ぼんくら放浪記

Blogを綴ることによって、自分のぼんくらさを自己点検しています。

12月21日の釣り

2011-12-28 05:00:00 | 田舎

これで三日目、同じようなパターンで釣っていても釣れないので、この日は何とか大物を釣ってやろうと少しは気合を入れて臨んだのでした。

どうしたのかと言うと、道糸を張り気味にしてウキのアタリを見るんではなく、竿にダイレクトにアタリを感じながら魚を掛けてみようという試みです。そしてエサの大きさも色々変えてみました。ずっと大きいままのエサを付けていたのですが、半分ぐらいの大きさでやってみようと思ったのです・・・決してエサをケチっているわけではありません。

2号のオモリを付けているのでウキからオモリまではまっすぐ下に張っているはずで、オモリから下がフカセ状態、でもハリスは半ヒロと短いのです。道糸を張ってアタリを感じることが出来るのか不安でしたがやってみる価値はあろうと思ったのでした。

             

毎回少しづつ波止場に着くのが早くなって、この日は8時ごろ、それでもすでにネコやサギはお待ちかねのようです。

             

そしてイソヒヨでしょうか、小さい小鳥も何か欲しそうな目でウロウロしています。イソヒヨってヒヨドリの仲間じゃないんですって。

             

ウキに出るヒョコヒョコとするアタリも糸を張っていると竿にガツガツとアタリが伝わりますが、魚が乗るという感じではありません。ただ糸を引っ張っている感じなので、魚からするとエサが逃げていくような感じになるのでしょうか。

この日最初に釣れたのがこのサンバソウ、石鯛の子供ですね。あのヒョコヒョコとするアタリはアジのアタリだけでは無かったのです。

硬そうなのでネコにもサギにもあげずに海へ返してあげました。大きくなったら誰かに釣られるんでしょうね。

             

そしてついにタモを使わなければならない場面が・・・よく引いたと思ったのですが27cm止まりでした。もう一息、せめて30cmオーバーが釣れればなぁと思います。

             

この釣法、なかなかイケます。針に魚が乗るのは稀ですが、スーッとウキが入るのを待っているよりはマシなのです。完全にこちらから攻めている感じです。

アジもウキのアタリを見つめているよりは釣れてきます。

             

ネコが待っていたので食べてもらいました。

             

前日までよりは結構釣れるのですが、全て手のひらサイズ、キープしようとは思わないのです。ネコはグレを食べんやろから、サギがおればサギにあげます。居なければ海へ戻してやります。

             

アジはスカリに入れても網の目から逃げていくので、少し大きめのものはアジ釣りをしている人に引き取ってもらいます。小さいものはサギやネコのエサになります。最初からバケツにでもキープしておけば、ちょっとした干物にでも出来たのにと思います。

             

こんなグレがワンサカと湧いています。フカセ釣りしたほうがマシかと思うほど上の方でエサを食っているのです。

             

12時の鐘が鳴ったので車へ戻って昼食、3日間オークワで買った398円の弁当を食べ続けました。そして気合を入れ直して釣りを再開、何気に沖を見ていると大きな白い何かが漂っています。ここの潮は左右には流れが変わりますが、いつも手前に当たってくるので、漂流物はどんどん手前に寄ってきます。どんどんと手前に寄ってくるうちに釣りをしていた皆が気付いて、それが魚であることを確認、でもまだ生きています。尾鰭を動かして必死に泳ごうとしているのですが、浮き袋が作用しているのか腹を上にして裏返ったまま、空気を抜いてやるとちゃんと泳げるのではないかと思ったのですが、そんなことよりタモで掬うことが頭を過ぎります。

波止の中央辺りに漂着したのですが、この日は誰もタモを持っておらず、そのまま潮が左へと流れて私の方に近寄ってきます。丁度私の真下まで漂ってきたので私がタモで掬いました。

             

掬って波止場にいる釣り人に要りませんかと尋ねまわっても皆が要らないと言います。きっと病気にでもかかっていると思ったのでしょう。そこで仲良くなった大裕丸の漁師さんにこれこれこうで鯛を掬ったけど、食べても大丈夫なのか聞いてみました。全然問題ないと答えたので家に持ち帰って捌き、その日のうちに頭をあら炊きに、翌日半身を串本の住人なのに魚を捌けない人にあげ、半身は自分で塩焼きにして食べてしまったのでした。

いやはや魚は釣れなかったけど、ラッキーな日なのでした。

さて今日は御用納め、あまり出勤してないと気が付きませんでした。今年の『ぼんくら放浪記』は、本日を以て終了といたします。一年間ご愛読いただきました皆様ありがとうございました。来年の初ブログは一月四日から、釣りの続きになるのか、年始のご挨拶かは決めていませんが、来年もよろしくお願いいたします。尚、私の初出勤は五日からになります。

             gooリサーチモニターに登録!

             

12月20日の釣り

2011-12-27 05:00:00 | 田舎

『クエ』をタラフク食って、焼酎をタラフク飲んで、いつもなら8時半ごろの電車で帰るのに、前日は最終の9時半ごろの電車で帰るまで粘り、夜の寒さも感じず朝までぐっすり眠ったのでした。

前日のような気合の入れ方では拙いので、多少は気を入れて、8時過ぎには家を出て9時前に大島漁港へ到着です。ラッキーなことにエギングの若い子を除いて誰も来ていません。

ここの釣り場は陽が射してくるのが遅く、左方にある山の影が覆っている間は風が無くても寒いのです。今の季節で10時を超えると影がなくなりポカポカと暖かな日差しとなってきます。

             

毎日ではありませんが、この日は来た時からトンビがやたらと飛んでいて、丁度ひと月前を思い出します。

             

この日はカモメではなくてトンビがナブラを襲撃します。月に何度かはこういう日があるのでしょうね。波止場を襲ってくることは無いので傍観していますが、見ている分には壮観です。それにしてもいい天気ですね。

             

相変わらずヒョコヒョコしたアタリ、時々アジが掛かります。20cmぐらいに成長したアジも掛かるのでこの日はそのサイズのものをスカリにキープしておいたのですが、いつの間にかいなくなってました。

             

11時を超えて大きなタモを持ったおばちゃんがやって来て、「今日は釣れてますか」と聞くので、「アジばっかりやで」と答えました。大きなタモを持っていたのでグレ釣りをするのかと思っていたら、先端でサビキでアジ狙いです。私のタモと違って目も粗いので何に使うのか怪訝ですが、他人のことは放っておきましょう。駐車場に行くと神戸ナンバーの車です。あのおばちゃん(きっと私より年上だと思う)が独りで神戸から釣りに来てるとは・・・感心します。きっと釣れるものは何でも釣ろうとタモも用意してるんだと勝手に納得してしまいます。

             

12時の鐘がキンコンカンコンと鳴ったので、オークワで買ってきた弁当を食べて再チャレンジ、13時を超えるとスゥーッと入るグレのアタリが出始めました。

             

この時間帯になってグレのアタリが続きます。小さいですが7~8枚釣ったかな・・・20cmぐらいより大きいのはキープ、Y下君が描いていたように干物にでもしようと思ったのでした。結局持ち帰ったのは4枚のグレ、一番大きいので24cmしかありません。もう少し大き目のグレが欲しいところです。

             

グレのアタリが遠のいて、いつものヒョコヒョコしたアタリに戻ってしまい気が抜けてくると、徐々にアジ釣りの人が増えてきました。さっきのおばちゃんはサビキ釣りなのに毎回1匹づつしか釣り上げていなっかたのに、満杯になったと言ってクーラーを車に持って行き、何かに入れ替えて戻って来ていました。

私には間抜けなイワシが掛かったので、サギにくれたやったら、なかなか咥えられなくて逡巡してる間に、何処からか見ていたのかトンビがサーッと飛び降りてきて、一瞬のうちに足で掴んで飛び去って行きました。

             

何処で見てるのかと辺りを窺うと、電柱の上に2~3羽止まっています。どうも視線を感じると思ったらコイツらだったのか・・・きっと私がイワシを放り投げた時から見ていたのでしょうね。

             

3時前に1匹グレが釣れましたが、小さいし鳥もいないので、海に返してあげました。魚も食べられるなら成仏できるでしょうし、そのまま放ったらかしにして死んでしまうくらいなら海に返してあげるべきでしょう。

3時を過ぎてこの日は納竿としたのでした。

             gooリサーチモニターに登録!

12月19日の釣り

2011-12-26 05:00:00 | 田舎
12月は朔日に西成ツアーなるディープな飲み屋巡りをするというので出勤し、第2週は水曜日だけ休んで、年末に2日間出勤しようと当初は考えていました。ところが11月の半ば阿野木の磯場で釣りをしていた時、会社から電話がかかり「忘年会を12月の16日にやりたいんですが、どうですか」と聞かれました。そんなもの私がダメと言ったら変更になるとは思われないし(ひょっとしたらなるのかも知れませんが)、「いいんじゃないですか」と応えておきました。そうなると16日は出勤しなくてはなりません。11日の日曜日が今年最後のソフトボールの練習だったので、練習を終えて2週間串本に来ようと思っていた思惑が外れてしまいます。

若い時なら3日間でもあれば、すっ飛んで来て釣りをしたとは思うのですが、月曜に来て木曜に帰るなんてとんでもない、往復に1万円以上かかることが苦しい経済上の理由もあるにせよ、第3週は月曜から木曜まで家でダラダラ、勿論年賀状作りには手を出しながら過ごしたのでした。

では忘年会の翌日、すぐに家を出たのかと言うとそうでもなく、ダラダラと過ごす癖がついてしまったのでしょうか、とうとう日曜日になってしまい、それも11時前に家を出る始末、難波まで出て買い物をしUターンして家の前を通過したのが11時半ごろ、湾岸線を走って阪和道に入り、印南のサービスエリアで1時前になったので昼食をとったのでした。

今回はいつも寄る『よってって』には寄らず、釣り道具を買いに『ベイマルチョー』へ、釣り針やオモリの小物を買おうと思ってたのに、人生最後のボーナスが入って気が緩んだのか、「長いこと竿買ってないし(そんなことはない、時々買っていた)、きっとこれが最後や」と清水の舞台から飛び降りる気持ちで25000円もする竿を買ったのでした。25000円が高いのか安いのか、それはその人の経済感覚でしょうが、値段の高い竿を持ったからと言って魚が釣れるわけではありません。きっと操作性がいいのでしょうが、それだけのことなら、もしお金があったとしても5万も6万もする、ましてや10万円もするような竿を買おうとは思わないのです。

             

さて翌月曜になって釣りに出かけるのですが、忘れ物の無いようにと準備を重ね、家を出たのが10時前、大島漁港に着いたのが11時ごろでした。まぁ様子見なつもりで来たので気合が入っていたわけではありません。いつもの場所にはあのオヤジは居ませんでしたが、別の夫婦らしき二人連れが座っていました。

風も無くポカポカと暖かい日差しが射しています。波止場では相変わらずネコのお出迎えです。

             

そしてサギもエサをくれと待っています。でもなかなか魚は釣れません。グレの姿はY下君と来た頃よりずっと多く見えています。

先端ではアジ釣りの人が忙しそうに釣っています。今でもアジがバンバン釣れています。

             

ヒョコヒョコするアタリがなかなか合せられず、ムリに合せるとハリからエサが落ちて、ムザムザ魚にエサをくれてやるような気持ちでウキを見つめています。私にすればやっと、魚にすれば運悪くなのでしょうが、掛かったバカな魚はアジでした。

             

アジ釣りに来たわけではないのでキープせず、待っているサギの方へ投げてやると足許覚束ない千鳥足でサギが歩いて来ます。サギは歩くのが下手糞です。魚を銜えるのも下手糞です。飲み込むところを撮ろうとカメラを構えていると、停泊中の安全な船の上に飛んで行ってしまいました。アジを貰ったのに・・・礼儀知らずのサギ野郎です。

             

何の魚も持ち帰れなかったこの日、夕食は古谷魚店でと思っていたのに・・・6時前になって古谷のおっさんから電話、「鍋するからおいでよぉ」と言うのです。そんな時間に急に言われても行けませんよ、準備してなかったら・・・18時11分・紀伊姫発の電車に乗れませんやん。いやはや準備をしてたから良かったものの、紀伊姫発の電車は19時台には無いのですよ。

             

店に着いて用意万端のお皿に盛られたのは、見た瞬間にハタ系のものと解る代物、おっさん曰く「幻の魚やでぇ」、クエとでも言いたいのでしょうが、クエにしては小さいですね。

船を持ってるという大阪の人と一緒に食べたのですが、その人が釣ってきたというカツオも結構美味しかった。この店によく来るのかと尋ねたら「初めて」だと言う。たまたまかも知れませんが、初めての人にクエを振舞うとはエライ度量ですな、古谷のおっさんは。

月曜なので客は来ないかと思っていたら、神戸から来たという若い男女二人連れが入店してきたので、3人では食べきれないほどある『クエ』を賞味していただきました。当にその人たちはラッキーだったんでしょうね。

             gooリサーチモニターに登録!

來迎寺

2011-12-22 05:00:00 | 

イチョウの大木があったお目当ての寺・玄通寺を出て、さぁ帰ろうと思って右へと歩きだした途端、隣にもお寺がありました。一見して何の特徴も無いお寺なので通り過ぎようとすると、門を越えた白壁に何やら案内板があり自然と目が集中、太田城跡とありました。そういえばこの辺りは太田という地名、何やら歴史めいたものを感じます。

お寺の名はは浄土宗の來迎寺、全く以って無名なお寺ですが、ここが秀吉の三大水攻めのあったうちの一つの城跡なのです。天正10年(1582年)には備中・松山城を水攻めで戦っている最中に本能寺の変があり即毛利氏と和睦、その3年後にここ紀州・太田城を攻めています。もう一つはこの戦いから5年後、天下平定最終段階に入った北条討伐の際の武蔵・忍城でした。忍城は『のぼうの城』で一度紹介済みですね。

             

小説にはなっていないみたいなので詳細は知れませんが、小牧長久手の戦いで紀州の雑賀党や太田党は家康側についたので、その恨みからか翌年秀吉は紀州討伐に手を出しています。根来寺を焼かれた雑賀衆はこの太田城で太田党とともに籠城しますが、秀吉の水攻めに遭い約1ヶ月の後、大将・太田左近以下51名の首を差し出して開城しました。

遺構としては北東の方向に小山塚、東門、秀吉軍の築いた堤などが残っているそうですが、いずれも帰る方向とは逆であり、北東50mと一番近い小山塚を探しましたが判りませんでした。

             

來迎寺を後に駅に向かう途中、往時にも思っていたのですが、道路の2列目にパーキングが確保されています。無料のようです。大阪では道路の左寄りにこのようなパーキングエリアが有料であるところもありますが、2列目と言うのが私的には怖い感じがするのです。まぁ1列目は自転車専用になっていますから、左端と言えば左端なのですが・・・ところで自転車も車両の一部、歩道を走ってはいけません。でも車道は危ない、だからこういう道があればいいですね。

             

駅の東口に有った太田左近の像、立て札や立像に比べて台座が新しいので何処かから持って来たのかも知れません。立て札が古くて字がよく読めません。備中松山城(本能寺の変により和睦)と忍城(先に北条方が降伏)は水攻めにより完全に敗れたものではありませんが、この太田城は秀吉軍により完敗させられたと言えるでしょう。

             

JR和歌山駅の正面、天王寺と同じように『MIO』があります。

                  

駅周辺で和歌山名物『小鯛雀寿司』を探したのですが、なかなか見つかりません。発売元の水了軒のビルはあるのにお寿司は売ってないのです。昔幼少の頃紀勢線の車内販売でこの雀寿司の販売を聞いて、小鯛のことを古代と思っていて変な寿司やと思ったものでした。MIOの中の片隅でやっとのことで見つけたのですが、駅のKIOSKにも置いてあったのでした。

             gooリサーチモニターに登録!

玄通寺

2011-12-21 05:00:00 | 

往路を歩いている時から目をつけていたのですが、遠くに1本のイチョウの木が真っ黄色に色づいていました。そこにはお寺でも有るのだろうと思いながら、きっと「帰りには寄ってみよう」とも思っていただろうに、日前宮駅に行ってしまってたけど15分待つのでなく、すぐに電車が来たら乗っていたのかも知れません。

もし電車に乗って帰っていたら、今日のテーマは串本での釣りだったかも知れません。かも知れないの連発ですから、不要なことは書かなくていいのかな。 

             

コースを選びながらイチョウの木がある方へ歩いていくと、やはりお寺でした。白雲山・玄通寺という浄土真宗のお寺、私のブログは矢鱈と神社仏閣が多いと文句か苦言か注文か意見か知りませんが、を言う人が時々いるのですが、そんなことを言っても仕方がありません、放っといて欲しい。普通の家など写してブログのネタにするわけにはいきませんが、神社仏閣なら文句も言われますまい、ついカメラを向けてしまうのです。

             

駐車場のある角を曲がってきたのですが、振り返ると我が社のビルが、一昔前の電電公社と言っていた時代に建てられた、どこの局舎でも同じような構造の建物です。でも交換機が設置されているので耐震性は強いようですが、電柱が倒れてしまえば電線が切れるので電話は不通になってしまう可能性は高いのですが、まぁ交換機を安全に保つという考え方は間違っているものではないでしょう。原発ならもっと事故が起きた時のことを考えておかなくてはならなかったと思うし、現に事故が起こってしまっては取り返しのつかない事態に陥っています。

             

お寺に来て原発の話に至るというのも妙な話なのですが、一旦事故が起これば収拾がつかないのですから、もう原発に頼るのはダメですね。私も原発が発電した電気を利用していますが、原発の傍に住めと言われたら嫌ですし、原発を推進しようとする人は率先して原発の傍に住めばいい、全く見も知らない人々に恐怖感を与えておいて、自分は知らん顔というのでは責任感が無さすぎます。

                   

それにしてもなかなか見事なイチョウですよ。古座川町三尾川の光泉寺のイチョウはもっと見事ですが、あれは普通のイチョウとは違う、化け物、お化け、論外のような気がします。

和歌山市指定保存緑と立札にあり、昭和56年に指定されたとあります。

             

境内にある親鸞聖人の立像、親鸞の悪人正機説はすべての人が仏法の上では悪人であるという観点から成り立っており、自分が阿弥陀仏に導かれるよう進んで悪を為すようなことは戒めています。

             

覚証院の碑、覚証院っていったい誰?

             gooリサーチモニターに登録!

日前宮駅

2011-12-20 05:00:00 | 

先週の日曜日(一昨日)から姫に来ています。釣りの話も綴りたいところですが、日前宮へ行った記事がまだ残っているため、UPする機会がありません。先月行った闘鶏神社の記事も書かないといけないし・・・どうもネタが有り余ってしまって始末に負えません。

そろそろ帰路に就く時間、往路を歩いたので復路は電車でと思い駅の方へと足を向けます。でもこの標識の読みは“ひのくま”ではありません。確か“ひのくまじんじゃ”で変換して検索するとヒットしたのですが・・・。

ここに来る前日、和歌山在住の後輩(アヤノコウジキミマロに良く似てるのです)に駅から日前神社まで歩いたら遠いかと聞いたら「ニチゼンサンへ行くの?」と言われ、何を言うとんじゃとカチンときたのですが、こちらとしては尋ねている身、偉そうなことは言えません。「ひのくまじんじゃや」と言っても「ニチゼンサンでしょ」と訳の分からんことを言っておったことを思い出したのでした。

なるほどこれで納得、和歌山市民は日前神宮のことをニチゼンサンと呼んでるんですね。これが和歌山特有の発音ニチデンサンでないのが面白いところです。だったら日前神宮だけでなく、同所に國懸神宮もあるのですから、そちらの名を取ったとしたら何と読ませるのでしょうね。コッケンサンとでも読むのでしょうか。

              

でも幼稚園の名前は“ひのくまようちえん”と書いてあったはず、こんなややこしいことは外部の人間には理解しがたいものがあります。

さて奉幣使としての役目を終えた藤原定家、急いで次の王子へと走りますが、待ち受けていたのは満願寺の僧、「日前宮への御幣使は必ずこの寺に立ち寄り、御誦経の供物をあげてゆく」と寺に連れ込まれ、仕方なく参詣しお布施を置いていくと「これでは少ない」と口々に言われ腹を立てています。こんなことまで明月記に残しているとは、この定家という人もなかなか面白いではありませんか。

でもこの辺には満願寺というお寺は見当たらなかったなぁ。

              

日前宮駅まで来て改札口も無いのでホームに上がると、次の電車まで15分もありました。先のキミマロ似の後輩は和歌山駅から20分か30分はかかると言っていましたが、往路を歩いた感覚では15分ぐらい、通常初めてのところへ赴くと時計の時間より長く感じることが多いのですが、今回の私はそんな風にも感じていませんでした。

こちらは和歌山駅方面の線路、逆方向の終点は貴志川駅です。猫のタマちゃんが駅長をしているそうで、「貴志川まで行って来たら」とキミマロちゃんは言いますが、猫の駅長には興味が湧きません。

              

余計なことを考えずにサッサと帰れば。電車より早く着けるかも知れないし、170円も助かります。往復で340円、帰りの電車でビールのロング缶飲めるやん!車だったらそうはいきません。でもさっさと帰ることは出来なかったのでした。

             gooリサーチモニターに登録!


國懸大神宮

2011-12-19 05:00:00 | 

今年も残すところ僅かに2週間、なんやかやと言いながら2011年になって350日余りを生きてきたんですね。先週の休みのうちに年賀状を作るなどと言っていたけど、パソコンが変わったので『筆ぐるめ』のソフトが無く、一応裏面は出来たものの印刷はまだしていません。古いパソコンを引っ張り出してきたのですがマウスが動かず、宛名の印刷をどうしようかと悩んでしまっています。

藤原定家の熊野御幸の際、この日前・國懸大神宮に奉幣使として遣わされていますが、こういう習わしは昔からあったようで、当の定家は先の例を知りません。日前・國懸の両社の中間にある岩に座らされ(今はそんな岩はありませんでした)、「遥拝は御幣をとりて拝舞するもの」と教えられ、舞のような動作を強要されます。いやはや宮仕えとはいうのも大変なものだったのですね。

日前の宮から國懸の宮までの参道、歩いて僅か3分足らず、目と鼻の先に見えているのですが、その容姿は図り知ることが出来ません。

             

着いてみると、殆んど同じ造りの社があるばかり、こちらの前庭の方が少しは広いような気がします。

この日前・國懸両社は同一神であり、伊勢神宮の内宮・外宮の関係と同一の状態であるそうな。

             

お供えの酒樽は和歌山の地のものですが、どうやら日前宮と國懸宮では若干メーカーが違うらしい。神さんにも酒の好みがあるのかと思ってしまいます。

             

こちらの鳥居も修理中、根の部分が腐ってきているので、一旦セメントのようなものを塗っていました。そしてこのように鉄板のようなものを巻いて固定しているのでしょう。乾けば外して、見た目に違和感のないように仕上げるのでしょう。

             

こちらの参道にも末社がずらりと並んでいます。

余談になりますが、この紀北一帯を支配していた紀氏は、記紀によると神武が畿内を平定したのち紀伊王に封じた天道根命の家系、この記録を信じるならば、これほどの素姓を脈々と伝えているのは天皇家より遥かに古くからだったのです。

             

夕方5時になると閉ざされるという門ですが、中ではライトアップをするのか、大きなライトが上を向けて置いてありました。

             

丁度幼稚園からの下校の親子連れが出てきて、大神宮に似合わない喧騒が広がりましたが、一段落、駐車場に停まっている車は、園児を迎えに来ている親のもののようです。

             gooリサーチモニターに登録!

日前大神宮

2011-12-16 05:00:00 | 

『藤原定家の熊野御幸』で和歌山市に伊勢神宮に並び立つといわれる宮があることを知り、和歌山市なら半日もかからずに往復できるとの目論見で、天気のいい日を見計らい、未だその定家の本を読み終えてもしないのに、いそいそと家を飛び出したのでした。地図を見てもJR和歌山駅から和歌山電鉄に乗り換え、二駅目で降りてすぐのところ、面倒臭いのは地下鉄に乗って天王寺へ出ることぐらいです。

天王寺から和歌山までの運賃が830円、和歌山電鉄の分が170円ですから、合計往復で2000円の出費やなぁと考えながら、車で出かけようとしない自分がどうも訝しい。

             

偶然にも先月の21日に姫へ帰ったのと同じ11時40分発の和歌山行の熊取以降は各停になる阪和線の快速列車に乗り、山中渓が大阪側の最後の駅やなぁ、紀伊が和歌山に入って最初の駅やなぁ、六十谷って“むそた”って読むんやなぁ、これも読めん駅名の一つやなぁと思いながら、のんびり旅するのも一興です。和歌山駅に着いたのがもう1時前、和歌山電鉄に乗ろうか、歩こうかと考えていましたが、とにかく往は歩こうと思い東口を出たのでした。昼食は天王寺で買ったパンを車内で食べました。

             

プリンタで印刷した地図を持参していたので、いくつ目の信号を曲がれば良いのかを勘定しながら、ほぼ間違いなく目的地に辿り着くことが出来ました。写真左奥の木々のてっぺんが見えているのが神宮だろうと思いながら県道138号線を暫らく歩いていました。

             

高校を超えて、幼稚園を超えて、ついに大神宮に到着、歩いてきた側からは思ったような写真が撮れないと思い、一旦道路を渡って正面の全体像を撮ってみました。

             

正面の鳥居に向かって入るための太鼓橋が改修中で通れないと記されていますが、何処から入るのか分からないので、橋が崩れるのを心配しながら太鼓橋を渡ります。

                  

官幣大社 日前神宮、官幣大社 國懸神宮と刻まれた石碑、それぞれ『ひのくま』『くにかかす』と読みます。「これが伊勢神宮と同格の日前、國懸の宮か」と身の引き締まる思いで臨んだ定家とは違い、何の畏れもなくどんなところなのかという期待感だけで私は鳥居へと進みます。

             

正面の鳥居を潜り、広い境内を尻目にそのまま正面に進んだら間違いで、一旦左へ折れてから突き当りを右に曲がると正面に日前神宮の鳥居が見えてきます。不覚にも私は正面を突っ切ってしまい、また戻る羽目に・・・いや正面を進んで突き当たってから左へ折れても鳥居のあるところへは行けるのですが、どうも正調ではないような気がします。
             
             

この参道の両側には何を祀ってあるのか判らないような末社がいくつも並んでいました。

             

残念なことに当日は鳥居の改修も行われていて、工事人がいるので雰囲気が壊れる恐れがあって、鳥居の近くからは写真が撮れません。遠くから撮ると自動車が入り、運の悪い日に来たもんやなぁと自嘲してしまいます。

             

鳥居を潜ると拝殿があり、奥に本殿があるのが判りますが、横幅の割に縦の距離が短く、思ったような写真が撮れません。止む無く庭隅の方から本殿の方の雰囲気を写します。

             

本殿を囲板塀まで下がり、拝殿の一部と鳥居、鳥居の根元が腐ってきているので、その修復をしているようですが、気を利かせてどいてくれるような細かい気性は和歌山県人には無いようです。

             

日前の宮を後にして、國懸の宮への参道を歩みます。左側にあった摂社、中言神社と書いてありました。
             
             

國懸の宮に近づくと右側に摂社が並んでいます。一層旗で賑やかなのは見ての通り市戎神社、荘厳な境内でここだけが派手な雰囲気で、この写真では解りにくいですが、祠にはえべっさんの飾り籠が添えられていました。

             gooリサーチモニターに登録!

藤原定家の熊野御幸

2011-12-15 05:00:00 | 読書

幾つの時か忘れましたが、若い頃購読していた新聞の懸賞欄にあった『元禄御畳奉行の日記』という前進座の公演に応募し、当選したので観に行った記憶があります。あんまり意味の分からない話だったような思いがあり、たぶん同タイトルの本も買って読んだという風に覚えています。その本はおそらく文庫本ではなく、新書版だったとうろ覚えなのですが、本自体が家の本棚に残っているのかどうか・・・その時がこの本の作者・神坂次郎氏を知った初めでした。

若い頃は今のように時代小説には関心は無く、和歌山の地についてもそう興味はありませんでしたが、歳をとって日本の歴史に興味を持ち、近々和歌山南端の地に住むようになるだろうという思いを抱いているうちに、本を物色しているとこの『藤原定家の熊野御幸』という本を見つけたのでした。当に歴史ものであり、和歌山についての本であります。

私のような和歌や俳句に全く興味も縁も無い者でも、藤原定家が新古今和歌集の撰者であることはよく知っています。その定家が18歳の時から74歳まで書き続けた日記『明月記』の中の特に1201年の後鳥羽上皇の熊野行幸随行時に記した部分『後鳥羽院熊野御幸記』を基にしてこの本は書かれています。

中世の人々にとって熊野という地はどんな風に思われていたのだろう。熊野詣などを始めたのは宇多天皇の時世からと言われていますが、皇族・貴族の間で盛んに行われるようになったのは平安末期から鎌倉時代、貴族の世から武士の世へと変遷していく中で、政から遠のきつつある身分ある人たちは人生に疲れ、絶望した心が熊野の地に救いを求めたのでしょうか。でももっと苦しかったはずの民衆は、果たして熊野の地への憧れなどあったのかどうか。


             

この頃定家は44歳、歌人として高名なこの人は『明月記』の中で自身が嘆いているように、官人としては出世が遅く、若い連中が自分を追い越して官位を上げていくのを指をくわえて見ているだけだったようです。

この度の熊野御幸の供の沙汰を受け、面目過分なりと喜びますが、自身の足腰の弱さを案じ嘆息しました。定家の役目は御幸の先駆けをして、行く先々での儀式や食事や宿舎の段取りや設営を行うこと、道中のんびりと歌を詠うことなどは及びませんでした。定家のような二流の貴族が泊まる宿は急拵えの冷たい隙間風が吹きつけるような家、板敷でない宿もあったそうで、毎日の仕事の煩雑さ、精も根も尽き果てて休んでいる身にも上皇からは容赦なく、御歌会の講師として召されることも一度や二度ではありません。

現在の和歌山市まで来た定家は、奉幣使として日前(ひのくま)・國懸(くにかかす)大神宮に派遣されます。伊勢神宮と同格のこの宮に赴くにあたり、紀ノ川の清流で水垢離をして身を浄め、おごそかに遥拝したのですが、出迎えた神職たちの軽々しい装束に腹を立てています。

和歌山市に伊勢神宮に並ぶという宮があるというのは、初耳でした。これが私の探究心を刺激したのでした。

阪和道の海南インターの近くに藤白神社があります。熊野街道のこの地には藤白王子という街道随一の大きさを誇る社がありましたが、藤白神社はその王子跡。この藤白の他に切目・滝尻・稲葉根・発心門が格別の五体王子と呼ばれていました。これも私の探究心を刺激します。

都を発って12日目、一行はやっとの思いで熊野の聖地を目の当たりにし、感動の声をあげています。しかしそこからもまた難行、熊野川を舟で下り新宮へ、そして補陀落山寺を経て那智山、そして妙法山・阿弥陀時から大雲取超えで再び本宮へと四日の日程で戻っていくのです。

そして帰路は六日間という短日で京の都まで帰っていくのです。

帰り着いた定家は、今回の随行の褒賞に昇進を期待するのですが・・・

             gooリサーチモニターに登録!





行基像

2011-12-14 05:00:00 | 大阪にて

御願塚古墳の前、県道336号線を挟んで行基の像が建立されています。これも御願塚古墳と同様4年前のブログに綴られていますが、ついでなので立ち寄ってきました。前回は行基のことについて記したのですが、今回は像の裏側の様子です。

県道に沿って作られているので像の裏が塀になっているのではありません。何らかの考えが無ければ東から来た人は行基像の裏像を見るだけになってしまいます。そこでこの像の本願者は祠を造ってお地蔵さんを祀ることを考えたのでしょう。

             

狭いところですが、なかなか整備されていて、小美しく保たれています。

             

もちろんこの祠のために像を拵えたのではなく、寄せ集めたのだろうと推測されるのですが、たくさんの地蔵像が並んでいます。

             

この水掛地蔵菩薩像などはご立派ですが、行基の像や祠、置石などと比べると、かなり年月を経ているように思われます。こういうのもありなんですよね。

寄せ集めにしては置石の配置にしてもとてもバランス良く、お金はかかっていると思いますね。こういう風にしていると私のように信仰心に薄くケチな人生を送っていても、少しはお布施をしようかなどと思ってしまいます。

             

立ち寄ったのは昼前だったのですが、この『おてふき』なる手拭い、毎朝取り換えてくれるのでしょうか、あまり汚れていません。掛けてあるのがクリーニングのハンガーでなかったら、もっと良かったのにと思うのですが、ここまでするのが精一杯でしょうかね。

             

それにしても何もこの場をゴミの集積場にしなくてもよいのにと思いませんか。まぁ行基ならば「人の役に立つならばそれでよい」と言うのでしょうが、ゴミ=不浄、汚いものと思ってしまう私などには、到底理解できるものではありません。

この写真を見ているとこの像の本願者は、左側のシャッターのある家の人かなと思ってしまいます。この像のお蔭でシャッターへの出入りが非常に不便になってしまっているからなのですが、そうでなければ文句の一つも言いたくなるのは当然でしょう。

                  

行基菩薩の碑の上に掲げられた本願者の言葉は、『行基に恥じぬ暮らしを致しましょう』と言うのですが、行基に恥じぬ暮らしとはいったいどういうものなのか、行基はどのような暮らしを恥だと思っていたのか、まさか行基のように生きよと言ってるわけではないのでしょうが、その辺りのことがこのままでは解りにくいですよね。

             gooリサーチモニターに登録!