ふろむ播州山麓

旧住居の京都山麓から、新居の播州山麓に、ブログ名を変更しました。タイトルだけはたびたび変化しています……

織田信長の葬儀

2008-06-18 | Weblog
 信長や秀吉の同時代人、フロイスが書いた『日本史』から信長の葬儀をみてみましょう。

 羽柴秀吉は抜け目なく狡猾であった。秀吉は己の才能を誇示し、貴人や民衆の希望を満たすために、ふたつのことを実行して彼らを掌握しようと決意した。そのいずれも、当初のうちはきわめて妥当であり、清廉潔白であると思われた。
 まず彼が実行した第一のことは、主君信長の供養をもっとも豪華に、盛大に挙行することであった。それがために彼は近隣諸国から諸侯諸武将を都に招集し、信長の遺骸がなかに安置されているかのように偽装した、立派に飾られた棺をつくらせた。
 あらゆる階位の僧侶たちがこの棺に伴い、その豪華華麗な行列は、都のはずれ一里の地にある紫の僧院(紫野大徳寺)までおもむいた。そこは日本中の禅宗寺院のなかで、もっとも格式が高いとされていた。そこで信長という、いとも王者の風格があり、すぐれた人物にふさわしい葬儀が営まれた。
 会葬者全員が日本の習慣にしたがって、一体の佛の前にひざまずき、芳香が立ちこめる間に、火中に香を投じて、故信長に奉げた。秀吉はまた、ただちに信長のために、きわめて優れた様式の僧院・總見院(そうけんいん)を、大徳寺内につくらせたが、それは見るに価する珍しいものであった。
 さらに秀吉は、信長の胸像をつくらせ、公家の衣装を着させて祭壇上に安置せしめた。そして同院に封禄ならびに常住の僧侶を付したが、その寺はきわめて清潔で、立派な構造であった。

 つぎに秀吉が実行した第二の策とは、前回に書いた信長の遺児・信雄と信忠の子の三法師を、安土に追いやることであった。

 秀吉の策略はすべて順調に進んだ。
 地歩を進め、企図したことが成就したとみるやいなや、彼は俄然これまでの仮面を捨て去り、信長のことなどには何らかまわぬのみか、成し得ることの万事において、信長をしのぎ、彼より秀でた人物になろうと、不断の努力をした。
 秀吉は安土山にいた信長の孫、少年の三法師を同地から追い出し、地位も名誉もない一私人として片田舎に留め置くように命じ、三法師が後に天下の主に取り立てられる希望を、完全に断ってしまった。
<2008年6月18日 すばらしい記録を書き残した師フロイスに感謝する>
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