ふろむ播州山麓

旧住居の京都山麓から、新居の播州山麓に、ブログ名を変更しました。タイトルだけはたびたび変化しています……

若冲 五百羅漢 №9 <若冲連載28>

2009-02-08 | Weblog
江戸時代の石峰寺五百羅漢「天明七年石峰寺図」

 石峰寺の五百羅漢についてのもうひとつの古い記述は、天明七年(一七八七)の小川多左衛門の書付です。石峰寺が所蔵する掛軸画「天明七年石峰寺図(仮称)」の裏面に貼られていました。「洛南深草石峰禅寺/有石佛五百羅漢/予命画師令寫祈置也/山科梅本寺主俊類和尚依需/為亡息悦堂祖閣居士/菩提喜捨正与者也」。子息の菩提を弔うために、画師に依頼して石峰寺の五百羅漢を描かせ、山科の梅本寺に寄進したものであるという。
 天明のはじめに釈迦牟尼を五百羅漢たちが取り囲む景観が完成した後、わずか五年か六年ほどにして、壮大な数え切れないほど多数の石像群が、後山を覆っています。この図はたぶん、将来計画を含んだ設計図を参考に、若冲工房の弟子のだれかが描いたのではないかと思います。もっと検討が必要ですが、おそらくこの画に近い無数の石像群の景観が、石峰寺裏山に出来上がっていたのでしょう。
 ところで石峰寺では毎年、九月十日に若冲忌を開いておられます。若冲の命日には二説あり、九月八日か十日のいずれか結論が出ません。しかし筆者が同寺で確認した過去帳は寛政十一年改稿と記され、翌年の十日の項に「壽八十八歳 寛政十二庚申 斗米翁若冲居士 九月入祠堂」とあります。亡くなる前年に新調された過去帳です。また彼が埋葬されたのはこの寺なのです。九月十日に入寂したに間違いありません。八日か十日かの論争は、これで終結しました。
 今年の若冲忌には、画軸「天明七年石峰寺図」をぜひに披露していただこう。ご住職の阪田良介和尚とご母堂の育子さんに、お願いしようと考えています。
<2009年2月8日 南浦邦仁>
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