先日、友人と話していたら、ケガレに象徴される差別の原点はどこにあるか、という話になった。以下の見解をご紹介する。
ケガレやなどでいわれる差別は、この世とあの世の接点、わたしたちが生きている現世と来世であり前世である「生命の世界」との境界がポイントであるという。
例えば死の儀式にかかわる僧侶は差別されず、高位にある。一方、実際に遺体に接する職業のひとたちは、差別されたりする。変な話である。
昔からわたしたちの祖先は、空間にはふたつの世界が重なっていると考えてきたのだろう。ひとつは、いま現実に生きている世界。もうひとつは、生命が誕生する前の「生命豊穣の世界」。この豊穣の世界は、現世からいつか行く、死後の世界、それも同じく「生命溢れる世界」で、誕生前と同じ世界である。産まれる前の世界と、死後の世界は、まったく同じ「生命の国」と考えたのではないか。
そしてこのふたつの世界、来世と前世にかかわる、境界を職業とするひとたちが、片や僧侶や医者として高位に位置づけられる一方、すぐ横に位置するひとびとが、ケガレとして差別された。
の字は、「人にあらず」であるが、「佛」という字も「」であるという説がある。まず沸騰の「沸」は、水ではない蒸気である。佛の「弗」字は「非」を意味する。
すなわち、佛・ブッダは「人ではない」、人間を超越した非常に希な存在である。「」人にあらずは、必ずしも「人間以下」を意味しない。神聖なる存在と捉えるべきであろう。
彼とは近いうちに会って、もっと話を聞く予定である。楽しみだ。
<2009年5月24日>
ケガレやなどでいわれる差別は、この世とあの世の接点、わたしたちが生きている現世と来世であり前世である「生命の世界」との境界がポイントであるという。
例えば死の儀式にかかわる僧侶は差別されず、高位にある。一方、実際に遺体に接する職業のひとたちは、差別されたりする。変な話である。
昔からわたしたちの祖先は、空間にはふたつの世界が重なっていると考えてきたのだろう。ひとつは、いま現実に生きている世界。もうひとつは、生命が誕生する前の「生命豊穣の世界」。この豊穣の世界は、現世からいつか行く、死後の世界、それも同じく「生命溢れる世界」で、誕生前と同じ世界である。産まれる前の世界と、死後の世界は、まったく同じ「生命の国」と考えたのではないか。
そしてこのふたつの世界、来世と前世にかかわる、境界を職業とするひとたちが、片や僧侶や医者として高位に位置づけられる一方、すぐ横に位置するひとびとが、ケガレとして差別された。
の字は、「人にあらず」であるが、「佛」という字も「」であるという説がある。まず沸騰の「沸」は、水ではない蒸気である。佛の「弗」字は「非」を意味する。
すなわち、佛・ブッダは「人ではない」、人間を超越した非常に希な存在である。「」人にあらずは、必ずしも「人間以下」を意味しない。神聖なる存在と捉えるべきであろう。
彼とは近いうちに会って、もっと話を聞く予定である。楽しみだ。
<2009年5月24日>