不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

ふろむ播州山麓

旧住居の京都山麓から、新居の播州山麓に、ブログ名を変更しました。タイトルだけはたびたび変化しています……

人にあらず

2009-05-24 | Weblog
 先日、友人と話していたら、ケガレに象徴される差別の原点はどこにあるか、という話になった。以下の見解をご紹介する。

 ケガレやなどでいわれる差別は、この世とあの世の接点、わたしたちが生きている現世と来世であり前世である「生命の世界」との境界がポイントであるという。
 例えば死の儀式にかかわる僧侶は差別されず、高位にある。一方、実際に遺体に接する職業のひとたちは、差別されたりする。変な話である。
 昔からわたしたちの祖先は、空間にはふたつの世界が重なっていると考えてきたのだろう。ひとつは、いま現実に生きている世界。もうひとつは、生命が誕生する前の「生命豊穣の世界」。この豊穣の世界は、現世からいつか行く、死後の世界、それも同じく「生命溢れる世界」で、誕生前と同じ世界である。産まれる前の世界と、死後の世界は、まったく同じ「生命の国」と考えたのではないか。
 そしてこのふたつの世界、来世と前世にかかわる、境界を職業とするひとたちが、片や僧侶や医者として高位に位置づけられる一方、すぐ横に位置するひとびとが、ケガレとして差別された。
 の字は、「人にあらず」であるが、「佛」という字も「」であるという説がある。まず沸騰の「沸」は、水ではない蒸気である。佛の「弗」字は「非」を意味する。
 すなわち、佛・ブッダは「人ではない」、人間を超越した非常に希な存在である。「」人にあらずは、必ずしも「人間以下」を意味しない。神聖なる存在と捉えるべきであろう。

 彼とは近いうちに会って、もっと話を聞く予定である。楽しみだ。
<2009年5月24日>
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする