ぼんくら放浪記

Blogを綴ることによって、自分のぼんくらさを自己点検しています。

残念さんの墓(大物界隈Ⅱ)

2007-02-28 05:10:45 | 大阪にて
蛤御門の変で敗れた長州の足軽の子=山本文之助が国許へ逃げる途中、ここ尼崎・大物の地で捕らえられ、即日自害したとあります。

「残念で口惜しい。もし口惜しいことがあれば、自分に参れば一つだけ願いを叶えてやる」という書置きがあったそうで、その噂を聞いた当時の大阪の人々は奉行所が困るほど、こぞってこの墓に参詣したらしい。

     

尼崎の地に来て、初めてこういう話を聞いたので、俄かには信じられませんが、自分にも何か口惜しいことが無かったか考えてしまいます。
是非叶えてほしいことをあれこれ考えているのですが、一つとなるとなかなか「これだっ!」と出てくるものではありません。

          

皆さん、何か口惜しくて叶えてほしいことはありませんか?

場所は阪神電車『大物駅』北東側、県立尼崎病院を囲むようにある大物公園の外周東側の道沿いにありますよ。


隣の大物公園には『D51』が展示されており、今は車内の構造にアスベストが使用されてるとかで立ち入り出来ないよう柵が設けられています。

    

神戸駅の南側に置かれていたD51よりはキレイにしてあったです。


          

1本だけ琉球桜が咲いていました。右上に少し写り込んでるのが県立尼崎病院です。

大物界隈

2007-02-27 05:48:04 | 大阪にて
尼崎城址から東に向かって歩を進めると、大物(だいもつ)という町に出ます。
阪神電車の大物駅があります。

最初に目に付くのが大物主神社、境内には別段目障りになるようなものも、目を引くようなものもありません。

          

この辺りは公園が多いのが特徴でしょうか。
歴史の散歩みちと書かれた碑が数個ありました。

          

入船という名前はよく聞きますが、着船という言葉はあまり聞き慣れませんね。
意味は同じなんでしょうね。

          

両方とも橋の跡ですから、この辺りには川が流れていて、沢山の橋が架かっていたのでしょう。

そして碑の先には必ず公園がありました。

          

上記は駅の東側でしたが、西側になにやら戦跡の碑があるようなので行ってみると・・・

          

先の戦争の跡かと思えば、中世戦国時代の戦跡だとか。
えらい古いものが残っていたものですが、碑自体いつ造られたものなのか?

          

室町幕府の権力者・細川氏内部での争いで当時尼崎城主細川高国と甥の晴元が1531年この地で戦ったとありますが、高国が捕まって広徳寺で切腹した際には、敵将・三好康之に捕らえられたと書いてありました。
別段矛盾するわけではありませんが、ここでの説明と広徳寺での説明に統一性を持たせてほしいものです。

ここでの自刃したという説明と、広徳寺での切腹させられたという説明では多少意味が違ってきます。


梅の木公園(梅満開Ⅱ)

2007-02-26 05:32:22 | 大阪にて
熊野神社の北西に隣接して、梅の木公園と名付けられた公園があります。
公園の南側一帯に梅の木が植えられていて、今当に満開です。

          

ざっと数えて三十数本ってとこです。30万本ではありません。
白い梅は映り難いのですが、ややマシに撮れたので載せることに・・・

賑々しい枝垂れ梅はありません。

          

やはり梅は木全体を見るより、花びらを見るのがキレイなのか?

       
             

熊野神社で写真を撮ってる方が教えてくれたのですが、雄しべの先の黄色い花粉が無くなってるのは、もう古いものだそうです。

          

梅の里の交差点の近くなのですが、熊野神社といい、この公園といい、里の名前を辱めないよう、健気に咲いているようです。

桜井神社

2007-02-23 06:16:23 | 大阪にて
桜が咲く頃にはきれいな風景になりそうです。

図書館の南側に位置しています。

          

図書館側から撮ったものですが、実はこちらは裏側。
鳥居の右横に小さな碑があります。

          

古くて読めないのか、白いペンキで上書きされています。
旧三の丸跡だとか。ここが尼崎城の西の端、すぐ横を流れる庄下川は堀として使われていたのです。

ですから、尼崎城の天守は図書館のあるところではありません。
もっと東です。

          

何やら大きな石碑。書かれている文は解りません。
で、左横の説明文を・・・

          

写真では読みづらいですが、“この碑は幕末の尼崎藩主・桜井忠興が日本赤十字社結成に際し、多大な奉仕活動を行った事跡に対し・・・尼崎城の石を用いて建てた”と記されています。
“西南戦争では私財を擲って、敵味方の区別無く手当てを行い、これが博愛社の起こりで明治20年に日本赤十字社と改名された”あります。

          

これは旧尼崎城天守の棟瓦です。
この説明文が傑作です。

『古い奴だとお笑いでしょうが』の書き出しで始まっています。
もうこれを書いた人のユニークさが現れています。
続いて『「古城」の歌中に“あーあー仰げば侘びし天守閣”とありますように・・・表面はくたびれておりますが、中身はまだまだしっかりしております。どうぞ末永く可愛がって下さい。』で終わっています。

何を隠そう私小学校5年の学芸会で、この三橋美智也が唄った『古城』の剣舞を演じたのでした。どのように舞ったのか全然覚えておりませんが・・・

          

博愛社の記念碑といい、棟瓦の立て札といい、こういうことを自慢に建っているのは、何処かのキナ臭い八幡神社と違い、喜ぶべきことではないでしょうか。

尼崎城

2007-02-22 06:14:44 | 大阪にて
梅田から阪神電車に乗って尼崎の駅に近づくと、停まる寸前に南東の方角に城跡のようなものが見えます。城塁が僅かにあるだけなので、初めは何だろうと思っていました。

尼崎に職場が変わって、近辺の地図をよく見るようになって、尼崎城の跡であることを初めて知りました。

          

城塁の外は公園、中は図書館になっています。
この辺りは43号線までの間に高校・中学校・小学校に幼稚園まであり、文教地域です。
ここは江戸時代前期の文学者契沖さんの生誕地だそうです。

町内を歩いてみると、一番南に位置する小学校の一角に碑がありました。

          

ここは尼崎城の西の端だったところでしょうか?

          

寺町でもそうでしたが、この案内板にしても尼崎市の教育委員会は親切ですね。
でもこの前の西長洲八幡神社にはこうした案内板はありませんでした。当然ですよねという感想を持ちます。

          

庄下川にかかる開明橋から北方向を見て、中央図書館を撮ってみました。
この後ろに桜井神社という神社があります。

邂逅の森

2007-02-21 05:21:39 | 読書
骨折して家で療養中に読んだ最後の本です。

熊谷達也著『邂逅の森』。

今頃載せるのは遅いのですが、実はこの後6冊の本を読み、現在7冊目と8冊目と9冊目を併読中なのです。

          

大正初期、山形・月山麓で熊とカモシカを狙うマタギ『松橋富治』と老熊『ヌシ』との出会い、そして決死の格闘を繰り広げる物語。

富治が初めて心を寄せた富豪の娘『文枝』との出逢い、孕ませてしまった文枝の父の怒りに触れた富治はマタギの世界に住めなくなり、阿仁の鉱山で鉱夫として働きそこで知り合いマタギの世界に戻るきっかけをつくる『小太郎』、小太郎とは血が繋がってない姉の『イク』と所帯を持つ過程、熊の胆を売りさばく富山の薬売り『沢田喜三郎』との確執、文枝が産んだ富治との子『孝之助』・・・テーマの『邂逅』通り、熊谷は富治とたくさんの人との出逢いを綴ったが、狙いは最後。老熊『ヌシ』との邂逅だった。

感動するという表現には少し遠いのですが、大正初期の東北のマタギや鉱山の様子が目に浮かぶように描かれていて、人としての考え方もしっかりしていて、誠実な感じのする小説でした。

梅満開

2007-02-20 05:23:33 | 大阪にて
前述の熊野神社。前回はチラホラ咲いていただけだったのが、もう満開です。

         

写真は鳥居前のもので、先に通った時には全然咲いていなかったのですが、梅としてはこれ位が見頃かなという気がします。

          

1番目の梅は枝垂れていますが、この梅は上に向かって伸びていっています。
梅にもいろいろ種類があるものだと教えられました。

ただ私の固定観念かも知れませんが、梅は2番目の写真のように侘び寂びしいのが梅らしく、あまり賑々しいのはどうかと・・・思う次第であります。

白い梅は目立たないのでUPで撮りました。

          

この神社ではもうじき茶会が開かれるそうです。

          

隣の理解に苦しむお寺が見えています。

          

西長洲八幡神社

2007-02-19 05:30:59 | 大阪にて
前述の八幡公園の南に隣接する西長洲八幡神社です。
八幡公園は普通に考えて西長洲公園と名付けられそうな公園なのに、わざわざ八幡公園と銘打っているからには、この神社の影響が強いと思われます。

          

境内の東側に『遥拝』『八紘一宇』と記された碑があります。
公園の『大東亜共栄圏』と記された平和塔とイメージが重なります。

八紘一宇とは「天下を一つの家のようにする」と言う意味で使われており、先の戦争では“アジアは地域最高の先進国である日本が家長として率いる。よって諸国は日本を中心とした秩序に従うべし”と、戦争の正当化のために使われた。

それを東に向かって遥拝せよと言うのだが、東とはおそらく『靖国神社』であるのでしょう。

          

『報国』とは「国恩にむくいるために働くこと」の意味ですが、それだけでは訳が解らないですね。
今も昔も重い税金を搾り取られながら生きていってるのに、国が私達に特別に何かしてくれたことがあるのですか?

ましてや日本国は私達日本人一人一人が寄り集まって出来ている国家であって、誰もいなければ国自体が存在しないのであり、言わば自分達のために働くのであって、国の恩などと押し付けがましく言わないでもらいたいのです。

では何故『報国』なる言葉が記されたのか・・・これはもう『天皇の恩』としか理解できません。

“天皇の恩にむくいるために働け”とは、“天皇のために死んでこい”と言われ出征して行った多くの若者を想起させられます。天皇とはなんと惨いことを国民にさせたのでしょう。
それでも当時は『報国』の精神が当たり前だったのですね。

八幡公園

2007-02-16 05:21:27 | 大阪にて
我が社から南へ200mほど歩くと八幡公園があり、入り口にはこんな像が座っています。

寒いので誰かが着せたのか、忘れ物をわかり易く置いてあげたのかは判りませんが、長いことそのままなので、どうやら忘れ物ではないようです。

          

公園内の一角に『平和塔』のモニュメントが目立つように設置されています。
しかし、果たして平和への希求を主題としているものなのか?

          

由来の文に“大東亜戦争に於いて戦死され靖国の神として祭祀されている・・・”とあり、西長洲の空襲で没された3百余名やこの地から出兵し戦死された19名の御霊を慰めるのは当然のことながら、中国や東南アジアに出兵し、大東亜共栄圏と称して日本を盟主とした体制を造り、事実上の日本の植民地支配を目指した戦争の呼称『大東亜戦争』をわざわざ使用しているのは、前の戦争が侵略戦争であったという反省の欠如が露呈していると指摘せざるを得ないのです。

しかも、靖国では前の戦争で戦死すると神になるという、科学的には有り得ないことを未だ信じている節が見え見えです。

更には、この地の出身者で前の戦争で死亡されたのは西長洲への空爆や靖国に祀られた人たちだけでは無かったはずだと思うのです。

今から45年前とは言え、戦後17年も経ってから建てられたこの碑は、石の新しさからして最近になって取り替えられたと簡単に推察できるのですが、建立当時すでに戦後民主主義が定着していたと思える時期だけに、何か平和主義や民主主義に対して挑戦的なものを感じてしまうのです。

          

ところでこの像、市役所横の橘公園にあったものですが、服こそ着せてもらってませんが、八幡公園のものとそっくりです。

だからといって、尼崎市のすべての公園にこの手の像があるわけではありません。

理解に苦しむ

2007-02-15 05:20:20 | 大阪にて
昨日に続いて、理解に苦しむお話です。

私共の職場を出て、西へと歩を進めると熊野神社があると綴りましたが、その手前に隣接してお寺があります。

住職さんがありがたいお教えを書いて下さっておられるのでしょうね。

『諸行無常 今以外に喜ぶ場所なし』

これが仏教の教えなのでしょうか?
私には解らない。

『諸行無常』は平家物語の最初に出てくる言葉ですが、どんな人もいつまでも権勢に奢っていることは儘ならない、必ず没落する時が来るという慣わしを説いたものです。

だから今こそを大事にせよと言うのでしょうか?
逆に言えば「今さえ良ければいい」ということになるでしょう。
自分だけが、自分達だけが良ければよいのだというふうに言いたいのですか?

それも“今”は時間が単位であるのに、“場所”なしと空間という単位で受けています。単位が違うでしょう・・・仏教はそんな次元の違うものをも比べてしまうのでしょうか?

私は『諸行無常』は、いつまでも自分たちだけが権勢を誇って生きていけないのだから、つまり世の中自体が運動体なのだから、新しい世界に向かって日々努力せよと教えているように思っていたのです。

          

これは何ですか?

『山門不幸』・・・全く理解できません。
そんなこと書いて、よく門徒さんが追いてくるものだと不思議です。

次にお寺の名前です。

          

『光明寺』浄土宗の寺だと思っていると、土に“、”が付いています。
この字、PCでは出てきません。

浄土宗というのが間違っているのでしょうか?

          

何故か慈悲の無さそうな、自分だけが良かったらエエみたいな顔をした大仏が座っておいででした。