夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

シンガーの大橋純子さんのある歌に、私は若き年に聴き、やがて涙ぐみ・・。

2023-11-14 14:55:08 | 喜寿の頃からの思い

私は東京の調布市に住む年金生活の79歳の身であるが、
過ぎし11月9日、シンガーの大橋純子さんが亡くなった、
と私は訃報を知った時、圧倒的に歌唱力のある御方が・・黙祷しながら、思ったりした。


1974年(昭和49)年の当時の私は、音楽業界のあるレコード会社の六本木にある本社に勤めて、
資本関係のあるレコード会社からシステム総合管理の指導を受けながら、
たった独りのコンピュータ専任者で奮戦していた時であった。

このような状況の中で、確か5月下旬の頃、夜の7時過ぎに職場で、自席に座り、
コーヒーを飲んだり、煙草を喫いながら、重点曲の対象を
インプットデータ・シートに記載したりしていた。

私の近くは販売推進系の部署で、たびたびレコード、カセットの試聴盤をかけていたので、
私はポピュラー、邦楽の曲の数々を何かと覚えたりしていた。

この時は、初めて聴く若い女性の唄声が流れ、瞬時に魅了されて、
しばらく聴いたりしていた・・。

Yesterday When I Was Young - YouTube
『帰り来ぬ青春』 ・・訳詞:吉原幸子、曲:C.Aznavour、編曲:川口真、唄:大橋純子



この当時の私は、たまたまバルバラのアルバムの『私自身のためのシャンソン』のレコードで、
この中の『ナントに雨が降る』の歌を知り、
私の屈折の多い青春と私の父親を小学2年生に死去された想いが加味され、
瞬時に魅了されたりした。

そして、私はバルバラの魔力にとりつかれて、
アルバムを買い求めたりし、この当時12枚のアルバムから、盛んに聴いたりした。

この間、銀座の外れにシャンソンの殿堂として名高い『銀巴里』に勤務後に通ったりし、
日本のそれぞれシャンソン歌手が唄われるのを、聴き惚れたりした・・。

そして、この行き帰りに、ヤマハの銀座店に寄ったりして、
数多くのシャンソンを唄われる方たちのレコードを購入したりしていた・・。

数年過ぎると、私の自宅のレコード棚は、シャンソンのアルバムだけでも、
少なくとも100枚は超えていた。

このような状況であったので、『帰り来ぬ青春』は、
敬愛しているシャルル・アズナヴールが作詞されて、作曲はジョルジュ・ガルヴァランツされて、
やがて各国で、それぞれの歌手が唄われた名曲のひとつ・・知っていた。

そして訳詞されていた吉原幸子さんに関しては、私はこの御方の詩集は、
文学青年の真似事をしていた時、買い求めて、愛読書のひとつであったりした。



こうした中で、初めて聴く大橋純子さんの唄声を聴いたりしていると、
私は胸が熱くなり、やがて涙ぐんだりした・・。


過ぎし東京オリンピックが開催された1964年(昭和39年)の秋、
私は大学を中退し、映画・文学青年の真似事をし、明日が見えないような生活をしたが、
やがて4年が過ぎる頃に、はかなくも敗退した。

そして止(や)むえず何とかして民間会社に中途入社したい為に、
あえて苦手な理数系のコンピュータの専門学校のソフト科に、
1年間ばかり学んだりした。

やがて1970年(昭和45年)4月、この当時は音響・映像メーカーの大手のある民間会社に、
何とか中途入社が出来たのは、25歳の時だった。

まもなく音楽事業本部の中の大手レーベルが、
外資元の要請で、レコード会社として新設され、

私も移籍の辞令を受けて、音楽を直接に制作する部門でない管理畑で奮闘してきた・・。



このようなことが走馬灯のように思い、私の甘い青年時代は終わりを告げて、
企業の戦士として鍛えられている現況に、この歌は私の心の水面が揺れたりした・・。

尚、大橋純子さんのこの歌の『帰り来ぬ青春』は、
ファースト・アルバム『フィーリング・ナウ(FEELING NOW)』で、
1974年6月に発売され、B面の2曲目に収録されている。

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