ふろむ播州山麓

旧住居の京都山麓から、新居の播州山麓に、ブログ名を変更しました。タイトルだけはたびたび変化しています……

タイタニックと宮沢賢治 <幸せシリーズ30>

2012-04-17 | Weblog
豪華客船タイタニックが太平洋に沈んだのは100年前、1912年4月15日未明のことでした。乗員乗客2200人余のうち、1500名以上が亡くなりました。
 タイタニックは最新の科学技術の粋をつくした最新鋭の超大型船です。「不沈船」と呼ばれていました。防水区画も完備し、安全対策は万全とみなされていたのです。この大事故も「想定外」とされました。

 事故の日、宮沢賢治は16歳の中学生でした。後に『銀河鉄道の夜』にタイタニックの乗客だった3人を登場させます。まず6歳ほどの男の子は頭が濡れています。その姉の12歳ほどの眼が茶色のかわいらしい子。そして姉弟の家庭教師の青年です。
 ジョバンニとカムパネルラの汽車に乗り込んだ3人は、ふたりの横に座りました。家庭教師の青年は列車に乗り込んだ訳を語る。「氷山にぶっつかって船が沈みましてね……」

 青年は姉弟に「わたしたちは天へ行くのです。ごらんなさい。あのしるしは天上のしるしです。もうなんにもこわいことありません。わたしたちは神さまに召されているのです。」
 少年「うん、だけど僕、船に乗らなけぁよかったなあ。」
 青年「わたしたちはもうなんにもかなしいことないのです。わたしたちはこんないいとこを旅して、じき神さまのところへ行きます。…わたしたちの代りにボートに乗れた人たちは、きっとみんな助けられて、心配して待っているめいめいのお父さんやお母さんや自分のお家へやら行くのです。」

 姉弟の親から預かってタイタニックに乗った青年は、ふたりだけは救命ボートに乗せようと必死だった。しかし彼らが立っていた甲板から前には、もっと小さな子どもたちで大混乱だった。青年はそのひとたちを押しのける勇気が揺らいだ。ふたりを助けることは、彼に課された義務だとは十二分にわかっていた。しかし彼にはできなかった。
 ほかの子どもたちを押しのけて「そんなにして助けてあげるよりはこのまま神のお前にみんなで行くほうがほんとうにこの方たちの幸福だとも思いました。」
 家庭教師の青年は姉と弟をしっかり抱きしめた。
 「俄(にわ)かに大きな音がして私たちは水に落ちました。もう渦(うず)に入ったと思いながらしっかりこの人たちをだいてそれからぼうっとしたと思ったらもうここへ来ていたのです。」

 列車に同乗しているある男性がこういいました。「なにがしあわせかわからないです。ほんとうにどんなつらいことでもそれがただしいみちを進む中でのできごとなら峠の上り下りもみんなほんとうの幸福に近づく一あしずつですから。」
 青年は答えました。「ああそうです。ただいちばんのさいわいに至るためにいろいろのかなしみもみんなおぼしめしです。」
 青年は教え子のふたりを救うことをあきらめました。ほかの子どもたちを押しのけてまで助かることは、姉と弟にとって決して幸ではない。みなのため、自己たちを犠牲にしたのです。

 この物語には井戸に落ちたサソリが出てきます。これまでさんざん、他の動物の命を奪って来た悪い虫です。彼はイタチに追われ、無駄な溺死を迎えるそのとき、これまでの生を振り返ります。「ああ、わたしはいままでいくつものの命をとったかわからない」。イタチに体をくれてやるんだった。そして神に祈る。「こんなにむなしく命をすてずどうかこの次にはまことのみんなの幸のために私のからだをおつかい下さい」。そしてサソリの願いは神に聞き届けられます。

 汽車にいっしょに乗るジョバンニの友、カムパネルラは川に落ちた友を救う。そのために自分が死んでしまった。銀河鉄道で天に向かっているのです。
 この物語に登場するタイタニックの3人、井戸に落ちたサソリ、川で友を助けたカムパネルラ。全員が溺死しています。また共通するテーマは、ほかの生命を助けるための自己犠牲だったのです。おそらく賢治が16歳のとき、タイタニックの事故から温めていたテーマなのでしょう。そのように思えます。銀河鉄道は、きっとタイタニックから誕生したはずです。
<2012年4月17日。追記、改題します。「タイタニック」から「タイタニックと宮沢賢治」へ。4月20日 南浦邦仁記>

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