昨日に公言しました年表を、記してみます。慶応3年は西暦1867年、翌年4年の9月8日、元号は明治にかわります。なお1867年は、ノーベルがダイナマイトを発明し、マルクスが『資本論』第一巻を刊行した年でした。
慶応3年6月、坂本龍馬はみずからが船中で発想した大政奉還論「船中八策」を土佐藩参政の後藤象二郎に示す。
10月14日、15代将軍徳川慶喜は「政権を朝廷に帰し奉」ると、大政奉還上表を朝廷に提出。翌日、朝廷は勅許する。24日、慶喜は朝廷に将軍職辞任を奏請した。
11月15日、坂本龍馬と盟友の中岡慎太郎が、宿にしていた河原町蛸薬師下ルの近江屋で、京都見廻組に襲撃され龍馬は即死、重傷の慎太郎は17日死亡。
12月9日、朝廷は王政復古の大号令を発す。小御所会議で、徳川慶喜に辞官・納地を命じることを決定。幕府廃止。有栖川熾仁親王が総裁となり、新政府が成立する。場所は当然ですが、京都の内裏です。
12月12日、慶喜は京都二条城を退去し、大坂城に入る。
慶応4年1月3日夕刻、鳥羽伏見で、新政府・旧幕府軍約二万が戦闘の火ぶたを切った。その後、東国に波及する戊辰戦争がはじまる。この日の夜、京都で薩摩軍の総指揮をとっていた西郷隆盛は、親友の大久保利通に手紙を書いた。実は、西郷は大久保から釘をさされていた。総大将にもしものことがあっては今後の指揮に支障をきたす、絶対に危険な前線に出てはいけないと。だが思いがけない初戦の新政府軍大勝の報告に、たまりかねて西郷は3日夜、伏見まで戦況を見に行った。
西郷が大久保にあてた手紙は、「今日は御叱を可蒙事と相考候得共、戦之左右を承候処、たまり兼伏見迄差越、追討将軍之義、如何ニ而御座候哉、明日ハ錦旗を押立、東寺ニ本陣を御居被下候得は、一倍官軍之勢ひを増し…」
翌4日午後、新政府は賊徒幕府軍征討のため、東寺に前進基地を設置。征討大将軍に仁和寺宮嘉彰親王、後の小松宮が諸藩に征討の旨令・軍令を下した。
1月6日、慶喜は形勢不利をみて、大坂城を秘密裏に脱出。幕府軍艦で12日に江戸に帰着する。彼が上方から江戸に帰ったのは、実に4年2ヶ月ぶりであった。
17日、新政府は財政基盤が貧弱で、また行政機構もほとんど体をなしていなかったが、総裁・議定・参与の下に、外国・内国・会計・海陸軍・刑法・制度・神祇の七科を設け、やっと初歩的な政府機構、内閣と各官庁を持った。
2月9日、新政府は有栖川熾仁親王を、東征大将軍とする。前月から2月9日にかけて、京都と大坂の豊商に10万両を供給させた。
2月12日、慶喜は江戸城を自発的に出て、上野寛永寺大慈院に蟄居。
2月30日、知恩院・南禅寺・相国寺を、英国・仏蘭西・和蘭三国公使の滞在所とする。同日、英国公使パークスは、内裏参内に向かう途中、京都新門通縄手で襲われる。
3月6日、京都大総督府は、15日の江戸城総攻撃を命じる。13日、旧幕府陸軍総裁の勝海舟は、大総督府参謀の西郷隆盛と会談。翌14日、ふたりは再度会談して、江戸城の無血開城に合意する。同日、天皇は御所・紫宸殿で五箇条を誓約。「五箇条の誓文」
3月28日、新政府は神仏の混淆を禁じる。以降、廃仏毀釈の運動が盛んになる。
4月11日、江戸城開城。徳川慶喜は水戸に退隠。
4月吉日、大原口道標が建立された。
5月15日、大村益次郎率いる政府軍と、旧幕府残党の彰義隊との、江戸・上野戦争、大村軍の圧倒的勝利。
9月8日、明治に改元。20日、天皇は京都を出発し、東京に向かう。
明治元年10月13日、天皇は東京に到着。江戸城を皇居と定め、東京城と改称する。
同11月4日、天皇は東幸祝として東京市民に酒三千樽などを与える。
このように慶応3年末から、京だけではなく江戸も、大波乱のクーデター、戦乱の最中だったのです。そして新政府はこの間、道標のすぐ近くの内裏、いまの京都御苑にあったわけです。全国からたくさんのひとたちが、政治軍事などに関係して、この地区に押し寄せたことでしょう。
大原口道標は、動乱の時代を背景に製作されたのです。そのように考えれば、この道標の不可解な表示の謎のいくつかは解けそうです。
<2008年6月2日 石と話す>
慶応3年6月、坂本龍馬はみずからが船中で発想した大政奉還論「船中八策」を土佐藩参政の後藤象二郎に示す。
10月14日、15代将軍徳川慶喜は「政権を朝廷に帰し奉」ると、大政奉還上表を朝廷に提出。翌日、朝廷は勅許する。24日、慶喜は朝廷に将軍職辞任を奏請した。
11月15日、坂本龍馬と盟友の中岡慎太郎が、宿にしていた河原町蛸薬師下ルの近江屋で、京都見廻組に襲撃され龍馬は即死、重傷の慎太郎は17日死亡。
12月9日、朝廷は王政復古の大号令を発す。小御所会議で、徳川慶喜に辞官・納地を命じることを決定。幕府廃止。有栖川熾仁親王が総裁となり、新政府が成立する。場所は当然ですが、京都の内裏です。
12月12日、慶喜は京都二条城を退去し、大坂城に入る。
慶応4年1月3日夕刻、鳥羽伏見で、新政府・旧幕府軍約二万が戦闘の火ぶたを切った。その後、東国に波及する戊辰戦争がはじまる。この日の夜、京都で薩摩軍の総指揮をとっていた西郷隆盛は、親友の大久保利通に手紙を書いた。実は、西郷は大久保から釘をさされていた。総大将にもしものことがあっては今後の指揮に支障をきたす、絶対に危険な前線に出てはいけないと。だが思いがけない初戦の新政府軍大勝の報告に、たまりかねて西郷は3日夜、伏見まで戦況を見に行った。
西郷が大久保にあてた手紙は、「今日は御叱を可蒙事と相考候得共、戦之左右を承候処、たまり兼伏見迄差越、追討将軍之義、如何ニ而御座候哉、明日ハ錦旗を押立、東寺ニ本陣を御居被下候得は、一倍官軍之勢ひを増し…」
翌4日午後、新政府は賊徒幕府軍征討のため、東寺に前進基地を設置。征討大将軍に仁和寺宮嘉彰親王、後の小松宮が諸藩に征討の旨令・軍令を下した。
1月6日、慶喜は形勢不利をみて、大坂城を秘密裏に脱出。幕府軍艦で12日に江戸に帰着する。彼が上方から江戸に帰ったのは、実に4年2ヶ月ぶりであった。
17日、新政府は財政基盤が貧弱で、また行政機構もほとんど体をなしていなかったが、総裁・議定・参与の下に、外国・内国・会計・海陸軍・刑法・制度・神祇の七科を設け、やっと初歩的な政府機構、内閣と各官庁を持った。
2月9日、新政府は有栖川熾仁親王を、東征大将軍とする。前月から2月9日にかけて、京都と大坂の豊商に10万両を供給させた。
2月12日、慶喜は江戸城を自発的に出て、上野寛永寺大慈院に蟄居。
2月30日、知恩院・南禅寺・相国寺を、英国・仏蘭西・和蘭三国公使の滞在所とする。同日、英国公使パークスは、内裏参内に向かう途中、京都新門通縄手で襲われる。
3月6日、京都大総督府は、15日の江戸城総攻撃を命じる。13日、旧幕府陸軍総裁の勝海舟は、大総督府参謀の西郷隆盛と会談。翌14日、ふたりは再度会談して、江戸城の無血開城に合意する。同日、天皇は御所・紫宸殿で五箇条を誓約。「五箇条の誓文」
3月28日、新政府は神仏の混淆を禁じる。以降、廃仏毀釈の運動が盛んになる。
4月11日、江戸城開城。徳川慶喜は水戸に退隠。
4月吉日、大原口道標が建立された。
5月15日、大村益次郎率いる政府軍と、旧幕府残党の彰義隊との、江戸・上野戦争、大村軍の圧倒的勝利。
9月8日、明治に改元。20日、天皇は京都を出発し、東京に向かう。
明治元年10月13日、天皇は東京に到着。江戸城を皇居と定め、東京城と改称する。
同11月4日、天皇は東幸祝として東京市民に酒三千樽などを与える。
このように慶応3年末から、京だけではなく江戸も、大波乱のクーデター、戦乱の最中だったのです。そして新政府はこの間、道標のすぐ近くの内裏、いまの京都御苑にあったわけです。全国からたくさんのひとたちが、政治軍事などに関係して、この地区に押し寄せたことでしょう。
大原口道標は、動乱の時代を背景に製作されたのです。そのように考えれば、この道標の不可解な表示の謎のいくつかは解けそうです。
<2008年6月2日 石と話す>