知覧と言えばもう一つ行ってみたいと思っていたところが『知覧特攻平和会館』です。平和会館なのか平和祈念館なのかどっちかよく分かってなかったのですが、一も二も無く敵であるアメリカ艦隊に体当たりすべく飛び立った地とはどのようなところだったのかを知りたかったのです。なので会館自体はそんなに興味がありませんでした。
でも当時を偲ばせるような所は何も無く、要らざるものは撤去してしまい、平和会館のある敷地と化したり、田畑や民家に取って代わられ、武家屋敷が整然と残っているのとは対照的です。特攻へと飛び立った青年飛行兵が、あたかも日本の平和のために体当たりしたのだというような解説付きの平和会館など、平和の為に何の役に立ちましょうか?
武家屋敷から直接この平和会館に2時前にやってきたのですが、駐車場を見つけて降り立ったところは、どうやらまたまた裏側、逆から侵入したようです。建物らしきものの方へ歩いていくと、左手にこの整然とした石灯籠の群れに気が付きます。知覧飛行場から飛び立ち戻らなかった飛行兵は439人に上るとか、その数だけ燈籠が建っているのかも知れません。
これは三角兵舎と呼ばれる建物、特攻へと飛び立つ兵士が数日間を過ごしたと言われるもので、この屋根の上に樹木などの葉を載せて敵の目から逃れていたと言います。勿論、屋根の下は掘ってあり、寝起きが出来るようになっていましたが、要するに縄文後期~弥生時代の竪穴式住居を参考にしたのですね。
中には垂直尾翼の残骸が展示されていました。何故ここに?という疑問が起こりますが、平和会館の中は撮影禁止であり、唯一戦争の残骸らしきものをこの場に置くことにより、撮影できるようにしたのではないかと思われます。
青少年飛行兵が実際共に寝起きした場所ではありません。ただの再現です。実際には三角兵舎は別の場所にあったのです。
N田君は私が写真を撮ろうとすると「止めちょき!気味が悪いバイ」などと言うのですが、私は平気です。こんな写真も展示してあったと皆さんに報告しなければなりません。これと同じ写真は会館にもありましたが、会館では写すことは出来ないのです。
館内で最初に思ったのは特攻隊員たちの階級が皆高いこと、年齢からいけば未だ2等兵、1等兵ぐらいの年齢で少尉や大尉、中には少佐、中佐というのも有ります。当時の戦争指導者たちの悪知恵でしょうか。何故特攻などという戦術を考えた奴が自ら志願しないのか、戦争責任のあるものが率先して敵に体当たりしないのか、皆自分の命は大事なのですね。そんな奴らに騙された特攻隊員たちはそういう意味では可哀想でもあります。
特攻隊員たちは人形を手にして喜んでいるようですが、この人形は付近の女子学生たちが作ったもの、彼女たちは『なでしこ隊』と呼ばれていたそうで、女子サッカーの『なでしこジャパン』はこんな戦争から由来しているのかと思うと、腹が立ってきました。
この写真の特攻隊員たちは長袖の下にも白いマフラーのようなものを着込んでいます。特攻が行われたのは昭和20年の4月から7月までの決して寒くは無い時期です。確かに空高く舞い上がると空気が薄く、寒いそうですが、ここは地上です。そういう事実と突き合わすとこの写真が本当に知覧基地のものなのか、何か大きな勘違いをさせられているのではないかと、疑問が湧いてきます。
平和会館外にあった観音堂。
会館内には特攻隊員の遺影や遺書、手紙などが展示されており、資料としては貴重なものが多いとは思いますが、撮影禁止でもあり、時間も限られていることから一所に留まって、読んでいるわけにもいかず、私としては詳しくは解らずじまいで、納得のいかない見学でした。
語り部による講話を30分ばかり聞きましたが、私にとっては通り一遍の話でしたが、N田君には感動的な話だったようで、「涙が何度も出た」と言っていました。
特攻平和観音像というのが1955年に建立されたのだそうですが、特攻と平和とは私の中では結びつきません。日本とアメリカの戦争はどちらも侵略国家同士のケンカであり、仕掛けたのは日本国側であり、力量の差から追い詰められたとしても、人の命を無駄にして戦争を続けるより、さっさと敗北宣言して戦争を終結させるべきだったと思うのです。
敗戦国になった時、当時の政治や軍事の指導者たちは何を恐れていたのか、その恐怖から逃れるために(負けると分かっていたのに)ウソを言いまくって、多くの命を無駄に落し続けたのです。
ウソに気付けなかった国民の方にも責任は無いことも無い、如何に真実を知らされないまま放置することが危険なのか、それは今回の原発問題でも同じでしょう。
練習機と同じ場所に置かれている特攻銅像、『とこしえに』と書かれています。南九州市のサイトでは“特攻勇士が身を以て示された崇高至純の殉国精神を顕彰”とありましたが、この戦争の目指した平和とは八紘一宇の精神であり、神国日本がアジアの盟主となることを目論んでいたのです。更に“ご英霊をお慰め申し上げ、世界の恒久平和を祈念するために・・・”そのために多くの朝鮮人・中国人を犠牲にしてきたことに何の反省も無いし、こんなことが永久に続いたのでは堪ったものではありません。
この平和会館には憲法第9条にうたう“・・・国権の発動たる戦争と、武力による威嚇または武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する”という意味での平和の観点が全く無さそうです。
特攻と言うような人間として指示してはいけないような戦術を考え、年端もいかない若者を死に追いやった責任などには頬被りし、英霊を慰めるのは良いとしても、侵略戦争への反省も無く、またぞろ世界平和などというようなことを口にするようでは、平和会館などと呼ぶには相応しくないような気がします。
突然の間髪はナイスでした、和歌山の話題は人気ありますね、九州はマイナーなのかな?
もう少し突然速報もいいかもね。九州旅行編はブログ完結しました?、今回も内容は充分満足です、今回の旅行で私は単純に一番感動しました。あと少しの思い出に期待をします、よろしく。
九州旅行の話はあと7回は続くでしょう。
知覧武家屋敷の心霊?写真の謎が解けましたが、読みましたか?
小童と申します。
文中の写真の隊員がマフラーを巻いているので夏季の知覧ではないのでは?との文を読みコメントさせていただきます。
海軍航空隊と陸軍航空隊に所属していた方にお聴きした話では、当時の青年の憧れは航空隊、それも海軍航空隊で無ければダメだったそうです。
理由は三つで、「一つ、マフラーが巻ける 二つ、髪が伸ばせる 三つ、女にモテる」だったそうです。
つまり、マフラーは暑い、寒いではなくカッコいいから巻いていたわけです。
時代は変わってもカッコいいからとツッパリは真夏でもハイカラーの長ランを着て、街行く女学生は可愛いからと真冬でも下着が見えそうな短いスカートを履く、これと同じなのではないでしょうか
ただ現代とは違って、強制的な中からの選択ですから、今の若者がいろんな衣服を身につけることが出来るのとは違い、センスを磨くと言うようなことは出来なかったわけです(現在の若者がセンスあるとは思ってはいませんがね)。戦時と平和の違いがこんなところにも表れているんですね。
田母神俊雄氏の本でも読んでみてください。
思想は自由ですが思い込みで勝手なことを書き散らして
いい歳して恥ずかしくないのですか