晴れていた空も時々雪が舞う曇り空に変わり、降雪を感じたのは今冬初めてのことでした。無料駐車場もあり、思ったより小じんまりしたお寺です。門も大々的ではありませんが、キラキラと菊の紋が輝いていました。

                       

大安寺は日本最初の官寺、聖徳太子が建立したと言われる熊凝精舎が始まりとされていますが、その後百済大寺、高市大寺、大官大寺と遷寺、百済も高市も地名ですが、大官大寺は現在の明日香村にあり、昭和初期ごろまで伽藍の礎石が露出していたらしく、その礎石は橿原神宮造営のために使われたそうです。当時から大官大寺の礎石として知られていたにも係わらず、よりによって神武を祀り、官幣大社である神社のために利用するなんて、何と言う暴挙でしょうか。橿原神宮側から断るなり、文化庁側から抗議の声が上がっても不思議ではありません。この時代の暗い部分が浮き彫りにされた事件なのかも知れません。

             

大官大寺を遷都に際して平城京に移築、東大寺・西大寺と並んで南大寺とも呼ばれていたとか、では北大寺は何処なのか?南都七寺で東大寺より北に建つ寺院はありません。

金曜日の午前10時、誰として参拝する人を見かけません。

             

本堂の左手奥に建つよく似た造りのお堂が二つ。右側のお堂には『嘶堂』と書かれていました。嘶は嘶く(いななく)という字であり、よく見ると馬頭観音が祀られているようでした。左側のお堂は御写経道場とも阿字観道場とも書かれていました。

             

二つのお堂の奥にも真新しいお堂があり、未だに内観の補修に対する募金が行われている護摩堂だと思います。

             

二つのお堂の前から振り返ると、さほど大きくもありませんが、竹林が目立ちます。

             

竹林の手前にも珍しい竹が植えられており、左が蘇芳竹、真ん中が孟宗金明竹。どちらも名前を記した立て札が立っていたので分かったのですが、本堂の左横に配置されています。

                       

竹林の入口、こちらは門の方からの入口です。

             

左が奥から帰って来た時に出会う入口、『美流孔塚』と書かれています。真ん中が中にあった碑、これが美流孔塚かと思ったのですが、どうやら違ったようです。右の写真に『いのちの碑』と区別してあり、美流孔(みるく)塚は乳癌治癒の祈願塚として撫でて祈願するよう書かれています。なので乳癌になど罹ろう筈の無い私には撫でる必要も無いので、何処にあるのか探しもしていません。

                       

これが『いのちの碑』、心臓病を支えるペースメーカーが埋め込まれているそうです。石工の手に拠るものでは無さそうな弱々しく彫られた“いのち”、よく見ないと彫りこまれていることすら判りません。

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往馬大社 Ⅱ

2013-02-15 05:00:00 | 大阪にて

往馬大社と名乗っていますが、正式には『往馬坐伊古麻都比古神社』というそうで、坐の後の“伊古麻”は「いこま」と読み、生駒山を神体とする神社であったことが窺え、通称は生駒神社であるそうです。どちらも「いこまたいしゃ」と読むと言いますが、“いこま”と打っても“往馬”とは変換してくれません。神功や仲哀や応神といった天皇を祀り、神功の父や母も祀られていますが、神功が生駒山とどんな関係があったのか、どうやら母親が葛城の人のようですが、どうも作り話のような気がしてなりません。

拝殿の奥には本宮大社のような感じで本殿が7つ並んでいます。こういう形式を見ると「オッ!格式あるやん」と思ってしまいます。

                       

拝殿の前に立つ二本の御神木、どちらも杉の木ですが、右側の木は雷が落ちて焼けています。左の木はこの境内で一番高い木だそうです。真ん中から後光が差しているように見えますか?

       

左は英霊殿、真ん中は祓戸社、右は戎神社。拝殿から左の方にもこうやって社が並んでいます。祓戸社の手前にある注連縄の張ってある木も御神木、上溝桜(うわずみざくら)というそうで、大嘗祭などにも献上されると言います。

             

拝殿の奥には酒樽があり、なんと往馬というような銘柄もあるようです。本殿の前にも一升瓶が並んでいます。なんとも酒の好きな神様方のようです。

             

登って来た階段を下らずに、適当にあった山道らしき道を下りました。見えてきたのが下の境内、境内と言うのではないかも知れません。

             

椎の社の碑がありましたが、碑の奥の舎屋が椎の社かと思ったのですがそうではないらしく、この舎屋の前に椎の社と彫られた燈籠が建っています。ではこの舎屋が椎の社かと言えば、それも納得し難いものがあります。いくつかの舎があり、その全てを総称して椎の社と言うのかも知れません。

                       

この立札、面白いですね。“神域内への犬・猫の立ち入りは出来るだけご遠慮願います”ですって、出来るだけと書いてあるのが現実的です。犬や猫が字を読めるわけがありませんものね。その下の新しいものにはエアガンの禁止の字、広くて隠れる所が多い場所ですから、エアガンで遊ぶ人がいるんでしょうね。

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